複雑な心境となった

2023年10月15日 23時38分16秒 | 日記・断片

通いなれた道である。

真っ直ぐに行けば、地蔵堂を抜けて取手駅へ通じる道がある。

道の右側は取手一高あり、直進すれば、常磐線をまたぐ四谷橋に至る。

だが、気付けば歯科衛生士専門学校の前の通りへ出ていた。

その道を下れば、四谷橋に至るはずである。

それなに、近道を選ぶつもりで、左折したら、取手一高の野球グランドの裏の道に出た。

その道は、歯科衛生士専門学校の前の通りと交わっていたのだ。

結果的にかなりの大分遠回りする。

「なぜなんだ!」と唖然とした。

認知症ではあるまいが、複雑な心境となった。

 


創作 義母の家 9)

2023年10月15日 20時56分07秒 | 創作欄

幸恵の後に簡易宿の温泉内湯に浸かった大沢はカラスの行水のようであった。

「カラス(烏)の行水」とは、「入浴時間が短いことのたとえ」。 

大沢は、浴衣と帯を手に巻くようしており、その全裸姿は既に、臨戦態勢そのもので、陰茎が大沢の意志を示すように、そそり立っていたのだ。

幸恵は唖然とするとともに「恥ずかしいから、灯かりを消してね」と毛布で顔を覆った。

ベッドにもぐり込み、幸恵の身を引き寄せた大沢は「もう、後には引き返せないですね」と幸恵の乳房をまさぐる。

「大沢さん、決して拘りを残さないでね」幸恵は覚悟を見めて身を開いた。

そして、「これは、愛ではないのね」とすでに胸の内で、逃げ道を用意していた。

大沢は幸恵と一つになるなりがら、妻のことを想い続けていた。

大沢にとって、妻との関係はぎりぎりのところまでにきていた。

愛憎の二字が錐のような鋭利さで大沢の柔らかい心臓を抉っていた。

妻には、結婚後も忘れらない男がいて、しばしば男に会いに行っていたのだ。

その妻の不貞を、大沢に告げたのは、皮肉にも憎悪にかられた相手の男の妻であったのだ。

それは、憎悪の反作用とも言うべきものであったのだろうか。

夫に対して、疑心暗鬼にかられた妻は、私立探偵に依頼して夫の行状を調べるあげる行為に及ぶ。

それにもとどまらず、相手の妻は、大沢にまで接触しに来たのである。

大沢は地獄を見る思いがするばかりであった。

幸恵には、同僚の大沢の夫婦間の背後に、異常な愛憎劇が隠されていたことを知る由もなかった。

男と女の致し方ない人生の絡み合いに対して、幸恵は無知とも言えた。

幸恵にとっては、夫は初めての男だった。

大沢との愛を貪った簡易旅館を後にしたて幸恵は念を押すように言った。

「大沢さん、決して、拘りを残さないようにしてね。二人だけの秘め事を、いいわね」

大沢は幸恵との性行為が、スポーツの後のような疲労感として感じていることに、むしろ不思議な思がした。

二人には多少の後ろめつがあったとしても、それは第三者人に対してであって、互いの伴侶に対しては、別々の感情があった。

二人は簡易旅館を出て、松林の道下ると、見覚えがある道路に出た。

それは桟橋に通じており、まっ直ぐに行き左に折れると繁華街があって、そこに二人が泊る大きなホテルがあった。

向かい側から一台の乗用車が来て眩しいまでのライトを二人を照らす。

二人はそこで、他人の目をはばかなけばならない立場の身であると痛感する。

幸恵は恥じるような思いで目を伏せる。

すれ違った車はライトで二人の不埒な姿を暗夜の中で煌々と照らし出したのだ。

幸恵は、その車のライトに、心の内部まで映し出されたような羞恥心を覚え、顔を背けた。

「ホテルには、一緒にはとても戻れないね。先に行ってもらおうか」大沢は浴衣を整える仕草をする。

「ええ、私が先に行きます」幸恵は小走りになる。

そして、一度も振り返らない。

忘れていた潮の香りを幸恵は鼻腔に感じた。

自然と胸が熱くなり、涙が溢れてきた。

「おとうさん」夜空を仰ぎ見て幸恵は我知らず呼びかけた。

父が亡くなったのは、ちょうど今のようなさわやかな時候のことであった。

「なぜ、こんなさわやかな季節に人が死ぬの」幸恵は父の死に、改めて哀しみを嚙み締めた。

ホテルでは、既に会社の同僚たちは眠りの中にいるはずであった。

すでに午前2時になっていて、ホテルのフロントには誰の姿もなかった。

 

 

 

 

 

 


グローバル資本主義の終わりとガンディーの経済学

2023年10月15日 12時50分41秒 | 社会・文化・政治・経済

グローバル資本主義の終わりとガンディーの経済学 (インターナショナル新書)

行きつく先は破壊的な事態が生じるハードランディング! これから我々が標榜するのは、人と地球を救う経済学だ。

大型で猛烈な台風が次々と日本を襲う最大の理由は地球温暖化で海面温度が上昇しているから。

温暖化は待ったなしだ。 国連サミットのS D G s(持続可能な開発目標)のゴールは格差をなくし地球を守ることだが、世界はこの理念とは真逆の方向に進んでいる。 そこに新型コロナウイルスのパンデミックが追い打ちをかけ、グローバル資本主義の限界が露呈した。

これから世界を救うのはガンディーの経済学だ。それは環境問題に加え、貧困や格差もなくす「隣人を助ける」原理である。

【本文より抜粋】 インド建国の父であるガンディーは、自由貿易や近代工業化に反対したことで知られている。

しかし、それは決して鎖国主義ではなかった。 ガンディーも、自国で生産できないものについては、輸入すべきだと言っているし、自国の産業が新しい生産技術を採り入れることに反対したわけでもない。

ガンディーは貧困や格差をなくすために、消費や投資を通じて、「近くの人を助ける」ことから取り組もうと言ったのだ。

近所の人が作った農産物を食べ、近所の人が作った服を着て、近所の人が建てた家に住む。そうすれば、その地域に雇用が生まれ、地域経済が回りだす。それは、利他主義を考えるときの明確な基準だ。

【目次より抜粋】

1章 壊れ続ける地球

2章 壊れ続ける庶民の暮らし

3章 原因は資本主義

4章 ハードランディングは避けられない

5章 人と地球を救うガンディーの経済学 6章 新しいライフスタイル 7章 MMTとベーシックインカム

 

【著者略歴】 森永卓郎(もりなが たくろう)経済アナリスト、獨協大学経済学部教授。

1957年、東京都生まれ。東京大学経済学部卒業。

日本専売公社、経済企画庁、UFJ総合研究所などを経て現職。 執筆のほか、テレビやラジオ、講演などでも活躍。

著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『なぜ日本だけが成長できないのか』『消費税は下げられる!』(ともに角川新書)など多数。

 

「信託理論」

富裕者の財産は神から「信託」されたものであり、預かった富は社会や公共のために適切な形で戻すべきだ。

つまり、企業の社会的責任に通じるものだ。

企業は、地域社会や地球環境に責任を持ち、将来の世代に対する責任を深く考えなけばならない。

長期的に見れば、そうした理念を効果的に実施している企業の方が、そうでない企業よりも利益を上げている。

ガンジーは、非暴力のい精神で人々を結び、植民地支配に立ち向かった。

そして、身分や階層に関係なく、全ての人々が向上してゆく平等な社会を目指した。

 

VINE VOICE

Reviewed in Japan on August 7, 2020

 
 著者は経済アナリスト。
 本書は、現代日本の抱えている経済問題を、「資本主義の崩壊」という近未来予測から見通し、どのようにすれば解決できるかアイデアを開陳したもの。
 原発再稼働とクリーンエネルギー、ギグエコノミー、75歳まで働きつづけるという国策など、いま目の前にある問題が幅広く取り上げられ、それらの先に見えてくる絶望的な未来が示されている。
 このまま資本主義に任せていたら、まちがいなく破滅するという強い確信が説得的に語られ、暗澹たる気分になる。しかし、「ガンディーの経済学」やベーシックインカムなどの対応策を採用すれば、なんとかなるかもしれない、とも思わされた。ガンディーの経済学とは聞き慣れないが、言われてみれば、なるほどと納得する。
 
 
  • ガンディーの経済学――倫理の復権を目指して

ガンディーの経済学――倫理の復権を目指して 

 

 本書は、ガンディーの思想を主として経済学の観点から解き明かそうとしているものであるが、権利と義務、産業化、平等論、教育など多岐にわたるテーマが取り上げられている。
 ガンディーの考え方は、イギリスの植民地支配、貧困、宗教的因習的な不平等からインドを救うことを第一義とし、その強い意志に基づいていたことが本書からよく理解できる。
机上の思想家、学者ではなく、インドの大衆の指導者として、その考え方はある程度の一貫性を保ちながら、柔軟であり、非常に実践的である。

 ここで書かれているガンディーのものごとの考え方は現代のビジネスや社会に当てはめてみても、非常に役に立つものが多い。例えば、国家や組織ではなく、個人に焦点をあてた考えかたはモチベーション3.0の発想につながると思うし、その教育思想は、多くの優秀な人材を輩出している現インドの実学を優先した教育制度の基礎となっていると考えられる。ジェンダーの議論においても、男女が同じ能力であれば、女性を優先して登用すべしの考え方は70年後の現在において積極的に採用されているものと同じである。理想の絵姿(ビジョン)を描く一方で、現実を見据えた戦術を見事に使い分けるという、人々を一方向に向かわせるためのチェンジ・マネジメントの実践的な手段を経験的に身に着けていたことも読み取れる。
 当時の難しいインドの社会事情がありながら(あるいは、そのような社会事情があったからこそ)、社会主義、資本主義の限界を既に見据えた卓越した考え方も示している。例えば、第六章の受託者制度理論は現代の会社経営のあり方にも、福祉国家としてのあり方にも、(議論はあるにしても)示唆に富む考え方を提示している。

 原著は1996年刊行であり、その2年後にアマルティア・セン(参考:
 不平等の再検討―潜在能力と自由 )がノーベル賞をもらう時代の中で書かれている。
現在、マイケル・サンデルの「正義」の本が話題になっているが、経済学と倫理に関する現在の議論の中でも、一読する価値のある本であると思う(このトレンドにのって約15年前の原著のこの和訳本がいま出版された気がするが)。

 一言、難を言えば、本書は学者の書いた本を学者の方々が翻訳をしており、私のような一般読者には非常に読みづらい文章である(特に第一章は学者の悪訳の典型のような気がする)。そのあたり、本を出す側ももう少し一考してほしいと思う。
 
 

ガンディーというと、非暴力による独立運動を行った政治家という程度の知識しか持ち合わせていない。
本書は、そのガンディーの経済思想について詳細に分析した著作である。

特に欲望と幸福についての記述は参考になる。「際限のないモノへの欲求は、人間を幸福にはしない。『知足』こそが幸福である。」とし、物質的な欲求の制限を主張している。
一方で、貧しい者への施しや貧国への財政的援助などは、人や国家が怠惰であり続ける原因として、否定的な見解を示している。
また、権利と義務の概念は、「人は単に権利のみを追い求めてはいけない、自らの義務を果たすときに権利はあなたのものとなる。」と主張し、ケネディの有名な演説を思い起こさせる。
さらに、労働を置き換えてしまい大衆の貧困を増長するとしてある種の「機械」には嫌悪感を示している。

ガンディーに一貫しているのは、欲望に任せて必要以上のモノを際限なく求めたりせずに、働くことこそが大切であるという考え方であり、分配ばかりを多く求める今の時代には新鮮に感じる。

当時の時代とインドという国を背景にした思想だけに、理解しにくい部分もあるが、混迷を深める現代にも一筋の光を与えてくれる。

「生涯第一線」「生涯挑戦」

2023年10月15日 12時17分56秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼経験を生かし、賢く、日々勉強して、新しい挑戦をする。

「生涯第一線」「生涯挑戦」

▼つらい思いをしたらこそ、優しい社会をつくっていく。

▼「中高年優遇」日本の若者は交際的にも低賃金である。

若者の低賃金は日本経済停滞の一因とされる。

▼今後、深刻化していく単身高齢者。

国が踏み込まず、まともな議論してこなかった領域である。

重要な視点は、支え側の資源が限られる中で、なにが最低保証されるべきか、公的に担うべき範囲はどこまでかを明確にすべきだ。

その上で、社会的費用の負担のあり方を議論すべきだ。

政治のリーダーシップが必要だ。

▼単身高齢者問題は、制度だけでは解決できない。

地域の力のが必要だ。

何らかの共通点を持つ人々で助け合う仕組みは、この問題を考える上でヒントになる。

制度ではなく、家族でもない。

地域の力を、どのように育み、引き出していくかだ。

 


世界市民とはの条件

2023年10月15日 11時43分59秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼偉大な仕事は、一朝一夕で成し遂げられるものではない。

▼どの地球的課題も、若い世代が受け継ぎ、長期的に取り組むことが、解決策を得る唯一の方法である。

▼核兵器の脅威は、全ての人類の運命に関係する大きな課題の一つだ。

▼核兵器を<必要なもの>と考える根底には「他者への恐れ」がある。

誰かが核兵器を使うかもしれないという恐怖心から、より多くの核兵器で身を守るべきだという発想が生まれた。

その結果、際限のない核兵器開発競争に陥った人類は、地球上のあらゆる人々を死にいたらしめるだけの大量の核兵器を生み出した。

▼忘れてはいけないのは、<恐れている他者>もまた、同じ人間だという紛れもない事実だ。

▼民族や国家というアイデンティティーを超え、「人類」としてのアイデンティティーを持った人々、すなわち「世界市民」を育て、世界中にネットワークを広げることが、核兵器廃絶、そして平和構築の重要な一歩である。

▼世界市民とは

1)生命の相関性を深く認識する「智慧の人」

2)人種や民族や文化の<差異>を恐れず、尊重し、理解し、成長の糧としてゆく「勇気の人」

3)身近に限らず、遠いところで苦しんでいる人々にも同苦し、連帯してゆく「慈悲の人」

世界市民への条件に心から共感し合える。

そのこと自体が、平和という一つの目的に向かう時、人類は差異を超えて、「人間」として一つになれるのではずである。

▼人類が一つになることを願っている人々は世界中にはたくさんいる。

世界市民として模範となる生き方を通して、人類のあるべき姿を示し、異文化の人々との相互理解を広げていく挑戦を貫くことが期待される。

 


必ず勝つと決めるかどうかで勝負は決まる

2023年10月15日 11時27分59秒 | その気になる言葉

▼たとえ遠回りのように見えても、目の前の課題に真剣に臨む中で、未来の道は開けるものだ。

▼ダイヤモンドは自ら光を放つことができず、炎に照らしてもらって初めて輝く。

▼誰もが無限の可能性という<ダイヤの原石>心に持っている。

それを磨くのは自分自身。

照らし輝かせるのは周囲の励まし。

▼必ず勝つと決めるかどうかで勝負は決まる。

▼友情は真の幸福の砦。

▼戦争は憎しみしか生まない。

そんな世界を生み出してはいけない。

▼憎めべきは、人間そのものではなく、他者の生命を脅かそうとする人間の心にある。

 

 


常勝へ導くオリックス中嶋 聡監督

2023年10月15日 10時47分58秒 | 野球

選手に寄り添い ダメだしも愛情

頑張りは認めて 信頼関係を築く

伴走型リーダー

聞く耳を持つ柔軟性

対話を重視し、心をつかうのがうまい選手思いの監督 

常に1軍と2軍の情報を共有している

中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市)出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)。オリックス・バファローズ第29代監督を務める。

1987年に阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ・横浜ベイスターズ・北海道日本ハムファイターズでプレー。日本ハム時代の2007年から2015年まではバッテリーコーチを兼務していた。

2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成。

愛称は「サメ」[1]。妻はモデルの中嶋愛。漫画家の制野秀一は義父にあたる。

経歴
プロ入り前
鷹巣中学校卒業後に進学した秋田県立鷹巣農林高校では、1985年秋季東北大会県予選準々決勝に進むが秋田高に敗退。翌1986年夏の甲子園県予選も準々決勝で横手高に敗れる。同年のNPBドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団。

阪急・オリックス時代
1988年10月23日[注 1]、ダブルヘッダーで開催された阪急としての西宮球場最終戦(対ロッテ26回戦)にて、ダメ押しとなる3点本塁打[注 2]を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。

1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴む。球界随一の強肩もさることながら、打撃センスに優れ、俊足で盗塁も果敢に挑戦し走攻守すべての面を持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた[2]。四番打者を務めたこともある。

1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁からインフィールドフライを故意に落球。打者には落球の有無にかかわらず審判から自動的にアウトを宣告されたため、本塁における三塁走者のフォースアウトで併殺を狙ったが、インフィールドフライの扱いに対する解釈の誤りからロッテに得点を許してしまった[注 3]。

1991年以降も正捕手の座を維持していたが、1990年代の中盤以降は打撃が徐々に低迷。仰木彬が監督を務めていた時期には、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から加入した高田誠や、若手の三輪隆と併用されていた。

1995年には佐藤義則のノーヒットノーラン(当時のNPB公式戦史上最年長記録)[2]や11年ぶりのパシフィック・リーグ優勝に貢献。

1996年には、仰木の下でリーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇も経験している。

西武時代
1997年シーズンオフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明[2]。複数の球団と接触し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けた[2]。一時は入団が決まりかけたが、エンゼルス側が提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念。国内球団の移籍に的を絞り、西武ライオンズと日本ハムファイターズが中嶋の獲得に乗り出したが、最終的に西武へ移籍[3]。

1998年、日本シリーズでは不調のベテラン伊東勤に代わり一時的な活躍こそしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。

1999年は松坂大輔専用の捕手として起用される[注 4]ことで出場機会を得たが、2001年以降は松坂登板時も伊東がマスクを被る機会が増え、さらに打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減っていった。

2000年、和田一浩と背番号を交換した(中嶋:5→22、和田:22→5)が、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという[4]。また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われた古巣オリックス戦で、2回裏にテリー・ブロウズから同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている。

2002年、大半を二軍で過ごし、オフに富岡久貴と共に石井義人と細見和史との2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍[5]。

横浜時代
2003年、前年に正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、若手の相川亮二、前年に谷繁と入れ替わりで中日から移籍した中村武志の正捕手争いに自身が参戦する形でハイレベルなポジション争いが期待され、開幕戦では先発マスクを被ったが、故障や打撃不振などで結果を残せず、オフに中村の復調や相川の台頭で構想外となり、金銭トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[6]。1997年のFA時から6年越しの日本ハム入団となった。

日本ハム時代
2004年は、9月に横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と結婚。

2005年は、当初3番手捕手のはずだったが、正捕手髙橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。

2006年は、先発出場はわずか2試合と激減したが、守護神マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを記録し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした[注 5]。

2007年は、選手と一軍バッテリーコーチを兼任。以後は選手としての一軍登録抹消時はコーチ専任で一軍に帯同した。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度一軍へ昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この年唯一放った安打は、9月15日の対ソフトバンク戦で放ったダメ押しの3ランだった。

2008年は、シーズン後半からではあるが、再度一軍へ昇格、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートするために1試合のみではあるが、2年ぶりに先発出場を果たした。

2009年は、大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会がなかった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし、大野がインフルエンザに感染したため8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被りシーズン初出場を果たした。また、8月21日の対ソフトバンク戦ではダルビッシュ有の先発捕手として出場し、自身も1安打を放った。さらに同年の日本シリーズでもマスクを被った。

2010年は、4月2日に一軍登録され、対西武戦(札幌ドーム)に7回途中から出場し、実働年数が24年となった。これは歴代3位タイで、捕手では野村克也(南海、ロッテ、西武)の26年に次ぎ、単独2位の年数である。4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦ではバディ・カーライルの先発捕手として出場した。

2011年は、鶴岡が開幕直前に離脱したこともあり、2007年以来4年ぶりに開幕戦から選手として一軍登録される。4月13日の西武2回戦(札幌ドーム)に9回表から出場、実働年数が25年となった。


北海道日本ハムファイターズ選手兼バッテリーコーチ時代(2012年)
2012年は、5月9日に一軍登録され、5月12日の西武7回戦(函館オーシャンスタジアム)で9回表に守備で出場し、実働年数が26年となり、野村、山本昌(中日)と並び、歴代2位(野手では1位)の記録となった[7]。

2013年は、9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で、この年初めて一軍公式戦に出場。野手としてのNPB一軍実働年数最多記録(27年)を達成した[8]。

2014年は、6月27日の対楽天戦(札幌ドーム)8回表から捕手として出場。この年唯一の一軍公式戦出場であったが、野手としてのNPB一軍実働年数記録を28年に更新するとともにパシフィック・リーグ公式戦での実働年数記録(27年)を達成した[9]。

2015年は、4月15日の対ロッテ戦(札幌ドーム)9回表に、捕手としてこの年初めて一軍公式戦に出場。工藤公康の持つ(投手を含めての)NPB一軍実働年数記録(29年)に並んだ[10]。その後は事実上バッテリーコーチに専念していたが、10月1日に現役を引退した。日本ハム球団では対ロッテ23回戦(札幌ドーム)を中嶋の引退試合として開催した[11]。中嶋の引退により、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスに所属した選手と、西宮球場時代に在籍した選手と、西宮球場、大阪球場、川崎球場でプレーした選手が全員引退した。ちなみに、この年には現役最年長投手で中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った当時50歳の山本昌が現役を引退したことにより、昭和時代にプレーした選手が全員引退した。その一方で、オフには自身の意向でバッテリーコーチも退任した[12]。11月2日に引退記者会見を実施。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[13]。

現役引退後
2016年、日本ハムのチーム統括本部としてゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団に当たるMLBのサンディエゴ・パドレスに派遣[14]。アメリカ滞在中には、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方で、外国人選手のスカウティングにも携わっていた[15]。

2018年、日本ハムの一軍バッテリー兼作戦コーチとして3年ぶりに現場へ復帰した[16]が、シーズン終了後の10月19日に退団。

2019年、オリックス・バファローズの二軍監督に就任[17]。ブルーウェーブの捕手時代にバッテリーを組んでいた小林宏二軍投手コーチと共に、榊原翼やK-鈴木などの投手を一軍に定着させた[18]。

オリックス監督時代
2020年、二軍監督を務めていたが、一軍監督の西村徳文が8月20日の対西武戦(京セラドーム大阪)終了後に辞任したことを受けて、翌21日から一軍監督代行に就任[19][20]。この異動に伴って、二軍投手コーチの小林が二軍監督代行を務めている[19]。シーズン終了後の11月12日、一軍監督に就任[21]。

2021年、二軍にいた杉本裕太郎の長打力を買って4番に抜擢し、宗佑磨の守備センスを見抜いて外野から三塁にコンバート、小田裕也には小技を徹底的に磨かせるなど、個々の長所を組み合わせる戦法を貫いた[22]。正式な監督就任初年度となる2021年にオリックスの25年ぶりのリーグ優勝を果たす[23]。阪急・オリックスの球団史上、チームで選手としてプレー経験のある監督がリーグ優勝を達成するのは中嶋が初となる[24][注 6]。千葉ロッテマリーンズとのクライマックスシリーズは3勝1分でCS突破し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズは東京ヤクルトスワローズに2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。

2022年、オリックスをパ・リーグ連覇、2年連続の日本シリーズ進出に導き、同シリーズでヤクルトを4勝2敗1分けで下し、日本一を達成[25]。同年オフに正力松太郎賞を受賞した[26][27]。

2023年、オリックスをパ・リーグ3連覇に導く[28]。

人物
アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていた。古田敦也(当時トヨタ自動車硬式野球部)は地元球団で少年時代は前身の阪急のファンの上『阪急ブレーブスこども会』にも入会していたほどだったが、プロ野球ドラフト会議の指名候補選手になった際、レギュラー獲りへの不安からか、「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていた。

最初に入団した阪急で、山田久志、佐藤義則、今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。

星野伸之は120km/h台の速球と80km/h台のスローカーブを武器にする投手で、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野が田中幸雄に投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった[注 7]。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[29]。

星野は後に著書『真っ向勝負のスローカーブ』でこのときの“素手でキャッチ事件”を振り返り、“今となってはいい思い出である”と述べているほか、“中嶋はいい捕手だった”とも述べている。
この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた。
「捕手=巨漢・鈍足」といった従来のイメージを変えた選手の一人であり、オリックス時代にはプロ野球選手を最初にアイドル的に扱った雑誌・プロ野球aiに特集記事が度々掲載されるほどであった。

西武入団時には松坂大輔が先発する試合の出場が多かったが、松坂を大事に育てる意向だった当時の首脳陣は当時の正捕手だった伊東勤と組ませると松坂が乱調だった試合では(松坂の責任にできない関係上)伊東の責任になってしまう、さりとて既に球界を代表するキャッチャーでもあった伊東の責任にもできないため、中嶋と組ませれば「全て中嶋が悪い」で済ませられるから松坂の女房役になったのではないかと述懐している。
ただ、実際にはルーキーイヤーのオープン戦で当初伊東と組んでいた松坂はうまく呼吸が噛み合わず精彩を欠く場面が目立っていたが中嶋と初めて組んだ試合ではそれまでと打って変わった投球をみせたことから「まだ新人の段階では、リードどおりの投球を求める伊東よりも、松坂の調子に応じてリードを組み立てる中嶋のほうがうまく良さを引き出せるのでは」という西武首脳陣(とくに東尾修監督)の判断もあったとされる。

普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。

2018年限りで北海道日本ハムファイターズを退団したが、その発表の日付が10月19日であった。日本ハム球団によれば「阪急ブレーブスがオリックスに身売りすることが発表された1988年10月19日から30年を迎え、最後の阪急戦士だった中嶋が阪急を引き継ぐオリックスへの復帰を手助けするためにこの日に発表した」とのことである[30]。

2007年の一軍バッテリーコーチ就任以降選手登録はされていたが殆どコーチ専任であった。というのは、一軍の本拠地と二軍の本拠地が地理的にかけ離れており、たとえ一軍捕手にアクシデントがあっても二軍から捕手を緊急で一軍昇格させることが難しい状況であった。そこで、一軍に常時帯同している中嶋は緊急昇格に対応できる「保険」の役割を担っていた。体力的には既に限界であったが中々引退を認めて貰えず、2015年に翌2016年に北海道新幹線が道南まで開通することが決まり一軍・二軍間の交通面が改善されたこと、捕手登録であった近藤健介が外野手へコンバートされたことで近藤の緊急時の捕手起用が可能となったことが切っ掛けでようやく現役生活から解放された。


原理研究会統一教会

2023年10月15日 10時34分26秒 | 事件・事故

1960年代以降に社会問題

原理研究会(大学における原理研究会。CARP)とは、世界平和統一家庭連合の総裁、文鮮明が提唱した「統一原理」を研究する非営利団体。

略して「原研」、「原理研」または英名の略称で「カープ」と呼ばれることも多い。

厳密には個々の大学にある原理研究会という学生サークルの連合体である。

現在は、個々の大学または大学周辺地域の学生サークル活動として統一原理にある「為に生きる」という理念を基に、ボランティアなどの地域貢献活動を行っていると称するが、実際は統一協会に勧誘する為の偽装サークルである。

また、「学生新聞」の活動を隠れ蓑にするケースや、原理研の名前を隠して勧誘するケースも多い。

「大学公認」「学内のオピニオンリーダー」と表示するのも特徴の一つである[3]。

概要
発足直後の1960年代以降に社会問題になり、複数の事件・訴訟が発生した。

原理研に加入した学生は学業を放棄して活動に熱中し、帰宅せず教団関連施設に泊まり続けるようになった。

さらには親に「金を出さなければ親子の縁を切る」「遺産の前渡しだ」などと寄付金を要求し、要求が受け入れられないと断食をしたり、「サタン」と親を罵ったり、「殉教する」と自殺をほのめかしたりと、異常な言動をするようになり、「家庭破壊」の被害が続出した。

原理研の活動は、路上での布教や募金活動を不眠不休で行うなどの重労働で、過労で入院する学生も多かったという。

原理研の運動が盛んだった早稲田大学では、大学側は学生に対し学業に復帰するように要請するも、布教に専念するために退学に至る学生も現れた[4][5][6]。

学生の中には精神異常に陥る者も少なくなかったとされ、1969年に教団に入信した宮城学院女子大学の学生は、両親を「汚れている、サタンだ」と罵る様になり、そのうち幻聴、幻覚と見られる症状が見られるようになった。

彼女はたびたび錯乱状態に陥り両親はそのたびに精神科に入院させた。彼女のグループの同世代の女性信者には入水自殺するものもいたという。

原理研による家庭崩壊の被害に遭った親らは、「原理運動対策全国父母の会」を結成、渋谷にある統一教会本部前で「わが子を家庭、学校に返せ」などのプラカードを掲げてデモ行進を行った。

当時の父母の会が、日本弁護士連合会人権擁護委員会に提出した調査統計によると、全国119名の調査対象者のうち、行方不明は32人、死亡者は3人、精神異常は49人、家出状態は90人に達していた。

この統計は調査表に回答した分のみであり、父母の会が把握している被害者はさらに多いとされた[7][8]。

このような異常状態に陥る学生が多発していた背景には、修練会での激しい教義の叩き込みがあった。

1975年2月に『東京新聞』に掲載された元信者(25)の手記には、教団の教典『原理講論』の堕落論を説かれた時に、体に衝撃波が走り、講師の声が天の声のように降り注いだかのような感覚に襲われたと記されている。

彼女が誘った知人は錯乱状態に陥り、大声を張り上げ、裸足で修練場から走り出した[7]。

修練会では、数週間にわたって拘束され、人間は罪の塊であると叩き込まれ、罪の意識を植え付けるように徹底される。

このために講師が熱弁を振るい、断食をさせた上で、深夜まで祈祷もさせる。

その上で救いの手段として、再臨のメシアに清められた神の子にならなければならない、神の子同士が結婚をして、神の子を産み、理想の社会を作らなければならない、と教え込む。

人間を恐怖で限界まで追い込み、各種の手法で脳機能を低下させた上で、特定の暗示を植え付ける修練会での手法は「洗脳」の典型とされる[7]。

原理研究会は国会でも問題視され、1977年2月7日の衆議院決算委員会で石橋政嗣が、当時の総理大臣であった自民党福田赳夫に対し、「原理運動被害者父母の会」が内容証明で請願書を送付したことに触れている[9]。

入信者のほとんどは、かつて親に心配をかけたことのない純真な若者たちばかりであるが、入信してからは強烈な教義をたたき込まれ、学業、職場を放棄して家出し、集団をつくり、戸別訪問での押し売り、街頭での強要、募金活動、見知らぬ異性との集団結婚、海外渡航等を実行し、悲嘆に暮れて説得を繰り返す親兄弟を悪魔と呼ぶ始末である。

そして、その中の多くの若者は身体衰弱、精神錯乱、自殺、行方不明となり、先般はアメリカで殺害されるという事件も発生しているというのである。ところで、この運動は、韓国人文鮮明なる者を教祖とするもので、キリスト教を原理教義としているが、あらゆるキリスト教団は、この教義はキリストを侮辱し、ねじ曲げた驚くべきものと非難しているのである
— 1977年2月7日の衆議院決算委員会での答弁より[9]
現在でも多くの大学は「原理研究会」への注意喚起を公式に発信している[10]。

上智大学は「巧妙な手段を使ってキリスト教の学校や諸機関にまぎれこみ、騙された人を引きずりこんで、あちこちに被害が出ています」としており、青山学院大学は「サークルのふりをした危険な宗教団体」として、一般的なキリスト教の教えと大きな隔たりがあると、警告を発している[11][12]。

来歴
1964年4月[13]または1964年7月または1964年9月[14]または1966年1月[15]または1969年9月 - 統一原理を研究する団体として、日本において「全国大学連合原理研究会」 が発足。
1967年12月 - 教団信者2人が大分県内の滝壺で溺死、原理運動の修練活動中だったと見られる[16]。
1968年9月 - 「原理運動対策全国父母の会」は教団会長の久保木修己を刑事告訴した。

告訴状によると、神奈川県厚木市に総工費7億円で「修練所」を建設すると称し、学生の親から寄付金を募ったが、募金終了後1年以上たっても着工せず、経理報告もしなかったため、寄付金詐欺であるとした[17]。
1970年8月 - 原理研の修練会に参加していた学生が、全身打撲による衰弱で死亡した。原理研の幹部らが不法に監禁し医師にも診察させなかったことが原因として、関係者7人が書類送検されている[18]。
1975年2月 - 中央大学4年の男子学生が福島駅で行き倒れ状態で発見され、精神に異常がみられたことから両親は精神科に入院させるに至った。この学生は1974年5月に教団に入信したとみられ、両親に朝鮮人参茶を買わせるなどの経済活動を行っていた[7]。
1975年3月 - 秋田県内の海岸で上智大学4年の男子学生(22)が溺死体で発見された。

この学生は前年の12月に教団の修練会に参加後、発狂したとみられ、早稲田大学付近の路上を錯乱状態で徘徊していたところを警視庁戸塚警察署によって保護されていた。

両親は男子学生を仙台市内の精神病院に入院させたが、「自分を置いて帰るのなら死ぬ」と訴えたため秋田の実家に帰らせたが、その後突然失踪し、約50日後に遺体で発見された[7]。
1975年4月 - 被害者団体「全国原理運動被害者父母の会」が発足する[19]。
1975年12月 - 被害者団体「全国原理運動被害者父母の会」が自民党議員全員に対し「原理運動即時禁止令要請」の請願書を送付する。

この文章では「年間五万人以上の平和な家庭が崩壊するばかりでなく、数多くの精神錯乱、発狂者、自殺者などが続出する兇悪な新興宗教団体」とし、数多くの被害者家族の実態を挙げ、自民党に規制を訴えた[20]。
1976年 - フランスの「原理運動」パリ本部で手製の爆弾が爆発、教団関係者2人が重傷を負った。

原理運動はフランス国内でも社会問題化しており、「子供を取り戻す会」が全国で3つもつくられていた[21]。
1976年 - 米国の移民局は、「原理運動」に関与する統一教会の信者約700人を不法滞在者として国外追放する手続きを指示した。これらの信者の多くは、日本人と韓国人で、連邦判事が「宣教師見習」としての資格を認めないと裁定していた[22]。
1977年 - 原理運動に反対する「原理被害者更生会」の顧問が男女2人に鉄パイプで襲撃される事件が発生。顧問は統一教会に一時入信した経験から、原理運動の被害者を社会復帰させる活動をしており、これまで約100人を更生させたと話していた。

教団側は関与を否定[23]。
1977年 - 渋谷署は統一教会保安係の男(31)を傷害、暴行の疑いで逮捕した。男は、教団に入信した長男、長女と面会に来た「原理運動対策全国父母の会」のメンバーに対し、「不法侵入で110番するぞ。

帰れ、帰れ」と恫喝し、二人を手をつかんで押し出し、壁に体を押し付けるなどの暴行を加えた。また、別の日に教団責任者に面会を求めてきた「父母の会」のメンバーにも暴行、全治5日のけがをさせた[24]。
1977年6月 - 早稲田大学で「在日韓国人政治犯救援会」が原理研究会と公開討論を行い、その中で原理研は、教団の活動が大韓民国中央情報部(KCIA)に好感を持たれていること、原理研が勧誘活動で入手した資料や写真がOBを通じて、KCIAに流出する可能性があることを認めている[25]。
1978年 - 青山学院大学で、原理研究会と対立する「反原理共闘」のメンバーら合わせて約20人で乱闘騒ぎが発生。1人が全治5日のけが[26]。
1982年 - 東京大学駒場北寮で、反原理運動サークル「文理研」の寮生3人がいる部屋に、約10人の男が乱入し殴る蹴るの暴行を加えた。駆けつけた警察官に対して、一部学生らがスクラムを組んで立ち入りを拒んだために、機動隊が出動し4人が公務執行妨害で逮捕された[27]。
1983年 - 徳島県で原理研に加入した娘を家に連れ帰った親を相手取って、原理研側が人身保護請求訴訟を提起した。徳島地裁は「娘の幸福を願った親の愛情に基づく正当な親権の行使」として請求を棄却している[28]。
1985年 - 創始者、文鮮明の長男、文孝進が世界大学原理研究会 (W-CARP) の世界会長に就任。
1988年12月 - 「原理研究会」の指示に従って就職した元信者が、理由もなく給料を天引きされ、1日あたり1100円の賃金しか支給されず、毎日15時間から21時間にわたる長時間労働も強いられ「タコ部屋同様の生活を強いられた」として、元勤務先の「セイロジャパン」に対して未払いの賃金や慰謝料を求める訴訟を東京地裁に提起した[29]。
1992年 - 文鮮明の三男、文顕進が世界大学原理研究会の世界会長に就任。
1999年 - 原理研の勧誘のために東京大学教養学部2年の男子学生(19)に信者であることを明かさずに接近した女子学生(20)が刃物で刺され、全治1か月の重傷を負う。

事件以前、男子学生はストーカー行為を繰り返していたとされる[30]。
2000年10月26日から11月9日 - 「CARPアカデミー訪韓セミナー」を開催。
2001年 - 統一教会副会長(当時)の徳野英治 がワールドカープ・ジャパン (World CARP Japan) の会長に就任。
関連する主な事件
散弾空気銃問題
1968年秋頃から、原理運動の関係者の間で、韓国製の散弾空気銃が出回っていることが判明し、問題となった。

この銃は全国の原理運動関係者に市販され、1969年2月1日までに793丁の所持申請が警察に出された。

63丁は年齢などの問題で受理されなかったが、446丁は猟銃扱いで許可された。

この空気銃は通常よりも威力が高く、散弾銃に近い性能をもっていることから、禁止の方向で検討が始められた[31]。

川口記念セミナーハウス事件
1972年の川口大三郎事件に端を発した第3次早大闘争後[32]、早稲田大学総長の村井資長は、リンチ被害者の母親を館長にした「川口記念セミナーハウス」の建設計画を原理研究会から提案され、主旨に賛同した村井夫妻は自身の伊豆の別荘を提供、被害者母に大学から払われた見舞金と原理研系の「早稲田学生新聞会」による街頭募金を原資に建設が進められ、1976年に完成したが、登記簿に統一教会の修練場とあるのを知り、驚いた村井が別荘地を売り払おうとしたところ、セミナーハウス建設委員会と妻の禎子の署名入りで建物と土地を統一協会に寄進する旨の「お願い書」の存在を知る[33]。妻ともども騙されたと感じた村井は1978年にルポライターの茶本繁正らと「原理運動を憂慮する会」を結成し、その代表世話人となった[33]。村井は一連の経緯を『週刊ポスト』で告発するも訴訟沙汰となった[33]。

目的・方針
1972年10月に作成された内部文書『J・CARPニュース』によると、原理研究会の「第一回全国指導者研修会」で出された方針は以下の通りである[14]。

基本方針 - 「毎年五百名の卒業生を出す。卒業後は全員十字軍へ」「一万二千名復帰。一人月一名復帰」「一年間で千二百名の教授復帰。百二十大学の総長への影響圏」「東大を中心とした自治会復帰。特に主要大学の自治会復帰」
スローガン - 「人や社会に希望をあたえよう」
2022年 『World CARP JAPAN』公式ホームページより 

基本方針 - 「教育が人を作り 人が未来を作る」
大学生が世界平和のビジョンを描き、自らの人生の使命を見出せるように真理探究の機会を提供。
平和思想の研究と実践を通して、大学生の倫理観と道徳観を高め、世界を愛する心を育む。
青少年の退廃と家庭崩壊をもたらす利己的個人主義を克服し、“ために生きる文化”を定着させ、平和な世界の実現に寄与。
組織
世界大学原理研究会
世界的にまとめているのは1984年11月に発足した「世界大学原理研究会」(W-CARP / World CARP /World Collegiate Association for the Research of Principles)[34]で、公式ウェブサイトでは『W-CARP JAPANは、「志」をもった若者を育成し、輩出する人材育成団体』と説明している。

初代会長には文鮮明の長男で当時22歳だった文孝進が就任した[34]。

世界80か国で活動[13][35]。日本では70の大学にあるとされる[35]。

全国大学連合原理研究会
日本においては1964年4月[13]または1964年7月または1964年9月[14]または1966年1月[15]または1969年9月、統一教会の教祖、文鮮明が提唱する統一教会の教理“統一原理”を研究する団体として「全国大学連合原理研究会」 (Japan Carp 、略称・J-CARP )が発足し[15][36]、全国の各大学の学サークルである「原理研究会」が加盟している[37]。

日本の統一教会においては、「原理研究会」という別組織ができたことで学生がそちらに取られ、人材の低下や男性信者の比率が落ちたため[15]、1978年[14]、教団内部に「学生部」が作られるようになった[15]。

アメリカ合衆国における原理研究会
アメリカでは 1971年暮れに統一教会が進出した後、1973年に原理研究会 (CARP) が設立され、若者の多くはこの原理研究会を通じて統一教会に入信した[38]。

統一教会との関係
実体として一体、とする主張の根拠となるもの
文鮮明自身がアメリカ上院公聴会で「世界の人々を独裁主義から解放するため、私は国際勝共連合を設立し、更に大学に原理研究会をつくった」と証言している[14]。
世界大学原理研究会の初代会長には文鮮明の長男文孝進[34][14]が就任し、その後の会長も文鮮明の息子や統一教会の幹部ばかりである。
日本の全国大学連合原理研究会初代会長の太田洪量は1970年10月の合同結婚式に参加した[39]。『世界日報社』取締役も務めた[14]。
浅見定雄が入手した『信仰・理想・情熱━はばたく原研』と題する宣伝用のパンフレットには統一教会の教理解説書である『原理講論』はすべての原理研究会の会員が学ぶ基本テキストである旨が記されているという[40]。
別組織、とする主張の根拠となるもの
いずれも当事者である統一教会・原理研の主張。

1977年4月11日 - 東京法務局が統一教会の本部で、総務部長、公報企画部長に聴取した際に、統一教会側は「原理研究会は統一教会の下部組織ではなく、学生の自主的団体。百二十の大学に作られており、会員は約五千名。」、「年間三十億円ある資金はすべて信者の献金によるもの。」と説明した[41]
『ムーニズム』という統一教会の運動を意味する題名の雑誌を発行していた中で、統一教会の教えである「統一原理」に対する統一教会に反対する牧師による反論を掲載していた[42]。
2007年 - この時点においては「当法人とは別組織であり、それぞれ設立目的や趣旨、活動などが異なる団体です」[43]と説明している。
公式サイトでは、原理研究会が統一原理を利用していることに対し、『「統一原理」は、宗教法人「世界基督教統一神霊協会(略称:統一教会)」 の教理解説書でもありますが、W-CARP JAPANとは、別の団体です。W-CARP JAPANは、統一原理を理念とした「人材育成団体」であり、非営利組織です。』と説明している。
大学における活動
主な活動は教義である「統一原理」の学習である[44]。

一般的にはボランティアで街の清掃や大学案内などの活動を行っていると主張している。また学生新聞の発行を行うサークルを立ち上げている大学もある。近年では、これらに加え、SDGsを絡めた勧誘活動をしている。[45][46]。

医学生や看護学生に対しては「平和医学アカデミー」「医療奉仕団」などの海外派遣も行っている。

活動歴のあるCARP(原理研究会)
旧帝国大学
東京大学の『東京大学CARP』原理新聞は『東大新報』
京都大学の『KYOTO CARP』原理新聞は『京大学生新聞』
北海道大学などの『北海道カープ』原理新聞は『北大学生新聞』
東北大学の『東北大CARP』原理新聞は『東北大学生新聞』(通称ナマ新聞)
名古屋大学の『名古屋大学CARP』原理新聞は『名大ジャーナル』
大阪大学の『阪大CARP』原理新聞は『大阪大学新聞』(横題字、通称ヨコ新聞)
九州大学の『九大CARP』[47]原理新聞は『九大学生新聞』
在東京私立大学
早稲田大学の『ワセカープ(早稲田大学カープ)』原理新聞は『早稲田学生新聞』
慶應義塾大学の『慶應CARP』原理新聞は『慶応キャンパス新聞』
明治大学の『明治カープ』
立教大学の『立教大学CARP』
青山学院大学、明治大学、駒澤大学、國學院大学、立正大学、東京農業大学、神奈川大学などの『渋谷CARP』
中央大学、東京都立大学などの『八王子CARP(中大カープ)』
東京理科大学、法政大学、専修大学、日本大学、東洋大学などの『理科大CARP(飯田橋CARP)』
その他の国公立大学
岩手大学などの『岩手CARP』
山形大学の『山形CARP』原理新聞は『山形大学生新聞』
福島大学などの『福島CARP』
筑波大学、茨城大学などの『筑波CARP』原理新聞は『筑波ジャーナル』
宇都宮大学などの『栃木CARP』
群馬大学などの『群馬CARP』
埼玉大学の『埼玉大学CARP』原理新聞は『埼玉学生新聞』
千葉大学などの『千葉CARP』
新潟大学の『新潟カープ』
富山大学の『富山大学CARP』
金沢大学などの『金沢CARP』原理新聞は『金沢学生新聞』
福井大学などの『福井CARP』
静岡大学(浜松キャンパス)の『静岡CARP』
神戸大学、神戸市外国語大学、関西学院大学、甲南大学、兵庫医療大学などの『神戸CARP』
岡山大学などの『岡山CARP』原理新聞は『岡大ジャーナル』
広島大学などの『広大CARP』
愛媛大学、松山大学などの『愛媛CARP』
島根大学の『島根CARP』
鳥取大学の『鳥取CARP』原理新聞は『鳥取学生新聞』
山口大学の『山口CARP』
佐賀大学の『佐賀大CARP』
熊本大学の『熊大CARP』※2022年7月、twitterアカウント名を『熊大SDGS』に変更、原理新聞は『熊大学生新聞』
その他私立大学
名城大学、中京大学、岐阜大学(国立)などの『名成CARP』
関西大学の『関大CARP』
近畿大学、大阪商業大学などの『近畿CARP(東大阪CARP)』
広島市内の大学の『広島中央CARP)
福岡大学などの『福大CARP』
学生新聞
大阪大学の『大阪大学新聞』[48](横題字、通称「ヨコ新聞」。正規の新聞は縦題字の『大阪大学新聞』)[49]
岡山大学の『岡大ジャーナル』[48][49]
金沢大学の『金沢学生新聞』[48][49]
岐阜大学の『岐阜学生新聞』[48]
九州大学の『九大学生新聞』[48]
京都大学の『京大学生新聞』[49][48]
熊本大学の『熊大学生新聞』[49]
慶應義塾大学の『慶應キャンパス新聞』[49][50]
神戸大学の『神戸学生新聞』[49][48]
埼玉大学の『埼玉学生新聞』[49]
静岡大学の『静岡大学新聞』[48]
千葉大学の『千葉大学生新聞』[48]
中央大学の『中央キャンパス』[48]
筑波大学の『筑波ジャーナル』[51][49][48]
東京大学の『東大新報』[49][48]
同志社大学の『同志社大学新聞』[48]
東北大学の『東北大学生新聞』。通称「生(なま)新聞」。東北大学が公認する正規の学生新聞は「東北大学新聞」である。[52][49][48]
鳥取大学の『鳥大学生新聞』[48][49]
名古屋大学の『名大ジャーナル』[49][48]
新潟大学の『新大キャンパス』[48][53]
日本大学の『日大学生新聞』[48][49][54]
広島大学の『広島大学新聞』[55][48]
北海道大学の『北大学生新聞』[48]
明治大学の『明治学生新聞』[48]
明治学院大学の『明治学院学生新聞』[48]
山形大学の『山形大学生新聞』[56][57][49]
山口大学の『山口大キャンパス』[48]
立教大学の『立教学生新聞』[48]
早稲田大学の『早稲田学生新聞』[48][49]
指導者セミナー
1973年に文鮮明の提唱で始まり、有名大学の3、4年生、大学院生を対象に、渡航費無料、滞在費無料でアメリカに招待し、アメリカ各地を渡り歩く間に「ムーニズム」「統一思想」を吹き込んでつながりをつけ、教授や高級官僚に送り込もうというものである[58]。

類似団体
教師原理研究会 TARP(Teacher Association for the Research of Principles)は、教育関係の信者が所属する団体。2021年の研修会では200名以上が参加し、梶栗正義UPF-Japan議長が講話。性教育、ジェンダー、LGBTなど、様々なディスカッションが行われた。

脚注
^ a b c ワールドカープ・ジャパン. “World CARP JAPANについて”. 2017年5月30日閲覧。
^ ワールドカープ・ジャパン. “私たちCARPの歴史”. 2017年5月30日閲覧。
^ “原理研究会・京大学生新聞にご注意”. 京都大学新聞. 2023年2月6日閲覧。
^ 『朝日新聞』1967年7月7日号 夕刊 10面
^ 『朝日新聞』1967年7月15日号 夕刊 10面
^ 『朝日新聞』1967年8月8日号 朝刊 14面
^ a b c d e 茶本繁正『原理運動の研究』晩聲社 p110~130
^ 『朝日新聞』1967年9月17日号 朝刊 14面
^ a b 第80回国会 衆議院 予算委員会 第2号 昭和52年2月7日
^ 【ABC特集】就活イベントが実は“カルト”? 素性隠して勧誘、手口に大学が警鐘 旧統一教会系の学生団体「CARP」とは
^ "「キリスト教」を名乗る団体について". 青山学院大学. 2022年8月4日閲覧。
^ "近年では、キリスト教の諸派の間で相互の対話や協力が盛んになったと聞きます。それではなぜ、「統一協会はキリスト教ではない」と言って排斥するのですか。". 学校法人上智学院. 2022年8月4日閲覧。
^ a b c ワールドカープ・ジャパン公式ウェブサイト
^ a b c d e f g 『わたしは“洗脳”された』, pp. 133–137.
^ a b c d e 浅見 1987.
^ 『朝日新聞』1967年12月6日号 朝刊 15面
^ 『読売新聞』1968年9月29日号 朝刊 14面
^ 『朝日新聞』1970年8月15日号 夕刊 9面
^ 荒井荒雄『日本の狂気:原理運動謀略と自民党岸信介原罪論 3』p312
^ 荒井荒雄『日本の狂気:原理運動謀略と自民党岸信介原罪論 3』p314~315
^ 『朝日新聞』1976年1月24日号 朝刊 23面
^ 『読売新聞』1976年9月6日号 朝刊 3面
^ 『朝日新聞』1977年2月6日号 夕刊 19面
^ 『読売新聞』1977年4月12日号 夕刊 7面
^ 『朝日新聞』1978年3月17日 朝刊 3面
^ 『読売新聞』1978年7月1日号 朝刊 22面
^ 『読売新聞』1982年11月29日号 朝刊 22面
^ 『朝日新聞』1983年12月12日号 夕刊 15面
^ 『朝日新聞』1988年12月14日号 朝刊 26面
^ 「東大生男女刺傷事件 女子学生は統一教会「合同結婚式」に参加していた!」『週刊文春』1999年2月4日号 p170~171
^ 『朝日新聞』1969年3月10日号 夕刊 11面
^ 「村井総長を連去る 講義中 覆面学生がつるし上げ 早大」『朝日新聞』 1973年5月8日夕刊
 a b c 週刊文春. 34(27)(1693)p193~195


利根輪太郎の競輪人間学 またも出目作戦を忘れる

2023年10月15日 03時21分22秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 小田原競輪  施設整備協賛小田原城下町音頭杯

8レース 1-9

9レース 9-1

10レース 2-5

11レース ?

9レースでの出目作戦なら、当然上り目9-2が車券の軸となる。

だが、そのことを忘れてしまう。

大きなチャンスを逃してしまった。

しかも、

「外れた車券を追いける」ことも出目作戦なのだ、根輪太郎は10レースに9-2の3連単で勝負していたのだ。

7レースに取手競輪に到着して、10レースまでに、8000円を失い、残るのは2000円のみになる。

出目作戦の不徹底さを、利根輪太郎は今更ながら悔いるのだ。

結果論であるが、7番の取手地元の長島 大介選手に惑わされる。

11レース

並び予想 3-6-4 7-1 8-2 9-5

レース評

長島−宿口は特選組の連係だ。格上の力を誇示してワンツー。久田が連日の先手取りで奮戦していて、番手の田尾に好展開も。

結果 9-2 1万9,980円(47番人気) 9-2-1 177,120円万7,120円(316人気)番




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 9 久田 裕也   10.2 B 裸逃げ押切
2 2 大塚 玲 1/4車輪 9.9   中割り迫る
3 1 宿口 陽一 3/4車身 9.9   S 前不発外伸
4 3 脇本 勇希 1/4車輪 9.8     叩かれ中団
  5 8 川越 勇星 3/4車身 10.2     番手嵌るも
× 6 5 田尾 駿介 1車輪 9.9     久田に離れ
7 7 長島 大介 1/2車身 10.2     捲り張られ
  4 不破 将登         乗上げ落車
  6 吉田 茂生         HS落車し

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 赤板で久田裕也と吉田茂生と接触があり、吉田、不破が落車するアクシデントがあるも、久田が鐘過ぎに川越勇星を叩き先行し押し切り首位へ。
 一着の久田は「今日は僕の誕生日だったので一着取れいいお祝いになりました。でも先行するか、中団にいるかで迷ってしまったのでそこは反省点だし、赤板で吉田茂さんと接触して仕掛けるタイミングがずれて後ろの田尾駿さんに迷惑をかけてしまった。記念の決勝は二回目です」。
 二着は川越目標にG前中伸びた大塚。「これで神奈川三場全て記念決勝に乗れました。本当は前中団が良かったが、僕がスタート失敗してしまい後ろ中団に。長島大君の捲りも対応出来なかったが、川越勇君が全て対応してくれた。最後中割った感じだけど余裕はありました。連日軽くなってきてるし、決勝はもっと良くなってると思う」。
 三着は長島目標にG前外伸びた宿口。「長島大君が行き切るかと思ったが、前を庇いながら踏んで何とか三着に。出切って最後ワンツー勝負したかったが残念です。今節は森田優君とも連係したかった。脚的には良いと思う」。

 

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 7番選手が失格に!

2023年10月15日 02時44分59秒 | 未来予測研究会の掲示板

過去にもあった1着選手が失格!

的中した車券を競輪仲間に示す、

「うまいな」と二人の仲間が利根輪太郎の車券を覗き見る。

だが、1着の7番選手が失格となる。

7-1-4が1-4-3に。

「あ~ついてない!」と落胆する。

1万円の金が、最終レースには1000円のみとなる。

「挽回のためには、穴車券を買うほかない」と背水の陣になる。

7-1ー4(62・1倍) 7-1-6(29・2倍)7-1-8(55・3倍)

7-1-9(68・7倍倍)を各200円買う。

 だが、7番は失格する。

GⅢ 小田原競輪 施設整備協賛小田原城下町音頭杯

3日目(10月14日)

12レース準決勝戦

並び予想 1-7-5 8-2-4 6-3-9(

レース評

北井は危なげなく二次予選を逃げ切った。準決でもレベルの違う走りを見せてくれる。マークは初日に差した松坂だ。

1番人気 1-7 7-1共に(2.6倍)

 

7-1-4は62・1倍であった。
 
結果 1-4 7,890円(17番人気) 1-4-3 10万1,690円(123番人気)
 



選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 北井 佑季   10.1 SB 突張り先行
  2 4 磯田 旭 1車身1/2 9.7   落避け繰上
× 3 3 山本 伸一 3車身 9.9     落車避けて
4 6 伊藤 信 大差       北井叩けず
  5 8 山本 勝利         妨害受け落
2 岡 光良         前に乗上げ
5 堤 洋         落車巻込れ
  9 松尾 信太郎         落車巻込れ
7 松坂 洋平         斜行し失格

 

 

戦い終わって

戦い終わって写真

 最後の準決勝は落車もあって波乱の決着となった。自ら前取った北井佑季が突っ張るも、後方の伊藤信も叩きに行く。伊藤を振り切って北井が主導権を取り切るも。車間空けて振った松坂洋平に引っかかり岡光良、堤洋、山本勝利、松尾信太郎が落車。最後北井を差した松坂だったが斜行で失格。北井が繰り上がっての一着。「自ら前を取り、そこから突っ張りました。松坂さんが失格になってしまって残念…。後ろの援護があっての先行だったので、感謝してます。伊藤さんが来て踏み合いになったけど、その中でも33の特性を生かして踏んだり流したりできました。最後も松坂さんが車間空けてくれて残れました。身体は日に日に自然と良くなるし、決勝はより気持ちを入れて」。

 落車を避けて二着に入ったのは磯田旭。「初手は理想の位置。山本勝君を信頼していました。落車があって避けてどうにかって感じでしたね。身体の感じはどうにか。少しずつ良くなってきていると思います。あとはケアをして臨めれば」。

四着入線も、伊藤信に付け切り替え追って山本伸一が繰り上がって三着で決勝入り。「初手はできれば前で、取りに行ったけど取れなかったので。赤板から伊藤君が仕掛けて、頑張ってくれて。自分も下りる準備とかしつつ、何とか気持ちに応えられるようにと。下りる隙も無かったけど、最後は(落車で)ラッキーとしか。みんな内に来ると思って、外踏む準備してたのが良かったのかな。コンディション的には良いと思う。動けるときはしっかり動きたいし、決勝は単騎で」。