映画 ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー

2023年10月11日 14時36分58秒 | 社会・文化・政治・経済

2019年1月1日に生誕100周年を迎える小説家J・D・サリンジャーの半生を描いたドラマ。

1939年、作家を志しコロンビア大学の創作学科に編入した20歳のサリンジャーは、大学教授ウィット・バーネットのアドバイスで短編小説を書き始める。

出版社への売り込みを断られ続ける中、ようやく掲載が決定するが、太平洋戦争のぼっ発によって、その掲載は見送られてしまう。

召集により戦地に赴いたサリンジャーは戦争の最前線で地獄を経験し、終戦後もそのトラウマに悩まされながら、初長編「ライ麦畑でつかまえて」を完成させる。

この作品の成功により、突如として名声を手に入れたサリンジャーだったが……。

サリンジャー役を「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のニコラス・ホルト、バーネット役をケビン・スペイシーがそれぞれ演じる。

監督は「大統領の執事の涙」の脚本を手がけ、本作が長編監督デビュー作となったダニー・ストロング。

ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー

劇場公開日:2019年1月18日

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger、1919年1月1日 - 2010年1月27日[1])は、アメリカ合衆国の小説家。『ライ麦畑でつかまえて』などで知られる。

生涯
幼少期から作家になるまで

1919年1月1日、ニューヨークのマンハッタンで生まれる。父はポーランド系ユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。

マンハッタンにあるサリンジャーの生家

1932年にマークバーニ校(ボーディングスクール)に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「(興味があるのは)演劇と熱帯魚」と答えている。

しかし、学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす。この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。

また田舎の保守的な学校であり、ユダヤ人に対する差別意識があったようだが、卒業まで無事過ごす。卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939年にコロンビア大学の聴講生、いわゆるもぐりとなり、ホイット・バーネット(英語版)(トルーマン・カポーティやジョゼフ・ヘラー、ノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる)の創作講座に参加する。

バーネットの授業に参加して大きな影響を受けたようで、処女作『若者たち』 (The Young Folks) が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』 (1940年3-4月号) である。わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる。

1941年に『マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。

12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946年に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。

1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリンと結婚してしまう。

軍歴

1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して陸軍へ入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月イギリスに派遣され、6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し、激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスでは情報部隊に所属する。

8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイを訪問する。

現役中に書いた『最後の休暇の最後の日(The Last Day of the Furlough)』を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという。

しかし彼のバイタリティとは相容れなかったようである(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照)。その後の激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。1945年11月除隊。

『ライ麦畑でつかまえて』

12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕はちょっとおかしい(I'm Crazy)』が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946年、シルヴィアとの短い結婚生活が終わり、離婚したことによって生活も大きく変化した。

ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。

1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。

1950年1月、短編小説『コネチカットのひょこひょこおじさん』(『ナイン・ストーリーズ』収録作品)の映画化『愚かなり我が心』をハリウッドのサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが、映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒し、それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった。

1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコード・プレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否される。

結局リトル・ブラウン社から刊行された。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。

しかし主人公ホールデンは同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。2010年代以降でも毎年約50万部が売れているとされる。

しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州のコネチカット川のほとりにあるコーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送り(家にはライフラインがなかったとされる)、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた女子高生の1人が、学生新聞の記事として書くことを条件に受けたインタビューの内容を、スクープとして地元の新聞にリークしてしまった。

このことに激怒し、高校生達とも縁を切り、社会から孤立した生活を送るようになった。

その後

1955年にラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。

一男一女を儲けるが、次第に発表する作品数を減らしていく。

1953年、いわゆる「グラース家」シリーズの第1作『バナナフィッシュにうってつけの日』をはじめとする短編集『ナイン・ストーリーズ』を発表する。

1961年に『フラニーとズーイ』、1963年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』を発表し、その後も同シリーズの刊行が続くものと思われたが、1965年6月に『ニューヨーカー』に掲載した『ハプワース16、一九二四』を最後に作品の発表を止め、作家業から事実上引退した。1967年にクレアと離婚、1972年に当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲[2]。

1990年頃からは約50歳年下の看護婦と結婚生活を送っていたという。

晩年のサリンジャーは人前に出ることもなく、2メートルの塀で囲まれた屋敷の中で生活をしていたとされる。彼には世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。

ただ、実際にはサリンジャーは、町で「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという

住民の間では彼の私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。息子のマット・サリンジャーによれば、サリンジャーは物書きとしてただプライバシーを望んでいただけだという[3]。また、常に作品のアイデアを温めていて、思いつくと車の中や家で書き留めていたという。

1985年、作家・評論家のイアン・ハミルトンが、テキサス大学でサリンジャーの書簡多数を発見し、これを元に伝記を書いたが、校正刷りの段階でサリンジャーが異議を申し立てて裁判を起こした。

ハミルトンは二度書き直したものの、サリンジャーはニューヨークの法廷に姿を現し、一審でハミルトン側が勝ったが、二審で覆り、結局ハミルトンはサリンジャーの書簡を引用しない版(『サリンジャーをつかまえて』、海保眞夫訳)を刊行した(サリンジャー対ランダムハウス事件)。

2009年、『ライ麦畑でつかまえて』の続編と称した『60 Years Later:Coming Through the Rye』がスウェーデンの出版社Nicotextから出版されると知り、その著者であるJ・D・カリフォルニア(英語版)なる人物とNicotextとを相手取り、6月1日に著作権侵害で提訴した。

訴状は「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた[4]。

2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去。91歳だった[1][5]。

遺族がサリンジャーの未発表原稿を所有しており、2019年現在、出版に向けた準備が進められているとされる[6]。

作品リスト
単行本

下記の日本語訳が主な版本。他にも複数の版元で日本語訳が出版されている[7]。

The Catcher in the Rye, 1951
『危険な年齢』橋本福夫訳、ダヴィッド社、1952年。初訳版
『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳、白水社、1964年)、のち白水Uブックス
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳、白水社、2003年)、のち白水Uブックス
Nine Stories, 1953
『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳、新潮文庫、1974年)、のち改版
『九つの物語』(中川敏訳、集英社文庫、1977年)、のち改版
『ナイン・ストーリーズ』(柴田元幸訳、ヴィレッジブックス[8]、2009年)、のち同文庫
Franny and Zooey, 1961
『フラニーとゾーイー』(野崎孝訳、新潮社、1968年)、のち新潮文庫
『フラニーとズーイ』(村上春樹訳、新潮文庫、2014年)
Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour:An Introduction Stories , 1963
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』(野崎孝・井上謙治訳、河出書房新社、1970年/新潮文庫、1980年)、のち改版
未単行本化中編

1965年にサリンジャーが発表した最後の作品として雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたが、米国では単行本化されていない[7][9]。

劇場公開日:2019年1月18日

スタッフ・キャスト

  • ニコラス・ホルト

    J・D・サリンジャーニコラス・ホルト

  • ケビン・スペイシー

    ウィット・バーネットケビン・スペイシー

  • ゾーイ・ドゥイッチ

    ウーナ・オニールゾーイ・ドゥイッチ

  • サラ・ポールソン

    ドロシー・オールディングサラ・ポールソン

  • ビクター・ガーバー

    ビクター・ガーバー

  • ホープ・デイビス

    ホープ・デイビス

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger、1919年1月1日 - 2010年1月27日[1])は、アメリカ合衆国小説家。『ライ麦畑でつかまえて』などで知られる。

生涯

幼少期から作家になるまで

1919年1月1日、ニューヨークのマンハッタンで生まれる。父はポーランドユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。

マンハッタンにあるサリンジャーの生家

 

 

 

 

 

 

 


サリンジャーと過ごした日々

2023年10月11日 14時19分43秒 | 社会・文化・政治・経済
サリンジャーと過ごした日々
 

ジョアンナ ラコフ (著) Joanna Rakoff (原名), 井上 里 (翻訳)
 
『ジェリーだ。きみのボスに話があってかけたんだけどね』…わたしがとった電話の相手は、J.D.サリンジャー。90年代、ニューヨーク。古き時代の名残をとどめる老舗出版エージェンシー。老作家の言葉に背中をおされながら、新米アシスタントが夢を追う。本が生まれる現場での日々を、印象的に綴った回想録。


ラコフ,ジョアンナ
1972年生まれ。オーバリン大学、ユニバーシティカレッジ・ロンドン、コロンビア大学を卒業。小説『A Fortunate Age』でデビュー、Goldberg Prize、Elle Readers’ Prizeなどを受賞する。「ニューヨーク・タイムズ」「ロサンゼルス・タイムズ」「ワシントン・ポスト」「ヴォーグ」などに寄稿し、「パリス・レビュー」には詩も掲載される。現在、マサチューセッツ州・ケンブリッジ在住

井上/里
1986年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 

 

ニューヨークの文芸出版エージェントの仕事の様子

安心してください。個人の感想です。

わたしはサリンジャーを読んだことがないので、タイトルには関心あがありません。

著者がニューヨークの文芸出版エージェントに就職し会社が、偶然サリンジャーの担当であったということです。

欧米の出版会に興味があったので、サリンジャーと関係なく楽しめました。

著者の生活や恋愛には、あまり興味は湧きませんでした。なくても良かったと思います。

 人生は「絶対に、決して窺い知ることができないものが、ただ山のように残されているんだ」(108頁)

今は作家となった著者ジョアンナ・ラコフが2014年に書いたメモワール『My Salinger Year』の翻訳です。
 著者は1996年に大学院を出た直後、NYの出版エージェンシーでアシスタントとして働き始めます。

23歳の著者はボスから「ジェリーと会えると期待してはだめだ」と言い渡されますが、自分の勤務先がJ・D・サリンジャーの代理人であることをそこで初めて知ります。

しかしその事実を前にしても、サリンジャーの作品を一度も読んだことがない彼女は、とりわけ強い感慨を抱くわけではありません。

むしろ当時の著者の関心は、大学時代の恋人と別れて今一緒に暮らし始めたダンとの関係と、安い賃金で日々を暮らしながら湧いてくる<物書きになりたい>という淡い気持ちのことです。

 働き始めて間もなく、著者は期せずして、なんとあの『ハプワース』が単行本になるという大きな企画に立ち会うことになります。世界広しといえど日本でしか、しかも日本語でしか単行本化されていないこの小説が、英語で、アメリカで手にできるようになるというのです。
 『ハプワース』出版の試みが実現しなかったことはサリンジャー・ファンならば既に周知の事実ですが、それがどういう経緯で始まり、どんな形で水泡に帰してしまったのかが、サリンジャーを知らない著者によって淡々と綴られるのが、かえっておかしく感じられます。

この企ての途中で著者がサリンジャーとの対面を果たす様子が描かれるなど、興趣は尽きません。

 こうした出版業界の裏話の面白さもさることながら、このメモワールの読みどころは、社会のとば口に立ったばかりの若かりし頃の著者が、やがてサリンジャー作品に触れながら、自らと フラニー・グラース 、あるいは ホールデン・コールフィールド とを重ねて見つめ直していく様子です。

社会は決して陰のない澄み渡った世界というわけではない。そのままならない社会に暮らしながら手にする小説が、自らの姿見になっていく。そのことの苦さと喜びを著者は噛みしめていきます。

 20代のあの頃、自分はどんな人間だったか、ということに思いを馳せながら頁をひたすら繰り続けることができました。

教養小説(ビルドゥングスロマーン)を読むような清々しさが胸に広がる書です。
 著者よりさらに若い1986年生まれの訳者・井上里氏の平易な翻訳に大いに助けられたことも付け加えておきたいと思います。

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 以下の書籍もあわせて推奨しておきます。
イアン・ハミルトン『 サリンジャーをつかまえて 』
:サリンジャーを追いかけ続けたジャーナリストのルポ。

ケネス・スラウェンスキー『 サリンジャー ――生涯91年の真実 』
:サリンジャーの死の直後に出版された評伝。

尾崎俊介『 ホールデンの肖像―ペーパーバックからみるアメリカの読書文化 』
:『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の表紙絵についてサリンジャーがいかにこだわったかが分かる書。

ジュディ・ブルーム『 神さま、わたしマーガレットです 』
:ジョアンナ・ラコフが勤めていた出版エージェンシーはブルームの代理人も務めていました。ブルームのこの本も、『キャッチャー』同様、保守層からは排斥の対象となったことで知られます。


「わたし、あなたが出会った女の子とは違った人間になったような気がするの」

多くのアメリカ文学好きにとって、
サリンジャーは青春小説の開祖であり、
神秘的で唯一無比の存在。

私がサリンジャーの熱心な読者だったのは20歳前後でした。
「ライ麦畑でつかまえて」や「ナインストーリーズ」を読み、
イノセンスの意味やその喪失について考え込んだ記憶があります。
本書もサリンジャーという言葉に反応して購入。

本書は90年代中頃に、
NYのエージェンシーでアシスタントとして働き始めた著者の自伝です。
小説の体裁をとっていていますが、
あとがきに書かれているようにほとんど実話です。

ジョアンナ(著者)は大学を出て、仕事や恋愛に悩み、将来の見通しをつけられずにいます。
物語の起承転結はなく、淡々とNYでの日常が描かれます。

サリンジャーのエージェントのアシスタントとして、
ジョアンナはサリンジャーのファンレターを読み、
返信をタイプします。
孤独な少年、多感な女子高生、帰還兵。
ファンレターを読むことでジョアンナの内面が少しづつ変化します。
最後にほんの一瞬ジョアンナの人生とサリンジャーが交錯します。

「わたし、あなたが出会った女の子とは違った人間になったような気がするの」
物語の終盤、発せられるジョアンナの言葉。
やりたいことを追求する勇気を得て、
会社からも年上の男からも自立するエンディングが心に残りました。

本書はジョアンナの成長のストーリー。
そしてもうひとつ、著者のサリンジャーに対する感想文でもあります。

自分も久しぶりにサリンジャーのページを繰ってみようと思いました。



プラダを着た悪魔の出版エージェンシー版?

映画化されて日本でも公開されるようです。90年代後半に新卒社員として出版エージェンシーに就職した筆者の回想録です。 

アメリカ人の文学修士でサリンジャーを読んだことがないとはびっくりしましたが、筆者は仕事としてファンレターに目を通すうちにサリンジャーを間接的に知ります。

サリンジャーの古い中編小説が再出版されそうになった発端からその後までが描かれているので、サリンジャーファンには興味深いと思います。

筆者には好感を持てましたが、詩人気質なのか、計画性がなくて破滅志向があるようです。

将来有望な婚約者がいながらクズ(と他の女性から言われている)と同棲して薄給を搾取されています。マンハッタンに住みながら決して華やかではない生活をしています。

堅実な友人と反りが合わなくなって、徐々に疎遠になっていき、孤独の中でサリンジャーの本を読み始めます。心の動きが自然に描かれていました。

私もまたサリンジャーを読み返したいと思いました。

 
 

 

 

 

 

 

 



 
 
 
 

映画 マイ・ニューヨーク・ダイアリー

2023年10月11日 14時00分13秒 | 社会・文化・政治・経済

10月11日5時30分からCSテレビのムービープラスで観た。

■概要
 作家志望のジョアンナが人気作者のアシスタントとしてファンレターを処理するが、途中で個人的に返信してしまう。紆余曲折あって最後は夢に近づく話。

マイ・ニューヨーク・ダイアリー : 作品情報 - 映画.com
 
マイ・ニューヨーク・ダイアリー』(My Salinger Year)は2020年アイルランドカナダドラマ映画

1990年代ニューヨークで老舗の出版エージェンシーに就職し、伝説的隠遁作家J・D・サリンジャーと彼のファンを結ぶ窓口係となった作家志望の女性を描いた青春奮闘記で[3]ジョアンナ・ラコフ2014年に上梓した自叙伝『サリンジャーと過ごした日々』を原作としている。

ストーリー

1995年、作家になることを夢見る若い女性、ジョアンナはニューヨークに移住することになった。

ジョアンナは同地で最も歴史のある出版エージェンシーに職を得て、J・D・サリンジャーの代理人を務めることになった。

しかし、ジョアンナはサリンジャーの著作を1冊も読んだことがなかったため、特に感慨を覚えるようなこともなかった。隠遁生活を送るサリンジャーと接する機会はなく、ジョアンナの仕事は専らサリンジャーに送られてくる膨大な量のファンレターに返信することだった。

会社からは「サリンジャーはファンレターを読みませんので悪しからず」とだけ返信するように命じられていたが、ジョアンナは幾人かの熱心なファンに対して丁寧な返信を出していた。

そんなある日、誰もが想定していなかった出来事が起きた。

サリンジャーが『ハプワース16、一九二四』を単行本として世に出す意欲を見せ、出版社に仲介してくれるようジョアンナに依頼してきたのである。

本作はジョアンナがサリンジャーとその言葉に触発され、自己を確立していく姿を描き出す。

キャスト

製作

2019年2月8日、マーガレット・クアリーとシガニー・ウィーヴァーがフィリップ・ファラルドー監督の新作映画に出演することになったと報じられた[4]。5月23日、本作の主要撮影が始まった[5]

マイ・ニューヨーク・ダイアリー

公開・マーケティング

2020年2月20日、本作は第70回ベルリン国際映画祭英語版でオープニング作品としてプレミア上映された[6]。5月19日、IFCフィルムズ英語版が本作の全米配給権を獲得したとの報道があった[7]。10月2日、本作のオフィシャル・トレイラーが公開された[8]

評価

本作は批評家から好意的に評価されている。

映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには85件のレビューがあり、批評家支持率は71%、平均点は10点満点で6.3点となっている[9]。また、Metacriticには18件のレビューがあり、加重平均値は50/100となっている

■感想
 世界観がステキらしいので見た。

・人物
 ジョアンナ、元彼(カール)のこと放置して浮気するのひどい。新彼も愛してなかったって言って振るって…自分勝手ね。ヘアアレンジと服、途中から徐々に洗練されてく。細いとなんでも似合うなぁ。
 カール、ジョアンナに再開した時に言った「君は僕の一番の友達だった」、切ない。浮気された側なのに愛してたのね😢苦しかっただろうに。
 女上司、厳しそうだけど若い女部下に途中から優しくなるの、「エミリーインパリ」みたいだった🇫🇷🇺🇸

・世界観など
 世界観、アメリカっぽい。ホテルのカフェ、すごい豪華でおしゃれ。ウィーンのザッハトルテみたい。
 間のピアノの曲、ステキ〜
 タイプライター、不便だけどレトロでかわいい。
 
映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』オフィシャルサイト

不屈の楽観主義で前進を!

2023年10月11日 13時21分09秒 | その気になる言葉

▼目に見える「栄光」の陰には、必ず並大抵でない準備と苦闘がある。

自己へのの厳しさがある。

▼きょうは、もう、きのうの自分ではない。

毎日、変わる、毎日が出発であり、挑戦である。

惰性や油断など、無縁である。

つねに真剣勝負であり、新たな創造、新たな開拓である。

▼不屈の楽観主義で前進を!

▼枝の太さの合計は幹の太さと同じである。

▼勝ことより、負けない人生を。

▼成長のカギを握るのは理念だ。

▼限界を感じた<あと一歩先>に成功が待っているはずだ。

▼つねに<こなす>のではなく、<挑む>。

そのための確認と準備が不可欠だ。

こなす:与えられたものをそのまま使う。

▼希望の回復こそ、第一の挑戦!

▼希望とは試されるものだ。

困難を越えてこそ強くなる。

学び磨いてこそ深くなる。

貫いてこそ大きくなる。

▼全ては勇気から。

▼忍耐の今日、希望の明日、そこの栄光勝利の未来が生まれる。

 


創作 義母の家 3)

2023年10月11日 11時21分24秒 | 創作欄

幸恵の母が勤務する日赤病院は、渋谷駅東口からバスに乗り約15分の距離。

幸恵の勤務先は山手線で渋谷から五反田まで7分。

その間に幸恵は、紙袋の中から文庫本を取り出し、しばらく読んでいたが、本に目を落としていても文字を追っているだけなに気付きそれを閉じた。

五反田駅から徒歩10分、会社に着いたら15分前だった。

タイムレコーダーの脇の掲示板に社内旅行の案内が出ていた。

黒潮踊る南紀勝浦の旅である。

各社員の机には、パンフレットも置かれていた。

そこには、串本海中公園や潮の岬、紀の松島の景観を出ていた。

幸恵は是非、南紀勝浦に行ってみたくなる

かっぽれ料理という海の産物を主体とした料理のことも紹介されていた。

だが幸恵の夫の直人は幸恵が社内旅に行くことに反対する。

性格がおとなし夫がなぜ、幸恵が社内旅行に参加することに執拗までに拘るのか幸恵には理解が及ばなかった。

夫は幸恵のこれまでの我儘に柔軟に対応するばかりではなく、3人の姉たちに対しても自己主張ができずにいたのに。

直人は好きだという感情を言葉と行動で示すことが苦手な男だった。

そこで、幸恵は自ら直人をデートに誘った。

そしてプロポーズをしたのも幸恵の方からだった。

こんな消極的な男が他にいるのか、と思われるほど直人は初心な男だった。

「オッパイを触っていいわよ」デートの時、幸恵は自らのセーターの胸に直人の手を導く。

幸恵なそんな8年前のことを、懐かしい思いとして微笑みながら脳裏に浮かべた。

直人は結婚してからも女性一般に対する内気さは変わらなかった。

幸恵は時に夫の浮気を疑ってみたことがあったが、男気が見られない直人を多くの女性は見向きをしないで、放って置くだろうだろうと幸恵は一人で決め込んでいた。

直人の心の優しさに妻として安心していられた。

一人娘で育った幸恵は兄を知らないので、夫の中に未知の兄のイメージを思い描くこともあった。

「あなたと私の性格が反対だったら、どうなっていたのかな?」幸恵の問いに、直人は沈黙する。

7年間も共に暮らすと、これといった話題もなくなる。

二人は黙ってテレビを観て過ごす。

そして、金曜日になると、直人は競馬で頭が一杯になる。

幸恵は新聞記事を比較的に読んでいたのに、直人が読むのはいわゆる3面記事とテレビを観るため番組欄だった。

日本において、三面記事(さんめんきじ)とは、日刊新聞の社会面のこと。 政治・経済以外の記事という意味合いもある。

直人は運送会社のトラック運転手であり、事務の幸恵は同僚であった。

直人はトラック運転手の前はタクシーの運転手だった。

客を待つことで、辛抱強い性格となったのだろう。

直人は沈黙も平気で幸恵が話掛けない限り、口を開かれずにいられた。

「あなた聞いて」

直人は前夜版のテレビの競馬解説に夢中であった。

幸恵は直人の背中を右手の人差し指で突いた。

直人は軽い驚きを示し、顔を幸恵の方へ向ける。

そんな時の直人の目は剽軽であり、幸恵は思わず笑う。

「あなたね、会社で旅行があるの。南紀勝浦よ。今度は是非、行ってみたいな」

幸恵の心は夢見るような瞳で快活であったのに、直人は黙っていたが、明らかに不快な表情になる。

結婚して最初の年の会社の旅行は、二人のハネムーンの3週間後であったので、直人が「行くな」と言っても幸恵には解る気がした。

でも、その後も直人は妻の社内旅行に反対する。

他のことには決して我を通さなかった直人なに、「行くな」と拘泥する。

我儘を自任していた幸恵も、毎回、譲歩してきた。

「たまには、あなたを一人にしてあげるわ。私は夜の勝浦の海を散歩するの。素敵な人に出会えたら語らいたい。そうだ、この結婚指輪も外していこう」

幸恵は、夫の反対でこれまで社内旅行に一度も行けなかったことで、夫に強く反発し嫌味を言う。

幸恵は直人が心を非常にまで動揺させていることに気付かなかった。

そして、夫の沈黙に何が含まれていたかについても無論知らなかった。

 

 

 

 


▼最高の不幸は諦めること

2023年10月11日 10時04分49秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼米国のウクライナ軍事支援466億㌦(約7兆円)にも。

▼蚊は世界で最も人を殺す生き物。

蚊が媒介する「デング熱」

懸念されるのは、今国内に存在しない外来種。

▼「希望」とは何か―。

私にとって、それは―「使命を自覚すること」

「そばにいる人からもらっているパワー」

「世界の友と結んだ友情」

「信じる勇気」

▼国難に直面し、目標を見失ったこともある。

人の励ましが「希望」に。

▼不安や諦めの闇を晴らし、前を向く力を与えてくれるのが「希望」である。

▼世界に目を転じると、コロナ渦の試練に続き、気候危機や紛争、核兵器の脅威など、人類的課題への不安は高まるばかりだ。

一見、「一人の人間には何もできない」と思える分断と混迷の時代だからこそ「希望」がすべての源泉となる。

▼160年前、高杉晋作は「奇兵隊」を結成した。

入隊の条件は身分でも経歴でもなく「志」があるか否か。

下級武士や農民が入隊を希望した。

▼勇気を出して自ら実験証明をすることだ。

▼最高の不幸は諦めること―喜劇王・チャップリン