親友の正岡孝雄が交通事故死したのは、34歳の時であった。
金曜日に新橋の居酒屋で飲んで、更に互いの乗り換え駅の新宿ではしご酒となる。
正岡は京王線に乗り調布へ帰る。
私は小田急線の経堂へ帰った。
彼の死は月曜日であった。
彼が別れ際に言ったことが、意味深いものとなった。
「君が、今でも独身なのは、百合子への拘りか?」
私は言葉に窮した。
二人は28歳の時に同じ女性を愛した。
正岡と百合子の結婚は、4組目の社内恋愛結婚であり、仲人はいずれも社長の武田建造が務めた。
私は百合子に愛されていたが、大阪支社への転勤となる。
2年の歳月が流れる中で、百合子の心は正岡へ傾いたのである。
私は二人の結婚式に招かれたが、欠席した。
3年後に東京本社へ戻った私は、正岡と酒を飲む頻度が増えた。
貴公子然とした正岡は相変わらず、スナックの女給たちにモテていた。
彼は十八番の「時代おくれ」を歌う。
私は「神田川」を歌った。
「私は、この歌の世界を生きたのよ」スナック富士のアキが言っていた。
私はアキに心がひかれていたのであるが、アキは正岡に心がひかれていた。
「いい男は、皆、結婚しているのね」新入りのトン子が言う。
時子は、自らトン子と名乗り、愛嬌を振りまいていた。
「ママさんは、矢田さんの彼氏みたいね」トン子は言う。
「トン子、そんなこと言って、矢田さんに失礼よ」ママの里恵がたしなめる。
「だって、ママは矢田さんが来ると、トビキリの笑顔になるの」トン子は悪びれない。
私は百合子に面影が似たママにも心が惹かれていたのに、客として距離を保っていた。
私にとって、正岡の突然の死は、親友として大きな衝撃となり、心に大きな穴が開いたようであった。
私にとって親友と呼べるは唯一正岡のみであったのだ。
通夜の席で見た黒い和服姿の百合子は憔悴しきっていた。
そして、1周忌の席の後で、百合子から庭の1本のモチノキを譲り受けた。
「正岡が子どの代わりと買ったモチノキです。これからは、この木を矢田さんに育ててほしいの」
実は、百合子は子どもが産めない体であったのだ。
あれから30年の歳月が流れ、モチノキは大きく育っていた。
赤い実が生り、小鳥たちが群れるⅠ本の木となる。
だが、私の意に反して、モチノキは家族内では不評の1本の木となる。
息子は「木なんか切れ」と怒りを露わにする。
モチノキは風が吹く度に、夥しい枯れ葉を道路にまき散らし、前の家の庭にも舞い散るのである。
皮肉にも1日に3度も道路を掃除する羽目となる。
枝は伸びて電線にも届くほどなので、1年に何回か枝先のカットも余儀なくされる。
「何度、木を切れと言ってきたのに、木に拘ってばかりで、頭がどうかしている。親父には早く、死んでほしい!」息子は感情を爆発させるのだ。