5月13日午前1時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。
観たのは2度目であるが、作中の殺人事件については、記憶が曖昧であった。
『スイミング・プール』(Swimming Pool)は、2003年にフランソワ・オゾンが監督した映画。
ストーリー
中年の非社交的なイギリスの女性推理作家「サラ」は、漠然とした不満を、出版社の社長「ジョン」に訴える。
評判高い「ドーウェル警部シリーズ」はマンネリで、テリー・ロングら新人作家の台頭も嬉しくない。ジョンは、自分が所有するフランスにあるプール付き別荘で、気分を変えた新作の執筆を勧める。サラは共に暮らす老父をロンドンへ残し、ジョンが後から来るのを期待しつつ、南フランス山中リュベロンにある別荘へ管理人「マルセル」の案内で到着する。プールの覆いをめくると、枯れ葉が浮いている。
静寂の中、持ち込んで来た愛用のラップトップパーソナルコンピュータで執筆を始めたある夜、しばらく仕事を休むと言いながら、ジョンの娘と名乗る「ジュリー」がやって来る。ジュリーは清掃していない枯葉浮くプールを全裸で泳ぎ、静寂を乱されたサラと衝突する。
サラが昼食に通うカフェのウェイター、「フランク」は隣村から来ているという。
サラは昼食後、別荘へ戻り自室で午睡する。ジュリーは、いつものビキニではなく白いワンピーススタイルの水着で泳ぎ、プールサイドでまどろむ。横に立つフランクはジュリーを見下ろしながら、互いに自分の秘所を自慰する。だが、これはサラの妄想だった。
ジュリーの振舞いに関心を持ち始めたサラは、執筆中の作品に並行して創作を始め、それを収めPCのデスクトップに置いた仮題フォルダー名称を「ジュリー」に変更する。プールサイドを掃除中のマルセルに連れ込んだ男を紹介するジュリーを眺め、ジュリーの日記を盗み読み、プールサイドに落ちていたジュリーの下着を自室へ拾い込んだりしながら、サラは執筆を進める。
サラが誘った食事の席で、ジュリーは男性遍歴と生育過程を語る。
母は、フランス人で今はニースに居り、私的な恋愛小説を書いたがジョンにけなされ燃やした、ジュリーの母とジョンは夏だけの関係で結婚せず別れた、などと告げる。
ジュリーはサラの作業机引き出しを漁り、自身が題材らしき作品原稿のプリントアウトを見つけ、食い入るように読む。
次にジュリーが連れてきた男はフランク。3人で踊るが、ジュリーはサラに興味がありそうな彼を引き留め、真夜中のプールで全裸で遊ぶ。サラはプールに石を投げ込んで牽制し、寝てしまう。
翌日サラは、目覚めのコーヒーを啜りながらプールを眺め、異変を察知する。庭へ出るとプールは覆われて怪しげな膨らみが見える。
慌てて巻き取ると、ジュリーが使うクッションだった。安心して昼食へ出掛けた行きつけのカフェでは、フランクが休んでおり家を訪ねるが不在。マルセルの家では、彼の配偶者に見える小さな女性が自分は彼の娘だと告げ、ジュリーの母は事故で死んだと言いながら扉を閉じる。
ジュリーは錯乱し、自分の母と思い込みサラに泣きすがるが、落ち着いた後サラに問われて彼女の作品のためにフランクを殺害した、と告げる。
死体を庭に埋め、衣類は焼いて後始末を終えるが、ジュリーは、サラの作品「ジュリー」も証拠になるから焼いて欲しいと頼む。読んではいないが、想像できるから、と。一夜明け翌日、サラは平静を装うため芝刈りをマルセルに依頼するが、新しい掘り返しの痕跡に不審を抱かれ、初老のマルセルを誘惑して口封じする。
ジュリーは、サントロペの知人のレストランで働くと告げて別荘を出る。燃やされたはずの母の小説コピーが、サラ宛に残されていた。
ロンドンの出版社で新作原稿に目を通したジョンは、感覚的だから出版しない方が君にも読者のためにも良いと、告げる。
思っていた通りだとサラは笑い、製本された新作を一冊取り出す。表紙は金髪女性が白いワンピース水着で泳ぐ写真、題名は「スイミング・プール」である。
「私の最高傑作よ。サインしたから娘さんにあげて」、の言葉にジョンは黙り込む。
「ドーウェル警部シリーズの新作で最高の扱いをするとテリー・ロングの母に伝えて欲しい」と言い残しながら、サラはジョンのデスクを離れる。オフィスから去り際、矯正用歯冠をはめた地味な娘を見かけ、受付嬢の会話を漏れ聴くとジョンの娘で名前は「ジュリア」らしい。
場面転換してリュベロンの別荘でバルコニーから手を振るサラ、水から上がりプールサイドから歯冠をはめたジュリアが振り返す、手を振るサラ、プールサイドからジュリー振り返す、手を振るサラ……。
人物
サラ・モートン
イギリス人でフランス語も話す。推理小説作家で人気作「ドーウェル警部」シリーズの著者である。
経済的には恵まれている。老年期を前にして、職業的にもスランプで、「君はプロットに困っていないじゃないか」とは言われるが、「殺人とか、捜査とか、もううんざり」「(テリー・ロング、またはその他の)新人の相手ばかりして、私はほったらかし」と不満を口にする。
カーキ色のコートなど服装は地味。アルコール依存の傾向があり、ロンドンで朝からバーでウイスキーをあおり、リュベロンの別荘でも酒を飲みながらテレビを見てうたた寝をする。
老父と二人暮らし。非社交的で静謐を好み、ロンドン地下鉄車内で向いの席に座ったシリーズ読者に話しかけられ「人違いだ」と席を立ったり、別荘到着時に家に電話したときには老父から「誰かに会ったか」と聞かれ「いいえ、必要ないわ」と断っている。
ジョンとは売れっ子作家と版元社長の関係だが、以前に男女の関係にあったことを示唆させる。
食には保守的で、南仏でもノンカロリーヨーグルトにダイエットコークといった大量生産品にトマトの食事をとり、地元で加工された食品を購入していない。村のカフェでは食前酒(南仏に種々産する)やパナシェを勧められても(イギリスでは一般的だが当地ではコーヒーより一般的ではない)紅茶を注文する。
人物造形にあたって、ランプリングは実在の女性推理作家、ルース・レンデル、PD Jamesやパトリシア・ハイスミスを参考にしている。1970年代で時間が止まったようで、男性的、レズビアン的、夢想に溺れやすい傾向も人物造形に反映された。
推理作家の設定そのものはランプリングの経歴と重なる所は少ないが、若い頃には美貌で鳴らしたものの不振をかこち精神的にも鬱屈した時がある[5]ところなど、背景にある情動は重なるところが多いとする評がある。
また、共演のサニエは「最初は脅されているかと思った」と撮影終了後に打ち明けており、この記事の筆者も個人的印象として「見かけと自制の気配がランプリングをわずかに威圧的に感じさせている」と記している。
また、"Sarah"は30年以上にわたって死因が自殺であることが伏せられていたランプリングの姉の名前である。
ジュリー
フランス人で英語も話す。ジュリー本人の弁によればジョンの娘で母はフランス人。定職には就いていない。運転免許を持ち、プジョーを運転している。
「交通事故のため」という手術痕が上腹部正中にある。演じたサニエの表現では「誰から見てもわかりやすいセックスシンボルで」「下品の一歩手前で、いつも裸」「南仏の女の子のステレオタイプ。
積極的で、ある意味かわいくて、セクシーで、情緒的で哀れを誘うタイプです。見てすぐにわかりますよね。でも、映画が進むとどんどんサラの想像力の対象になってきて、インスピレーションの源になるんです」「あばずれで、無頓着で、苦しんでいて、構ってほしくて、愛情がほしくて、愛情の埋め合わせに毎晩違った男を連れ込んでいるんです」
サニエは肌を露出させるシーンが多いジュリーを演じるにあたって「まず減量です。ランプリングがラザニアを食べているところで、私は魚と蒸した野菜で我慢しなければいけませんでした」「日焼けしてこういう服を着て派手な化粧をして、ここまで細工をされては、鏡を見ても自分だとわかりませんでした」と言っている。
監督の当初の構想では男だったが、女に変更された。若い男と中年女という典型的パターンを避けるためという。
ジュリア
ジョンの娘でそばかす面をした平凡な外見、やや小太りのイギリス人。ジョンの事務所に面会に来る結末のシーンのみ登場。矯正用歯冠をはめているためジュリーより年下と推測される。サラとすれ違っても視線を合わせず、面識はないと考えられる。
キャスト
サラ・モートン - シャーロット・ランプリング
ジュリー - リュディヴィーヌ・サニエ
ジョン - チャールズ・ダンス
フランク - ジャン=マリー・ラムール
マルセル - マルク・ファヨール
マルセルの娘 - ミレーユ・モセ(フランス語版)
主題と解釈
主題
監督は自身の公式サイトにおけるこの映画のインタビューで「次々と多くの映画を作り続けて、その想像力の源を聞かれることが多かったので、それに答えるため」、また「映画監督自身よりイギリスの女性推理作家に投影するのが良いだろうと考え」てこの映画を作ったという。
解釈
作中の現実と虚構の区別について様々な解釈が示されている。「……自分自身の態度について、あるいは誰の『現実』を見ているのか、我々は全く不明である」 あるいは「間違いなくこの映画の核心は、見ているものが信じるべきであるかどうかという疑問である」などの評がある。
ランプリングとサニエの対談においても 司会者の「見たものの信憑性がはっきりしない謎の作品ですね。現実なのか? 空想なのか? 文学上の創作物なのか? しかも結末も未解決です。
監督から何か手がかりはありましたか?」という質問に対しランプリングは「いいえ、ありませんでした。そのうえ、監督自身もどんな結末を導くのが良いか判らないと、子供のような笑顔で言っていますね……」と答え、サニエも「この映画は空想を考察しているので、観客の側にも空想の可能性があるわけです。監督は、それについてはとても寛大なのだと感じました。」と述べている。
監督も、indieWIREのインタビューに「空想と現実がどのようにつながっているのか、すごくじらしていますね。現実が空想に転じる決定的な瞬間はあるのですか?」とたずねられて「鍵を渡したくありません。もちろん自分の意見はありますが、結末は謎のままにして、観客各人が思うようにしておきたいのです。観客が自分自身の映画を作ることが出来る映画なのです。」
ジュリーの正体については、「(ジュリーが何者かという)先ほどの質問ですが、結末から来るものです。多くの可能性があると思うのです。最初から架空の人物なのか、出版社社長の実在の娘を基にしているのか、実在の人物で空想に入り込んだのか。」という質問に代表される。
サニエはこれに対して「それは皆さん次第ですね。この映画で私が気に入っているのは、ジュリーはサラの空想を映し出したに過ぎないとしてもいいし、出版社社長の娘で本当に頭がおかしくなっているとしてもいいし、あるいは全てサラの頭の中だと考えてもいい。どう考えるにしても、間違いというわけではないですから。」と答えている。
ノベライズ
ノベライズ
監督によるノベライズが、日本語訳でも出版されている。
- フランソワ・オゾン 著、佐野晶(編訳) 訳『スイミング・プール』角川書店、2004年。
感想&解説
今回ブルーレイで初めて鑑賞したのだが、続けて二回観てしまうほど面白い作品だった。主演のシャーロット・ランプリングとリュディヴィーヌ・サニエの女優二人が魅せるアンサンブルが素晴らしく、特にリュディヴィーヌ・サニエは冒頭から脱ぎまくりで、身体を張った演技を見せている。ただ本作においてシャーロットが演じるサラと、リュディヴィーヌが演じるジュリーは「対」となる存在なので、ジュリーの若さと奔放さを表現する手法として、このヌードは必要な表現だったと思う。逆にサラは序盤からずっと不機嫌なうえ、不満を蓄積させているイギリス人作家というキャラクターで、冒頭の地下鉄でファンに話かけられても「人違いです」と冷たく拒絶する様子から、「作家としての自信」も失っていることが表現されている。またサラが出版社の中で会った新人作家に対して「クソガキ」と表現するあたりにも、彼女の嫉妬と焦りが滲み出ており、序盤からキャラクターが抱えている感情が垣間見えて上手い。
またロンドンのシーンで登場する、チャールズ・ダンス演じる「ジョン」という出版社の社長が、出番は少ないのだが、本作において非常に重要なキャラクターだ。サラは最初から「私はほったらかしね」とジョンに対しての感情を吐露しており、特に「私はお金や成功なんて興味ない。求めているのは」と言いかけた途端、ジョンがそれを遮るように「心躍るプロット?」と聞き返すのだが、サラはそれに対して「わかってない」と怒るシーンがある。この場面から、明らかにサラはジョンに対して恋愛感情を持っているのに、ジョンはそれを知りながらも”お金を稼ぐ人気作家”として、サラを利用している事が表現されている。そしてその怒りを鎮めるために、ジョンはサラをフランスの別荘に誘うのだが、サラは間髪入れずに「あなたも来る?」と質問を返す。それに対してジョンは、「娘がいるんだ。週末には行けると思う」と返事するのだが、この何気ない一言が実は大きな意味を持つワードになっているのである。
それからサラは年老いた父親に留守番を頼み、一人でフランスに出かけることになる。マルセルという年老いた使用人と会い、彼女は別荘で静かな生活を始め、執筆活動も開始する。そして近くの町ではお気に入りのレストランを見つけ、彼女は段々とこの別荘の生活を満喫し始めるのだ。だがそんなある夜、突然リュディヴィーヌ・サニエ演じる若きフランス人女性のジュリーが屋敷を訪れる。彼女は「あなたがパパの新しい獲物?」と言い、サラは「娘が来るなんて聞いてなかった」と答えるのだが、これはジュリーがスーツケースを持っている事から、ロンドンにいる娘が"フランスに来るなんて聞いてなかった"という意味だろう。ジュリーが英語を話しているのも、そう思った要因かもしれない。その後、サラは怒ってジョンに電話をかけるが繋がらないという展開になる。
そして突然現れたジュリーは、自由奔放に行動を始める。食べた食器は片づけないし、葉っぱが浮いて掃除していないプールでも全裸で泳ぐ。一か所、ジュリーがロンドンにいる父親のジョンと電話しているようなシーンがある。サラが変わると電話が切れているという場面なのだが、これはそもそもジュリーとジョンは電話していなかったのだろう。かけ直してもジョンに繋がらないのはその為だ。それからもジュリーは屋敷に男を連れ込んでは、サラに自分のセックスを見せつけるような行動を取る。その後、サラはレストランの店員であるフランクと会話するようになり、彼のことが気になりだす。それから、プールサイドに横たわるジュリーを見てフランクが欲情しているという、現実感のないカットが突然挟み込まれるが、これは"サラの妄想"だろう。ジュリーの若さと身体があれば、大胆に彼を誘惑できるのにという秘めた欲望が表現されているのだと思う。ちなみにその後に出てくる、マルセルがプールサイドで寝転ぶサラを見ているシーンも同じく彼女の妄想だ。その後のカットとまったく繋がらない場面だし、老人のマルセルなら自分でも誘惑出来るというサラの自信を表現している。そして、これはもちろん終盤の伏線でもある。
翌朝、また違う男を連れ込んでいるジュリーを見て、サラは猛然とジュリーをテーマにした作品を書き始める。そして、ジュリーの身辺をリサーチし始めるサラ。そこで彼女のバッグの中から日記と母親らしき写真を見つける。顔にアザを作って帰ってきたり、父親のことを「女癖が悪い」と評するジュリーをサラは突然食事に誘うが、それは彼女の母親のことを聞き、小説のテーマにしたいからだ。ジュリーがサラの部屋を訪れたときに、とっさに原稿を隠すシーンがあるのだが、サラなりに後ろめたい気持ちがあるのだと思う。レストランで母親のことを聞かれたジュリーは「話せば長いわ」と白を切る。その後、家に戻ったジュリーは母親もロマンス小説を書いていたが、父親のジョンにけなされ燃やされたと語る。翌朝、たまたまジュリーはサラの部屋から自分をテーマにした小説を発見してしまい、その仕返しとしてフランクを家に呼び、彼を誘惑するという行動に出る。だが彼に拒絶されたジュリーはフランクを殺してしまう。
突然失踪したフランクに対して、プールサイドの血痕を見たサラはジュリーの犯罪を疑う。そしてマルセルの家を訪ねると、背の小さなマルセルの娘からジュリーの母親が事故で死んだことを伝えられる。家に帰ると殺人のショックで錯乱したジュリーがおり、サラを「ママ」と呼ぶと彼女はそのまま気を失ってしまう。目が覚めるまで看病していたサラは「本当のことを言って」と諭し、ジュリーはフランクを殺した理由を「あなたの本の為」だと告白する。そのまま、フランクの死体を埋めるサラとジュリー。そしてジュリーは違う街に向かうことをサラに告げ、二人は晴れやかに別れる。ジュリーの部屋にはサラ宛の手紙と原稿が残されており、そこにはジュリーの母親が書いた小説のコピーを、サラに託す旨が書かれていた。ロンドンに戻ったサラはそれをジョンに見せるが、ジョンは「君らしくない作品だ。出版しない方がいい」と一蹴するが、サラは「自分の最高傑作だ」と、すでに他の出版社で印刷し終わった本を取り出す。そして、そのままジョンとの関係に別れを告げて部屋を出る。そこでサラは若い女性とすれ違うが、彼女はジョンを父と呼ぶ「ジュリア」という女性で、サラの知る娘のジュリーとは別人だった。そして別荘のプールサイドから、サラに向かって手を振る「ジュリア」と「ジュリー」のイメージが交互に映し出されて、この映画は終わる。
このエンディングを観て、最初は「ジュリーが幻想だったという映画か」と一瞬思ったのだが、それだと映画全体の整合性が取れないことに気付く。そもそも、ジュリーは夜な夜な男たちを連れ込んで翌朝も会話しているシーンが二回もあるし、彼らはマルセルとも会話している。さらにマルセルがジュリーを見て「戻ったのか?」と聞くシーンがある為、彼らが過去に面識があることや、マルセルの娘もジュリーを知っていた事などから、ジュリーがもし幻想であるなら、サラがフランスにいたこと自体が全て幻想くらいでないと整合性が取れない。とはいえ、ラストにおけるジュリーの母親の小説は実在し出版されたとなると、この映画の構造自体が壊れてしまう。ちなみにブルーレイで収録されている「未公開シーン」にも、ロンドンにいるジョンがサラと電話で会話しており、「娘が君に迷惑をかけていないかな?」と聞くシーンがある。さらにサラが「小説のテーマを変えた」と伝えると、ジョンが「娘に関するテーマか?」と聞き返す場面が収録されているが、これは明らかにフランスに娘がいることをジョンが認めており、ジュリーが幻想ではない事を裏付けている。本編ではカットされたとはいえ、脚本にあったシーンのため撮影されたのだろうからだ。ただこのシーンがあると、あまりに展開がストレートになりすぎて、この映画のミステリアスな後味がなくなってしまうので削除したのだろう。
そういう意味では、ジュリーはジョンと事故死したフランス人の母親の間に産まれた子供であり、親のいない寂しさのあまり、セックスに溺れる自暴自棄の生活をしていたという、シンプルな構造のストーリーになる。そして最初こそ対立していた2人だが、ジュリーが「フランクを殺す」という大きな犯罪を犯したため錯乱し、サラを「ママ」と呼んだことでサラとジュリーの間に親子関係が芽生え、ついにはジュリーの「母親の本」を使って共通の敵であるジョンに一矢報いたというストーリーなのだろう。もう一点、「ジュリア=ジュリー」という解釈も考えられるが、ジョンの会社ですれ違った時にジュリアはサラにまったく気付いていない。一緒に死体を埋めた間柄で、流石にあのリアクションはないだろう。さらに序盤シーンにおける、サラの「あなたも(フランスに)来る?」という質問と、ジョンの「娘がいるんだ。週末には行けると思う」という返答にも矛盾が出る。ロンドンでジョンは娘と一緒に暮らしているから、すぐには行けないという意味だろうからだ。
そうなると、ラストの「ジュリア」と「ジュリー」が交互に映し出されるシーンだけが、意味合いとして紛らわしいのだが、個人的にあれはサラの母性の現れという解釈をした。ジョンの娘である二人を均等に愛する母親という理想像を、サラが妄想しているのだ。だからこそのあの笑顔なのだと思う。壁にかかった十字架を外したはずが戻されていたり、これ見よがしに画面の目立つところに「卵型のオブジェ」が映ったりと、細かい謎の多い映画ではあるが、それこそフランソワ・オゾン監督が「イースターエッグ」のように作品の中に謎を隠しているという意味なのだろう。考察しながらの鑑賞が楽しい映画だった。「8人の女たち」以外、まだまだフランソワ・オゾン監督の作品は未見のものが多いため、これから少しずつでも鑑賞していこうと思う。改めて「スイミング・プール」は素晴らしい作品であった。