「何をするにも身が入らなくなってきました。その状態が10代後半から30歳くらいまで続きました」
13歳のとき、故ジャニー喜多川から性被害を受けた元ジャニーズJr.の男性は取材にそう語った。
抑うつ、性依存、さらに自殺願望にもとらわれ、長期間心身に不調をきたしていたそうだ。
3月の英BBCの放送後、喜多川による性被害の告白が相次ぐ。
性的トラウマは長期に影響を及ぼす。
1960年代から被害は、半世紀以上続いてきたことになる。
だが、喜多川による性加害は、世界では重罪であるのに、放置されてきたことが、そもそも大問題なのだ。
13歳の二本樹顕理さん(39)は、 「その日、一日のスケジュールを終えた時に『ユー、今夜泊まっていきなよ』的なことを告げられた。
「体が硬直して動かなくなってしまったのと、すごい頭の中が混乱していた。体に対して起こったことはある程度理解できたんですけど、心がついていかないというか、体と心が別離してしまった気持ちを味わいました」 二本樹さんによると、被害は1年半で10回ほどにのぼったという。
二本樹さん(「ジュニアの子たちとは、お互いの性被害の体験を語り合ったりはしていました。嫌悪感を示している子もいましたし、『こんなことされて気持ち悪かった』とか。
「一方で、それ自体が通っていかなければならない通過儀礼のようなものとして、当たり前に受け入れられている雰囲気もありましたね」
二本樹さんは、15歳になる前に事務所を退所したが、受けた性被害はトラウマとなり、長い間苦しんだという。
「ジャニー氏と同じ年代とか、同じくらいの背丈、容姿の男性が目の前にいると、すごく恐怖心がわいてきて。例えば仕事に就いた時に上司が50代、60代くらいの方だと直視できなかったり、普通に接することができない。結局仕事を辞めざるを得なかったこともありました」
そして、自分の身に起きたことは、なかなか人には打ち明けられなかったという。
「男性が性被害にあったなんて言い出せないとか、恥ずかしいって思いがありましたね。『男だったら抵抗しろよ』とか、そういうのもあるかもしれないですね」
「わたしが在所していた当時から暴露本とかはちょくちょく出ていましたし、週刊誌も記事にしていましたし。そんな中、ほとんどテレビとか、一般メディアでは流れることがなかった。そうした状況を見ていて、一個人が声を上げたところで、どうにもならないんじゃないかなと」 人に言えない苦しみ──。
元ジャニーズJr.の橋田康さん(37)も、それを背負い続けてきたという。
被害にあったのは13歳の時だという。 橋田康さん(37) 「頭の中でごちゃごちゃになって、パニックと言えるか分からないが、とにかくずっと泣いてましたね。泣きながら(シャワーで)流して、何もなかった状態に戻せるように頑張った感じ」
ジャニーズJr.時代に告白できなかった理由は、当時も暴露本や週刊誌記事はあったものの、テレビや一般メディアでは流れることがなく、「一個人は声を上げたところでどうにもならない」と苦しんでいたという。
性加害の被害者である“元少年”たちからきちんと話を聞いた上で伝えようという姿勢を示した局は、これでTBS、NHK、日本テレビの3つになった。
今回、新たに告白するのはタレントではなく元スタッフの男性だ。
高校を中退し、付き人になるためにジャニー氏を訪ねる
G氏は1970年代、ジャニーズのあるアイドルグループの付き人として勤務していた。
「16、17の時に高校を中退して、芸能界への憧れで家を飛び出して、付き人になろうとジャニーさんのもとを訪ねました。すると、『ユー、明日からおいで』と、翌日から後援会の置かれている原宿のアパートに住まわせて貰いました」(G氏)
当時、40歳手前のジャニー氏とジュニアが住む合宿所は渋谷の宮下公園そばに建つビル。合宿所にはタレントのほか、G氏らスタッフも仕事で遅くなった際に、泊まることがあった。
「クリームをお尻のほうに塗ってきて……」
被害に遭ったのは、働き始めて間もない頃。G氏と1、2名が雑魚寝する暗い部屋にジャニー氏が現れ、G氏の布団に入ってきた。ジャニー氏は足のマッサージから始め、手をG氏の股間に持っていき、下着を脱がせて直接、性器を触った。そして……。
「咥えられました。それまでそういう類いの話は聞いていました。(脱がせづらい)海水パンツを穿いたほうがいいとか。でも、まさかタレントではなく、俺のほうにくるとは、と」(同前)
G氏は射精したが、行為はそれで終わらなかった。
「ジャニーさんが、クリームをお尻のほうに塗ってきて……」(同前)
G氏はその後、肛門性交を強いられたという。彼が「もしかしたら別のものを塗られたのかもしれないけれど、今でも思い出すのはこのクリームですね」と語るのが、青いラベルが貼られた瓶に入った「noxzema(ノグゼマ)」というスキンクリームだった。
というのも、当時、有楽町のニッポン放送のそばにアメリカのファーマシーがあり、G氏はジャニー氏から「このクリーム買ってきて」とたびたび頼まれていたからだ。