車と車の間を横切るのは、視界の盲点!

2023年05月08日 19時55分51秒 | 沼田利根の言いたい放題

過去を振り返ると、多くの交通事故の危機に遭遇してきた。

その意味で、これまで生き長らえていくことが奇跡とも思われる。

横断歩道は、危機に満ちている場所だ。

最近も、左を確認して、車の間隔が確認できた。

その距離は、約20メートルなので、渡れる距離だった。

ところが、前の道に工事用の車が2台停まっていた。

「何の工事なのか?」と気を取られた。

それなのに、道を一歩踏み出そうとした。

だが、右側から中型のトラックがほんの右側に迫ってきた。

左の車と前の道の工事の車に目が奪われていた。

もしも一歩、道に足を踏み出していれが、右からの中型のトラックに跳ね飛ばされて即死であったかもしれない。

右から走行してきた中型のトラックはかなりのスピードであったのだ。

同じように、目の前の車の列が信号で停まっていた。

車は当然、左側からは来ないと思って、車と車の間から渡ろうとする。

だが、信号は赤で車は列をなして停まっていても、右折車にとっては、信号は赤ではなく、青なのだ走行すしてくる。

左を確認しないで、道を渡っていたら、車に確実跳ねれていただろう。

例え車が渋滞していても、車と車の間を絶対に横断すべきではないのだ。

何がなんでも、車と車の間を横切るのは、視界の<死の盲点!>

渡ることは、死を招くかもしれない。

何度も何度も、危機を回避してきたのは、むしろ奇跡に近い幸運!

 


ウクライナ戦争をどう終わらせるか

2023年05月08日 11時00分14秒 | 社会・文化・政治・経済
ウクライナ戦争をどう終わらせるか 「和平調停」の限界と可能性 (岩波新書) by [東 大作]
 東 大作 (著) 
 
ロシアによるウクライナ侵攻開始から1年.核兵器の使用も懸念される非道で残酷な戦争を終結させる方法はあるのか.
周辺国や大国をはじめとする国際社会,そして日本が果たすべき役割とは何か.
隣国での現地調査を踏まえ,ベトナム,アフガニスタン,イラクなど第二次世界大戦後の各地の戦争・内戦を振り返りつつ模索する.
 
 

ウクライナ戦争をどう終わらせるかという課題について、的確に答えている本があまり無いので参考になります。
 
 
著者は、超大国が軍事的に他国に侵入しても、「民族自決」、「反植民地主義」、の意識が高い現在においては、侵入した国を管理し統制するのは極めて難しくなっている、と述べる。例として、ベトナム、アフガニスタン、イラクなどを挙げている。
 そこでこのウクライナ戦争をどう終わらせるかであるが、中国やトルコに介入してもらい、ロシア軍がウクライナから撤退する条件として、ウクライナはNATOに加盟することを目指さない、が和平のシナリオの一つだろうと述べるのだった。この条件ではウクライナは納得しないかもしれないが、NATOには加盟しないというふりをして、何年か雌伏の時を過ごして、最終的にはNATOに加盟する、という方法はあるかもしれない。
 狂気のプーチンを止めるのはロシア内の民衆の蜂起か、軍の反乱か、どこかの国による斬首作戦しかないのではないかと思う。
 
 
ロシアとウクライナの戦争をどう終わらせるかを考えた評論。

今までの戦争の終わり方、和平調停の在り方、これまでの戦争の終わり方、経済制裁の有効性、戦争が終わってからの課題、難民支援、今の日本が何をすべきか、等を論考されております。

結論から言うと、もう起こってしまったものはしょうがないので、出来るだけ被害を最小限にして終わらせるにはどうすればいいかを、現実的に考えている様に思いました(多分:違ったらすいません)。

その上で、戦争が仮に終わったとしても、戦争中に起きた犯罪の処分や、経済制裁の効果、難民の支援の重要性を極めて具体的に模索しており、一庶民としても考えさせられる評論になっていると思いました。

個人的には軍備や軍事目的の支援はあまりしないで、庶民への配慮(食事、生活用品、冷暖房器具等)の支援や難民の受け入れで対応するのが、今の日本での役割で重視した方がいいかと思いました。

ただ、日本の国内でも様々な問題が発生しており、それらの解決も重要なので、他国の支援よりも自国の問題を解決してもらいたい、という見識もあると思うし、私も反論は出来ないので、そういう問題もありそうでなかなか難しいと思ったのも真実でした。

「自民党の絶望」という評論によると、今核戦争が起きると、日本の人口の6割が餓死するという推計があるそうで、ウクライナの戦争で核兵器が使われると、そういう問題もあるので、決してこの戦争が他人事ではないものではありますが、正直に申すと皮膚感覚として、危機感を抱いていなかったりもするので(すいません)反省しております。

戦争が起こってしまった際の解決策を具体的現実的に模索した評論。必読。

蛇足ですが、アフガンを支援されていた中村さんの活動に関する所に感銘をうけました。金を出して高度な灌漑設備を作るより、問題が発生した時、現地の人が調達可能な素材で灌漑設備を作るという支援をしていたそうで、海外への支援の在り方を現実的に実施していた偉大な方だったのだなと思いました。
 
 
著者はウクライナ戦争を「どう終わらせるのか」について、戦争開始時の昨年2月24日ラインまでロシアを押し戻し、クリミアやドンバス地方の一部は交渉の中で解決を図るとする調停案を繰り返し示している。
しかし、現時点でロシアがウクライナ東部4州を占領し、自国の一部と宣言している以上、2月24日ラインまでロシアを押し戻すためには、ウクライナは反転攻勢の戦闘を続け、米欧日はそれを支援し続けなければならないだろう。すなわち、即時停戦ではなくウクライナが反撃戦争に勝利する必要があるということだ。
著者の言う「和平調停」はその後にはじめて可能になる。

ウクライナのNATO加盟問題については、フィンランドやスウェーデンが中立政策を捨ててNATO加盟を表明し、すでにNATOに加盟しているポーランドやバルト三国が反ロシアの姿勢を強めている現在、ウクライナがNATOに加盟しないとする意味はロシアにとって大きくないし(元々侵略の口実だったと思う)、逆に、侵略されたウクライナにとっては加盟は死活問題といえる。
著者は「ロシアとの共存など未来永劫図れない」という意見に対して、第2次大戦中の侵略国家であるドイツや日本とも戦後は共存してきたではないかという。しかし、これはナチスドイツと大日本帝国が無条件降伏して、国家体制が大きく変更されてはじめて可能となったことだ。したがって、平和共存のためには、少なくとも侵略戦争を始め、現在も無差別空爆等の戦争犯罪を続けているプーチン政権が根本的に変革される必要があるのではないか。
NATO対ロシアではなく、NATOにロシアを取り込んで軍事同盟を集団安全保障体制に変革することがめざされるべきである(ソ連崩壊直後にはそうなる可能性はあった)。

また、著者は「民主主義対専制主義」の図式にしないことを強調するが、疑問である。
ロシアにせよ北朝鮮にせよ、あるいは台湾の武力統一を否定しない中国にせよ、専制主義国家が平和な国際秩序を脅かしているのであり、民主主義国家が減少しポピュリズムや権威主義の勢力が増加していることに世界情勢の不安定化の要因はある。著者は「最低限の国際ルールを守る国」かどうかを対立軸とするというが、専制主義国家はいともたやすくこれを破ってしまう。現に、ロシアに対する制裁に同調しない国の多くは専制主義国家であり、これらの国々は「最低限の国際ルール」よりも自国の専制支配者の利益を優先しているといえる。
民主主義のルールと価値観を確認し広く共有していくことこそが、やはり国際法秩序にとって重要なのである。
 
 
①「ウクライナ戦争終結への課題を探りつつ」②「『ロシアのウクライナ侵攻』によって大きく変化してしまった世界において、日本がどのような役割を果たし、生き方をすべきか(p.v)」を示そうとする。
 ①について著者は「二月二四日ラインまでのロシア軍の撤退」「クリミア半島とドンバスの一部は別途、交渉」「ウクライナはNATOに加盟せず、新たにロシアも含めた安全保障の枠組みを作る(p.119)」の3点を、停戦や西側諸国による経済制裁の解除条件にすべきだとする。つまり「クリミア半島の奪還」等は棚上げするということだ。
 また、プーチン露大統領などの戦争犯罪については「まずは戦争を終結させ、その後、ロシアのウクライナの間に戦争犯罪に関する委員会を設置し、この戦争で起きた悲劇について事実を明確化し、必要に応じて個人レベルの謝罪や賠償を行い、二度とこのようなことが起きないように共通理解を深めていくことを模索する作業を続ける」というような対応も「現実的な方策(p.103)」として考えるべきとする。つまりICCなどによる国際的な裁判は難しいということだ。
 「正義」と「平和」のトレードオフというところだが、現実主義的には著者の言うことは妥当に思える。
 参考になった点。
1 戦争終結に向けての課題を、領土問題、戦争犯罪、ウクライナを取り巻く安全保障の枠組み作り、さらには戦時賠償・補償に整理していること。
2 「開戦当初バイデン米大統領が強調していた『民主主義国家』対『専制主義国家』という図式ではなく、むしろ『最低限の国際ルールを守る国』対『それを守らない国』という図式に持っていくことが賢明(p.178)」という指摘。なるほど中国や第三世界の専制主義国家を敵に回さないということは大事だ。
 不満な点。
1 上に紹介した条件での停戦を成立させるためには「紛争当事国であるウクライナとロシアに対して説得する影響力、いわゆる『レバレッジ』(p.66)」をもつ米国と中国が動かなければならないと書くに止まり、目標は明示されてもそこに至る方法については述べられていないこと。
2 1に関連して、中国について「中国に対して主張すべき点は主張し、必要な防衛力を整備し、警備活動も行いながら、合意できる点は合意し、軍事衝突になる事態を避けていくことが肝要である(p.157)」というような、ありふれた意見しか表明されていないこと。著者が東アジア政治の専門ではないからなのかもしれないけれど。
3 ②について「欧米の圧倒的関心と外交資源がウクライナ問題に費やされる中、日本が中東やアフリカなど第三世界における、一国で解決できないグローバルな課題のために主体的な役割を果たすこと(p.155)」を提唱していること。そのこと自体を否定するものではないが、本書のタイトルからするとこれはいささか的外れの印象を受ける。
 
不幸なことだが、なぜ、こういう事態になったかの歴史的事実経過及びその要因について、深く掘り下げられていない。戦争が起こってしまったら、勝つか負けるかの論理や思いは必然的に高まる。
ただ、そうなった原因・要因を十分考慮せず「解決案」を書いても、余り説得力ある提案にならない。
「べき論」的に終わっており、具体的・実践的に事の本質をとらえた解決案にはなっていないように思う。教科書的であるが、手ごたえのないものになってしまっているように感じた。
 
第二次世界大戦以降の世界各地の戦争・内戦がどこを落としどころ如何に停戦や平和構築に向かっていったのか、を学びながら現実的なウクライナ戦争の終わらせ方について考えられる本だった。

国際刑事裁判所についての部分では、浅い知識から、責任者は当然裁かれるべきなのでは、と考えていたが、裁判所の存在自体が戦争犯罪責任者の逃亡の可能性を低くし、逆に命をかけて最後まで戦う傾向を強めている、という調査結果の話などから、一筋縄ではいかない国際的な枠組み作りの難しさについて考えさせられた。

また、日本のNGOの支援も受けつつモルドバで避難生活を送る人々へのインタビューでは、小学生の子どもたちと避難してきて、オンライン授業を受けさせながら生活する、おそらく一年前まで国は違えど自分と同じような生活をしていた女性が何人か登場し、戦争がもたらす生活の混乱、精神的ショック、後遺症などについて、自分ごととして認識できた。家族が戦死していなくても、このような「一人」が何百万人もいるということは覚えておきたい。また筆者のいうようにそこにアプローチしていくような支援は意味があることだと思う。

長期化するウクライナ戦争の現状をもう一度捉え直し、どこを目指して世界と日本は動いていけばいいのか思索するのに最適な一冊であった。
 
 

 
 
 

 


すべての野蛮人を根絶やしにせよ

2023年05月08日 10時43分34秒 | 社会・文化・政治・経済

スヴェン・リンドクヴィスト (著), ヘレンハルメ美穂 (翻訳)

コンラッドの『闇の奥』の登場人物クルツの「すべての野蛮人たちを絶滅せよ」ということばに取り憑かれた著者は、18世紀後半以降のヨーロッパの探検家、宣教師、政治家、歴史家たちがアフリカに残した負の遺産をたどる旅に出る。

そして、アフリカの光景が幼い頃見た強制収容所の写真のイメージと重なり合っていき、植民地での残虐な行為がホロコーストにつながっていったことを独特のスタイルで明らかにしていく。スウェーデンの国民的作家の代表作、待望の邦訳。

 

19世紀後半にアフリカで行われた残虐行為の数々を詳らかにしようとする告発書である。

民族浄化というホロコーストで知られるユダヤ人虐殺が有名だ。

しかし、ホロコーストは決して特殊な出来事ではない。

ヨーロッパの国々は、はるか以前からアフリカ各地で残虐な行為を行ってきたのである。

それは、ヨーロッパの人々が知っていても、思い出したくない歴史なのだ。

ヨーロッパの外部に目に向け、ホロコーストを「歴史化」したところに本書の意義がある。

しかし、戦前に日本が沖縄や北海道、さらに東アジアで何をしてきたのかを考えつつ読み進めれば、本書は遠い世界の出来事ではなくなってくる。

 

 

 
「白人」たちの優勢思考について、歴史を紐解きながら深く明らかにしていく、いわばタブーに斬り込んだ書、であると感じた。優勢思考がもたらした大量殺戮は、どのような方法で行われて、どのように扱われたのか。
いなくなったほうがいいと思われた側の人々は、「白人」をどのように捉え、受け入れようとして殺されていったのか。冷静に丁寧に書き綴られている。
筆者はスウェーデン人であり殺戮を行った当事者でもなく、狙われた方でもない。それゆえに、どちらにも肩入れせず、ぼかさずの真実が描けたのかと感じた。本文に、日本の存在は出てこない。ゆえに、読みながら手を止めて、何度か我が国の歴史を振り返り考えた。日本は特殊な国だったのかもしれない、と。そして今はどうだ?と。殺戮はあっけない。やると決めれば、強力な暴力の前になすすべもなくやられる。どんなに残酷な方法も、決めたら、「笑いながら」執行される。今お行儀のよい顔をしている国が、その顔の下に隠し持っているのは、どんな顔なのかを知ろうとすること。翻って、自国の顔についても知ろうとすること。
どんどん不安定になっていく世界情勢の今、
この本が投げかけるテーマはタイムリーで意義深いと感じた。

「一人」の無限の可能性を確信する

2023年05月08日 10時29分10秒 | その気になる言葉

▼人は皆、人生という原野をゆく開拓者だ。

自分の人生は、自分で開き、耕していく以外ない。

▼人に尽くす行為の全てに意味がある。

他者への関わりの中で、自身の境涯を広げ、宿命すらより良い方向へ転換していくことだ。

▼「一人」の無限の可能性を確信することだ。

必要以上にへりくだったり、<自分なんて力がない>と卑下すべきではない。

生命の偏った傾向性を正し、使命の道に生きるのだ。


ニューギニア航空戦記―ある整備兵の記録

2023年05月08日 09時59分31秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 

内容(「BOOK」データベースより)

P38は高空から偵察、B25は低空で乱射を加え、B17、B24は爆弾を投下する。炎天下、防暑帽、半ズボンに地下足袋、上半身裸で円匙、十字鍬を手に、弾よけの鉄帽を背に負い、滑走路の弾痕修理、誘導路や掩体の整備にあたった基地隊員の苦闘を描く―飛行場勤務に従事した第二十二飛行場大隊の知られざる記録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

高橋/秀治
大正9年12月、島根県松江市に生まれる。昭和17年6月17日、現役兵として中部第96部隊に入営。昭和20年7月15日、主計軍曹。9月14日、武装解除、カランバン地区収容所に入所。昭和21年10月15日、マニラ港出港、帰国。20日、復員証明を受け除隊。平成19年1月28日没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
高橋秀治氏の三部作、第1作ですね 
戦時中、関係のあった人たちの人物評価、当人の心の動きなど強く訴えるものがあります
続いて、[第4航空軍の最後]、[ルソン戦線最後の生還兵]も購入しました。
 

著者が陸軍整備兵であることから「航空戦記」のタイトルになっていますが、内容は著者が日本からニューギニアに出陣し、整備兵としてラエ飛行場で作業する日々を描く前半と、ラエからの陸海全日本軍の撤退行軍を描く後半に分かれます。
前半、最下層の兵士だった当時の若い著者がだんだんたくましく、良い意味でしたたかに育っていく過程が伝わります。
後半の撤退行軍の物語は4000メートルを超えるサラワケット山系越えやジャングルの中の行軍を含む悲惨な話になりますが、ラエ飛行場でつちかわれたしたたかさで著者はこれを生き延びます。
このおよそ1ヶ月間の撤退に従軍した総勢8521人のうち、行軍中に1106人が飢えや疲労、病気で倒れています。敵弾による戦死はほとんどありません。

厳しい大自然に大量の人員を送り込み、補給や医療なしで無理な行軍をすると数日前まで元気だった人でもたちまち動けなくなり、食べ物を口に運ぶ事すらできなくなるという事が、読んでいくうちによくわかります。
また軍隊だからこそのいやな人間関係も赤裸々に出てきます。
一方で、あっけらかんとしたさわやかな人物もさまざま登場し、また陸軍でも到着地側(ニューギニア島北海岸のキアリ)から補給所をできるだけ奥地に伸ばして撤退行軍をなんとか支援しようとしていた事など、組織的な努力も著者の視点から描かれています。
よくじゅっぱひとからげに決め付けられるような「補給を無視した精神主義的な非常識な行軍」という単純な話ではありません。

若い頃のたいへんな苦労を、よくこれだけ冷静な落ち着いた記述で表現できるものだと思いました。
読後感は一言、著者が生還できてよかった、、、これに尽きます。

蛇足ですが、この撤退行軍の後、行軍生還者はそのまま次の作戦のため同じニューギニアのホーランジアに行くのですが、上記の「あっけらかんとしたさわやかな人物」の一人である山ノ井准尉のはからいで著者は行軍生還者の中からほんの数名選ばれた下士官候補生になって日本本土に帰国し、下士官学校に入学します。
ところが学校卒業後またニューギニアに派遣され、終戦はフィリピンで迎えたそうです。よく終戦まで生き延びられたものです。山ノ井准尉も戦争を生き延びられたそうです。
ニューギニア航空戦の末期、陸軍の飛行場整備部隊に所属していた筆者による手記です。
 多くの航空戦記で見られる、「最低限の地上員を残し航空部隊は撤退」という文章。
筆者の部隊に課せられた任務はまさにそれで、敵機が乱舞する中、いつあるとも知れない味方部隊の進出に備えての滑走路の補修や施設の整備に明け暮れる日常が描かれています。
「大空のサムライ」などの戦記でその名が上がるラエを始めとする飛行場群が、敵機の跳梁になすすべもない様はまさに落日の戦場といった趣です。
 厳しい戦況の中、筆者ら部隊の最下級者への仕打ちは苛烈で、食糧などの配給や狩猟の獲物なども殆どが上級者止まり。
何の希望も見いだせない日々に、この地から逃れる事のみが望みという所まで追い詰められてしまいます。
後に多くの落伍・戦病死者を出す転進命令に触れてすら生きる希望を見出すほど、それは過酷な毎日でした。
 後半は、基地を放棄し転進、密林に覆われた高山を踏破しての脱出行に多くが割かれています。極限状態での仲間たちとの確執、搾取とも言える仕打ちの中、筆者は遂に部隊から離脱して単独での脱出を決意します。

 正直な所、本書をタイトル通り「航空戦記」と呼べるかどうか多少疑問を感じます。
そうした上で、多くの兵士が落命したニューギニアの戦場を生き延びた筆者の経験は稀有のものであり、貴重な体験記と言えると思います。

ルソン戦線 最後の生還兵

2023年05月08日 09時38分04秒 | 社会・文化・政治・経済
―マニラ陸軍航空廠兵士の比島山岳戦記
 
 
 

内容(「BOOK」データベースより)

ルソン北部の密林下、生死の境を乗り越えた一日本兵の過酷な戦争。マラリア、アメーバ赤痢が蔓延し、米軍の砲爆撃に晒された山岳地帯で最後まで戦い抜いた兵士の証言。
 
 

第四航空軍の最後―司令部付主計兵のルソン戦記

 

内容(「BOOK」データベースより)

昭和十八年八月、ラバウルで編成された四航軍は、ニューギニア、フィリピンと撤退をつづけ、特攻隊員を送り出した軍司令官の台湾脱出の後、昭和二十年二月、解体される―中支那主計下士官候補者隊での教育を経てマニラに赴いた司令部付主計兵が見た四航軍始末記。
空に海に陸に散った下級兵士たちの無念を綴る。
 
 
 
Reviewed in Japan on December 9, 2012
Verified Purchase
比島での戦いの事実を知りたくて購入した。父が一時、第4航空軍に在籍しており,戦死したが、状況が不明の
ため、手がかりを求めて、少しでも状況を知り、子孫に記録として残したいと思い購入して調査した。
性格な状況は分かりませんが、多少の雰囲気だけは分かり、購入の成果はあったように思う。
Reviewed in Japan on January 10, 2015
 
この本を読まれる方は、先にまず同じ著者の「ニューギニア航空戦記」(光人社)を読まれることをお勧めします。

この本は事実上の「ニューギニア航空戦記」(以下「二航戦」と略)の続編です。著者高橋氏は戦争中、兵として陸軍に入隊、
ニューギニアのラエ飛行場に出征しました。もっとも弱い立場の新兵だった高橋氏はラエ飛行場での厳しい勤務ですこしづつ
しっかりした兵隊になって行きます。そして、ラエの全日本軍は撤退することになり、徒歩での約一ヶ月をかけての4000メートルを
越すサラワケット越えを生き延びます。ここまでが「二航戦」の内容。多くの犠牲者を出したたいへん悲惨な行軍が描かれています。

そしてこの「第四航空軍の最後」は一転して、牧歌的といっていいほどの始まり方です。ラエ撤退を生還した高橋氏は日本経由で
南京の日本陸軍の下士官学校に入校します。卒業後は主計伍長としてマニラの第四航空軍司令部に配属になり、占領地である
マニラで庶務係のような仕事をします。もはや新兵ではなく下士官として、また「ラエの生き残り」の経歴は陸軍や第四航空軍
司令部内でもかなりの神通力があったようでもはや新兵時代のようなひどい扱いをされる事はなく、高橋氏自身も軍隊内での
生き方が板に付いてきます。さらに、実施部隊を戦線に残して占領地マニラに退いていた第四航空軍司令部の独特の軽さと
言うか、いいかげんさも垣間見られます。この、本作前半の牧歌的な描写は「二航戦」のラエ撤退の後だからこその味わいが
あります。だからこそ、「二航戦」を読んでからこの作品を読むのがいいと思います。

そしてこの本の後半はマニラからの撤退。ラエの時と違って今回は自動車隊で大量の物資を持っての撤退です。
その中で起こった有名な富永恭次中将(第四航空軍司令官)の敵前逃亡とその背景もかなり詳しく記述されています。
けっして立派とはいえない第四航空軍司令部で、それでも士官や兵、軍属の人間くさい魅力も描かれていてその中で著者
高橋氏が精神的にたくましい下士官としてふるまうようになっていく過程がよく伝わります。
また司令部の統制が信頼を失った時、
一般の兵がどのような態度になっていくのかが読み取られます。はっきり言ってかなりいいかげんな陸軍の生々しい姿に
リアリティを感じました。

昔の思い出は時とともに辛い事も美化されたり、また恨みつらみがいつまでも残ったり、あるいは理不尽な事もなにかしら
理由付けして考えたりしがちなものですが、著者はあくまでも当時の自分が思った事を思ったままに素直に描いていて、だから
こその独特のリアリティある作品になっているのだと思います。

ところで、この本は著者がマニラ陸軍航空廠への転属命令を受けるところで終わっています。
この時点ではマニラはすでに
米軍の猛攻の前に陥落しているのではないか?不可解で唐突な終わり方です。そこで調べたところ、著者高橋氏にはもう一冊
著書があって、「ルソン戦線最後の生還兵」と言うのだそうです。
転属命令受領から終戦までのいきさつはこちらの本に
書いてあるようで、結局、これは3部作なんですね。
 
 
 
 
 
 
 

ルソン戦ー死の谷

2023年05月08日 09時11分37秒 | 社会・文化・政治・経済

阿利 莫二 (著)

内容

昭和19年暮れ、フィリッピン。日本軍はレイテ決戦で壊滅的打撃を受け、ルソン持久作戦に移る。
第1回学徒出陣の学徒兵としてこの作戦に投入された著者は、飢えと疲労の行軍のなかで病いを得て倒れ、「死の谷」とよばれた谷間の病院で終戦を迎える。
極限状況におかれた人間の姿を、四十余年を経たいま、痛恨の思いで振り返る。
 
「傷病者は隊の足手まといになるよりは死を選ぶ方が潔いという考え方が浸透し、戦況が悪化するほど当然のように自決が行われた」。
 
「幻のオペラ」といわれた未完の作品「白狐(びゃっこ)の作曲家の村野弘二さんも学徒出陣で入隊し、フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯の部隊に配属され、マラリアにかかり衰弱し、拳銃で自らの命を絶った。
1945年8月21日の未明であり、6日前に既に戦争が終わっていたのに、村野さんは終戦を知らなかった。
村野さん(22歳で自死)は東京音楽学校で團伊玖磨と同期生であった。
 
 
1922年生まれの著者の実体験記ですが、内容に新味も迫力もありません。また、本書の文体が大いに気になります。体言止めの文章が頻出する点です。
文字数に厳しい制約があるジャーナリストの文章ならばいざ知らず、歴史を祖述する新書の文体で体言止めを多用するセンスが理解できません。
さらに、論述の流れが個人的手記のようで、主語、述語の関わりや叙述の前後関係などに透明性を欠く点が多々あります。文章の行間に深みのある洞察力が韜晦されているわけでもありません。
以上を要すれば、行政法を専攻する法学部教員という著者のプロファイルとその歴史叙述力の間に大きなギャップを感じさせる一冊です。
 
 
ルソン山中、おたまじゃくしを食べて生をつないだ著者は、終戦後、米軍のトラックに拾われ、まさに死の直前で救われます。
タイトルは『ルソン戦−死の谷』ですが、ここには「戦闘」の描写はありません。
あるのはただ飢えて彷徨う兵士と民間邦人たちの姿です。
戦争末期、ルソン戦(レイテ戦などを除く)に投入された兵力は日本軍約25万、米軍約18万。
単に兵員の上では日本軍は米軍の上をいっていたようです。
が、両軍の戦死者数(日本軍二十数万、米軍は八千余)が物語るように、実態は、すでに戦争とは言いがたい一方的もの。日本軍の戦死者は、戦闘で死んだ者よりも餓死、病死者の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。
まさに悲惨の一言です。