利根輪太郎の競輪人間学 番手有利の競輪であるならば

2023年05月13日 18時57分30秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ  函館競輪 開設73周年記念五稜郭杯争奪戦

5月13日(初日)

12レース

並び予想 2-5 1-9 7-3 4-6 8(単騎)

レース評

唯一SSの新田。そして北日本であるなら負けられない。東口がマーク。勢いなら犬伏。嘉永も復調した。小倉や宿口も展開で

1番人気 2-5(5・8倍)

利根輪太郎は、1-2 1-7 7-1 2-7 7-2の3連単で勝負する。

2-5の本命ラインは無視する。

5の軸など想定外と思い込む。

だが、予想では、2-5 2-1 2-7に注目した。

 

2番の新田 祐大選手が頭(軸)と勝負したのだが、2-5ラインは5-2ラインともり、もしも2番が失速して5-2の展開となれば、5-7のラインも浮上する。

多くの競輪ファンたちは、2-5の車券は買えても、対抗の5番からの流しは、買えないのだ。

ここに競輪ファンたちの壁があった!

 

結果 5-7 1万4,900円(45番人気) 5-7-2 4万2,330円(134番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 東口 善朋   11.4   新田を差す
2 7 嘉永 泰斗 1/2車輪 11.1   後方捲上げ
3 2 新田 祐大 1/2車輪 11.5     脚使3番手
× 4 1 犬伏 湧也 3/4車輪 11.8   B 打鐘叩先行
5 3 中本 匠栄 1/4車輪 11.0     嘉永マーク
6 9 小倉 竜二 3/4車身 11.8     番手も不伸
  7 8 和田 真久留 1/4車輪 11.0     単騎最後方
  8 6 宿口 陽一 3車身 11.5   S 踏上詰らず
  9 4 吉田 有希 大差 13.1     突張り叩れ

戦い終わって

戦い終わって写真

 一度前受けの吉田有希が突っ張るが、再度アタックした犬伏湧也が打鐘過ぎ叩き先行。同時に斬る形から三番手取った新田祐大が三角すぎ捲り追い込みで出切る。マーク東口善朋が鋭く伸び切る。
 東口は「初めて付けた新田君に全て任せていましたよ。位置も取ってくれていたし安心して付けていました。でも初めてだったから、どこから行くか構えていましたから変に緊張していた。付いていければ十分だって思っていたのに抜けるとは自分でもビックリでした」。
 後方から捲り上げた嘉永泰斗が二着に食い込む。
「後攻めから抑えに行ったら吉田君に突っ張られてシンドかった。脚もたまらず無理やり仕掛けた割に二着までいけたので悪くはないですね。疲労感が残っているのでケアしたい」。
 捲った新田は三着に。
「誰も出なければ前受けも考えたが前中団に。ダービーの二走目みたいな流れで同じ失敗したくなく三番手を取りに行った。タイミング的にも問題ないし、三着だけど刺激も入ったので明日以降もしっかり走る」。


生命の触発

2023年05月13日 10時11分08秒 | その気になる言葉

▼頂上に至る簡単な道はない―ヘレン・ケラー

▼失敗を恐れて挑戦しないのは、本当にもったいない。

▼好きなことを仕事にする―という仕事観

▼誰一人、使命のない人などいない。

だからこそ、訪問し激励するのだ。

▼人を動かすのは人だ。

心を揺さぶるのは心だ。

▼直接会って語る。そこに生命の触発が生まれる。

▼新しい出会いには刺激があり、新鮮味がある。

人を励ませば、自分の心が励まされ、開かれていく。

 

 


負けを生かす技術 

2023年05月13日 09時40分29秒 | 社会・文化・政治・経済
 
為末 大 (著)
 
今、多くの人が負けや失敗を極度に恐れている気がする。
負けてしまったら、失敗してしまったら、
大きく傷つくのではないか、立ち上がれなくなるのではないか、
人生が終わってしまうのではないか……。
周囲からの目に怯え、評価にひどく振り回され、
悩み苦しむ人も少なくないと聞く。

しかし、本当にそうなのだろうか。
負けてしまったら、失敗してしまったら、
本当に大きく傷つくのか。
立ち上がれなくなるのか。
人生は終わってしまうのか。
人生において、負けや失敗は、
本当にしてはいけないことなのか。

僕は、そんなことは決してないと思う。

むしろ人生では、負けや失敗を避けようとするばかりに、
逆に失ってしまうものがある
ということにも気づいておく必要がある。
負けや失敗を過度に恐れなかったなら、
近づかずに済んだリスクに近づいてしまっている人が、
実は数多くいると思う。

そもそも、負けや失敗とは何なのか。
どのように向き合えばいいのか。
さらには、勝利や成功とは何か。
そこからきちんと整理ができているか。
これを改めて考えてみたいと思ったのが、本書である。

負けや失敗は、実はそれほど怖いものではない。
多くの人に、そのことに気づいてほしい。
それだけで、もっと肩の力を抜いて生きられる気がする。
そしてそれは結果的に、多くの人に、
勝ちや成功をもたらすことになると僕は思っている。

為末 大
 
「本当の失敗や敗北とは、転倒したという結果ではない。転倒したまま起き上がらないこと」

(本書「はじめに」より)

〈目次〉
はじめに 負けや失敗は、恐れるべきものなのか
第1章 「負け」を恐れるな
第2章 「勝利条件」を設定せよ
第3章 「強い自分」を作る
第4章 「勝つヒント」を知る
第5章 自分を生かす「選択」
第6章 「日常」を整える
第7章 「お金」に人生を賭けるな
第8章 小さな「幸せ」をこそ求めよ
 

内容(「BOOK」データベースより)

小さな負けにこだわることが決定的な人生の敗北を招く。失敗をプロセスに組み込め。勝利も挫折も成長の糧にしたからこそ25年間、アスリートとして活躍できた“走る哲学者”が導く心と体の操縦法。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

為末/大
1978年広島生まれ。
2001年のエドモントン世界選手権において、男子400mハードル日本人初の銅メダルを獲得。
短距離・トラック種目では五輪・世界陸上通じて「初のメダリスト」。03年に大阪ガスを退社し、より厳しい環境を求め、「プロ陸上選手」となる。
05年ヘルシンキ世界選手権にて、再び銅メダルを獲得。トラック種目で2つのメダル獲得は日本人初。
シドニー、アテネ、北京オリンピックに出場。12年に現役引退を表明(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
 
自己分析が、幸せ、愛、健康、夢へつなぐツールだと言うことに共感しました。陸上の選手は修行のようなものだし、読みやすさも良かったです。
 
 
世の中に正解はないし、共通のゴールもない。
負けを生かすこと、ありのままの自分を受け入れること。
現状に甘えるわけではないが、現状を悲観するわけでもない。
今に幸せを見出すことの大切さを考えながら読みました。
 
 
自分もアメリカ滞在中に感じた価値観の変化、を上手に言葉にされていてわかりやすかった。国際社会という言葉をきちんと理解する必要がある。
 
 
世の中では気休めみたいな事をポジティブ思考と言う人が多いけれども
現実見て、受け入れて、それで進路を選択して生きてゆくのが
効果が高い生き方だと思います。
これを批判するのは弱い人間のすることだと思う(私も含めて人間は弱いですが。)
為末さんは強い人ですね。
だから活躍できたのだと思います。
これから、何かを成し遂げようとする人には、指針になる話だと思いました。
 
 
アスリートとしての体験を、やや一般化しながら意見を述べているので、学生時代に体育会系の部活をした自分にとっては、共感できるものが多かったです。
一歩引いたところから、日本という環境を見つめなおしていることもよかったです。 
ありがちな自己啓発本だと、すごいレアな事例や自慢話的なことが多く、共感もできなければ、自分を見つめなおすとっかかりも得られないように思うことがありますが、そのあたりの本とは一線を画しているように思います。
 
 
負けることや失敗する事を恐れるとそれより大きなものを失う。
むしろそこから何かを学ぶことが成長に繋がる。とても参考になりました。

過去の亡霊?!

2023年05月13日 09時13分42秒 | 社会・文化・政治・経済

例えば、自民党神道政治連盟

(略称・神政連)は、世界に誇る日本の伝統や文化を後世に正しく伝えることを目的に、昭和四十四年に結成されました。戦後の日本は、経済的にめざましい発展を遂げた一方、個人と公共心とのバランスを欠いた、行き過ぎた個人主義が引き起こした事件が数多く見られるようになりました。

神政連は、日本らしさ、日本人らしさを回復し、私たちが生まれたこの国に自信と誇りを持つことができるよう、神道の精神に基づいて憲法改正などさまざまな運動に取り組んでいます。

伊勢神宮、熊野三社、明治神。宮、また古典の授業を通じて神道に触れる機会がある。

縄文人は多くの精霊の中でも、自然界を構成する「地・水・火・風」の四大精霊を尊敬していたのだろう。

古くは平等であった精霊の間に序列が導入されていき、それが古代の神道へと発展する。

弥生時代から水稲耕作による生活が始まると、稲を育てる太陽と水の恵みを重んじるようになっていく。

それと共に、農耕地を開墾してくれた祖先の霊に対する祖霊信仰も高まる。

次第に国家が形成され統治者が出現すると、今度は集団の首長の霊を重んじる首長霊信仰が現れる。

神道はきわめて多くの神々をもつ宗教であり、これを「八百万の神」と称す。

八百万の神という言葉にあるとおり、古くより日本では、数多くの神々がいて万物を司ると考えられてきた。太陽神・天照大御神はもとより、月の神・月読命のほか、山の神、海の神、川の神、動物や植物、さらには雨や風などに至るまで、自然の中にさまざまな神々を見いだし、あがめてきた。

地域の文化や風習には、祭りをはじめ、神に新穀を供え、収穫を感謝する儀式の意味を持つものが少なくない。

すなわち、日本の伝統や文化について考えると、その根底には日本古来の宗教である神道があることがわかる。いやむしろ、日本人の価値観や心のあり方についても、神道が拠り所になっていると言えるのではないだろうか。

神道の大きな特色は排他性がないこと。内外の諸宗教を否定することなく、共生しようとする。

宗教だけではない。鎮守の森に見られるように、自然についても、人間が支配するのではなく、その恩恵に感謝し寄り添ってきた。

日本人は古代より、あらゆる自然物を崇拝し世の中のあらゆるものに神を見出し敬っていた。

神道は古代から現在にいたるまで、様々な変化や影響を受け紆余曲折してきた。

縄文・弥生時代から古事記・日本書紀の頃までの古代日本の宗教観から、日本の伝統精神を考察する。

<『古事記』と『日本書紀』>

 古代日本の様子を知る書物としては、『古事記』と『日本書記』が挙げられる。

 『古事記』は元明天皇の712年、太安万侶が撰上し、神々の誕生から7世紀初頭のトヨミケカシキヤヒメ(後の呼称では推古天皇)に至るまでの神話と歴史を伝える書物である。

もともとは壬申の乱を制圧して即位した天武天皇が、乱れた歴史の伝えを自らの手で正そうと、稗田阿礼に「誦み習は」せたものである。

天武天皇が正当な後継者であることを証明する神話(歴史)は、力としての法(律令)とともに、国家を支える両輪の一つとして必要だった。

しかしまだ神道という語は見られない。

 一方、『日本書紀』は元正天皇の720年成立。天武天皇の皇子、舎人親王を総裁として編修し、日本の正史として位置づけられている。日本書紀で「神道」という言葉が初めて登場する。

 これら『記紀』では、天皇の祖先が天照大神の命令を受けて日本を統治するようになったと説く。

街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。

このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。

神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。

遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。

自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。

人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。

また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。

そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。やがて、まつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。

このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、この日本固有の信仰は、仏教に対して神道という言葉で表わされるようになりました。

神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。

さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。

奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。

神道の信仰が形となったものが祭りです。

祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。

神道の祭りを行うのは、神社だけではありません。皇室では、天皇陛下が国家・国民の安寧と世界の平和を祈るお祭りを行われています。

また、家庭では、神棚の前で家の安全、家族の無事を祈ります。これも小さな祭りといえます。