創作 仮の姿人間

2023年05月04日 22時46分51秒 | 創作欄

思い起こせば、青春時代は、文字通り皆が青かった。

自分たちを自嘲するように「我々は、仮の姿人間なんだ」と自己弁護する。

では、「本物の自分はどこに居るんだ」と自問自答する。

営業の仕事には、とても向いていない私は、日々の訪問販売で悪戦苦闘していた。

でも、内心な一般のサラリーマンより、月収が少し多かったことで、かろうじて自尊心を保っていた。

当時、サラリーマンの平均月収が3万円の時代に、我々は2倍、3倍を稼いでいたのだ。

先輩の中には、10倍以上も稼いでいた人もいた。

驚くことに、社内の営業成績で常にトップの大学の先輩の彼の本業は彫刻家であったのだ。

私は、詩を書き、作詞家を夢見ていたが、土日は競馬場へ足を向けていた。

「君は、詩を書くなら健全な遊びをすべきだ」先輩の苦言が私の胸に痛く刺さったものだ。


トーベ・マリカ・ヤンソンの映画化

2023年05月04日 21時44分04秒 | その気になる言葉

第二次大戦下のフィンランドで、「ムーミントロール」の物語を描き始めた画家、トーベ・ヤンソン。

終戦後、自由を渇望するトーベの思いはムーミンの物語と共に大きく膨らんでいく。

やがて彼女は、舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラーと激しい恋に落ちるが…。

日本を始め世界中で愛されるムーミンの物語。それは画家としてキャリアをスタートさせたアーティスト、トーベ・ヤンソン自身の人生を投影して生み出されたものだった。文学、コミックス、舞台芸術、アニメーションなど、今日においても色褪せること無く人々を楽しませ続けるムーミンのキャラクターたちは、いかにして生み出されていったのか。本作はトーベ自身の人生のあり方とともに、その創作の秘密に肉薄してゆく。

本国フィンランドでは公開されるや大絶賛で迎えられ、スウェーデン語で描かれたフィンランド映画としては史上最高のオープニング成績を記録。公開から約二カ月にわたり週間観客動員数ランキングで連続1位を維持するなどロングラン大ヒット。更に第93回アカデミー賞国際長編映画賞フィンランド代表へ選出されたのをはじめ、数々の映画賞を席巻した。

 

Story

第二次世界大戦下のフィンランド・ヘルシンキ。激しい戦火の中、画家トーベ・ヤンソンは自分を慰めるように、不思議な「ムーミントロール」の物語を描き始める。

やがて戦争が終わると、彼女は爆撃でほとんど廃墟と化したアトリエを借り、本業である絵画制作に打ち込んでいくのだが、著名な彫刻家でもある厳格な父との軋轢、保守的な美術界との葛藤の中で満たされない日々を送っていた。それでも、若き芸術家たちとの目まぐるしいパーティーや恋愛、様々な経験を経て、自由を渇望するトーベの強い思いはムーミンの物語とともに大きく膨らんでゆく。

そんな中、彼女は舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラーと出会い激しい恋に落ちる。それはムーミンの物語、そしてトーベ自身の運命の歯車が大きく動き始めた瞬間だった。

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Keywords

芸術村
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トーベ・ヤンソンは戦時中、外部から切り離された落ち着ける場所を夢見ていた。それは暖かく色彩に満ちたモロッコに芸術家と文筆家のためのコミュニティを作ること。彼女はそんな場所を恋人のアトス・ヴィルタネンと計画し、長きに渡って貯金もしていたが、アトスはその貯金を北フィンランドのストライキ支援のための資金に充ててしまい、計画は頓挫してしまう。

スウェーデン語系フィンランド人
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1323年から1809年までフィンランドはスウェーデンによって統治されていたため、現在においてもフィンランド語とスウェーデン語の両方が公用語とされている。トーベ・ヤンソンはヘルシンキ生まれのスウェーデン語系フィンランド人であり、執筆はすべてスウェーデン語で書かれている。現在のスウェーデン語系人口は5パーセントほど。

トフスランとビフスラン
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コミックス『ムーミントロールと地球の終わり』で初登場した、常に一緒にいて離れることができない二人組。自分たちだけに通じる秘密の言葉を話すため、多くの人が理解できない。赤い帽子を被っているほうがトフスラン。トーベとヴィヴィカ・バンドラー、それぞれの頭文字「To」と「Vi」を織り込んで名付けられた。

フィンランドにおける同性愛
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フィンランドでは、1894年に制定された刑法において同性愛は精神疾患として指定されるだけでなく犯罪とされており、最大で懲役2年の実刑が課されていた。その後、1971年に同性愛が非犯罪化され、1981年に疾病分類リストから削除される。2017年には同性婚が合法化された。

モラン
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『たのしいムーミン一家』で初登場。ムーミン谷の住人から恐れられている女の魔物。彼女が歩くと地面が凍りつき、草木は枯れてしまう。孤独ゆえに明るく温かいものに引き寄せられる習性がある。トーベがヴィヴィカ・バンドラーに宛てた手紙の中では、二人の愛を脅かすもの名前がモランであった

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生まれながらの芸術家

トーベ・マリカ・ヤンソンは1914年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキで、ヴィクトル・ヤンソンとシグネ・ハンマルステン・ヤンソンの長女として生まれました。父は彫刻家、母はグラフィックアーティストという芸術一家で、トーベと二人の弟、ペル・ウーロフ(1920年生)とラルス(1926年生)は、「まるで呼吸するように」芸術に親しんで育ちました。

父ヴィクトルはスウェーデン語系フィンランド人、母シグネは留学先のパリでヴィクトルと出会ったスウェーデン人でしたから、トーベ自身ももちろん、スウェーデン語を母語として育ちました。フィンランドは建国以来、フィンランド語に加えスウェーデン語も公用語としていますが、スウェーデン語系は国民全体の1割未満(現在は更に減って5%程度)にすぎない少数派でした。

それは、例えば街を歩いても自分と同じ言葉を話している人がほとんどいないということを意味します。言語少数派として育ったことは、トーベの思想に大きな影響を与えたと言われています。

父ヴィクトルはトーベの幼少時代から既にフィンランドでは著名な彫刻家でした。その作品は今日、ヘルシンキの中心であるエスプラナーディ公園をはじめ、街中で見ることができます。ただファインアーティストの常として、その収入は決して安定的なものではありませんでした。代わって母シグネが、イラストレーター/商業デザイナーとしての収入で生計を立てていました。家計と生活の両方を支えながらいつでもおおらかな母と、しっかり者の妻のお陰で思うまま芸術を追求して生きることが出来た父の姿は、そのままムーミンママとムーミンパパに重なるかのようです。

ヤンソン一家は、フィンランド人家族の例に漏れず、毎年夏の数週間を自然豊かな郊外のサマーハウスで過ごしました。はじめは母方の祖父が住むストックホルム近郊の多島海に浮かぶ島で、1920年以降はフィンランドのペッリンゲ群島地域で。家族とともに天衣無縫に過ごした夏の日の幸せな記憶は、ムーミンの物語に色濃く反映されています。

幼い頃から芸術家を天命と考えていたトーベが、その長いキャリアをスタートしたのはわずか十四歳の時、雑誌やポストカードのイラストレーターとしてでした。

プロとして収入を得ながら、十代後半はストックホルムで商業デザインを、ついでヘルシンキで美術を学び、二十代になると奨学金を得てはフランスやイタリアに渡って見聞を広め、絵画技術を習得しました。

帰国後は定期的に油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフレスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎をはじめ数多くの公共建築に壁画を描き、画家としての地位を築いていきました。

生まれながらの芸術家

ムーミンのはじめのはじめ

トーベがストックホルムの工芸専門学校に通っていた10代の頃、寄宿先のエイナル叔父さんが、夜中に台所でつまみ食いをした姪にこう言ったそうです。
「レンジ台のうしろには、ムーミントロールといういきものがいるぞ。こいつらは首筋に息を吹きかけるんだ。」
その、少女トーベを断罪するかのような小さないきものの存在は、家族と離れて、少々遠慮がちに親戚の家に暮らしていた食べ盛りの少女の心に、よほど深く印象づけられたのでしょう。絵日記にも、トーベがそのときどんなに驚いたか、生き生きと描き残されています。

また、やはり10代の頃、上の弟ペル・ウーロフと哲学について議論をし、言い負かされた悔しさから、弟を鼻の長い醜いいきものとして、別荘のトイレに落書きしました。(そのほかにもいろいろな落書きで埋め尽くされているトイレの壁紙は、今もトーベの親族の手元に残っています。)その醜いいきものはどうしてかトーベの心に残ったようで、画家として身を立てようとしていた20代の頃には、それとよく似た(でも黒い身体に赤い眼をした)いきものを、たびたび作品に描きました。

1939年に第二次世界大戦が始まり、フィンランドもソ連の侵攻により否応なく戦争に巻き込まれていきました。戦争に強く反対していたトーベは、15歳からイラストを描いていた政治風刺雑誌「ガルム」に、独裁者たちを痛烈に笑いのめす風刺画を描くようになり、そしてそれに実名で署名することを止めませんでした。

いつからかその署名のすぐ横に、あの鼻の長いいきものが顔を覗かせるようになりました。いつでも怒っているか困っているかのそのいきものは、まるで戦争に抗うトーベの分身であるかのようでした。

トーベがムーミンの物語を書き始めたのは、そんなさなかのことでした。

ムーミンのはじめのはじめ

戦争のおわりとムーミン物語のはじまり

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 1939年、戦争の冬のことです。仕事はぱたりといきづまり、絵をかこうとしてもしかたがないと感じていました。
『むかしむかし、あるところに』という出だしではじまる物語を書こうと思ったのも、むりのないことかもしれません。でも、王子さまや、王女さまや、小さな子どもたちを登場させることはやめて、そのかわりに、風刺まんがをかくときサインがわりにつかっていた、怒った顔をしたいきものを主人公にして、ムーミントロールという名前をつけました。
 とちゅうまで書いた物語は、1945年になるまで、そのままほったらかしになっていました。

ところが、ある友だちがこう言ったのです。これは子どもの本になるかもしれない。書きあげて、さし絵をつければ、出版できるかもしれないよ、と。
 頭をひねったあげく、本のタイトルは、「パパをさがすムーミントロール」――――――「キャプテン・グラント」の探求物語がモデル――――――のようなものにしたかったのですが、出版社は「小さなトロール」を入れたほうがいいと言いました。そのほうが読者にわかりやすいというのです。
この物語は、わたしが読んで好きだった、子どもの本の影響をうけています。たとえばジュール・ヴェルヌやコローディ(青い髪の少女)などが、ちょっぴりずつ入っています。

でも、それがいけないということはありませんよね?
 とにかく、これはわたしがはじめて書いた、ハッピーエンドのお話なのです!

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トーベ・ヤンソン  冨原眞弓訳
(講談社ムーミン童話全集『小さなトロールと大きな洪水』 作者序文より)


1945年、長かった戦争はようやく終わりました。戦後の混乱の中、後に世界を席巻するムーミンシリーズの第一作『小さなトロールと大きな洪水』は、粗末な装丁でひっそりと出版されました。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語です。表紙を入れても48ページしかない小冊子で、本屋ではなく駅の売店や新聞スタンドに並べられたといいます。

戦争のおわりとムーミン物語のはじまり

イギリスへ、そして世界へ

この第一作は商業的には決して成功とはいえず、それどころかわずかな部数で絶版となったきり、以後トーベ自身の意向によって1991年まで再版されず「幻の作品」となるのですが、幼い頃から絵を書くことと同じくらいお話を作ることが好きだったトーベは、画業の傍らこつこつと執筆を続け、次々に続編を発表していきました。

1948年の第三作『たのしいムーミン一家』は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大きな評判をとりました。ただそれでもそれが英訳され、児童文学王国イギリスで出版されたのは、いくつもの偶然に助けられてのことでした。ところがこの北欧の小国からきた奇妙ないきものたちのお話は、たちまちのうちに目の肥えたイギリスの読書人たちの心を掴み、思いがけない大ヒットとなったのです。

さらにそれをきっかけとして1954年に始まった、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙 「イブニングニュース」での漫画連載が、ムーミンの人気を決定づけました。イギリスにとどまらず、その年のうちに早くもスウェーデン、デンマーク、そして母国フィンランドの新聞に、さらに最盛期には40カ国、120紙に転載されたほどでした。漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズも及びました。次々に各国語に翻訳され、イギリスばかりでなくヨーロッパ中で人気と同時に高い評価を獲得していきます。トーベは児童文学作家としての国際的な名声を不動のものにしました。

※画像 ムーミン・コミックスの連載開始を伝える『イブニングニュース』の宣伝車
イギリスへ、そして世界へ

「冬」との出会い

でもその一方で、過熱する「ムーミン・ブーム」は、本来自分を画家であると考えていたトーベから絵画制作の時間を奪い、代わりに締め切りのプレッシャーと、山のような契約書、自ら行ったすべてのキャラクターグッズやムーミンを使ったプロモーションの監修、打ち合わせにつぐ打ち合わせ、メディアからのインタビュー、世間からの激しい毀誉褒貶をもたらしました。彼女は次第に疲弊し、ついにはムーミンを憎むようにさえなりました。そんな頃に出会ったのが、後半生のパートナーとなるグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラでした。

トーベはトゥーリッキとの交際から、自身が倦み疲れきっていた見知らぬ世界、自分が有名人であり、自分の書くものに何百万人もの読者がいる世界にどのように向きあうべきかについて、大きな示唆を得ました。その体験をそのままムーミンの世界に置き換えて書かれたのが、冬眠をするムーミントロールが、まったく見知らぬ世界である「冬」と初めて向きあう姿を描いた「ムーミン谷の冬」です。

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私が新聞連載の締め切りやら印税のことやらに、いくらがんばっても、いつも苦しめられるように、冬に散々な目に遭わされるムーミントロール。難しいだろうけど、そんな風に書いてみなさいよ、とトゥーティ(筆者注:トゥーリッキの愛称)が言ったのです。物語はムーミントロールが自己を解き放ち、ある意味自分の顔を獲得するという作品になったのでした。
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ボエル・ウェスティン/畑中麻紀・森下圭子訳2014 講談社「トーベ・ヤンソン-仕事、愛、ムーミン-」P381

こうして作風を一新した第6作「ムーミン谷の冬」は1957年に出版され、ムーミンの新刊を待つ子どもたちから熱狂的に迎えられただけでなく、それまで以上の高い芸術的評価を得て、フィンランドとスウェーデンで多くの文学賞と、挿絵に対しての美術賞を受賞しました。もはやムーミンは単なる児童文学でも漫画でもなく、文学、美術、哲学、言論、精神医学など様々な分野からの注目を集める存在になったのです。

※画像 「ムーミン谷の冬」挿絵 トゥーティッキ(おしゃまさん)とムーミン
「冬」との出会い

母との別れとムーミン小説のおわり

1959年、ついにトーベは連載漫画の仕事を、それまでも英語への翻訳から始まってストーリーの原案づくりまで手伝うようになっていた末弟のラルスに引き継ぎ、念願だった絵画制作のための時間を手に入れました。さらに1964年には沖合の孤島クルーブハルに小屋を立てはじめ、その年からトゥーリッキと二人、夏の数ヶ月を世間から隔絶された環境で、芸術に没頭して過ごすようになります。画家トーベ・ヤンソンは60年代だけで五度の個展を開催しています。

そんな中でもムーミンシリーズの執筆は続きました。1962年にはシリーズ唯一の短篇集である第7作「ムーミン谷の仲間たち」、1965年には、パパの発案で移住した灯台のある島で、ムーミン一家がアイデンティティの危機を迎える第8作「ムーミンパパ海へいく」を出版。トーベとシリーズへの評価はますます高まり、1966年にはついに、児童文学における最高の栄誉とされる国際アンデルセン賞を受賞します。

1970年、「ムーミンパパ海へ行く」と対をなす第9作「ムーミン谷の十一月」の原稿を書き上げ、あとは挿絵の制作を残すのみとなっていた時、トーベに大きな影響を与え続けた母シグネが他界しました。トーベが受けたショックは計り知れないほど大きなもので、しばらくは母の名前を口にすることすらできなくなったといいます。

「ムーミン谷の十一月」は、母との別れを予感していたかのように、ムーミン一家の不在が描かれる物語です。それぞれに問題を抱え、一家を頼ってムーミン屋敷に集まった人々が、その不在に途方に暮れつつも、帰りを待ちながら奇妙な共同生活を送ります。その過程で、彼らの問題は思いもよらない形で解決していきます。物語は最後に、ムーミン一家の帰還を予感させ、希望とともに終わるのです。

大きな悲しみの中で、それでもトーベは「ムーミン谷の十一月」を完成させました。そして同時に、ムーミンの小説シリーズの完結を宣言しました。以後、トーベは作家としてのフィールドを大人向けの一般小説に移すことになります。’70年代から’80年代にかけてコンスタントに作品を発表し、1982年にはこれらの作品により(「ムーミン谷の仲間たち」「ムーミン谷の十一月」に次ぐ三度目の)フィンランド国民文学賞を受賞しています。

母との別れとムーミン小説のおわり

アート、人生、仕事、そして愛

でも、小説シリーズの終わりは、ムーミン物語の終わりではありませんでした。トーベ自身、その後に絵本を2冊著したのに加え、舞台、オペラ、実写テレビシリーズ、パペットアニメーション、みなさんもよくご存知の日本で制作されたアニメ、美術館、テーマパークとその世界は広がっていき、トーベはそのどれにも精力的に関わり続けました。

1991年、体力の衰えから77歳でついにクルーブ・ハルを引き上げますが、その後もヘルシンキのアトリエで執筆活動を続けました。最後の小説、短篇集「伝言(未邦訳)」を発表したのは1998年。その3年後に86歳で天寿を全うするまで、筆を置くことはありませんでした。

トーベはその長く並外れたキャリアを通じて、とても一人の仕事とは思えない幅と量の作品を遺しました。油彩画家であり、フレスコ画家であり、イラストレーター、風刺画家、児童文学作家、漫画家、絵本作家、作詞家、舞台美術家、商業デザイナー、映像作家、そして小説家でもあった彼女の人生は、どんな時でもまず仕事ありきだったといいます。でもその仕事は日々の生活の中から生まれました。家族、友達、愛した人々と、彼女が経験した出来事が、時には明示的に時には暗示的に、あらゆる作品に現れています。彼女にとって、グラフィックアートと文学、芸術と人生、仕事と愛の間に境界線はなく、すべてはひとつだったのです。


映画 ゲティ家の身代金

2023年05月04日 21時26分25秒 | 社会・文化・政治・経済

5月3日午前3時30ふんからCSテレビのザ・シネマで観た。

ゲティ家の身代金』(ゲティけのみのしろきん、All the Money in the World)は2017年アメリカ合衆国イギリス合作映画。1973年に、当時フォーチュン誌から”世界一の大富豪”に認定されたゲティオイル社社長のジャン・ポール・ゲティの孫が誘拐された実話をフィクションを織り交ぜて描く。監督はリドリー・スコット。出演はミシェル・ウィリアムズクリストファー・プラマーマーク・ウォルバーグほか。クリストファー・プラマーは、過去の犯罪が発覚し降板したケヴィン・スペイシーの代役を急遽演じ、約10日間で該当シーンを撮り終えた。

原作はジョン・ピアースン英語版1995年に発表したノンフィクション『ゲティ家の身代金』(ハーパーコリンズ刊)。日本では、一部暴力描写があるためR15+指定で公開された。

ストーリー 

実業家のジャン・ポール・ゲティは中東との石油取引で莫大な富を得るが家族との関係は冷めていた。1973年7月、ローマ。ゲティの孫であるジョン・ポール・ゲティ3世は、夜の街で街娼をあさっているところを、男たちによって拉致される。犯人グループのうち、英語を話せるチンクアンタが監禁したポールの世話係をつとめることになる。

ポールの母親のゲイルは夫と離婚し、息子と共に富豪一族とは離れて生活していた。

ゲイルの元に誘拐犯からの電話がかかってくる。

身代金は1700万ドルという莫大なものだった。

ゲイルはゲティに電話をかけるがゲティは株取引に夢中で応じない。やがてゲイルはテレビニュースでゲティの姿を見る。

ゲティは記者たちに向かって、身代金の支払いは断固拒否すると言い放つ。

「要求に応じれば他の14人の孫たちも危険に晒される」というのが理由だった。

ゲティは、元CIAで現在はゲティのもとで中東の業者との交渉人をしているフレッチャー・チェイスを呼び寄せ、なるべく費用をかけずに孫を取り戻せと指示する。

チェイスはゲイルの元に赴く。彼女の自宅はマスコミに囲まれており、世界中の自称誘拐犯からの手紙が送られていた。

ポールの死体が見つかったという連絡を受けゲイルは警察に確認に行くが、それは別人だった。

それは犯人グループの一人であり、そこから犯人たちの身元が判明する。

警察は隠れ家に向かうが、既にポールは世話役のチンクアンタと共に、別の犯罪グループに売り飛ばされていた。

ポールは監禁された山小屋に放火し、混乱に乗じて脱出し、民家に逃げ込むが、そこで連れ戻されてしまう。リーダーのマンモリティは、ポールの耳を切断し、新聞社に送りつける。

ゲイルは、ゲティが身代金を払うと聞かされ、チェイスと共にロンドンに向かう。

ゲティは身代金を貸す代わりにゲティにポールの親権を譲るように要求し、ゲイルはこの条件を呑む。しかし、税制上、イタリアには400万ドルしか送金できないことをゲティは告げる。

ゲイルは電話でチンクアンタと交渉するが、チンクアンタは次は足を切ると警告する。

ゲイルは記者会見を開き「身代金は全額払う」と発言する。

驚いたゲティはチェイスを問いただすが、チェイスはゲイルの味方をする。ゲティのもとに原油価格が暴落したという知らせが届きゲティはショックを受ける。

ローマに戻ったチェイサーは、ゲティからの「金も子供もやる」という伝言を受け取る。

石油ショックで自動車の往来が途絶えた道路を、ゲイルとチェイサーは身代金の引き渡しのために軽自動車を走らせる。

犯人の指示通りに道路の途中で現金の入ったバッグを捨てる。

ようやく開放されたポールは一人で隠れ家から歩み去る。

犯人グループは身代金を分配して逃走しようとするが、警察のヘリコプターが尾行していたことに気づき、マンモリティはポールの殺害を指示する。

追跡に気づいたポールは街に逃げ込むが、そこに住む人々は報復を怖れて誰もポールを助けようとはしなかった。

チェイサーはポールの行方を追って、犯人グループが行き交う街にたどり着く。

そこに、チンクアンタが捕まりそうになっていたポールを連れ出してチェイサーに引き渡す。

ポールは母のゲティとともに数カ月ぶりに帰宅する。

その頃、ゲティは発作を起こしてひとり屋敷のベッドで息絶えた。

ポールは莫大な遺産の相続人となり、ゲイルは彼が成人するまでの代理人に就任した。

のちにゲイルが世界中から買い漁った美術品を元にゲティ美術館が設立され、ゲティ財団は、さまざまな慈善事業のスポンサーとなった。

キャスト

巨匠リドリー・スコットが暴く、エイリアンよりも禍々しき大富豪の実像

金離れの悪い人物を世間一般に「ケチ」というが、その規模が1700万ドルの身代金を払う払わないのレベルとあらば、そりゃ映画にもなるだろう。

1973年にローマで起こった大富豪親族の誘拐事件の顛末を、本作で巨匠リドリー・スコットは犯罪スリラーさながらに描き上げた。

御歳80にして、他人の血だまりでスッ転ぶ残酷SF「エイリアン・コヴェナント」(17)の後にこれを発表するとは、まったく創造の手綱を緩めないにも程がある。

しかも監督は年齢相応に枯れた題材ではなく、常にジャンルに一石を投じるような作品へと積極的にアクセスしているのだ。

世界トップクラスの財に恵まれながらも、誘拐された孫の身代金要求に応じようとしない石油王ゲティ(クリストファー・プラマー)。

そのせいで孫の母親ゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)は、徒手空拳で誘拐犯との交渉を強いられる。

展開が進むにつれて表面化する人間の強欲や、命の対価を問うシビアな金銭闘争など、それらに対して本作は観る者に再考をうながしていく。

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またケチという話に的を絞れば、孫を誘拐されたゲティ翁の守銭奴ぶりは、キャラが立ちまくっていて見ものといえるだろう。

他人に電話を貸すのも惜しいと、私邸に公衆電話を設置するなんてのは序の口。

果ては身代金を息子に貸したことにし、金利を得ようともくろむなど、度を超えた富裕層が繰り出すネジれた錬金哲学には「こんなのが身内でなくてよかった」と胸を撫でおろすばかりだ。

そんなゲティの、醜悪さを上塗りした下地に人格の見える肖像画が、クリストファー・プラマーによってこってりと描写されているのも素晴らしい。

当初はケヴィン・スペイシーが演じていたが、セクハラ疑惑で途中降板となった不名誉をプラマーが見事にカバーし、緊急の代役とは思えぬ存在感を示している。

またこうした交代を実現させ、映画を完成へと導いたリドリーの天才的な動きも賞賛に値する。

なにより、エイリアンよりも禍々しいそんな祖父と誘拐犯とで板挟みとなり、それでも我が子を救おうとするゲイルの存在は「エイリアン」(79)や「テルマ&ルイーズ」(91)「G.I.ジェーン」(97)といった諸作の女性主人公へとリンクする。じつにリドリー・スコットらしいヒロイン映画だ。

尾崎一男

 

 

 


女性の草の根連帯

2023年05月04日 21時10分41秒 | その気になる言葉

▼特別な人が、特別な行為をするのではなく、それぞれが身近な場所で、自分にできる「何か」を見つける。

その連続の中で生まれる力の大きさに教えられものがある。

それが、平和運動でもある。

▼現在の世界が直面する危機の打開には、個人や地域などあらゆるレベルで、現状をわがこことと捉えることが不可欠である。

▼一人一人が力を結集した先に大きな変化が生まれる。

その意味で、女性の草の根の活動は重要な価値を持つだろう。

▼混迷の世界を希望の哲学と励ましで照らしていくのは、女性の草の根連帯である。

 


取手市民会館の広場の光景でジャズ演奏

2023年05月04日 10時05分33秒 | 日記・断片

家を出た時、ヘビ坂方面へ行くか、台宿方面へ行くかを迷った。

同じ道を歩けば、同じ景色、同じような花の写真しか撮れないのは自明の理である。

久しぶりに利根川堤防を歩くと、駐車場が満杯だった。

取手市民会館で、大きなイベントがあると思う。

先日は、取手市民会館で橋幸夫、歌手活動引退のラストコンサートがあった。

今日は、ジャズ演奏が行われ、出店も多く、広場は人の輪で埋めつくされていた。

 
取手市民会館の広場の光景

取手市民会館の広場の光景 2023年5月3日


希望は勇気を生み、活力をもたらす

2023年05月04日 08時39分17秒 | その気になる言葉

▼力強く生きるということは常に、そのように自己の魂と自己の置かれた状況に打ち勝つことを含んでいるのである。

▼相手の本音を聞くことが、心を通わせる第一歩である。

▼<住み続けられるまち>には魅力が詰まっている。

▼<誰も置き去りにしない>その目標は、街の内外を問わず、人と人が交流し、風土の魅力を語り合う中で、達成さてるのではないだろうか。

▼ひとのために働く 汗はキモチよく蒸発し いたびれても よろこびとなる こんな日のひぐれは 母の言葉が耳にすきとおる・・・詩人・サトウハチロー

▼新しい決意で進まなければ、世界平和は実現できない。

▼悩みを成長の糧に変える。

▼希望は勇気を生み、活力をもたらすのだ。

 

 

 


「歴史は繰り返す」

2023年05月04日 08時22分28秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼「歴史は繰り返す」古代ギリシャの歴史家ツキジデスの言葉。

人間だけが、「歴史」から未来を考える

 


創作 現在・過去・未来 続編 22)

2023年05月04日 06時45分15秒 | 投稿欄

牛田家から逃れた鶴子は、義母と下女の幸恵のはからいで一時、幸恵の実家の諏訪の村で住むこととなった。

諏訪は江戸時代、高島藩の城下町であった。明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となり、その後、筑摩県を経て長野県に編入された。

諏訪は北西側を諏訪湖に接し、西部、東部を山地に挟まれ、南側には茅野市、富士見高原を望む、諏訪盆地のほぼ中央に位置する。
諏訪湖へ向かう幾本かの河川の間に田畑、住宅地が広がっている。
赤沼、中洲といった地名が表すように、古くは沼だったり、もしくは諏訪湖が最大面積であったときに水中だった場所も多く、地盤は全体的にゆるとされる。

北八ヶ岳にある山の1つ茶臼山(ちゃうすやま)は、標高は2,384m。
鶴子は、田圃の畦道から見る山並みに心を和ませるとともに、「どこか新天地に羽ばたこう」と決意する。
義理の妹の信子が読んでいた吉屋信子の小説を街の書店で求めて読んでみた。
買い求めたのは「返らぬ日」吉屋信子の少女小説であり、女学生の哀歓を描き切った、『花物語』の姉妹編ともいうべき初期作品集。

人生の荒波を前に少女はいつまで幸せでいられるだろう?少女の日の哀愁とユーモアに満ちた幻の傑作とされる。

返らぬ日は、カトリック系女学校の寄宿舎を舞台に、国際的な街・上海生まれで洋装断髪のかつみと、老舗の妾腹で日本人形のように麗しい弥生の健常者ではない思いの始まりから終わりまでを描いた中篇。

結婚する少女を待ちうけているのは、服従と従順と義務と責任。その上で男への快楽を与えなければならない義務を負う。

「女の自立」を示唆さられる思いがした鶴子は東京への旅立ちへ向けて、準備する。