利根輪太郎の競輪人間学 またもチャンスを逃す

2023年10月17日 22時13分58秒 | 未来予測研究会の掲示板

実は、地元の取手競輪場での相性は良くないのである。

7レース 2-7

8レース 2-6

9レース 7-1

10レース ?

FⅠ 取手競輪 レジェンドカップ・サンスポ賞

並び予想 1-4 6-2-5 3-7

レース評

飯野と菊地は特選両者。内枠を得た飯野が位置取り有利に運び、最後はタテの脚で勝負する。横関の捲りにも魅力がある。

 

出目作戦では、当然 2-7か7-2が軸であるだ、2-6の下がり目の2-5を選択してしまう。

冷静さが掛けていたのだ、とても悔やまれたのだ。

1番人気 1-4(3・9倍) 2番人気 4-1(7・8倍)

競輪は一番人気では決まらないのだ!

結果 2-7 4,400円(17番人気) 2-7-1 2万6,580円(80番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 芦澤 大輔   11.7 S 番手絶好で
2 7 佐藤 龍二 3/4車輪 11.6   内をキメて
3 1 飯野 祐太 3/4車身 11.4     直線外伸び
4 5 佐藤 真一 1/2車身 11.6     割り込まれ
  5 6 小原 唯志 タイヤ差 12.0   B 逃げ末無く
6 4 菊地 圭尚 2車身 11.6     目標追込み
× 7 3 横関 裕樹 7車身 12.6     捲り不発で

 


家の内壁、階段の隙間にネズミがいる?!

2023年10月17日 21時55分08秒 | 日記・断片

2階の部屋から、次男が階段を下ってきたのだと思った。

だが、次男が1階の居間に姿を見せないのだ。

度々の騒音に、ネズミが動き回っているのだ、と確信する。

何処にも隙間がないので、ネズミは室内に入ってこれない。

階段と壁を叩くと、ネズミが逃げる音がした。

実家の天井にネズミが侵入し、住み着いていたことを思い出す。

どこかに、ネズミが外部から侵入する出入り口があったのだ。

例えば、ドブなどから家の壁内に侵入する通路があるのだろう。

猫が居ればと思う。


「聖書」から離れて人間はどれほど考えられるか

2023年10月17日 07時30分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼世界の不思議を一望してみたい。

知的な教養とは何か。

読書から学ぶことは多い。

▼モンテニュー、セルバンテス、トルストイに共通するのは、自分の生きている時にの戦争と革命の時代を克明に描いていることだ。

大きな危機や困難の中で、どう生きるべきか。

どう対処していくべきか。

それぞれの激動を生き抜く思想的な手立てを編み出してきた。

▼人は、その心を堅実にして、善く奮って悪と闘い、同時にまた善く、活き、善く信ずる道を学ばねばならぬ―モンテニュー

モンテニューは、カトリックとプロテスタントとの対立軸のはっきりした内乱の時代に生きている。

重要な点は、当然あるそんな「聖書」からの引用が、事実上ほぼないことだ。

人間性への思索の拠点を「聖書」に求めていない。

カトリックとプロテスタントも、「聖書」を求めており、その解釈を巡って人と人が殺し合う戦争が起っている。

つまり、「聖書」から離れて人間はどれほど考えられるか。

それを「試す」ことが背後にある。

▼キリスト教では、神が世界を創造し、イエスの出生と復活がり、終末の時がやってくる。

人類の歴史は、神による救済の歴史。

この「救済史」を、モンテニューは、現実の出来事を救済史に還元することをしない。

モンテニューの結論は<深い悲しみは、涙であるとか、言葉であるとか、仕草によって表すことができない>ということだった。

本当に深い悲しみでは、人間は石になる。慟哭もない。涙も流さない。

「普通の常識」というよりも、もっと深い見方にたどりつこうとした。

▼セルバンテスは、少年時代から、道に落ちている紙切れでも字が書かれていれば手にとって読むほどの読書好きであったが、父の仕事がうまくいかず、バリャドリードコルドバセビーリャと各地を転々とする生活であったので、教育をまともに受けられなかった。

だが1564年ごろ、マドリードに転居したセルバンテスはルネサンスの人文学者ロペス・デ・オヨスに師事する。オヨスは1568年に出版された詩文集にてセルバンテスを「わが秘蔵の弟子」と呼び、高く評価した

スペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、チュニスへの侵攻にも参加した

そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。

このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。

この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。

このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。

三位一体修道会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に最初の作品牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。

1585年に父親ロドリーゴが亡くなると、セルバンテスの家庭は本人・姉・妹・姪・妻・娘(私生児)の六人家族となり、稼ぎ手の少ない家計は逼迫した。無敵艦隊の食料調達係の職を得てスペイン各地を歩き回って食料を徴発するが、教会から強引に徴発したかどで投獄され、さらに翌年アルマダの海戦で無敵艦隊が撃破されたため職を失う。

その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行破産、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき1597年に投獄される。そのセビーリャ監獄の中には、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたという。『ドン・キホーテ』の序文でも、牢獄において構想したことをほのめかしている。

そして1605年、マドリードにて『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版された。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。

『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られなかったが、その後も創作活動は展開され、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終えた。

息を引き取った最後の借家はマドリード中心部の2つの通りが交わる地点にあり、片方の通りの名は彼の名を取りセルバンテス通りと名付けられている

▼トルストイはナポレオンをあくまでも矮小化した存在として描いた。

ここにトルストイ独自の歴史観が、強く働いている。

歴史というものは、一人の卓越したリーダーの力によって創出されるものではない、という透徹した眼がある。

高みから見下ろす<神>の眼差しだけの視点ではない。

それまでの歴史学におけるナポレオンが、いわば芝居の台本を渡されて行動しているにすぎないとことを明らかにする。

そして、いくつもの観点を含む、いくつのもの層を含む、多層的な歴史の中で、ナポレオンなりの役割を考えた。