幸恵は受け身の女ではなかったが、夫の直人は与えるより、要求するばかりの厄介な男に思われてきた。
「結局、あなたには、包容力がないのね」幸恵は夫をなじる。
妻に責めれた夫は、男の価値を問われたような焦りを覚えた。
夫の直人が、幸恵の妻としての女のあり方を度外視して、拘束するとすれば二人の関係はますますこじれてしまう。
その背後にあるのは何かと言えば、夫のコンプレックに起因するのものではなかっただろうか。
貰いが少ないと言って、路傍の乞食が金銭を与えた人に食ってかかるようなものだ。
コンプレックスに囚われた夫の姿は、そのような形容にあたはまるように幸恵には思われた。
妻になじられて、夫の直人は改めて己の不甲斐なさを恥じた。
直人はもはや、「社内旅行に行くな」とは言わなくなる。
だが、直人の心に鼻白むものがあることは隠せなかった。
参考:鼻白む(はなじろむ):状態が思わしくなくなってきた時の気後れしたような表情が「鼻白む」。
その夜、ベッドに入ると、直人はいつになく激しい性行為を行った。
結婚して7年の歳月が流れおり、夫婦の性関係はそれなり変貌してきた。
幸恵が何時も性に淡泊な夫をリードしてきた。
常に夫をリードするほどに性行為に熟達してきたが、余りの荒々しい夫の行為は萎えるのもあっけなかった。
直人はその行為のあっけなさに恥じている様子で、直ぐに背中を向ける。
幸恵はベッドから起き上がり、台所へ水を飲み行く。
4畳半の部屋を占領するような大きなベッドだった。
その幸恵の高校時代の親友の青山園子が、3か月前にくれたものだった。
園子は今まで同棲していた男と別れて、見合い結婚をした園子は、同棲していた頃の家財の一切を処分する。
幸恵は前々からベッドが欲しかったので、喜んでダブルベッドを引き取った。
「別れた男女のお古のベッドなのか、俺は幸せに眠れるのか?」直人は苦笑をもらす。
幸恵は夫と自分の感じ方の相違として、夫の言葉を受け止める。
幸恵は結婚して初めて社内旅行へ行ったのだ。
その社内旅行に夫が異様なまで反対していたことは、幸恵の頭から離れていた。
那智山から海へ向かってところに南紀勝浦温泉がった。
南紀は小山が綿々として、紺碧の海の潮に山肌がせり出していた。
大小の岩が湾に散らばりて、太陽が西に傾くとうずくまった黒い影が異彩を放った。
大きな広間での酒宴は、もうお開きに近く惰性的な献杯、返杯が繰り返されていた。
ある席では卑猥な話で盛り上がっていた。
崩れかかってきたような席は、一人、二人と立ち上がる人が出て、自然と散会の様相となっていった。
それでも最後まで席にへばりついいる二、三のグループがあった。
その人達は空席となったお膳から、なおも銚子を集めてきて飲み続ける。
お膳は余った料理も多くて、再度に賑わいを見せる。
幸恵は他の同僚とともに席を立ってもよかったのに、大沢治夫のことが気にかかり席を離れずにいた。
同僚たちは、新婚の大沢を酒の菜(肴・さかな)にしはじめていた。
幸恵は最初、同僚に交じって大沢に対して冷やかしを言っていた。
内気な大沢は人がよくて、同僚たちに言いたいことを言わせていた。
酒の強い大沢が献杯を決して断らない。
日本酒を相当の量口に運んでいたのに、ほとんどを身を崩す様子を示さないでいた。
やがて、呂律が回らなくなった同僚の木村健作が大沢に絡みはじめる。
「大沢、貴様はそれでも男か。なんで女の言うことに、そう逐一うなずくんだ。気にくわんな!反論の一つもないのか。女の言うことにごもっとなんて面をするな!俺は貴様のような軟弱な奴は殴りたい」
大沢は如何に情けなそうな表情を浮かべる。
大沢の大きな体は滑稽なほど身を縮める。
まったく受け身となっている大沢に対し木村はなおも悪態をつく。
「女なんて、殴ってやれ、女は貴様が思うような人間じゃないんだ。餌をもらう豚と同じだ。女にはまともな考えなんてありやしない。甘やかすとつかあがるばかりなんだよ。貴様のような女々しい男が増えたから、女はまします性悪になっていくんだ。わかるか!」
「そんな言い方、ひどいわ、私がこれまで喋ったこが生意気なら、私謝ります」幸恵は思わず口を挟んでいた。
「ねえ北島さん、そういうことじゃないよ。大沢の女々しい態度に俺は文句があるんだ」大沢はいくらか声を和らげる。
木村は理屈っぽい男と同僚たちから敬遠されがちであったが、根は悪い人間ではなかった。
また、木村は好悪感情が激しく、感覚的に大沢の言動に相容れないものがったようだった。
こいう木村に対して大沢は、戸惑っているばかりで、言い返すことはなかった。
木村にはサディスティックな面もあって、自分の意見を強く押し出せない大沢のよな男に対して粗暴にもなった。
「木村君、どうでもいいだろう。飲め、飲め、宴会の席だ楽しめ」中西英二が徳利を三村に突き出す。
木村は、忌々しいという一瞥を大沢に投げながら、盃を中西に向ける。
「幸ちゃん、今夜は旦那を家に一人でおいて、旦那に浮気なかされないかい?」中西はニヤリとした。
冗談を心得ている幸恵は、「旦那のこと心配になってきたから、家へ電話してくるわ」と言って席を立った。
「大沢さん、私、酔ってしまった。足下が怪しくなったから、電話のあるところまで、着いてきてね」幸恵は目くばせをする。
大沢は席を立つイ良いチャンスを思ってのだろう。
同僚たちの冷やかしをあとに大沢は幸恵と共に宴会場を出て行く。