5月21日午前1時45分からCSテレビのザ・シネで観た。
最後の先住民を惨殺シーンは、気が重くいなる内容であった。
(The Mission)は、1986年のイギリス・フランス・アメリカの歴史ドラマ映画。
18世紀、スペイン植民地下の南米・パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き方、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く。
1986年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー撮影賞、ゴールデングローブ賞 脚本賞、ゴールデングローブ賞 作曲賞、英国アカデミー賞 作曲賞受賞。
1740年代、スペイン統治下のパラナ川上流域では、キリスト教の布教が、険しい地形とジャングル、そして剽悍で誇り高い先住民グアラニー族の抵抗に阻まれ、多くの宣教師が命を落としていた。
こうした中、宣教師として現地に送り込まれたガブリエル神父は、「音楽」を共通の言葉としてグアラニーの民の心をつかんでいく。
一方、同じスペイン人植民者でありながらガブリエルとは犬猿の仲であった、軍人で奴隷商人のメンドーサは、許婚の女性をめぐるいさかいから自分の弟を誤って殺してしまい、一時は生ける屍のようになるが、ガブリエルのすすめで改悛、イエズス会に入会し、以後ガブリエルの指揮する布教活動の有能なスタッフの一人となった。
グアラニー族への布教は急速に成果を上げていくが、農場での収益を平等に分配し、逃亡した先住民奴隷を惹きつける布教区は、植民地社会の有力者にとって次第に疎ましい存在となっていった。
そのような折、スペイン・ポルトガル両国によって南米領土の国境線引きが行われ、イエズス会布教地区はポルトガル領に編入、先住民には布教村からの移動、宣教師たちには退去が命じられた。(当時のこの地域において、ポルトガル領では奴隷が合法で、奴隷狩りも行われていた。
しかしスペイン領ではポルトガル領から奴隷を買うことはできたものの、奴隷収集は非合法であった。)だが宣教師たちはこれに背いて先住民と行動を共にすることを選択。
植民地当局の軍隊が迫る中、ガブリエルが村人たちとともにミサを守る一方、メンドーサは宣教師のおきてにあえて背き、一度捨てた剣を再び取り、グアラニーの男たちとともに戦うことを決意する。
キャスト
※括弧内は日本語吹替
ガブリエル神父 - ジェレミー・アイアンズ
ロドリゴ・メンドーサ - ロバート・デ・ニー
アルタミラーノ枢機卿 - レイ・マカナリー
フィールディング宣教師 - リーアム・ニーソン
フィリッポ・メンドーサ - エイダン・クイン
カルロッタ - シェリー・ルンギ
スタッフ
監督 ローランド・ジョフィ
製作 デヴィッド・パットナム
音楽 エンニオ・モリコーネ
実話との相違点
本作品は、16世紀末から18世紀にかけて、南米各地に建設されたイエズス会伝道所の活動の歴史にヒントを得ている。
ストーリー展開は18世紀後半のイエズス会追放にいたる史実の流れに沿っており、また時代考証等も綿密におこなわれているものの、登場人物は架空の人物であり、また映画の演出上、長い歴史上の過程を登場人物の行動に集約している箇所がある。
本作品の舞台である地域にイエズス会が最初の布教拠点を築いたのは1609年であり、その後、一方では先住民の抵抗にあいつつ、他方(先住民が教会の保護下に置かれることを嫌う)スペイン人植民者や奴隷商人との軋轢を抱えながら、18世紀までに一大勢力を築くに至った。
映画ではガブリエル神父の活動に集約されている先住民グァラニー族への布教は、実際には(映画の舞台となった年代の時点で)150年余りにわたる活動の成果であった。
作品の後半の展開のモデルになっているのは、1753年に始まる「グァラニー戦争」である。
1750年の「マドリード条約」によって南米大西洋岸の、スペイン・ポルトガル両国の帰属があいまいで係争の種であった地域(現在のブラジル南部からウルグアイ付近)における国境の画定がはかられた。
伝道所が立地していた地域はポルトガル領に帰属することになり、住民は移動を命じられたが、イエズス会士と先住民は協力して抵抗した。映画では数日間の戦闘シーンに凝縮されているが、実際には、スペイン・ポルトガル連合軍による鎮圧に1756年まで要した。
伝道所が最終的に解散・放棄されたのは1759年(ブラジルから)・1767年(スペイン領から)のイエズス会追放令によってであり、一部世俗権力下の市町村に再編された村落もあった。
世界遺産・イエズス会伝道所跡
この映画のモデルとなった、南米各地に建設されたイエズス会伝道所跡のいくつかはユネスコ世界遺産に登録されている。
西洋•キリスト教的な価値観は共感できないところが多くて、そもそも布教に来なければ戦争も起きなかったのではないか、布教と侵略は何が違うのか考えてしまった。
「祝福はできない」と言いつつ十字架のペンダントを渡して送り出すシーンが良かった
精悍な顔つきとデ・ニーロには珍しいロン毛に男の色気が宿る。
タイトル「ミッション(The Mission)」は、キリスト教宣教師の「使命」というだけではなく、イエズス会が16世紀末から18世紀後半にかけて南米パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンにまたがる国境地帯でいくつも設立・運営していた「伝道所」そのものを指す。
当時、新大陸の先住民グアラニー族(インディオ)をとらえて奴隷にする奴隷貿易を黙認していたスペイン・ポルトガル両国に対して、「Reducciones jesuíticas(イエズス会伝道所)」と呼ばれた先住民の居留地はある種の「サンクチュアリ」として機能していた。
「イエズス会は、特に南米南東部において、スペインで広く行われていた「レダクシオネス」と呼ばれる入植地を作り、広範囲に広がる先住民を集中させて、先住民の統治、キリスト教化、保護を強化していた。
イエズス会の「レダクシオネス」では、各家庭に家と畑があり、個人には労働の対価として衣服と食事が与えられていた。
さらに、学校、教会、病院があり、各「レダクシオネス」には2人のイエズス会宣教師が監督する先住民の指導者と統治評議会が設けられた。フランシスコ会と同様に、イエズス会の宣教師たちも現地の言語を学び、大人たちにヨーロッパの建築、製造、農業の方法を教えた。
スペイン人入植者は「レダクシオネス」で住むことも働くことも禁止されていた。これにより、イエズス会の宣教師とスペイン人との関係はぎくしゃくしたものになった。
それというのも、周辺のスペイン人入植地では、人々は食料、避難所、衣類を保証されていなかったからだ。
1767年にイエズス会はアメリカでのスペイン領から追放措置を受け活動を停止した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/サン=フェリペ号事件
映画では、十字架に磔にされ、滝壺へ落ちて殉教した宣教師のあとを継いだガブリエル神父が一代でイエズス会の「伝道所」を築いたように描かれているが、実際には150年以上にわたる伝道活動の成果であって、最盛期には14万人以上のインディオたちが暮らしていた。
また、スペインとポルトガルの国境策定によって、伝道所の住民たちが退去を迫られ、イエズス会士とともにはじめた抵抗運動(映画のクライマックスにあたる虐殺事件)が鎮圧されるまでに数年を要している。伝道所が最終的に放棄されたのは、新大陸からのイエズス会追放令が出たからで、教団を守るために先住民を見殺しにしたイエズス会もまた、国家による弾圧に苦しむことになる。1773年には列強の圧力に屈したローマ教皇クレメンス14世はイエズス会を禁止するが、1814年に復活。
その後も命脈を保ち続け、2013年、ついに、史上初のイエズス会出身のローマ教皇フランシスコ(現教皇)が誕生する。
「フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/イエズス会
イエズス会にとっては、かの地で命を落とした伝道師たちは聖なる殉教者、悲劇の英雄なのかもしれないが、遠い異国の地の権力闘争にまきこまれ、まきこまれたことさえ知らずに命を落とした先住民にしてみれば、余計なお世話以外のなにものでもないだろう。
イエズス会がインディオたちを保護するためにつくった「保護区」がなければ、もっと悪い未来もありえたかもしれないが、文明化という名のもとに、頼まれもしないのに異文化を持ち込み、異教の神を押しつけ、1世紀以上の時をへてそれが定着してから根こそぎ奪ったという事実は消えない。これを美談にしてはいけないと思う。
モリコーネ作「ガブリエルのオーボエ」は心に残る美旋律だが、この曲にみちている「赦し」と「慈愛」と「希望」が、見るも無残に打ち砕かれてきたのが、現実の歴史でもある。
モリコーネは何も悪くない。だけど、これを聞くと、勝手に殉教して、勝手に救済されてるんじゃねえぞ、と思う自分がいるのもたしかなのだ。
若かりし頃のリーアム・ニーソンが宣教師役で登場する。この映画を見て、同じ宣教師の過酷な運命を描いた遠藤周作原作の「沈黙 -サイレンス-」が自然と頭に浮かんだのは、もしかすると、リーアム・ニーソンがフェレイラ神父を演じていたことがどこかに残っていたのかもしれない。
南米奥地のジャングルや極東の島国まではるばるやってきて、命を賭けて神の御心を伝えようとするかれらの宗教的熱狂には圧倒されるほかないが、だからといって、その上から目線の文化侵略と自分たちの神以外は認めない排他的な宗教観を無邪気に受け入れるつもりはないのだ。
本作には当然、もう一方の当事者であり、虐殺されたインディオたちがたくさん出てくるが、かろうじて部族長とメンドーサになついた少年がクレジットされているほかは、「その他大勢」のエキストラ扱いでクレジットはない。自分はそれを見て、そういうところだぞ、と思うのだ。
映画の冒頭、十字架に磔にされた神父(一瞬デ・ニーロ本人かと思ったがちがう人のようだ)がイグアスの滝を落下するシーンは、どうやって撮ったのだろうと思うくらい真に迫っている。
真偽のほどはわからないが、滝壺に落ちたスタントマンが行方不明になったというウワサもあるそうで、このシーンだけでも、この映画を見る価値はあると思う。
泥だらけになってインディオたちとたわむれるロン毛のデ・ニーロがキリストその人に見えてしまう(実際に見たことがあるはずはないんだけど)のも、おそらく狙いなんだろうなあ。