利根輪太郎の競輪人間学 新田 祐大選手がまさかの2着に!

2023年05月14日 21時33分16秒 | 未来予測研究会の掲示板

6レース

並び 8-1 7-2-6 3-5 4-9

レース評

宿口は格上レーサー。雨谷に勢いを貰って鋭さ発揮だ。第2ラインは久米−山下のところだが、志智や稲垣の絡みも面白そう。

1番人気 2-7(3・9倍)

ラッキーナンバーの2-7の3連単で勝負する。

押さえは2-9の2車単。

やはり2-9も3連単で勝負すべきだった。

 

結果 2-9 1,970円(5番人気) 2-9-1 1万6,930円(4番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 宿口 陽一   11.9   前不発外出
2 9 稲垣 裕之 1車身 12.2   捲止め前残
3 1 志智 俊夫 1/2車身 11.9     コース探し
  4 6 開坂 秀明 1/2車輪 11.8     はぐれ突込
5 7 雨谷 一樹 3/4車輪 12.2   S 捲り阻まれ
  6 4 高久保 雄介 3/4車輪 12.3   B カマし貢献
  7 8 伊藤 裕貴 2車身 12.3     叩かれ急追
8 3 久米 康平 4車身 12.7     捲り併され
× 5 山下 一輝         突込阻まれ

8レース

並びに9-1-8 2-7-4 5-3-6

レース評

格や実績でリードするのは和田だが、初日の走りや近況の勢いを評価して伊藤◎とした。嵯峨のハコがあるなら永沢もいい。

 

1番人気2-7(6・7倍)

 2-7 2-3 2-1の3連単で勝負する。

だが、裏目の3-2 

結果 3-2 1,760円(9番人気)3-2-5 8,880円(40番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 3 永澤 剛   12.0   嵯峨を利し
× 2 2 和田 真久留 3/4車輪 11.8   斬込3番手
3 5 嵯峨 昇喜郎 3/4車身 12.2   B 巧く先行し
4 7 福田 知也 タイヤ差 11.6     混戦割込れ
5 9 伊藤 旭 1車身1/2 11.7   S 潜り内併走
  6 4 佐藤 壮 1車身1/2 11.8     併走位置守
7 1 松川 高大 微差 11.6     はぐれ再追
  8 6 中村 敏之輔 1/4車輪 12.0     位置奪われ
  9 8 清水 一幸 3/4車身 11.6     失敗ライン

12レース

並び 7-5-1 4-2 3-9 8-6

レース評

実力者が揃った北日本が本線。新田がダッシュ良く仕掛けて前団を一蹴する。大森がマーク対抗。小林目標の木暮も連対圏内。

 

 1番人気 7-5(2・1倍)

7-5-1の3連単で勝負する。

5-7-1はないと思う。

だが、新田 祐大選手がまさかの2着に!

結果5-7550円(2番人気) 5-7-1 1,190円(3番人気))




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 大森 慶一   11.4   新田を差す
2 7 新田 祐大 1/4車輪 11.5   嵌まり捲追
3 1 佐藤 友和 3/4車身 11.3   S ライン続き
4 3 小林 泰正 1/4車輪 11.4     捲り併され
  5 4 石原 颯 2車身 11.9   B カマシ後敵
× 6 9 木暮 安由 1/2車輪 11.1     割り込まれ
  7 8 土生 敦弘 3/4車身 11.0     掬われ下げ
8 2 福島 武士 3車身 11.5     連結外して
  9 6 山本 巨樹 2車身 11.4     土生と一緒

映画『スイミング・プール』

2023年05月14日 20時37分29秒 | 社会・文化・政治・経済

5月13日午前1時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

観たのは2度目であるが、作中の殺人事件については、記憶が曖昧であった。

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『スイミング・プール』(Swimming Pool)は、2003年にフランソワ・オゾンが監督した映画。

ストーリー
中年の非社交的なイギリスの女性推理作家「サラ」は、漠然とした不満を、出版社の社長「ジョン」に訴える。

評判高い「ドーウェル警部シリーズ」はマンネリで、テリー・ロングら新人作家の台頭も嬉しくない。ジョンは、自分が所有するフランスにあるプール付き別荘で、気分を変えた新作の執筆を勧める。サラは共に暮らす老父をロンドンへ残し、ジョンが後から来るのを期待しつつ、南フランス山中リュベロンにある別荘へ管理人「マルセル」の案内で到着する。プールの覆いをめくると、枯れ葉が浮いている。

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映画「スイミング・プール 」ネタバレあらすじと結末・感想 ...

静寂の中、持ち込んで来た愛用のラップトップパーソナルコンピュータで執筆を始めたある夜、しばらく仕事を休むと言いながら、ジョンの娘と名乗る「ジュリー」がやって来る。ジュリーは清掃していない枯葉浮くプールを全裸で泳ぎ、静寂を乱されたサラと衝突する。

サラが昼食に通うカフェのウェイター、「フランク」は隣村から来ているという。

サラは昼食後、別荘へ戻り自室で午睡する。ジュリーは、いつものビキニではなく白いワンピーススタイルの水着で泳ぎ、プールサイドでまどろむ。横に立つフランクはジュリーを見下ろしながら、互いに自分の秘所を自慰する。だが、これはサラの妄想だった。

ジュリーの振舞いに関心を持ち始めたサラは、執筆中の作品に並行して創作を始め、それを収めPCのデスクトップに置いた仮題フォルダー名称を「ジュリー」に変更する。プールサイドを掃除中のマルセルに連れ込んだ男を紹介するジュリーを眺め、ジュリーの日記を盗み読み、プールサイドに落ちていたジュリーの下着を自室へ拾い込んだりしながら、サラは執筆を進める。

サラが誘った食事の席で、ジュリーは男性遍歴と生育過程を語る。

母は、フランス人で今はニースに居り、私的な恋愛小説を書いたがジョンにけなされ燃やした、ジュリーの母とジョンは夏だけの関係で結婚せず別れた、などと告げる。

ジュリーはサラの作業机引き出しを漁り、自身が題材らしき作品原稿のプリントアウトを見つけ、食い入るように読む。

次にジュリーが連れてきた男はフランク。3人で踊るが、ジュリーはサラに興味がありそうな彼を引き留め、真夜中のプールで全裸で遊ぶ。サラはプールに石を投げ込んで牽制し、寝てしまう。

翌日サラは、目覚めのコーヒーを啜りながらプールを眺め、異変を察知する。庭へ出るとプールは覆われて怪しげな膨らみが見える。

慌てて巻き取ると、ジュリーが使うクッションだった。安心して昼食へ出掛けた行きつけのカフェでは、フランクが休んでおり家を訪ねるが不在。マルセルの家では、彼の配偶者に見える小さな女性が自分は彼の娘だと告げ、ジュリーの母は事故で死んだと言いながら扉を閉じる。

ジュリーは錯乱し、自分の母と思い込みサラに泣きすがるが、落ち着いた後サラに問われて彼女の作品のためにフランクを殺害した、と告げる。

死体を庭に埋め、衣類は焼いて後始末を終えるが、ジュリーは、サラの作品「ジュリー」も証拠になるから焼いて欲しいと頼む。読んではいないが、想像できるから、と。一夜明け翌日、サラは平静を装うため芝刈りをマルセルに依頼するが、新しい掘り返しの痕跡に不審を抱かれ、初老のマルセルを誘惑して口封じする。

ジュリーは、サントロペの知人のレストランで働くと告げて別荘を出る。燃やされたはずの母の小説コピーが、サラ宛に残されていた。

ロンドンの出版社で新作原稿に目を通したジョンは、感覚的だから出版しない方が君にも読者のためにも良いと、告げる。

思っていた通りだとサラは笑い、製本された新作を一冊取り出す。表紙は金髪女性が白いワンピース水着で泳ぐ写真、題名は「スイミング・プール」である。

「私の最高傑作よ。サインしたから娘さんにあげて」、の言葉にジョンは黙り込む。

「ドーウェル警部シリーズの新作で最高の扱いをするとテリー・ロングの母に伝えて欲しい」と言い残しながら、サラはジョンのデスクを離れる。オフィスから去り際、矯正用歯冠をはめた地味な娘を見かけ、受付嬢の会話を漏れ聴くとジョンの娘で名前は「ジュリア」らしい。

場面転換してリュベロンの別荘でバルコニーから手を振るサラ、水から上がりプールサイドから歯冠をはめたジュリアが振り返す、手を振るサラ、プールサイドからジュリー振り返す、手を振るサラ……。

人物
サラ・モートン
イギリス人でフランス語も話す。推理小説作家で人気作「ドーウェル警部」シリーズの著者である。

経済的には恵まれている。老年期を前にして、職業的にもスランプで、「君はプロットに困っていないじゃないか」とは言われるが、「殺人とか、捜査とか、もううんざり」「(テリー・ロング、またはその他の)新人の相手ばかりして、私はほったらかし」と不満を口にする。

カーキ色のコートなど服装は地味。アルコール依存の傾向があり、ロンドンで朝からバーでウイスキーをあおり、リュベロンの別荘でも酒を飲みながらテレビを見てうたた寝をする。

老父と二人暮らし。非社交的で静謐を好み、ロンドン地下鉄車内で向いの席に座ったシリーズ読者に話しかけられ「人違いだ」と席を立ったり、別荘到着時に家に電話したときには老父から「誰かに会ったか」と聞かれ「いいえ、必要ないわ」と断っている。

ジョンとは売れっ子作家と版元社長の関係だが、以前に男女の関係にあったことを示唆させる。

食には保守的で、南仏でもノンカロリーヨーグルトにダイエットコークといった大量生産品にトマトの食事をとり、地元で加工された食品を購入していない。村のカフェでは食前酒(南仏に種々産する)やパナシェを勧められても(イギリスでは一般的だが当地ではコーヒーより一般的ではない)紅茶を注文する。

人物造形にあたって、ランプリングは実在の女性推理作家、ルース・レンデル、PD Jamesやパトリシア・ハイスミスを参考にしている。1970年代で時間が止まったようで、男性的、レズビアン的、夢想に溺れやすい傾向も人物造形に反映された。

推理作家の設定そのものはランプリングの経歴と重なる所は少ないが、若い頃には美貌で鳴らしたものの不振をかこち精神的にも鬱屈した時がある[5]ところなど、背景にある情動は重なるところが多いとする評がある。

また、共演のサニエは「最初は脅されているかと思った」と撮影終了後に打ち明けており、この記事の筆者も個人的印象として「見かけと自制の気配がランプリングをわずかに威圧的に感じさせている」と記している。

また、"Sarah"は30年以上にわたって死因が自殺であることが伏せられていたランプリングの姉の名前である。

ジュリー
フランス人で英語も話す。ジュリー本人の弁によればジョンの娘で母はフランス人。定職には就いていない。運転免許を持ち、プジョーを運転している。

「交通事故のため」という手術痕が上腹部正中にある。演じたサニエの表現では「誰から見てもわかりやすいセックスシンボルで」「下品の一歩手前で、いつも裸」「南仏の女の子のステレオタイプ。

積極的で、ある意味かわいくて、セクシーで、情緒的で哀れを誘うタイプです。見てすぐにわかりますよね。でも、映画が進むとどんどんサラの想像力の対象になってきて、インスピレーションの源になるんです」「あばずれで、無頓着で、苦しんでいて、構ってほしくて、愛情がほしくて、愛情の埋め合わせに毎晩違った男を連れ込んでいるんです」

サニエは肌を露出させるシーンが多いジュリーを演じるにあたって「まず減量です。ランプリングがラザニアを食べているところで、私は魚と蒸した野菜で我慢しなければいけませんでした」「日焼けしてこういう服を着て派手な化粧をして、ここまで細工をされては、鏡を見ても自分だとわかりませんでした」と言っている。

監督の当初の構想では男だったが、女に変更された。若い男と中年女という典型的パターンを避けるためという。

ジュリア
ジョンの娘でそばかす面をした平凡な外見、やや小太りのイギリス人。ジョンの事務所に面会に来る結末のシーンのみ登場。矯正用歯冠をはめているためジュリーより年下と推測される。サラとすれ違っても視線を合わせず、面識はないと考えられる。

キャスト

サラ・モートン - シャーロット・ランプリング
ジュリー - リュディヴィーヌ・サニエ
ジョン - チャールズ・ダンス
フランク - ジャン=マリー・ラムール
マルセル - マルク・ファヨール
マルセルの娘 - ミレーユ・モセ(フランス語版)
主題と解釈
主題
監督は自身の公式サイトにおけるこの映画のインタビューで「次々と多くの映画を作り続けて、その想像力の源を聞かれることが多かったので、それに答えるため」、また「映画監督自身よりイギリスの女性推理作家に投影するのが良いだろうと考え」てこの映画を作ったという。

解釈
作中の現実と虚構の区別について様々な解釈が示されている。「……自分自身の態度について、あるいは誰の『現実』を見ているのか、我々は全く不明である」 あるいは「間違いなくこの映画の核心は、見ているものが信じるべきであるかどうかという疑問である」などの評がある。

ランプリングとサニエの対談においても 司会者の「見たものの信憑性がはっきりしない謎の作品ですね。現実なのか? 空想なのか? 文学上の創作物なのか? しかも結末も未解決です。

監督から何か手がかりはありましたか?」という質問に対しランプリングは「いいえ、ありませんでした。そのうえ、監督自身もどんな結末を導くのが良いか判らないと、子供のような笑顔で言っていますね……」と答え、サニエも「この映画は空想を考察しているので、観客の側にも空想の可能性があるわけです。監督は、それについてはとても寛大なのだと感じました。」と述べている。

監督も、indieWIREのインタビューに「空想と現実がどのようにつながっているのか、すごくじらしていますね。現実が空想に転じる決定的な瞬間はあるのですか?」とたずねられて「鍵を渡したくありません。もちろん自分の意見はありますが、結末は謎のままにして、観客各人が思うようにしておきたいのです。観客が自分自身の映画を作ることが出来る映画なのです。」

ジュリーの正体については、「(ジュリーが何者かという)先ほどの質問ですが、結末から来るものです。多くの可能性があると思うのです。最初から架空の人物なのか、出版社社長の実在の娘を基にしているのか、実在の人物で空想に入り込んだのか。」という質問に代表される。

サニエはこれに対して「それは皆さん次第ですね。この映画で私が気に入っているのは、ジュリーはサラの空想を映し出したに過ぎないとしてもいいし、出版社社長の娘で本当に頭がおかしくなっているとしてもいいし、あるいは全てサラの頭の中だと考えてもいい。どう考えるにしても、間違いというわけではないですから。」と答えている。

ノベライズ

ノベライズ

監督によるノベライズが、日本語訳でも出版されている。

  • フランソワ・オゾン 著、佐野晶(編訳) 訳『スイミング・プール』角川書店、2004年。

感想&解説

今回ブルーレイで初めて鑑賞したのだが、続けて二回観てしまうほど面白い作品だった。主演のシャーロット・ランプリングリュディヴィーヌ・サニエの女優二人が魅せるアンサンブルが素晴らしく、特にリュディヴィーヌ・サニエは冒頭から脱ぎまくりで、身体を張った演技を見せている。ただ本作においてシャーロットが演じるサラと、リュディヴィーヌが演じるジュリーは「対」となる存在なので、ジュリーの若さと奔放さを表現する手法として、このヌードは必要な表現だったと思う。逆にサラは序盤からずっと不機嫌なうえ、不満を蓄積させているイギリス人作家というキャラクターで、冒頭の地下鉄でファンに話かけられても「人違いです」と冷たく拒絶する様子から、「作家としての自信」も失っていることが表現されている。またサラが出版社の中で会った新人作家に対して「クソガキ」と表現するあたりにも、彼女の嫉妬と焦りが滲み出ており、序盤からキャラクターが抱えている感情が垣間見えて上手い。


またロンドンのシーンで登場する、チャールズ・ダンス演じる「ジョン」という出版社の社長が、出番は少ないのだが、本作において非常に重要なキャラクターだ。サラは最初から「私はほったらかしね」とジョンに対しての感情を吐露しており、特に「私はお金や成功なんて興味ない。求めているのは」と言いかけた途端、ジョンがそれを遮るように「心躍るプロット?」と聞き返すのだが、サラはそれに対して「わかってない」と怒るシーンがある。この場面から、明らかにサラはジョンに対して恋愛感情を持っているのに、ジョンはそれを知りながらも”お金を稼ぐ人気作家”として、サラを利用している事が表現されている。そしてその怒りを鎮めるために、ジョンはサラをフランスの別荘に誘うのだが、サラは間髪入れずに「あなたも来る?」と質問を返す。それに対してジョンは、「娘がいるんだ。週末には行けると思う」と返事するのだが、この何気ない一言が実は大きな意味を持つワードになっているのである。


それからサラは年老いた父親に留守番を頼み、一人でフランスに出かけることになる。マルセルという年老いた使用人と会い、彼女は別荘で静かな生活を始め、執筆活動も開始する。そして近くの町ではお気に入りのレストランを見つけ、彼女は段々とこの別荘の生活を満喫し始めるのだ。だがそんなある夜、突然リュディヴィーヌ・サニエ演じる若きフランス人女性のジュリーが屋敷を訪れる。彼女は「あなたがパパの新しい獲物?」と言い、サラは「娘が来るなんて聞いてなかった」と答えるのだが、これはジュリーがスーツケースを持っている事から、ロンドンにいる娘が"フランスに来るなんて聞いてなかった"という意味だろう。ジュリーが英語を話しているのも、そう思った要因かもしれない。その後、サラは怒ってジョンに電話をかけるが繋がらないという展開になる。


そして突然現れたジュリーは、自由奔放に行動を始める。食べた食器は片づけないし、葉っぱが浮いて掃除していないプールでも全裸で泳ぐ。一か所、ジュリーがロンドンにいる父親のジョンと電話しているようなシーンがある。サラが変わると電話が切れているという場面なのだが、これはそもそもジュリーとジョンは電話していなかったのだろう。かけ直してもジョンに繋がらないのはその為だ。それからもジュリーは屋敷に男を連れ込んでは、サラに自分のセックスを見せつけるような行動を取る。その後、サラはレストランの店員であるフランクと会話するようになり、彼のことが気になりだす。それから、プールサイドに横たわるジュリーを見てフランクが欲情しているという、現実感のないカットが突然挟み込まれるが、これは"サラの妄想"だろう。ジュリーの若さと身体があれば、大胆に彼を誘惑できるのにという秘めた欲望が表現されているのだと思う。ちなみにその後に出てくる、マルセルがプールサイドで寝転ぶサラを見ているシーンも同じく彼女の妄想だ。その後のカットとまったく繋がらない場面だし、老人のマルセルなら自分でも誘惑出来るというサラの自信を表現している。そして、これはもちろん終盤の伏線でもある。

 翌朝、また違う男を連れ込んでいるジュリーを見て、サラは猛然とジュリーをテーマにした作品を書き始める。そして、ジュリーの身辺をリサーチし始めるサラ。そこで彼女のバッグの中から日記と母親らしき写真を見つける。顔にアザを作って帰ってきたり、父親のことを「女癖が悪い」と評するジュリーをサラは突然食事に誘うが、それは彼女の母親のことを聞き、小説のテーマにしたいからだ。ジュリーがサラの部屋を訪れたときに、とっさに原稿を隠すシーンがあるのだが、サラなりに後ろめたい気持ちがあるのだと思う。レストランで母親のことを聞かれたジュリーは「話せば長いわ」と白を切る。その後、家に戻ったジュリーは母親もロマンス小説を書いていたが、父親のジョンにけなされ燃やされたと語る。翌朝、たまたまジュリーはサラの部屋から自分をテーマにした小説を発見してしまい、その仕返しとしてフランクを家に呼び、彼を誘惑するという行動に出る。だが彼に拒絶されたジュリーはフランクを殺してしまう。


突然失踪したフランクに対して、プールサイドの血痕を見たサラはジュリーの犯罪を疑う。そしてマルセルの家を訪ねると、背の小さなマルセルの娘からジュリーの母親が事故で死んだことを伝えられる。家に帰ると殺人のショックで錯乱したジュリーがおり、サラを「ママ」と呼ぶと彼女はそのまま気を失ってしまう。目が覚めるまで看病していたサラは「本当のことを言って」と諭し、ジュリーはフランクを殺した理由を「あなたの本の為」だと告白する。そのまま、フランクの死体を埋めるサラとジュリー。そしてジュリーは違う街に向かうことをサラに告げ、二人は晴れやかに別れる。ジュリーの部屋にはサラ宛の手紙と原稿が残されており、そこにはジュリーの母親が書いた小説のコピーを、サラに託す旨が書かれていた。ロンドンに戻ったサラはそれをジョンに見せるが、ジョンは「君らしくない作品だ。出版しない方がいい」と一蹴するが、サラは「自分の最高傑作だ」と、すでに他の出版社で印刷し終わった本を取り出す。そして、そのままジョンとの関係に別れを告げて部屋を出る。そこでサラは若い女性とすれ違うが、彼女はジョンを父と呼ぶ「ジュリア」という女性で、サラの知る娘のジュリーとは別人だった。そして別荘のプールサイドから、サラに向かって手を振る「ジュリア」と「ジュリー」のイメージが交互に映し出されて、この映画は終わる。


このエンディングを観て、最初は「ジュリーが幻想だったという映画か」と一瞬思ったのだが、それだと映画全体の整合性が取れないことに気付く。そもそも、ジュリーは夜な夜な男たちを連れ込んで翌朝も会話しているシーンが二回もあるし、彼らはマルセルとも会話している。さらにマルセルがジュリーを見て「戻ったのか?」と聞くシーンがある為、彼らが過去に面識があることや、マルセルの娘もジュリーを知っていた事などから、ジュリーがもし幻想であるなら、サラがフランスにいたこと自体が全て幻想くらいでないと整合性が取れない。とはいえ、ラストにおけるジュリーの母親の小説は実在し出版されたとなると、この映画の構造自体が壊れてしまう。ちなみにブルーレイで収録されている「未公開シーン」にも、ロンドンにいるジョンがサラと電話で会話しており、「娘が君に迷惑をかけていないかな?」と聞くシーンがある。さらにサラが「小説のテーマを変えた」と伝えると、ジョンが「娘に関するテーマか?」と聞き返す場面が収録されているが、これは明らかにフランスに娘がいることをジョンが認めており、ジュリーが幻想ではない事を裏付けている。本編ではカットされたとはいえ、脚本にあったシーンのため撮影されたのだろうからだ。ただこのシーンがあると、あまりに展開がストレートになりすぎて、この映画のミステリアスな後味がなくなってしまうので削除したのだろう。


そういう意味では、ジュリーはジョンと事故死したフランス人の母親の間に産まれた子供であり、親のいない寂しさのあまり、セックスに溺れる自暴自棄の生活をしていたという、シンプルな構造のストーリーになる。そして最初こそ対立していた2人だが、ジュリーが「フランクを殺す」という大きな犯罪を犯したため錯乱し、サラを「ママ」と呼んだことでサラとジュリーの間に親子関係が芽生え、ついにはジュリーの「母親の本」を使って共通の敵であるジョンに一矢報いたというストーリーなのだろう。もう一点、「ジュリア=ジュリー」という解釈も考えられるが、ジョンの会社ですれ違った時にジュリアはサラにまったく気付いていない。一緒に死体を埋めた間柄で、流石にあのリアクションはないだろう。さらに序盤シーンにおける、サラの「あなたも(フランスに)来る?」という質問と、ジョンの「娘がいるんだ。週末には行けると思う」という返答にも矛盾が出る。ロンドンでジョンは娘と一緒に暮らしているから、すぐには行けないという意味だろうからだ。


そうなると、ラストの「ジュリア」と「ジュリー」が交互に映し出されるシーンだけが、意味合いとして紛らわしいのだが、個人的にあれはサラの母性の現れという解釈をした。ジョンの娘である二人を均等に愛する母親という理想像を、サラが妄想しているのだ。だからこそのあの笑顔なのだと思う。壁にかかった十字架を外したはずが戻されていたり、これ見よがしに画面の目立つところに「卵型のオブジェ」が映ったりと、細かい謎の多い映画ではあるが、それこそフランソワ・オゾン監督が「イースターエッグ」のように作品の中に謎を隠しているという意味なのだろう。考察しながらの鑑賞が楽しい映画だった。8人の女たち」以外、まだまだフランソワ・オゾン監督の作品は未見のものが多いため、これから少しずつでも鑑賞していこうと思う。改めて「スイミング・プール」は素晴らしい作品であった。


人生の目的は何か

2023年05月14日 10時20分57秒 | その気になる言葉

▼親孝行といっても、親に何かをすることだけではない。

自分たちが生きていく活躍の場を見いだしていくのが、本当の親孝行なんだ。

▼親は子の苦手な所より頑張りに目を向けて褒めて励ますことだ。

そのために、小さな進歩を逃さず見守るのだ。

▼人の見ていないところでも、真面目に生き抜いていく人には、必ず目に見えない結果(社会的信頼など)が表れるものだ。

▼人生の目的は何か。

「勝利者」になることと、「幸福」になることだ。

▼幸福とはなにか。

その中身は「充実」。

▼「充実」とは何か。

「苦難」と戦うことだ。

苦難がなければ充実はない。

充実がなければ幸福はない。

何の苦労もない幸福など、どこにもない。

▼皆、この<戦う>という途中の道を忘れて、幸福という結果だけを求めている。

苦難を乗り越えていくことが、充実の幸福なのだ。

 


安易化・短絡化する人間

2023年05月14日 09時26分57秒 | 沼田利根の言いたい放題

汗水たらして働く、それは労働者のイメージである。

労働者とは、自己の労働力を提供し、その対価としての賃金や給料によって生活する者をいう。

ところが、他人の不幸の上に自分の利益を得ようとする人間が昨今、増加傾向にある。

典型的なのが、特殊詐欺であり、それが凶悪する一方なのだ。

社会的に孤立化する人々の増大は深刻な問題である。

人間を含むあらゆるものは、単独では存在せず、本来なら、深い次元で結び合い、支え合うべきなのだ。

人間の連帯の構築が不可欠だ。

人のため、社会のために尽くす生き方の中に、人間の成長も、自他共の幸福の実現があるのだ。

今こそ、<人間教育>が学校で成されるべきだ。

そして、個人の生き方を、社会というシステムにつなげていく制度や仕組みが必要である。

それは地域における人間の<励まし>の共同体である。

 

 


博物館・美術館が多い茨城県

2023年05月14日 08時39分45秒 | 社会・文化・政治・経済
 
常磐神社

 

茨城県自然博物館は、愛宕駅から岩井に向かうバス路線の中ほど。自然博物館前というバス停が最寄で、... 

水戸芸術館

水戸芸術館
 
水戸市市制施行100周年を記念し開設されました。音楽、演劇、美術の各部門に専用のホールを持ち、全てオリジナルの企画により運営されています。また、高さ100mのタワーもあり見学をすることができます。
水戸駅からバスで10分
牛久シャトー
 
牛久シャトー
牛久駅の東方に立つレンガ造りの建物。1903(明治36)年神谷傳兵衛氏によって建てられた。

 

 

つくばエキスポセンターは、世界最大級のプラネタリウムや科学・技術に関する体験型の展示物を備えている。

 
茨城県立歴史館
 
民俗考古(古代中世)近世の4部門で構成し,茨城県全般の資料や作品が展示してあります。
アクセス
水戸駅からバスで20分 水戸駅北口4番のりばから偕楽園行きに乗車し、緑町歴史館前下車又は、歴史館偕楽園入口経由に乗車い歴史館偕楽園入口下車(片道240円)
笠間日動美術館
予科練平和記念館
 
土浦市立博物館
 
亀城公園近くにあります。

 

土浦駅から徒歩で15分

徳川光圀(義公)斉昭(烈公)の遺品を中心に水戸、徳川300年の文化史実を語る多数の貴重な品を陳列している記念館です。

アクセス
水戸駅からバスで15分
茨城県近代美術館
 
 

【現在メンテナンスにつき休館中】 岡倉天心ら五浦ゆかりの作家たちの業績を紹介。国内外の名作を紹介する企画展、近代日本画を中心とする所蔵品展の開催。

アクセス
1) 大津港駅から車で10分
2) 北茨城ICから車で20分
日立シビックセンター科学館
JR常磐線日立駅から徒歩3分/常磐自動車道日立中央ICから車で8分

東日本初の陶芸専門の県立美術館として平成12年4月に開設しました。

地質標本館

国内唯一の地学専門の総合博物館。岩石の標本のほか、地球のメカニズムを学べる模型などが展示。

 

 
予科練記念館(雄翔館)
かつての土浦海軍航空隊(予科練)のあったところで、第2次大戦中は「七ツボタンは桜に錨」で知られた。記念館は公園(雄翔園)がつくられている。
土浦駅からバスで20分

 

 

 

アクセス
JR常磐線 友部駅下車 バス10分
茨城県つくば市北郷1番

自然・考古・歴史・民俗・美術の5部門の総合博物館として水戸に係る資料を展示。

アクセス
水戸駅からバスで10分

 

 

巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時

2023年05月14日 08時28分02秒 | 社会・文化・政治・経済

話題 2021/07/12

みんなの感想

街中や公園の「座りにくいベンチ」はどう広がっていったのか?

青山にある「オブジェ」。ベンチとして腰掛けても、カーブした表面は長居しづらい出典: 五十嵐太郎さん撮影

水野 梓

アートホームレス公園排除ベンチ・排除アート

都市の駅のスペースにあるデコボコした突起のようなオブジェ、公園や路上では仕切りのあるベンチが当たり前になってきています。ホームレスが寝そべったり滞在したりしないよう〝排除〟する「排除アート」「排除ベンチ」とも言われます。建築史家の五十嵐太郎さんは、「公共空間に誰かが滞在する可能性をつぶすもの。そんな風に他者を排除していった都市は、誰にもやさしくない都市なのではないか」と指摘します。

◆未来空想新聞2040 5月5日発行!こどもの日は、未来を考える日。◆

排除アートが広まり始めたのは…

仙台にあるベンチ。間仕切りも石造りとなっています

オープン1年を迎える複合商業施設のミヤシタパークには、座面がメッシュ状になっていたり、腰かける部分が棒状のポールになったような座りづらいベンチがあります。

好意的に「アートがいっぱい」とメディアで紹介されることもありましたが、五十嵐さんは「アートの名のもと、排除の意図がカモフラージュされている」と指摘します。

駅の空間に座り込めないような突起があったり、街中のベンチに仕切りがあったり……という風景が都市部で広がるなか、それを「意地悪だ」と〝排除〟の視点で指摘するSNSの投稿も話題になっています。排除アート・ベンチの広がりについて、五十嵐さんに話を聞きました。


五十嵐太郎:建築史家、建築批評家。博士(工学)。1967年パリ生まれ。1992年東京大学大学院修士課程修了。中部大学工学部講師、助教授を経て、2005年に東北大学大学院工学研究科助教授、2009年より教授。2008年の第11回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督
 

――都内の公園や路上のベンチは、「仕切り」があるのが当たり前になってきています。こういった排除ベンチや、誰かがそこに滞在できないよう置かれた「排除アート」などは、いつごろから登場し始めたのでしょうか。

私が2004年に『過防備都市』(中公新書ラクレ)を出した頃は、すでに「排除アート」というべき物体が街に現れ始めていました。

――五十嵐さんは、他者への不寛容とセキュリティー意識が増したことから、監視カメラが増え、それと並行して排除アートやベンチが増えたと指摘されています。

2001年に池田小学校で起きた無差別殺傷事件で、街中には監視カメラがどんどん増えていきました。
当時はマスメディアも「監視社会」と問題視していましたが、物理的に監視カメラの存在を感じる機会が少ないからか、慣れてしまったのか、今ではすっかり日常的なものとなりました。

後づけで「間仕切り」をつけたと考えられるベンチ。2003年に五十嵐さんが撮ったという出典: 五十嵐太郎さん撮影

排除ベンチがいつごろから増えていったのか明確なデータはありません。1990年代終わりぐらいから出てきて、気がつくとたくさん置いてあったという印象です。

SNS上の反応などをみていても、物理的な影響が実際に見える「排除ベンチ」の方は問題として取り上げられやすいのだと思います。

何かよく分からないものは「アート」

――なぜ「排除アート」と呼ばれるようになったのでしょうか。

駅前のスペースにある突起や、細かな段差などが「排除アート」とされますが、写真家の都築響一氏が「ギザギザハートの現代美術」と呼んでいました。私が知る中で一番古い用例です。

私は当時、「アート」という呼び方は適切ではないと考え、「排除オブジェ」と呼んでいました。アートというよりデザインに近いと考えています。実際に、海外では「Hostile architecture(敵対的な建築)」や「Defensive urban design(防御的なアーバン・デザイン)」などと呼んでいますね。

日本人のアートへの揶揄なのか、アートのイメージに「役に立たない」「何に使うのかよく分からない」といった刷り込みがあって「よく分からないものだからアートと呼んでおこう」という気持ちからか、そう呼ばれるようになったのかもしれません。

丸の内にある間仕切りのついたベンチ出典: 五十嵐太郎さん撮影

――アートとデザインはどのように違うのでしょうか。

作家の表現であるアートには、作家名が掲載されます。どんなに小さいものでも大きいものでも、タイトルや名前があるものです。

それに比べてデザインは匿名性が高く、誰がデザインしたのかをいちいち記名することは少ないでしょう。

さらに、デザインには目的があります。
発注者が「こういう風に作って下さい」と依頼し、引き受けたデザイナーが「どう解決するか?実現するか?」と意図をもってつくります。

渋谷にある棒状の「ベンチ」出典: 五十嵐太郎さん撮影

そのため、デザインには機能があります。たとえば間仕切りのあるベンチは、「寝そべることができない機能を持ったベンチ」となります。

アートは単一でひとつのものを作りますが、デザインはプロダクト(製品)なので大量生産を前提としています。
ベンチメーカーのホームページには、街中でよく見かける間仕切りのあるタイプが載っています。

長居したくないベンチ

――しかし、1年前にオープンした渋谷・ミヤシタパークのベンチなど、都市部のオブジェは「アート」としてポジティブにも紹介されました。

一見、アートのような「一品物」にみえるベンチですね。寝そべることはもちろん、長居できない、したくないようにデザインされ、「アート」という名のもと、排除の意図がカモフラージュされています。

ミヤシタパークの「ベンチ」出典: 五十嵐太郎さん撮影

実は建築も、基本的にはデザインですが、その場所にあわせて作る一品物です。

有名な建築であれば、ビルのプレートに建築家の名前が書いてあることもありますが、基本的には匿名です。アートのようには作家名とセットでは受け止められません。

改めて「排除アート」は建築に近いと思います。海外で「敵対的建築」というのも現状に近いと思いますね。

誰にもやさしくない都市

――五十嵐さんは、この排除アートやベンチの広がりをどうとらえていますか。

ホームレスの人たちが寝転がって、居着かないようにしているのでしょう。しかし、特定の人を排除するベンチは、みんなにとってやさしくないと考えています。

仕切りがあるベンチだけでなく、座面が極端に短かったり、棒状のポールだけだったり……単純に座りづらいですよね。

仙台にあるベンチ。間仕切りも石造りとなっています出典: 五十嵐太郎さん撮影

そして非常時には私たちにも牙をむいてきます。気分が悪くなったときも横にはなれない。災害時にも困るでしょう。

他者を排除していった都市は、誰にもやさしくない都市になっていきます。

定義されない場所を減らしたい

――「異質なものを排除したい」という気持ちから広がっているのでしょうか。

「そこに誰かが滞在するかもしれない」という可能性をあらかじめつぶしておくのが、排除アートやベンチなのでしょう。

その施設の管理者なのか、自治体なのか……街や公園に「定義されない場所を減らしたい」という気持ちを感じます。

――近所の公園や路上のベンチを見てみると、仕切りのないものを見つける方が難しかったです。

ベンチだけでなく、公園や広場はすでに「○○してはならない」という禁止の貼り紙だらけです。騒ぐ子どもの声がうるさいといって迷惑施設扱いにもなっています。

公園と商業施設が一体化した「ミヤシタパーク」

もともと広場・公園は誰のものなのか、何のためにあるのでしょうか。民主主義の概念などともつながりますが、海外から輸入したため、誰も深く思考していないのはないでしょうか。

ヨーロッパでは古代からずっと広場があり、誰がふらふらしていてもいい。政治や集会をする「公共の場」として長い歴史が培われ、現代にも受け継がれています。

一方で日本は「道」がその役割も果たし、広場の文化がありません。だから「○○してはいけない」といった禁止事項を増やす方に流れてしまいます。


【関連記事】「ホームレス」排除が招く〝間接的殺人〟やさしくなくなった宮下公園

「排除していい対象」に変容

――本来、公園といった公共空間には誰がいてもいいはずなのに、間仕切りや排除アートによって特定の層に「NO」と言っているということですね。

私たちが最後の世代なのかもしれませんが、小さな頃は街や駅に傷痍軍人がいました。戦争で身体に大きな欠損を抱えて暮らせなくなったという戦争の犠牲者でもありました。

豊かになっていく日本の後ろめたさもあったのでしょう。駅前や公園に彼らがいても、それは許容されていました。

しかし今では、ホームレスが「自己責任論」とセットになって、排除してもいい対象になってしまっています。

「誰が」排除したいのか?

――インバウンドで訪日客が増えたことや東京五輪の開催で、排除が進んだ傾向はあったのでしょうか?

しかし今では、インバウンド客はほぼいませんし、ふつうに五輪を開くこともできません。

外国人の目からホームレスを隠す必要もない今、「誰」がホームレスを排除したいのか、実は分かっていないところがあるのではないでしょうか。

たとえば夜の公園や路上のベンチで誰かが寝ていることが、そんなに迷惑でしょうか。そこまでみんなが不寛容で、異質な存在の排除を求めているのでしょうか。

商業施設の屋上。芝生の近くに置かれたベンチは座面がメッシュ状になっています出典: PIXTA

ある意味では思考停止なのかもしれません。クライアントが「あとで文句を言われるぐらいなら仕切りを付けといた方がいい」など、近隣住民らのクレームにおびえ、先回りして対応している可能性もあります。

――確かに、SNS上をみていても、排除ベンチへの批判の声の方が大きいように感じます。

誰がそこまでの「排除」を求めているのかが分からないまま、「排除が標準になっている」状態があります。

2000年のはじめには、後から間仕切りをつけたベンチが多く見られましたが、現在はデフォルトでつけられているものが増えています。

深く思考しないと、「これまでと同じベンチでいい」という判断になることもあるでしょう。

隠された「排除」の意図に気づくと…

――東京・京橋の路上のベンチに仕切りがつけられていたことは、SNSで指摘があって話題になりました。

一度「隠された排除の意図」に気づくと、見え方が変わります。

学生に「排除」にあたると考えられるものを撮ってきてもらうレポートを出すと、いっぱい集まってきたんです。

一度こういうものが「意図」を持っている可能性があると知っただけで、専門的な教育を受けなくても、見え方が変わっていきます。


「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」

ホームレス排除後の「植物保護」

――排除に気づきにくいケースはあったのでしょうか。

たとえば街中の花壇や植物も、見え方によっては「美化運動」です。金沢駅前のベンチには、真ん中に花壇が入っています。

「景観をよくしたい」と依頼されて街中のスペースに制作したパブリック・アートが、実は誰かを居させないためや、放置自転車が置かれないためだった…というケースもあるかもしれません。作家が加担しないためには、依頼する側の隠れた意図に気づく必要があります。

もっと露骨なケースは、2005年の愛知万博のときです。開催前、名古屋・白川公園のホームレスが寝泊まりしているエリアで、テントなどが一掃されました。

そのエリアに植物をいっぱい植えて「保護のため入らないで下さい」という看板を立てたんです。当時を知っている人にはその経緯が分かりますが、後から来た人には「植物保護」の意図しか分かりません。

金沢駅前のベンチ。真ん中に「花壇」がそなえられている出典: 五十嵐太郎さん撮影

――海外でも同様のことは起きているのでしょうか。

住んでいる人の階級と場所がセットになっているような、アメリカ・ロサンゼルスでは、スプリンクラーをわざと定期的に流して、長時間そこに浮浪者をいさせないようにしている公園があります。

水が飛んできたらさらに居づらいですね。排除ベンチよりさらに攻撃的な感じがします。警備員が定期的に来て、「ここに居座るんじゃない」と追い払うのもスプリンクラーと近いでしょう。

「短時間利用を促すデザインでよい」という意見も

――映画監督の早川由美子さんのツイッターには、大学教授が「間仕切り」があることを大学生に見せたところ、「ホームレスは怖いから、いなくなってくれると、多くの人が安心して利用できる」とか「多くの人が公平に利用できるよう、短時間利用を促すデザインにするのは、なかなか工夫されていて良い」といった反応があったそうです。

先日、某大学の先生から、私のブログに掲載されている「ホームレス排除ベンチ」の写真を、授業で紹介させてほしいという連絡をいただき快諾しました。その後、授業で紹介したという連絡をいただいたのですが(続) pic.twitter.com/4wYGI5foP7

— 早川由美子Yumiko Hayakawa (@brianandco) June 2, 2021

ここまで「排除」が当たり前になってしまい、「自己責任論」がとなえられれば、「あった方がいい」と考える人も出てくるのでしょう。

世界でSDGsが叫ばれたり、バリアフリーがうたわれているにも関わらず、実際には包摂的ではない社会の進行が起きているのではないでしょうか。

間仕切りや花壇、ポール状…座りづらい、長居させない「排除ベンチ」

 


誰のための排除アート?: 不寛容と自己責任論

2023年05月14日 08時24分24秒 | 社会・文化・政治・経済
 
寝そべれないベンチ、禁則事項だらけの公園…。

建築物が本来の目的外に使用されないようにする、「排除アート」。

これらは公共空間が特定層に対して臨む、厳しい態度の表れである。
なぜ排除アートは設置されたのか。
果たしてアートと呼べるのか。
その歴史・背景をひもとき、日本の公共空間づくりの問題点を浮き彫りにする。


五十嵐/太郎
1967年フランス・パリ生まれ。東京大学工学系大学院建築学専攻修士課程修了。博士(工学)。

専攻は建築史。現在、東北大学大学院工学研究科教授。2008年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館コミッショナーを務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 

 

排除アート問題入門

排除アートとは、建築物が本来の目的以外に使用されないよう設置される立体物である。代表的なものは、地下通路などからホームレスを排除するために路面に設置される突起物様の意地悪オブジェである。
排除ベンチは、ホームレスが寝そべることを防ぐための仕切りのついた(または後から仕切りの付けられた)ベンチである。普通の仕切りベンチのほかに、円形(円筒形)のベンチや仕切りがアート的な外観のベンチもあるが、ホームレスの寝そべり排除の目的は変わらない。
排除アートは、何も考えなければ、歩行者の目を楽しませるアートにも見え、ときには愛らしい相貌をもつが、その設置意図は悪意に満ちている。
排除アートは1990年代後半に始まっており、都当局は当初はホームレス排除の目的を認めていたが、その後「景観をよくするため」と変更した。「アート」の名を使った権力行使である。
排除ベンチのほうは、排除アートのような言い訳は難しく、2014年の大阪市の回答でも「ベンチを寝床がわりにするホームレスの人が増えた1998年ごろから、近隣住民の要望でつけるようにな」ったとなっている。
60頁ほどのブックレットだが、写真が57枚も掲載されていて、たくさんの排除アート、排除ベンチを見ることができ、この問題についての理解が深まる。文章も簡潔で分かりやすい。
本書の結論は「ホームレスが使いにくいベンチは、実は一般人にとっても座りにくい」「排除アートは、われわれが使えるはずだった場所を奪う」「他者を排除していくと、誰にもやさしくない都市になる」かと思う。
 

街づくり・公共の場を見る目が変わる1冊です

近年、公園やバス停、街の広場、駅 などなど、公共の場所が整備され、けれど、そこを使う不便さを感じていた。ベンチや椅子が使いにくい。特に、高齢者だったり、小柄だったりすると、きちんと座れなかったりする。また、バス停のベンチが、屋根の下でなく濡れる場所に置かれている。円柱を横にしたベンチ、区切りのあるベンチ、幅が細いベンチ・・・。あたかも、オシャレにデザインしましたという風に、実用性のないベンチが置かれている。長く居座れないように、横になれないように意図して造り直されたベンチだ。また、広場や空間には、意味のわからない造形物(オブジェ)が、あたかもアートを置いてオシャレにしていますという風に置かれている。これも、そこに居座れないように、横になれないように。さらに、公園でも、芝生の中で遊べない。ペットと戯れることもできない。何の為の公園か。街中に、ゆっくり寛いだり休んだりする場所がなくなっている。これは、「普通」に暮らしている私が感じていることだ。
本書は、これらは排除アートであり、特定の人々(ホームレスの人々など)がそこにいられないように意図して造られたものであるという。確かにそうだ。目から鱗だった。そう言えば、最近、街や公園が整備され、それと共にホームレスの人々がいなくなった。
そして思った。ホームレスの人々など、行政が「排除されるべき人々」と思っている人たちが不便で居りにくい場所や使いにくい物は、結局、地域の「普通」の住人にとっても不便で使いにくい物だということだ。
そして、それらは、真の意味のアートではなく、デザイナーの名を隠した単なる人間性排除の造形物にほかならない。
一見表明的には清潔で整ってアーチスティックもどきに見える世界より、清濁併せもった街並みのほうが好きだ。(もちろん、公衆衛生上の清潔は大切だが、そういう意味ではない。) 少なくとも、公共の場は、多様な人々が多様な目的で使う場所だ。寛容でのびのびとした場所であって欲しい。
今まで気が付かなかった大事なことを、そして重大な間違いに気付かせてくれる1冊である。
本は薄くて読みやすいが、内容は分厚く重い。
5.0 out of 5 stars SDGsに表れる数字とは何なのだろうか、われわれは幸福なのだろうか?

2020年11月16日。ホームレスの60代女性が、渋谷区のバス停のベンチで頭を殴られて死亡しました。
所持金はわずか8円。

女性はスーパーの試食販売員などで食いつないでいましたが、コロナ禍により対面の仕事が激減した影響を受けます。
コロナ禍における貧困や、女性ホームレスの存在が改めて浮き彫りになったことに加えて
メディアが取り上げたのは、事件が発生したバス停のベンチが「仕切り付き」だったことです。

これは路上生活者が寝そべれないように、排除するためにデザインされたベンチです。
女性はここで座ったまま、夜を過ごしていたそうです。
この意地悪なベンチをメディアは「排除アート」と名付けました。

日本では、不思議な形をしたものをとりあえず「アート」と呼ぶ風潮があります。
例えば「アートってよくわからない」という言葉もそうです。
環境の改善をうたい文句にして、「排除アート」は増加しました。

・都市の余白を埋めるかのように、設置される謎のオブジェ
・一見おしゃれだが不定形のフォルムをもった座りずらいベンチ
・真ん中にかわいい動物のキャラクターが据えつけられたベンチ
・噴水で洗濯する路上生活者のために水を止め、フェンスで囲い、その表面を飾るバラの造花
・ホームレスを強制的に退去した場所に草花を植えて、設置される「保護のため入らないで下さい」の看板

排除されるのは、ホームレスだけではありません。
ホームレスが使いにくいベンチは、誰にとっても座りにくいです。

高齢者や妊婦、体の調子が悪くなった人が、自由に座ったり横になったりできる場所が、いくつ見つけられるでしょうか。

2022年3月18日、10回目となる「世界幸福度報告書」が刊行されました。
日本は主要7カ国(G7)の中で最下位の54位。毎年、日本の順位は低迷しています。
順位が低い理由に「他者への寛容さ(generosity)」が極めて低いことにあります。

日本の少子高齢化に伴って、公共空間から子供も排除されています。

公園の子供の声がうるさいという苦情を受けて、ブランコやジャングルジムなどの遊具が撤去されています。
2022年1月、京都で子供のためにハンモックやブランコなどの自作遊具を持ち込んだ男性が、都市公園法違反の疑いで逮捕されました。

公園ではストレッチやぶら下がりなど、高齢者向けの健康遊具が代わりに増えているといいます。
「児童公園」は「街区公園」に変更され、ボール遊び禁止や大声を出さないなどの注意事項が増えています。

「寛容」のない将来の公園は「排除アート」で埋め尽くされて、子ども老人も長居できないのかもしれません。

SDGsの宣言文にはこうあります。

 「我々は貧困を終わらせることに成功する最初の世代になり得る」

「排除アート」は貧困を排除し、目を背けることには貢献しています。

本書を読んだ後、あらためて外の世界に向き合うと、形になった「不寛容」が目につくかもしれません。
身近な問題から、人々の幸福につながる社会価値を生むことはできないでしょうか。

生活空間からの余白の排除

仕切りを設けることによって寝そべることのできないベンチなど、ホームレスの排除のための「排除アート」についての論考であるが、最終的には、生活空間からの余白の排除であるとしている。
田舎に住んでいるとホームレスの排除ということはだれも考えないけれど、道路のエプロンへの車止めポールの設置など、せっかくの道路の余白が排除されているというのは実感として感じる。クルマを運転してしていてもちょっと駐車させようとすると駐車スペースはありそうでない。本書では触れられていない廃棄物の不法投棄への対抗と考えているけれど、生活空間からの余白の排除の一形態だなと思う。
ダイバシティ(多様性)やインクルーシブ(包摂的)という観点からも、生活空間の余白の確保というのは重要である。それを積極的に排除しようとしているという現実に気づかせてくれる。

 

見える景色が変わる

なんてことない日常の風景であるベンチに目がとまるようになった。
「家のまわりからホームレスがいなくなって良かった」は解決ではないと気づくことが重要。

窮屈な街の理由がわかった

なぜ樹の周りに丸いベンチ(といってよいのか?)があるのかと気になったとき、「排除アート」という言葉を知った。とくに都市部は座る場所がなく、お金を払える健常者しか歓迎されていないという「不寛容」な事実をひしひしと感じながら読んだ。

 

排除アートは万人に対する(潜在的な)攻撃だ。

真ん中に仕切りがあって横たわれないベンチ、歩道の端にある、上が斜めに切られた円柱状のコンクリートの連なりなど、ホームレスの人を排除するように(設置者はそれを公然とは言わないが)作られているデザインを批判的に論じる。著者は、こういうものはアートではないと考えているようだが(海外ではHostile architectureとかDefensive urban designとか言うらしい)、便宜的に「排除アート」と呼ぶ。
 著者は、仕切りのあるベンチがさらにすすんで(?)「何も置かないという選択肢」になったとき「高齢者や妊婦、体の調子が悪い人は、なぜ……ベンチがないのだろうと気づくはず」で、そこから「これはホームレスだけの問題ではない」「実はどんな健常者であろうとも、潜在的に排除される可能性にさらされる(p.58)」とする。
 つまり、排除アートは万人に対する(潜在的な)攻撃だということか。私は腰を悪くして、本当に数十メートルごとに座りたいと思う時期があったから、この指摘は胸に落ちる。
 著者は「いつもと視点を変えて、周辺の環境を観察して欲しい。排除される側の想像力を共有したとき、日常の風景は大きく違って見えるはずだ。(p.8)」と述べる。まずは通勤路などの排除アートを観察することにしようか。
 最後の方に紹介される「調教都市展」(pp.62-63)―例えば仕切りのあるベンチに、緊縛されたアーティストがあえて体を横たえている(痛そうである)―は、日常の風景を異化し、強烈だ。こういうものをこそアートと呼ぶのだろう。
 もう少し文章が整序されていると読みやすいのになと思った。