正岡子規は、広島湾である宇品湾桟橋から船で日清戦争の従軍記者として戦争現場へ向かう。
夏目漱石は、松山に赴任するために、宇品から三津浜まで船で渡った。
それは、子規が従軍のため宇品を出発した前日であり、二人はすれ違ったわけだ。
漱石は松山から熊本に移る時も、宇品から乗船している(1896年明治29年)。
高浜虚子と一緒で、宮島の宿に一泊した。
漱石は満韓の旅から帰る途中、広島に途中下車して広島を見学、市内で手広く静養雑貨店を開いていた井原市次郎を訪ねた。
二人は若き日に一緒に房総旅行をした旧友だった。
宇品からは八幡丸に乗り、森鴎外は第二軍の軍医部長として日露戦争に従軍している。
田山花袋も従軍記者として宇品から船にのった。
広島ゆかりの文学者
鈴木三重吉などの広島文学資料の対象者を始め、文学の様々な分野で活躍した佐藤春夫や詩人として有名な草野心平、幼児期を広島市(現在の中区)で過ごした中原中也などを紹介します。
すずき みえきち
鈴木 三重吉
(1882~1936)
小説家・児童文学者
広島市猿楽町(広島市中区)に生まれる。本川小学校、県立第一中学校を経て、東京帝国大卒。
大学休学中、静養先の能美島で書きあげた「千鳥」が夏目漱石に激賞され、続いて「山彦」「小鳥の巣」「桑の実」などの秀作を発表。また、大正7年(1918年)、雑誌「赤い鳥」を創刊し、児童文学史上不朽の功績を残した。原爆ドーム西側とこども図書館前に円鍔勝三作の記念碑がある。
デジタルアーカイブ:鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界
たなか じゅん
田中 純
(1890~1966)
小説家・劇作家 広島市大手町(広島市中区)に生まれる。早稲田大学卒。
大正8年(1919年)、戯曲「五月の朝」で注目され、帝劇で上演。同年11月、里見弴、久米正雄らと雑誌「人間」を創刊。多くの戯曲・小説を発表。代表作「妻」は、信仰と愛欲の葛藤を描き高く評価された。
ほそだ たみき
細田 民樹
(1892~1972)
小説家 東京に生まれるが、幼時父の郷里山県郡千代田町(山県郡北広島町)で過ごした。
軍隊批判を内容として代表作の一つとなった「或兵卒の記録」や、プロレタリア文学の影響を受けた作品群など数多くの小説を発表。第二次世界大戦中郷里に疎開。戦後もしばらく広島の文学発展に尽力。「広島悲歌」などの著作がある。
わかすぎ けい
若杉 慧
(1903~1987)
小説家
安佐郡戸山村(広島市安佐南区)に生まれる。広島高等師範学校卒。
前半生は教師。「微塵世界」で注目され文壇に登場。代表作とされる「エデンの海」は世評をよび映画化された。晩年は旅と石仏に心を寄せ、随筆、写真集を刊行している。
デジタルアーカイブ:若杉慧-『エデンの海』から『野の仏』まで-
おおた ようこ
大田 洋子
(1903~1963)
小説家 山県郡原村(山県郡北広島町)に生まれる。進徳高等女学校卒。
広島の妹宅で被爆。「屍の街」は佐伯郡の避難先で障子紙やちり紙に綴られた。
他に「海女」「桜の国」「人間襤褸」「半人間」「夕凪の街と人と」などがある。中央公園(空鞘橋東詰)に文学碑がある。
はら たみき
原 民喜
(1905~1951)
詩人・小説家
広島市幟町(広島市中区)に生まれる。慶応義塾大学卒。
広島疎開中に被爆。佐伯郡八幡村(広島市佐伯区)に移り、「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆。翌年上京。「三田文学」の編集に携わり、遠藤周作らの後進を育てる一方、原爆体験にもとづく作品を発表していった。原爆ドーム東側に詩碑がある。
デジタルアーカイブ:原民喜の世界-夏の花、そして死と愛と孤独-
あがわ ひろゆき
阿川 弘之
(1920~2015)
小説家 広島市白島九軒町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
海軍予備学生として入隊。復員後、文筆生活に入り「春の城」で作家としての地位を確立した。以後「魔の遺産」「雲の墓標」「山本五十六」「井上成美」など、多くの作品を発表している。平成11年(1999年)文化勲章受章。
かつら よしひさ
桂 芳久
(1929~2005)
小説家 高田郡吉田町(安芸高田市吉田町)に生まれる。慶応義塾大学卒。
三島由紀夫の推薦で「群像」に「刺草の蔭に」を載せ、文壇に登場。原爆体験と死の虚無感を描き、やがて長編「海鳴りの遠くより」に発展させる。主著に「火と碑」「水と火の伝承」「光の祭場」など。
たけにし ひろこ
竹西 寛子
(1929~)
小説家・文芸評論家 広島市皆実町(広島市南区)に生まれる。早稲田大学卒。
昭和39年(1964年)「往還の記」で田村俊子賞受賞。「儀式」が女流文学賞候補となり、注目を集める。以来、小説、評論両分野に活躍。文学賞受賞も多数。原爆と現代をテーマにした「管絃祭」は、昭和53年(1978年)女流文学賞、「贈答のうた」は平成15年(2003年)野間文芸賞を受賞している。
かじやま としゆき
梶山 季之
(1930~1975)
小説家 現在の大韓民国ソウル市に生まれる。広島高等師範学校国語科卒。
高師在学中から同人誌「天邪鬼」を主宰し、原民喜詩碑建立に奔走する。
社会派推理小説「黒の試走車」で文壇デビュー。現代世相を鋭く描くもの、官能的なものと多彩な活躍ぶりで、多くの読者を得た。JMSアステールプラザ西(本川河畔)に文学碑がある。
おおば みなこ
大庭 みな子
(1930~2007)
小説家 東京に生まれるが、終戦を賀茂郡西条町(東広島市)で迎え、被爆後の広島に救援隊として動員される。津田塾大学卒。
昭和43年(1968年)「三匹の蟹」で群像新人賞と芥川賞を受賞し文壇に登場。以後幻想的で詩的な作品を次々と発表した。平成19年(2007年)5月24日死去。
おかやま いわお
岡山 巌
(1894~1969)
歌人 広島市水主町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
昭和6年(1931年)「歌と観照」を創刊し、没年まで主宰。歌論の根底を西田哲学にすえ、当時期における短歌革新の旗手であった。主著に「短歌文学論」を軸とする10数冊の歌論や、「思想と感情」「運命」などの歌集がある。
しょうだ しのえ
正田 篠枝
(1910~1965)
歌人 安芸郡江田島町(江田島市江田島町)に生まれる。安芸高等女学校卒。
広島市平野町(広島市中区)の自宅で被爆。占領下の言論統制が行われている中で、原爆の悲惨さを怒りをこめてうたった「さんげ」を秘密出版した。他に、「耳鳴り」「百日紅」、童話集「ピカッ子ちゃん」などがある。
こんどう よしみ
近藤 芳美
(1913~2006)
歌人 現在の大韓民国に生まれるが、12歳より広島市鉄砲町(広島市中区)の祖母のもとに寄留。東京工業大学卒。
昭和7年(1932年)、旧制広島高等学校在学中に中村憲吉に会い「アララギ」に入会、憲吉没後は土屋文明に師事。昭和23年(1948年)、歌集「早春歌」「埃吹く街」で注目され、以来、戦後短歌の旗手として多くの歌集評論集などを発表した。平成18年(2006年)6月21日死去。
おおき あつお
大木 惇夫
(1895~1977)
詩人 広島市天満町(広島市西区)に生まれる。広島県立商業学校卒。
北原白秋に師事し、大正14年(1925年)、処女詩集「風・光・木の葉」を刊行。詩人としての地位を定め、多くの作品を発表。詩作のほか、訳詩・小説・伝記・児童文学・歌謡曲の作詩などにも才能を発揮した。
とうげ さんきち
峠 三吉
(1917~1953)
詩人
大阪に生まれるが、幼時から広島市翠町(広島市南区)に育つ。広島県立商業学校卒。
翠町の自宅で被爆。代表作「原爆詩集」をはじめ、詩作を通じて原爆の全人類的災禍を訴えた。また、「広島青年文化連盟」委員長として、文化サークル活動推進にも力を注いだ。平和記念公園内に詩碑がある。
デジタルアーカイブ:峠三吉-愛と平和に生きた詩人-
くろだ さぶろう
黒田 三郎
(1919~1980)
詩人 呉市に生まれる。
昭和22年(1947年)、鮎川信夫・田村隆一らと「荒地」を創刊。詩集「ひとりの女に」(H氏賞受賞)「失われた墓碑銘」「もっと高く」などのほか、評 論集もある。また、「日本現代詩人会」理事長や「詩人会議」運営委員長も務めた。
おさない かおる
小山内 薫
(1881~1928)
演出家、劇作家、
小説家 広島市大手町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
歌舞伎でも新派でもない新劇の樹立を提唱し、明治42年(1909年)、市川左団次らと「自由劇場」を設立。大正13年(1924年)、土方与志らと「築地小劇場」を興すなど、日本近代演劇の開拓者として活躍した。
はた こういち
畑 耕一
(1886~1957)
小説家・評論家・
劇作家
広島市堀川町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大学卒。
戯曲、劇評、大衆小説などに幅広く活躍。主著に「棘の楽園」「広島大本営」「笑い切れぬ話」などがある。昭和19年(1944年)、安佐郡可部町(広島市安佐北区)に疎開。戦後は広島の文化運動に寄与し、この地に没した。
デジタルアーカイブ:畑耕一-デジタルブック『畑耕一翻訳 M・R・ジェイムズ怪談集』-
しんどう かねと
新藤 兼人
(1912~2012)
脚本家・映画監督 佐伯郡石内村(広島市佐伯区)に生まれる。
シナリオを発表しつつ、映画の監督にも力を注いでいる。主な監督作品に、「第五福竜丸」モスクワ映画祭グランプリの「裸の島」「原爆の子」など。主著に「シナリオ修業」「新藤兼人映画著作集」などがある。長年の映画製作に対して、平成9年(1997年)に文化功労者、平成14年(2002年)に文化勲章が授与された。
くりはら さだこ
栗原 貞子
(1913~2005)
詩人 安佐郡可部町(広島市安佐北区)に生まれる。広島県立可部高女卒。
昭和6年(1931年)栗原唯一と結婚する。戦争中でも「人間の尊厳」などの反戦詩を書き、昭和20年(1945年)8月6日は広島市祇園町長束(安佐南区祇園)で被爆する。昭和20年(1945年)末夫の唯一や細田民樹らと「中国文化連盟」を結成し、昭和21年(1946年)3月いち早く原爆の被害を特集した雑誌「中国文化」を創刊 する。昭和21年(1946年)検閲による削除は受けたが、原爆の惨状を描いた詩歌集『黒い卵』を出版する。罹災後の瓦礫の中で新たな生命が誕生した一夜を歌った「生ましめんかな」など多くの詩篇だけでなく、核兵器の廃絶を訴える活動を続ける。平成17年(2005年)3月6日死去。
さとう はるお
佐藤 春夫
(1892~1964)
詩人・作家 和歌山県新宮町(新宮市)に生まれる。慶應義塾大学中退。
医者で文芸に造詣の深い父の影響を受け、文学少年として成長する。谷崎潤一郎に見出され文壇に登場し、以来、次々と作品を発表し、芥川龍之介と並ぶ作家と目される。「三田文学」の編集に携わる中で、原民喜と交流し、その死にあたっては、友人代表として追悼文を撰し、原爆ドーム横の原民喜詩碑の裏面に刻まれる。昭和35年(1960年)文化勲章受章。
くさの しんぺい
草野 心平
(1903~1988)
詩人 福島県に生まれる。大正10年(1921年)、中国広州に渡り、嶺南大学に学ぶ。
大正14年(1925年)詩誌「銅鑼」を創刊、帰国後の1928年詩集『第百階級』を刊行する。昭和10年(1935年)には「歴程」の創刊に加わり、戦後も旺盛な詩作を続ける。平和記念公園内の平和祈念像(円鍔勝三作)にも一編の詩を寄せている。昭和50年(1975年)芸術院会員。昭和62年(1987年)文化勲章受章。
なかはら ちゅうや
中原 中也
(1907~1937)
詩人 山口県に生まれる。東京外語専修科修了。
京都の立命館中学時代からダダイズム(既成の概念を否定するヨーロッパで発生した芸術運動)の詩作を行い、上京してからは小林秀雄と知り合い、ランボー、ベルレーヌなどの影響を受ける。代表作として、「山羊の歌」、「在りし日の歌」などがある。
2歳から5歳の幼児期、父の任地の広島に在り、広島女学校(現・広島女学院)附属幼稚園へ通っている。
まさおか しき
正岡 子規
(1867~1902)
俳人、歌人 伊予国松山(愛媛県松山市)に生まれる。東京帝国大中退。本名、常規(つねのり)。
大学中退後、日本新聞社に入り、紙上で俳句の革新運動を展開し、俳誌「ホトトギス」を主宰する。明治31年(1898年)には「歌よみに与ふる書」を著し、短歌の革新を図るなど、近代文学に大きな足跡を遺している。
明治28年(1895年)3月、日清戦争の従軍記者として派遣される時、宇品港に立寄り4月10日出港までの20日程広島に滞在する。この時、比治山からの広島市内の街並みを詠んだ句の記念碑が比治山公園展望台にあり、他に南区宇品御幸の千田廟公園にも句碑がある。
くらた ひゃくぞう
倉田 百三
(1891~1943)
劇作家・評論家 庄原市に生まれる。第一高等学校中退。
一高在学中に西田幾太郎の影響を受ける。大正6年(1917年)戯曲「出家とその弟子」を発表し、評論集「愛と認識との出発」は青春の必読書となる。最初は白樺派に接近していたが、後には超国家主義に傾いた。代表作の「出家とその弟子」は、療養のため南区丹那の民家に寄宿していた時の作品で、翻訳本を読ん だフランスの文豪ロマン・ロランも絶賛したといわれている。丹那の穴神社横には、この名作がこの地で生まれたことを記念する碑が建てられている。
おおえ けんざぶろう
大江 健三郎
(1935~)
小説家 愛媛県喜多郡大瀬村(喜多郡内子町)に生まれる。東京大学仏文科卒。
大学在学中の昭和33年(1958年)「飼育」で第39回芥川賞受賞。新しい文学の担い手となる。国際的な作家、評論家としても幅広く活躍し、平成6年(1994年)には川端康成に続く日本人2人目のノーベル文学賞を受賞する。原爆、平和等の社会問題に対する関わりも深く、「ヒロシマ・ノート」「核時代の想像力」などもある。
やまずみ まもる
山隅 衛
(1894~1960)
歌人 広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。大正3年(1914年)天満小学校を 皮切りに小学校教師となり、2年後短歌を始める。大正10年(1921年)、文芸月刊雑誌「晩鐘」を創刊。本人は間茂留の名で俳句、短歌、童謡を掲載。休刊した時期もあったが、「晩鐘」を維持し続ける。昭和19年(1944年)7月広島県国民詩歌協会を設立し、理事長となる。戦後は学年別教育誌「ぎんのすず」に執筆したり、広島刑務所の受刑者に対して短歌指導も行っている。「晩鐘」は80年間続いたが、平成13年(2001年)3月「合同歌集 晩鐘」を最 後に終刊した。この間、多くの歌人を輩出し、地方文化の発展に寄与した。
やまもと やすお
山本 康夫
(1902~1983)
歌人 長崎県北高来郡小栗村生まれ。父親の影響で文芸一般に通じ、大正13年(1924年)尾上柴舟に師事。昭和4年(1929年)中国新聞入社。「広島の地にも 本格的な短歌結社を作りたい」という強い意志を胸に抱き、翌年「処女林」(広島短歌会発行)を創刊した。その歌の方針は、当初より「内面の訴えを客観的表現のうちに沈潜させた歌境」を目指し、正しい日本語で正しく詠んでいくというものであった。昭和6年(1931年)「新樹」に改題、翌年「真樹」に改題した。戦後は広島発の学年別教育誌「ぎんのすず」にも執筆した。「真樹」は多くの歌人を輩出し、地方文化の発展に寄与した。日本歌人クラブ中国地区幹事。歌集に「萱原」「広島新象」「秋光」「生命賛歌」、歌論集に「短歌の真実」「歌話と随想」などがある。
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