「木村さんて、本当に嫌な人ね。あなたは、不愉快になったでしょ」廊下に出てから幸恵は慰めの言葉をかけた。
大沢は苦笑を浮かべただけで、反感らし言葉を口にしなかった。
「大沢さんは、静かなのね。うちの人もおとなしい性格なの。そして、うちは典型的なかかあ天下。大沢さんの奥さんはどんな方なの?」
「平凡な普通の女です」大沢ははにかむ。
幸恵は大沢が結婚をすると決まった時、何となく残念な気持ちになったことを思い浮かべる。
もしも、大沢が結婚しなければ、そんな感情も芽生えていた。
大沢が何度か見合いをして、うまく話が運ばれなかったことを同僚の噂で聞いていた。
見合いを勧めたのは大沢の上司である課長、次長たちだった。
大沢は喫茶店で働く女の子に惚れ込んだのに、言葉をかけれなかったというエピソードが社内に伝わっていた。
その女の子には残念ながら彼氏がいたのである。
五反田駅で惚れた女性が彼氏と待ち合わせをしていたことを、大沢自身が目撃して「とても残念だ」と彼は親し同僚に打ち明けていた。
幸恵は女性たちが、なぜ大沢の良さに心が動かないのか―と思ってみた。
「もしも、私が結婚していなかったら」幸恵は思いを一人膨らませ、頬を紅潮させたこともあった。
そんなことは、誰にも打ち明けれることではなかった。
大沢の存在が少なからず幸恵の心の片隅にあったことは、幸恵自身否めないことだった。
夫に電話などかけるつもりがなかったが二人はロビーの方へ向かっていた。
大沢は他の女性には気を置いて距離を保っていたが、幸恵に対しては不思議と拘りをもたなかった。
気心が通じる合う男女はそうはいないだろう。
男女の友情は成立するのものなのか?幸恵は想ってみた。
「外へ出てみませんか?」大沢の誘いは思いもよらないものだった。
「ええ、港の方へ行ってみたいわ」幸恵は誘いに応じる。
幸恵と大沢は同僚が多いなかで、安心していられる部分を互いの心の内に見出しているようであった。
表通りに出ると大沢は幸恵と肩を並べて歩くより、大股でずんずん先へ歩いていくのだ。
直ぐに潮の香りが鼻をついた、それは心持のよいものだった。
それは5月の草木の香りを含んでいるような甘いものである。
温泉の旅館街は開放的な雰囲気のなかに佇んでいた。
南紀の夜風は人を放逸な気分にするものであろうか。
旅館の浴衣がけの若い女が中年の男にもたれかかって歩いていた。
ある若い女性は正体を失うほどに酔っているようで、中年の男に支えられ歩いていた。
「嫌だわ。あんな風になって」幸恵は振り返る。
大沢は不快は表情を隠さずに、「うちの妻もあんな女です」と意外なことを口走る。
幸恵がどのように返答をしてよいのか、戸惑うばかりになる。
大沢は社内で妻の話をすることはなかった。
新婚生活に話が及んでも、大沢は社内ではつねに苦笑いを浮かべるだけだった。
幸恵は、照れから大沢が同僚の前で沈黙を通しているのだろうと考えていた。
妻を侮蔑するような大沢の反応が幸恵には心外だった。
「大沢さん、結婚してまだ半年くらいでしょ。楽しい良き時だわね」
幸恵の問いかけには答えずに、大沢は歩き続ける。
街は漁港特有の香りに包まれた。
幸恵は潮の香りより、生活の臭いに通じるような干し魚の鼻をつくような強い臭いに旅情を感じた。
大沢は南紀勝浦が古い漁港であり、遠洋漁業に向かう大型船も出入りしていることを幸恵に語る。
岸壁あたりには点々と灯かりともされていた。
「昔、船乗りに憧れたことがあるんですよ」大沢は岸壁にうずまっいる船影に視線を注ぐ。
「大沢さんが船乗りなら似合っていたでしょうね」幸恵は大沢の船乗り姿を想い描いてみた。
闇に立つ大沢の背中は幅広くて偉丈夫そのものに映じた。