石油ストーブを出す冷え込みに

2023年10月09日 16時50分35秒 | 日記・断片

今日の取手駅西口ウエルネスプラザでのイベント(健康まつり)は雨のために中止となる。

期待していたイベントとイベント会場に出店する浦島のウナギを食べ損ねた。

ところで、室内が寒くなったものだ。

外は雨が降り続いている。

仙台の楽天とロッテの野球は中止となる。

家人は「電気炬燵にしようか」とが言うが、準備がいる。

テーブルの上を整理したり布団を出したり、手間がかかるのだ。

そこで、石油ストーブにした。

それが部屋を直ぐに暖めてくれた。


対話 その前にわが心を澄ます

2023年10月09日 12時57分56秒 | その気になる言葉

▼何か大事業を志す人は眼を後世に向けることだ。

▼持論ばかりを互いに強調するのは「対話」というより「討論」だ。

▼対話は分かち合おうとする<歩み寄り>の姿勢が基本になる。

討論は相手を否定する言動になることがある。

▼たとえ意見や主義が違っても、相手のことを考える「もいやり」を持てばモチベーションや生産性は増し、ストレスや停滞感は減る。

▼「対話」とは、互いに異なる光を当て合うなかで、それぞれの生き方や進めべき道を、より豊かに、より鮮やかに、より広々と照らしていく、創造的精神の営為といえるだろう。

▼相手の声に耳を澄ます。

その前にわが心を澄ます。

ここに、価値的な対話の一歩がある。

 


 虐待をやめるために親ができること

2023年10月09日 12時53分54秒 | 社会・文化・政治・経済

【特集】子どもの虐待(3) 虐待をやめるために親ができること

記事公開日:2020年02月12日 NHK

シェアする子どもへの虐待。児童相談所への相談件数は年々増え続け、年間16万件に迫っています。番組にも虐待に悩む親子の声が多く寄せられています。ある40代の夫婦は、3年前まで、息子への虐待をやめられずに苦しんでいました。夫婦はなぜ虐待をしてしまったのか。どうやってやめていったのか。長い年月をかけて虐待から脱していった家族のあゆみをたどります。

想像以上に手がかかる子 虐待の始まり

今回、自分たちの体験をきちんと語って共有したいと取材に応じてくれた家族。母のメグミさんが息子を産んだのは27歳のときでした。

かわいいと思ったのもつかの間、間もなく、想像以上に手がかかる子だと気づきました。何をしても激しく泣き叫び、寝かしつけるのに2時間かかる。夜泣きは毎晩10回以上。しかし夫は夜勤で不在。頼れる人はなく、来る日も来る日も夜を徹してあやし続けました。

2歳になっても、夜泣きは続きました。さらに強い偏食や、かんしゃくにも悩まされるようになりました。

そしてついに、息子を叩くようになってしまったのです。このとき、メグミさんには虐待という意識はなく、気がつけば手を上げているという状態でした。

画像(イメージ)

「息子の泣く感じがすごく私を責めている感じがして。すごく攻撃されてる気がしてたんですよ」(メグミさん)

3歳になってもまだ夜泣きが続きます。指示がまったく伝わらない。こだわりが強く、思い通りにならないと泣き叫ぶ。そんな日ごろの様子から、息子には発達障害の疑いがあるのではと考えました。

救いを求めて、メグミさんは地域の子育て支援課に相談に行きました。しかし、保育園での様子を見た臨床心理士の答えは「問題ありません。健常です。」というもの。

息子は言語の発達が早く、周囲からは問題があるようには見えなかったのです。

「他の子どもたちと同じように育てなければ…」。さらに追い込まれていったメグミさん。虐待はますますエスカレートしていきました。

しかし、それでも息子の行動は変わらないまま。メグミさんは子育てに自信をなくし、外に出ることもできなくなりました。その後、娘の出産が近づき、息子の子育ては、主に夫のケンジさんが担うようになりました。

「(息子の子育ては)本当に大変で。今まで妻がこれをやってたんだというのが驚きで。もう絶対無理だと思って」(ケンジさん)

子育てのしかたがわからず、言うことを聞かないと、つい怒鳴ってしまったケンジさん。妻と同じように手を上げるようになっていきました。

画像(イメージ)

虐待の要因になったもの

虐待やDVを受けた人のカウンセリングに長年携わっている臨床心理士・公認心理師の信田さよ子さんです。子どもの泣く姿が自分を責めている、攻撃しているように感じるという母親の心理状況は、珍しくないと言います。

画像(臨床心理士・公認心理師 信田さよ子さん)

「虐待に関わってる者からすると、本当によくある発言なんですね。『一生懸命やっているのに…』と、相手がわずか0歳であっても自分の言うとおりにならず、泣き止んでくれないと、『この子は自分をバカにしてるんじゃないか、攻撃されてるんじゃないか』と思うことがあるんです。そういう気持ちになった時は、自分でもまずいと思ったほうがいい。助けを求めるチャンスだなって思ってほしいですね」(信田さん)

訪れた転機 発達障害の診断と息子からの問いかけ

家族に転機が訪れたのは息子が小学校に入学して間もなくのころでした。

授業中、座っていられず、立ち歩いてしまうという指摘を学校から受けました。そこで、発達の専門医の診察を受けることにしたのです。

画像(相談するメグミさん(イメージ))

結果は、発達障害。自閉スペクトラム症とADHDでした。

「そのときに、基本的にこうしてあげるといいですよという紙を2枚もらったんですよ。そこに『指示は短い言葉で』とか、『怒ったりするのは逆効果』というのが書いてあって。やっとこれで始まったって。これでなんとかしていけるんだって思いましたね」(メグミさん)

ようやく、息子との関わり方を相談できる相手が見つかったのです。その後も、医師や臨床心理士から、問題が起きたときにどう対処したらよいか学びました。

まず、親が落ち着くこと。
怒らず、1つ1つ優しく教えること。

しかし、その多くは当時のメグミさんにとって難しいことばかりでした。

「できませんって。すごくキレているときに、このまま本当に殺しちゃうかも、っていうぐらい、私すごく怒りを感じているんですって言いました」(メグミさん)

それを聞いた臨床心理士から、今は子どもを支援できる状態ではないと告げられました。そして、ある言葉をかけられました。「まずはお母さんが満たされることをしましょう。外に出かけて好きなことをしてみてください」と。

最初は驚いたメグミさんですが、週末を利用して、昔から好きだった文具や雑貨を扱うお店をフリーマーケットなどに出店。楽しいと思える時間を過ごすことで、自分を取り戻していきました。

発達障害についても積極的に学ぶようになりました。親向けの勉強会には夫のケンジさんも参加。他の親たちと交流しながら、息子の特性への理解を深めていきました。

「前だったら、ただ頑固で、融通が利かない子だと思っていたのが、実はすごく真面目だから、物事に真剣に取り組んでいるからこそ、そうなんだということがわかったり。そうやって行動の1つ1つを見ているうちに、愛着が湧いてきた」(ケンジさん)

それでも、思わず叩いてしまう、暴言をぶつけてしまうという行動を完全にやめることはまだできませんでした。

そんな自分たちを見つめなおすきっかけが訪れます。息子が小学校で、毎日のようにクラスメイトを殴っていると学校から連絡があったのです。

ケンジさんは厳しく叱り、「なぜ叩くのか?」と問いただすと、思いもよらない答えが返ってきました。

「『どうして叩いちゃいけないの?』って聞かれて。『えっ、いや、だって叩いたら駄目でしょ』と言いながら、自分(親)たちも叩いてることに考えが至って。愕然としたんですよね」(ケンジさん)

これまで、子育てのために仕方ないと思ってきたことが、実はやってはならない暴力なのだと気づかされたのです。2人は暴力と暴言をやめると、息子の前で宣言しました。

「両親が、私たちも叩くのをやめるから(あなたも)やめようって。本当?と思ってた。本当にやめられるの?あなたたち、とは思ってましたね」(息子)

宣言を確実に実行するため、夫婦で話し合ってルールを決めました。

息子に手を上げてしまいそうになったときには、冷静な方が、相手を止める。それでも怒りが収まらない時はその場を離れる。

画像(メグミさんが息子への不満を書き込んだノート)

メグミさんが1人でいる時は、息子への不満をノートに書き込むことにしました。暴力や暴言を、息子に向けないためです。

画像(メグミさんが息子への不満を書き込んだノート)

何度も失敗を繰り返しながらも、1日1日と手をあげない日を増やしていきました。両親が必死で暴力をやめようとする姿に、息子の気持ちも変わっていったと言います。

「『私たちもやめる』って言い出して。それで本当にやめた時にちょっと信頼感が出はじめたかな。有言実行したって感じ」(息子)

そして息子が11歳の頃。両親の暴力をふるってしまう衝動も収まりました。

息子は今は14歳。自分の意見を臆せず伝え、両親もそれに耳を傾けます。

「自信はないですよ、ただ努力し続けているので。とにかくもう『あの頃に戻りたくない』ということを意識し続けている。10年後、20年後、息子が子どもを持った時にどうなるか。そこまでずっと変わらず続けていくことかなと」(メグミさん)

虐待をやめるために大切なこと

虐待がなかなかやめられず、子どものふるまいからようやく自分たちの加害性に気づいた夫婦。評論家の荻上チキさんは、虐待をやめるためには外部とのつながりが大切だと指摘します。

「家族だけの関係性の中で暴力が進んでいく状態から、子どもの先生からお子さんが暴力的だと指摘されて、親御さんもカウンセリングなどを受けて、外部からのモニタリングが少しずつ入るようになった。一般的にも、外部のケアの目とつながって、周りからいろんな道具をもらうことがしやすい社会を作ることが、とても重要になると思います」(荻上さん)

信田さんは、同じ悩みを持つ親たちとつながることも効果的だと話します。

「グループを作っていろんな機会でつながり続ける、何かあったら聞いてもらうっていうことが、本当に大事だと思います。専門家じゃ及ばない知恵が生まれるんです。本当に私たちも感服します」(信田さん)

画像(スタジオで話す信田さよ子さんと荻上チキさん)

そして「虐待をしない」ことを続けるには、親が自分自身を観察することも必要だと言います。

「毎日やるべきこととしては、セルフウォッチング。危険な状態になったなと気づけるかどうかは大きいです。自分をいつも観察して、このままいくと危ないなというときに、ちょっと席を外すとか、冷蔵庫を見に行くとか、スマホを見るとか、2秒間深呼吸するとか。時間の流れを中断する“タイムアウト”がすごく大事ですね」(信田さん)

虐待をする親も実は苦しんでいる。そのことから目をそらさずに、周囲も、親自身も、虐待をやめるためにはどうしたらいいのかを真剣に考える必要があるのです。

【特集】子どもの虐待
(1)エスカレートする親の暴力
(2)親が抱える困難
(3)虐待をやめるために親ができること ←今回の記事
(4)元里子が受け継ぐファミリーホーム
(5)親や社会ができること

※この記事はハートネットTV 2020年2月12日放送「特集 子どもの虐待 虐待をやめるまで 親子の軌跡」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

相談窓口・支援団体

あわせて読みたい


「没後15年 氷室冴子をリレーする」 NHK

2023年10月09日 12時28分34秒 | 社会・文化・政治・経済

【NEWS】全国放送&43分拡大版決定!「没後15年 氷室冴子をリレーする」

デジタル戦略チーム

2023年7月10日(月)午後0時00分 更新

ことし6月で亡くなってから15年になる、作家・氷室冴子。 10代の若者を主人公にした「少女小説」「青春小説」と呼ばれる分野で数々の作品を残し、累計売り上げは2000万部を超える大ヒットメーカーでした。 社会やルールの枠を超えて躍動する主人公たちの姿に、多くの若者が「自由」を受け取り、その精神はいまもリレーされ、息づいています。 番組では、かつて読者だった作家や友人、編集者のインタビューを通じて、氷室冴子の作品が放つ力と彼女の人生をたどります。 

 北海道道「没後15年 氷室冴子をリレーする」(再)
7月12日(水)午後2:05~2:32<総合・全国>
【MC】鈴井 貴之・多田 萌加 【出演・語り】酒井 若菜
※放送後1週間NHKプラスで配信
「氷室冴子をリレーする 少女たちよ自由に!没後15年・ベストセラー作家の人生と作品」※7月9日(日)放送・43分拡大版
NHKプラスで配信中(7月23日(日)まで)←道外の方もご覧頂けます!


<スペシャルインタビュー>

番組で取り上げる氷室冴子とゆかりのある人物のインタビューを、全6回にわたり詳しくご紹介します。

◆6月23日(金)公開

第6回 自由に、好きに生きなさい ~漫画家・萩尾望都~

◆6月22日(木)公開

第5回 「風が立った。さあ、生きよう」 ~作家・佐原ひかり~

◆6月21日(水)公開

第4回 氷室さんの功績に、もう一度、光をあてたい ~書評家/ライター・嵯峨景子~

◆6月20日(火)公開

第3回 彼女と私は、魂で惹かれあった ~編集者・村田登志江~

◆6月19日(月)公開

第2回 箱に収まらない熱量が、あふれていた ~漫画家・藤田和子~

 ◆6月16日(金)公開

第1回 あなたがいたから、私は生きてこられた ~作家・町田そのこ~

<番組概要>
岩見沢出身の作家・氷室冴子。1980~90年代にかけ、『クララ白書』『なんて素敵にジャパネスク』『海がきこえる』などの作品で、一世を風靡した。

累計売上は2000万部を超え、とりわけ小学生から高校生にかけての少女たちに絶大な人気を誇ったベストセラー作家だった。

作品の多くは、ティーンエージャーの女子が主人公。

“社会”や“大人”や“男性”にあわせて、自分を変えてしまうのではなく、自立して自由に生きようとする姿を氷室はいきいきと描き出した。

現在よりもはるかに男性中心主義だった時代、それは“大人”になる前の若者たちを勇気づけた。

2008年、がんのために、氷室は51歳の若さで亡くなる。だが、女性が、あるいはすべての個人が生きることをエンカレッジするような氷室からのバトンは、今に至るまで受け継がれている。

没後15年になる今年、証言から氷室の足跡をたどりつつ、その影響を受けて、物語を生み出す現代の表現者たちの姿と言葉から、時代を超えた普遍性を持つ氷室作品の意味に、改めて光をあてる。

<番組関連イベント>
7月8日(土)から、NHK札幌放送局8K公開スタジオで番組と関連した企画展を開催。氷室冴子原作漫画の原画約30点を展示するほか、番組で紹介された映像を上映します。

没後15年 NHK札幌ミニ企画展「氷室冴子をリレーする」
2023年7月8日(土)~7月17日(月・祝)
平日 午前9:30~午後6:00/土日 午前10:00~午後6:00 
【会場】 NHK札幌放送局1階8K公開スタジオ
(札幌市中央区北1条西9丁目1-5)
【主催】 NHK札幌放送局  
【後援】 札幌市、札幌市教育委員会
【参加方法】入場自由・無料
※詳細はこちらから
ライジング!Ⓒ藤田和子・氷室冴子/小学館
なんて素敵にジャパネスクⒸ山内直実・氷室冴子/白泉社
なんて素敵にジャパネスクⒸ山内直実・氷室冴子/白泉社

2021年3月31日(水)午後4時30分 更新


新版 いっぱしの女 氷室冴子

2023年10月09日 12時09分35秒 | 社会・文化・政治・経済

新版 いっぱしの女 (ちくま文庫)

あなた、やっぱり処女なんでしょ――。「少女小説家」は嘲笑された。『なんて素敵にジャパネスク』『クララ白書』ほかベストセラーを多数送り出し、セクハラという言葉が世間に登場し始めた頃、「いっぱし」の年齢・三十歳を超えた著者。女としてただ社会に在るだけで四方八方から襲い来る違和感を、まっすぐに、そして鮮やかに描いた不朽のエッセイが満を持して復刊!

 

 
良質のエッセイに出会えたとき特有の悦びには、他に変え難いものがある。この本はその幸福をこの上なく味わせてくれる。
 
 
「クララ白書」「白い少女たち」「なんて素敵にジャパネスク」等の小説群、漫画「ライジング!(開幕)」を読んでいたので、今回の復刻版の発売はとてもうれしい。

氷室さんが卒業した札幌のF女子大学は、北海道では有名なミッション系女子校で、大体が中学・高校からのエスカレーター学生が多い。シスターがいて、神様を敬う奉仕の精神は教えてくれるけど、例えば、経済的に困窮した生徒や、親に東京行き、海外留学等を反対されている生徒に対する生きるための術(働きながら大学へ通うとか奨学金をもらうとか)を教えてくれる教職員はおらず、「祈りなさい」「祈っていればいいことがある」って感じの教育方針でした(昭和30年代から昭和50年代)。

私の親類は、氷室さんと同じ学校で学び、邪気のない人でしたが、生きる術というものを知らず、人に頼る、人に助けてもらうという人でした。それもまあ、人徳ではありますが。

地元で有名なお嬢さん学校なので、氷室さんのお母さんが、北大卒の男でも捕まえて結婚しろっていう思想だったのは、何となくわかります。
でも、子どもの頃から頭がよく、いわゆる学習指導要領の枠にも収まり切れない人が、こういう女子教育の価値観の中で生きることは、とても生きづらかったのではないでしょうか。

お母さんに反抗して家出し、作家として印税稼いで東京暮らしをしていても、札幌のテレビ局の占いコーナーに娘の結婚について相談しちゃった話のくだりは、さすがに気の毒でした。
それをネタにして飯のタネにするっていうのが、母親に対する一番の復讐なのかもしれませんが。

いわゆる少女小説の第一人者としての作品は、すでに発売済みですが、願わくば絶版になっている「冴子の東京物語」「冴子の母娘草」等のエッセイの復刻を希望します。
賢くハンサムな作家のエッセイって感じがして、とても面白い作品でした。
 
 

ひたすらに懐かしいです。
初読は30年近く前です。単行本で千円くらいしたはずです。
30代の独身女の所感は当時高校生だった自分には本当のところよく分からず、でも大好きな作家のエッセイであり、高校生には高額な本だったこともあり、何度も読み返しました。
人生の中で長年、一種の格言のように指標としていたあのフレーズやこのフレーズの出典はここだったのかと驚く思いです。思った以上に自分の根源部分に食い込んでいる一冊です。
 

13年前に51歳で逝去された氷室冴子さんのエッセイの新装版が文庫で出版された。
画期的なことなのだろう。いろいろな週刊誌の書評で取り上げられている。
30歳過ぎのときに書かれたエッセイの内容はぜんぜん古くない。
普遍的なことがらばかりだ。
なかでも『とてもすばらしかつた旅行について』は秀逸である。
ある海外旅行に一人参加した氷室さん。不満を何でもすぐ口にし、他の参加者に同意を求める
金持専業主婦らしき高齢夫人が、独身で一人参加の氷室さんに目をつけて、醜悪な発言をしたり、
氷室さんの容姿や服装にケチをつけるようになる。
それに対して、冷静に言い返す氷室さん。
特に「私、学校を出てから十年間、ひとりで稼いで食べてきましたの」は、働いたこともなく
夫が稼いだ金で旅行している金持夫人をぎゃふんと言わせて痛快だ。
他のエッセイや小説も読んでみたい。
 
 
子どもの頃、一回り上のいとこの本棚に並んでた氷室冴子。中学受験の時に国語の問題文で出て来た氷室冴子。懐かしので購入したら、内容が全く古く感じなく、久しぶりに氷室ワールドに触れてとても良かった。
 
 
出版を知らなかったので、初めて読みました。よかったです。
 
  • いっぱしの女 (ちくま文庫)
氷室 冴子 (著)  1995年
「あたしもいっぱしの女なんだから、しっかりしなきゃ」。男友だちの言葉になるほどと思い、事あるたびにこう呟くことを処世術にしてきた。女の友情のすばらしさとはかなさ、男からの心ない一言、親のすさまじい結婚攻勢…次々におそいかかる日常の様々を、素直に、鋭く、そして圧倒的にたくましく書き上げられた、胸のすくエッセイ集。高泉淳子さん(遊・機械全自動シアター)との対談付き。
 
 

氷室冴子さんが、「自分がどういう『三十女』なのか知ってみたい気持ちで書いた」
と前書きにありました。
わたしは自分自身20代の、発売当初に読みました。
作者が友人たちと共同生活をしていたことは、しばしばエッセイに登場したり、
小説のネタ元になったりしていますが、今回のエッセイには、昔は知りえなかった
友人の本音を知った時の衝撃が書かれています。
「夢の家で血のつながらない他人と暮らすには…」
結婚前に読んでいてよかったと思いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

作家・氷室冴子

2023年10月09日 12時09分35秒 | その気になる言葉

氷室 冴子(ひむろ さえこ、本名:碓井 小恵子(うすい さえこ)[1]、1957年1月11日[1] - 2008年6月6日[1])は、日本の小説家。1980年代から1990年代にかけて集英社コバルト文庫を代表する看板作家であり、かつては正本ノン、久美沙織、田中雅美とあわせてコバルト四天王と呼ばれていた[2]。

生涯
北海道岩見沢市出身[1]。

北海道岩見沢東高等学校を経て藤女子大学文学部国文学科へ進学。

当時の知的流行であった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫本をバラして一日1ページのペースで文章を一字一句に至るまで解析する学究生活を送る。

大学3年の夏に賞金目当てで第10回「小説ジュニア青春小説新人賞」へ応募して佳作を受賞。その時点では職業作家を目指していなかったものの、このときの受賞作「さようならアルルカン」で、1977年(昭和52年)に小説家としてデビュー、翌年には初の単行本『白い少女たち』が刊行される。

卒論では堀辰雄を論じた。1979年(昭和54年)に大学は卒業するがオイルショックの影響で就職ができず、母親と喧嘩して家を出て札幌で高校時代からの友人2人と共同生活を始める。

手元にあったのは『白い少女たち』の印税60万円であり、家賃から雑費まですべて含めて月1万9000円の貧乏生活を開始。

月に1本のペースで小説を書いては出版社に送りつける。1980年(昭和55年)4月に刊行された学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。

その後、宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになり、1981年(昭和56年)、取材のため兵庫県宝塚市へ転居。小説家であることを隠してファンクラブに潜入し、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世している。

『雑居時代』(1982年7月刊)が版を重ねることで職業作家としての道が確立、1982年(昭和57年)に札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて1985年(昭和60年)に上京。

これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立し、少女小説ブームの立役者として活躍した。

“少女小説家”という言葉の生みの親でもあり、同名作品を83年に著している。

古代日本を舞台に設定したファンタジー『銀の海 金の大地』シリーズ、小学校時代を舞台にした半自伝小説『いもうと物語』、結婚を迫る母親との攻防戦を描いたエッセイ『冴子の母娘草』などの作品もある。次第に『Cobalt』以外にも活動の場を広げ、徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化された。

1990年代後半以降は体調を崩しがちになり、目立った執筆活動はなかった。2000年代は漫画賞の選考委員などを行っていた。2001年に雑誌コバルトの取材で斎宮歴史博物館を訪れ学芸員と対談、斎宮を舞台にした平安時代小説の新作の構想で盛り上がったという[3]。2008年(平成20年)6月6日午前9時、肺癌で死去した[4]。51歳没。

生前親交の深かった日本橋学館大学(千葉県柏市)の田中二郎准教授に約850冊の本を譲っていた縁で、2009年10月24日、同大学で「氷室さんを偲ぶ一日」が開かれ、田中准教授は「思い出を語る会」で氷室のパワフルに過ごした私生活などを紹介した。

また同大学図書館では、寄贈された本や氷室が愛用したパソコン・キーボード、原稿用紙などを公開する展示企画「氷室冴子の世界 ~寄贈本と思い出の品~」を同年9月中旬から10月末まで開催していたが、読売新聞や千葉日報で紹介されるなどしたため、11月末まで展示は続けられることになった[5] [6] [7] [8] [9]。

2017年、岩見沢市では氷室冴子の功績をたたえ「氷室冴子青春文学賞」を創設することになった[10][11][12]。

作風と影響
最初期の『さようならアルルカン』やミッションスクールの寄宿舎を舞台にしてそれぞれの内面を抱えた3人の少女の精神的な交流を描いた『白い少女たち』には、少女小説の元祖的存在である吉屋信子の強い影響が認められる[13]。また、子供の頃から少女漫画を愛読しており、萩尾望都らの影響を受けたと語っている[14]。

萩尾らが少女漫画で「虚構の少年」、男女どちらからも自由な新しいイメージを描いたことに感銘を受け、しかし、男の子はうらやましい、男の子に対して現実の女の子は人生の主役にもなれないし物語の主役にもなれないと感じ、少女を主人公にした「少女小説」を意識して書くようになった[15]。

大塚英志は、氷室や久美沙織らが少女小説に「アニメのような小説」、「少女まんがのような小説」を持ち込んだと述べている[16]。

氷室以前に、平安時代を舞台にしたものは歴史小説が主で、創作キャラクターが活躍する小説はほとんどなかった。

氷室は、現代的な感覚のヒロインが平安時代で活躍するというスタイルを確立した。平安時代に育った人物は平安時代の感覚を持つはずであり、現代の女子高生のような感覚の主人公が平安時代にいるという設定は本来不自然であるが、氷室は並々ならぬ歴史・古典知識と愛情、綿密なストーリー構成によってその壁を超えた(同様の挑戦を行った作品として、荻原規子の児童文学「勾玉三部作(1988 ‐ 1996年)」がある)。

氷室の歴史ものは「古典の現代的再生」に成功した希有な例であり、その後の少女小説やライトノベル、漫画における平安もの、歴史ものに大きな影響を与えた[3]。

ブロガーのペトロニウスは、「平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントにする手法」のフォーマットの始まりは氷室作品で、これは広く一般化しており、D.キッサンのマンガ『千歳ヲチコチ』(2011年 ‐ 2016年) のような近年の作品は、このフォーマットが深く浸透している前提で、平安時代の風習の説明も省いていると指摘している[17]。氷室作品が古典や歴史に興味を持つきっかけになった人も多く、斎宮歴史博物館の榎村寛之は、「『古典や歴史の研究を志したきっかけは、氷室先生の作品に接したことでした』という研究者は、特に若手の女性研究者を中心に少なくないようです」と述べている[3]。

『Cobalt』2006年2月号で行われた、同誌で活躍中の作家に初めて読んだコバルト文庫作品を尋ねるアンケートで、今野緒雪、金蓮花、倉世春らが氷室の作品を挙げており、氷室による現代少女小説の流れは次の世代の作家たちに受け継がれていると言える[18]。

漫画家・青山剛昌原作の『名探偵コナン』87巻に収録の『蘭GIRL』と『新一BOY』は、氷室の『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』を元ネタとしており、青山は、「『なぎさボーイ』を読んだ後で『多恵子ガール』を読み、『女の子ってこんなこと考えてたんだ。おもしれー』と感動し、いつかオレもこんな連載を描いてみたいなぁと思っていたら30年もたってしまった…(笑)」と話している[19]。

作品
小説
*出版社表記のないものは全て集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)

白い少女たち 1978年
さようならアルルカン 1979年 - 表題のデビュー作を含む短編集
収録作品は「さようならアルルカン」「アリスに接吻を」「誘惑は赤い薔薇」「妹」
クララ&アグネス白書
クララ白書 1980年
クララ白書ぱーとII 1980年
アグネス白書 1981年
アグネス白書ぱーとII 1982年
恋する女たち 1981年
雑居時代 上下巻 1982年
ざ・ちぇんじ! 前編・後編 1983年
シンデレラシリーズ
シンデレラ迷宮 1983年
シンデレラ ミステリー 1984年
少女小説家は死なない! 1983年
なんて素敵にジャパネスク シリーズ
蕨ヶ丘物語 1984年
ボーイ・ガールシリーズ - 蕨ヶ丘物語と同舞台
なぎさボーイ 1984年
多恵子ガール 1985年
北里マドンナ 集英社 1988年 のち文庫 1991年
ヤマトタケル 1986年
冬のディーン 夏のナタリー1-3 1988年 - 1993年
レディ・アンをさがして 角川文庫 1989年
碧(あお)の迷宮 上 角川書店 1989年
いもうと物語 新潮社、1991年 のち文庫 1994年
ターン―三番目に好き 集英社、1991年 のち文庫 1994年
銀の海 金の大地シリーズ
海がきこえる1-2 徳間書店 1993,1995年 のち文庫
月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ! 2012年 - 『ざ・ちぇんじ!』と文庫未収録3作品を収録した作品集
収録作品「月の輝く夜に」「ざ・ちぇんじ!」「少女小説家を殺せ!(少女小説家は死なない!番外編)」「クララ白書番外編 お姉さまたちの日々」
さようならアルルカン/白い少女たち-氷室冴子初期作品集- 集英社 2020年
収録作品「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」「おしゃべり」「悲しみ・つづれ織り」「私と彼女」「白い少女たち」
エッセイ
冴子の東京物語 集英社 1987年 のち文庫 1990年 のち文庫再刊行 2022年
プレイバックへようこそ 角川書店 1989年 のち文庫 1991年
プレイバックへようこそ2 角川書店 1990年 のち文庫(「委員物語」に改題) 1991年
ガールフレンズ―冴子スペシャル 集英社文庫コバルトシリーズ 1990年 - 対談集+αのバラエティブック
マイ・ディア―親愛なる物語 角川文庫 1990年 - ブックガイドエッセイ
いっぱしの女 筑摩書房 1992年 のち文庫 1995年 のち文庫再刊行 2021年
冴子の母娘草(ははこぐさ) 集英社 1993年 のち文庫 1996年 のち文庫再刊行 2022年
ホンの幸せ 集英社 1995年 のち文庫 1998年
翻訳
落窪物語 講談社 1993年 改版 2009年
共著
僕が好きなひとへ 海がきこえるより 近藤勝也共著 徳間書店 1993年
戯曲
レディ・アンをさがして
漫画原作
螺旋階段をのぼって(香川祐美、小学館)
ライジング!(藤田和子、小学館)
ラブ・カルテット(谷川博実、集英社)
氷室作品を題材・原作とした作品
ドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(主演:富田靖子)
海がきこえる〜アイがあるから〜(主演:武田真治、佐藤仁美)
ラジオドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(NHK-FM 主演:小林聡美)
映画化
クララ白書(主演:少女隊)
恋する女たち(主演:斉藤由貴)
「さよなら」の女たち(主演:斉藤由貴)
アニメ化
海がきこえる(スタジオジブリ、主演:飛田展男・坂本洋子)
漫画化
クララ白書(みさきのあ:小学館)
アグネス白書(みさきのあ:小学館)
なんて素敵にジャパネスク(山内直実:白泉社)
雑居時代(山内直実:白泉社)
蕨ヶ丘物語(山内直実:白泉社)
ざ・ちぇんじ!(山内直実:白泉社)
月の輝く夜に(山内直実:白泉社)
少女小説家は死なない(にしざわみゆき:白泉社)
恋する女たち(南部美代子:集英社)
絵物語化
シンデレラ迷宮(絵:いのまたむつみ、構成:成井豊、徳間書店)
舞台化
レディ・アンをさがして
OSK日本歌劇団が1996年、煌みちるのトップお披露目公演として近鉄劇場で上演。
ラルフ・ベッカー役:煌みちる、レディ・アン役:湖上芽映。
ざ・ちぇんじ!-新釈とりかえばや物語-
テアトル・エコーが2000年11月12 - 21日新宿南口紀伊国屋サザンシアターにて上演。
壌晴彦脚色・演出。大谷美智浩脚本。綺羅姫:杉村理加、綺羅君:溝口敦。
女性ミュージカル劇団「劇団スター・オブ・ドリームズ」が上演。
1991年9月初演。2005年9月森之宮プラネットステーションにて15周年記念公演で再演。
大浦薫演出。綺羅姫:響優、綺羅君:世羅雅。
シンデレラ迷宮
演劇集団キャラメルボックスが1994年、東京芸術劇場小ホール、新橋ヤクルトホールにて上演。
久世龍之介演出。成井豊脚本。
その他
テレビ番組
『北海道道』「没後15年 氷室冴子をリレーする」(2023年6月23日 他、NHK札幌放送局)- 没後15年の特集が組まれ、7月9日には43分拡大版「氷室冴子をリレーする 少女たちよ自由に!没後15年・ベストセラー作家の人生と作品」が放送された[20]。
参考文献


映画『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』

2023年10月09日 11時44分34秒 | 社会・文化・政治・経済

この国は彼女を許せないんだ。彼女は強くて、美しくて、黒人だから。

10月9日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

 ジミーには麻薬から黒人社会を救うという理想があったが、息子の手による逮捕を知った母親から、「あの歌を歌う勇気のある黒人は他にいない」と責められる。
さらに、ビリーのスタイリストで親友のミス・フレディ(ローレンス・ワシントン)から、ビリーの辛い生い立ちを聞かされる。
裕福な家庭に育ったジミーには想像もつかない人生だったが、ビリーの歌と人間性を知れば知るほど、その魅力に心を奪われていく。
自分の行いを悔いたジミーは、アンスリンガーから今度はビリーに面会して騙せと命令されるが、「今後は誰も信じないで。出所後に罠を仕掛け、また私に逮捕させる気だ」とビリーに忠告するのだった。
 1948年、出所したビリーはカーネギー・ホールでコンサートを開き、待ちわびた人々に、熱狂的に迎えられ大成功を収める。
だが、連邦麻薬取締局からニューヨークでの労働許可証を取り上げられてしまう。
窮地に陥ったビリーは、ショービジネス界にコネのあるジョン・レヴィ(トーン・ベル)を頼ってステージを続けるが、あらゆることでジョンの支配下に置かれることになる。
アンスリンガーの次なる手は、そのジョンを使っての罠だった。しかし、ジミーの証言で、ビリーの容疑は晴れる。  
ビリーはジョンと手を切り、全米ツアーへと旅立つ。
アンスリンガーの指示で、ジミーはツアーを追いかけるが、もはや心はビリーへの愛と憧れに満ちていた。
1949年、ビリーは南部で「奇妙な果実」を熱唱し、「KKKに対抗。南部で勇気ある行動」と称えられる。焦ったアンスリンガーは、さらなる非常な罠を仕掛けるのだが─。
 1947年、ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイ(アンドラ・デイ)は人気の絶頂にいた。
白人と黒人が同席できる、当時のアメリカでは珍しいニューヨークのクラブ“カフェ・ソサエティ”で、夜毎圧巻のパフォーマンスを繰り広げていたのだ。
そんな中、ビリーは夫のモンローとマネージャーから、「奇妙な果実」は歌うなと言い渡される。黒人差別を告発する楽曲で、ビリーは「私には大切な歌」だと抗議するが、モンローからは文句を言うなと押さえつけられる。
 モンローは、連邦麻薬取締局のアンスリンガー長官(ギャレット・ヘドランド)から圧力をかけられていた。
アンスリンガーは、人種差別の撤廃を求める公民権運動を煽ると言われている「奇妙な果実」を危険視していたのだ。だが、歌うだけでは逮捕できない。アンスリンガーは、ビリーを麻薬使用の罪で追い込もうと計画する。  アンスリンガーがビリーに仕掛けた最初の罠は、おとり捜査だった。
黒人捜査官のジミー・フレッチャー(トレヴァンテ・ローズ)が、ビリーの熱烈なファンを装ってステージに通いつめ、楽屋を訪ねるなどして身辺調査を進めたのだ。
そして、ビリーはジミーによって現行犯逮捕される。ビリーは裁判で懲役1年と1日の判決を受け、ジミーは黒人初の連邦捜査官へと出世する。
 ジミーには麻薬から黒人社会を救うという理想があったが、息子の手による逮捕を知った母親から、「あの歌を歌う勇気のある黒人は他にいない」と責められる。
さらに、ビリーのスタイリストで親友のミス・フレディ(ローレンス・ワシントン)から、ビリーの辛い生い立ちを聞かされる。裕福な家庭に育ったジミーには想像もつかない人生だったが、ビリーの歌と人間性を知れば知るほど、その魅力に心を奪われていく。
自分の行いを悔いたジミーは、アンスリンガーから今度はビリーに面会して騙せと命令されるが、「今後は誰も信じないで。出所後に罠を仕掛け、また私に逮捕させる気だ」とビリーに忠告するのだった。
 1948年、出所したビリーはカーネギー・ホールでコンサートを開き、待ちわびた人々に、熱狂的に迎えられ大成功を収める。だが、連邦麻薬取締局からニューヨークでの労働許可証を取り上げられてしまう。
窮地に陥ったビリーは、ショービジネス界にコネのあるジョン・レヴィ(トーン・ベル)を頼ってステージを続けるが、あらゆることでジョンの支配下に置かれることになる。アンスリンガーの次なる手は、そのジョンを使っての罠だった。しかし、ジミーの証言で、ビリーの容疑は晴れる。
 ビリーはジョンと手を切り、全米ツアーへと旅立つ。
アンスリンガーの指示で、ジミーはツアーを追いかけるが、もはや心はビリーへの愛と憧れに満ちていた。1949年、ビリーは南部で「奇妙な果実」を熱唱し、「KKKに対抗。南部で勇気ある行動」と称えられる。
焦ったアンスリンガーは、さらなる非常な罠を仕掛けるのだが─。
 1947年、ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイ(アンドラ・デイ)は人気の絶頂にいた。白人と黒人が同席できる、当時のアメリカでは珍しいニューヨークのクラブ“カフェ・ソサエティ”で、夜毎圧巻のパフォーマンスを繰り広げていたのだ。
そんな中、ビリーは夫のモンローとマネージャーから、「奇妙な果実」は歌うなと言い渡される。黒人差別を告発する楽曲で、ビリーは「私には大切な歌」だと抗議するが、モンローからは文句を言うなと押さえつけられる。
 モンローは、連邦麻薬取締局のアンスリンガー長官(ギャレット・ヘドランド)から圧力をかけられていた。アンスリンガーは、人種差別の撤廃を求める公民権運動を煽ると言われている「奇妙な果実」を危険視していたのだ。だが、歌うだけでは逮捕できない。アンスリンガーは、ビリーを麻薬使用の罪で追い込もうと計画する。  
アンスリンガーがビリーに仕掛けた最初の罠は、おとり捜査だった。黒人捜査官のジミー・フレッチャー(トレヴァンテ・ローズ)が、ビリーの熱烈なファンを装ってステージに通いつめ、楽屋を訪ねるなどして身辺調査を進めたのだ。そして、ビリーはジミーによって現行犯逮捕される。ビリーは裁判で懲役1年と1日の判決を受け、ジミーは黒人初の連邦捜査官へと出世する。
 ジミーには麻薬から黒人社会を救うという理想があったが、息子の手による逮捕を知った母親から、「あの歌を歌う勇気のある黒人は他にいない」と責められる。
さらに、ビリーのスタイリストで親友のミス・フレディ(ローレンス・ワシントン)から、ビリーの辛い生い立ちを聞かされる。
裕福な家庭に育ったジミーには想像もつかない人生だったが、ビリーの歌と人間性を知れば知るほど、その魅力に心を奪われていく。
自分の行いを悔いたジミーは、アンスリンガーから今度はビリーに面会して騙せと命令されるが、「今後は誰も信じないで。
出所後に罠を仕掛け、また私に逮捕させる気だ」とビリーに忠告するのだった。
 1948年、出所したビリーはカーネギー・ホールでコンサートを開き、待ちわびた人々に、熱狂的に迎えられ大成功を収める。
だが、連邦麻薬取締局からニューヨークでの労働許可証を取り上げられてしまう。
窮地に陥ったビリーは、ショービジネス界にコネのあるジョン・レヴィ(トーン・ベル)を頼ってステージを続けるが、あらゆることでジョンの支配下に置かれることになる。アンスリンガーの次なる手は、そのジョンを使っての罠だった。しかし、ジミーの証言で、ビリーの容疑は晴れる。
 ビリーはジョンと手を切り、全米ツアーへと旅立つ。アンスリンガーの指示で、ジミーはツアーを追いかけるが、もはや心はビリーへの愛と憧れに満ちていた。1949年、ビリーは南部で「奇妙な果実」を熱唱し、「KKKに対抗。南部で勇気ある行動」と称えられる。焦ったアンスリンガーは、さらなる非常な罠を仕掛けるのだが─。

 

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ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。

「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる[1]。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。
 
彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。
 
彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された[2]。
 
生涯
幼少期
 
ビリー・ホリデイ
1917年撮影
ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(同17歳)の元に産まれた。
『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』[3]によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」二人が結婚し、自分はその間に生まれたと語っているが、後のジャーナリストたちの調査によれば、実際はクラレンスとサディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを認知しようとさえしなかったとされる。
 
父クラレンスはジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。
そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭のもと、メリーランド州ボルチモアのアッパー・フェルズ・ポイント(英語版)地区で育てられた。
しかしサディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。サディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽なものではなく、従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。
またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚めパニックを起こしたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間もの間無言症を患うことになった。
 
やがて学校へ全く通わなくなったエレオノーラは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた[4]。同年3月19日、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた[5]。
 
1925年10月25日、サディは仮釈放の身となったエレオノーラを手元に引き取った[5]。しかし、サディは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エレオノーラは近所の男性に強姦されてしまう。
イギリスの音楽ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著したノンフィクション書『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』[6]によると、それは1926年のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、1925年に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では1927年2月まで生活した。
 
1928年にはサディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始める。
 
1929年には母と共にエレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。やがてエレオノーラは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。
それ以降様々なクラブで仕事をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。この頃父のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
 
そんな中、15歳のある日彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。
 
活動初期
活動初期にはケネス・ホランと共に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌うようになった頃にはそこそこの蓄えができていた。
 
1933年、コロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドが、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画する。
この日、18歳の彼女は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はケネス・ホランと共演。
しかしそれからしばらく経ち、ケネスが既婚者であったこともあり、二人は別れる。
 
ホリデイは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中にはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板スターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、ビリーは彼を「サックス奏者の代表」という意味で「プレジデント」、時には略して「プレズ」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでいくつものクラブを周って歩いていたとされる。
 
絶頂期
ホリデイは1935年に、歴史に残るジャズピアニストであり作曲家であるデューク・エリントンとも共演した。
デュークは発売された自身の短編映画『シンフォニー・イン・ブラック』にホリデイを起用し「Saddest Tale」を歌わせた。同時期に、彼女は若いサックス奏者ベン・ウェブスターとも共演し始める。
 
1935年7月2日、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードから発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、クラリネットにはベニー・グッドマン、ピアノにテディ・ウィルソン、トランペットにジョン・トゥルーハート、ベースにジョン・カービー、そしてコージー・コールをドラムスに迎え、「月光のいたずら (What a Little Moonlight Can Do)」と「Miss Brown To You」を録音。
ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年のベストセラーに輝いた。その頃には母サディに小さなレストランを経営させ、明け方には朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。
 
テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ホリデイはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするホリデイのスタイルは、ベッシー・スミスやそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。ビリーは白人オーケストラと仕事をした初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事だった。
しかし、彼女に対する人種差別は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。ジム・クロウ法の激しい南部の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することや、レストランに入ることすらできなかった。
 
奇妙な果実
バンドから独立しニューヨークに戻ったホリデイは、再びクラブで歌い続けるようになり、出演者も観客も人種を問わず同席できる当時のアメリカでは革新的なクラブであった「カフェ・ソサエティ(英語版)」での専属歌手として活動した。この時期になると、ホリデイの酒量が増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになった他、レズビアンとの関係を重ねたため「ミスター・ホリデイ」の異名を取るようにもなった。
 
1937年3月1日、テキサス州ダラスでの巡業中に風邪から肺炎を併発した父クラレンスが死亡。南部で最も人種差別の激しい地域の一つだったダラスでは、治療を受けるために回った幾つもの病院からは全て診療を拒絶された。このことについてホリデイは自伝の中で「肺炎が父を殺したのではない。テキサス州のダラスが父を殺したのだ。」と綴っている。
 
1939年3月、ホリデイはルイス・アレン(英語版、フランス語版)という若い高校教師が作詞・作曲した、アメリカ南部の人種差別の惨状について歌った曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」と出合い、自身のレパートリーに加えるようになった。
 
コロムビアレコードはビリーホリデイに反リンチ 抗議曲「Strange Fruit (奇妙な果実)」を録音させることを拒否。ミルト・ゲイブラーは、彼女に小さな専門レーベルであるコモドア・レコードに、録音するように勧め1939年4月20日に録音。
 
以来この曲はカフェ・ソサエティとホリデイのテーマソングとなり、間もなく発売されたレコードは大きな成功を収めた。
 
1941年にホリデイは1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」をレコーディングし、この曲は『奇妙な果実』に続くヒットとなった。
 
麻薬、そして母の死
これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジ、アート・テイタム、ベニー・カーター、ディジー・ガレスピーなど多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女にアヘンやコカインを覚えさせた。
 
また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている[7]。
 
やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、1945年にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母サディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。
 
1947年、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。
 
逮捕・服役
第二次世界大戦終結後、ホリデイはピアニストのボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)とのコラボレーションを始める。レコードの売れ行きは順調。
 
1944年にはデッカと契約。
 
1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。
 
同時期にホリデイはアイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた「Lover Man」「Good Morning Heartache(英語版)」などを歌い、また彼女自身も「Fine and Mellow」「Billie's Blues」「Don't Explain」「God Bless The Child(英語版)」などの楽曲を作曲した。
 
1947年には、アーサー・ルービン監督の映画『ニューオーリンズ』にも出演した。
 
だが同じ頃、彼女はジョー・ガイと寄りを戻し、今度はLSDに手を出す。
 
1947年初頭、マネージャーのジョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にホリデイは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。以降彼女に関するスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。
 
1948年3月16日には品行方正を認められて出所を果たしたが、彼女の心身は破壊されていた。その1週間後の1948年3月27日、彼女はカーネギー・ホールでのコンサートに出演した。
 
 
ビリー・ホリデイ
1949年3月23日
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影
ジョン・レヴィとの出会い
出所後にビリーはニューヨークでの労働許可を没収され、ニューヨークのクラブで歌うことを禁止された。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間でのエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。
 
相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリヒとの浮名も流したことのある女優タルラー・バンクヘッドとも関係を結ぶ[8]。
 
一方で彼女のヘロイン漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げた上、彼女を脅すようになる。折も折、彼女はサンフランシスコで麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、タルラー・バンクヘッドは自分のコネ、とりわけFBI長官であったエドガー・フーバーとの関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。しかし彼女はその後もレヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であったボビー・タッカー(英語版、ドイツ語版)は彼女と袂を分かつ。警察は彼女への捜査を続け、1950年の『ダウン・ビート』誌9月号には、「ビリー、またも災難」と題した記事が掲載された。
 
さらに1949年のデッカでの録音の際、ホリデイは自身の歌声のリズムを合わせられなくなるという事態に見舞われ[9]、デッカは1950年の契約更新を行なわなかった。ホリデイは借金で首も回らなくなってしまう。レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。レヴィと別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで歌うことができなかったホリデイは、長いツアーをこなさなければならなくなる。
 
1950年末、彼女はシカゴでハイノートの舞台を若き日のマイルス・デイヴィスと分かち合い、再び成功に恵まれる。
 
ルイ・マッケイとの再会
1951年、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女はデトロイトで昔の恋人ルイ・マッケイと再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男性だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。トランペットのチャーリー・シェイヴァーズ、ギターのバーニー・ケッセル、ピアノのオスカー・ピーターソン、ベースのレイ・ブラウン、ドラムスのアルヴィン・ストーラー、サックスのフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にもかかわらず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。
 
1954年、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードを伴い、彼女はスウェーデン、デンマーク、ベルギー、ドイツ、オランダ、フランス(パリ)、スイスを回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後イギリスに向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、ニューポート・フェスティバルに出演し、サンフランシスコで、ロスアンゼルスで唄い、ヴァーヴのための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。
 
1955年4月2日、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催されたチャーリー・パーカー(3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、レスター・ヤング、ビリー・エクスタイン、サミー・デイヴィス・ジュニア、スタン・ゲッツ、セロニアス・モンクなどと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。
 
1955年8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズ(英語版)のベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。
 
レディ・イン・サテン
1956年、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストのコーキー・ヘイルは後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠ざかって行った。
 
彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者はレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスター、ジェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。また若き日のマル・ウォルドロンが彼女の新たな伴奏者として登場する。
 
1957年3月28日、ルイ・マッケイとビリーはメキシコで結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。
 
1958年2月、彼女は新曲ばかりを揃えた『レディ・イン・サテン(英語版、フランス語版、ハンガリー語版)』を録音する。伴奏は編曲を担当したレイ・エリス(英語版)が率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。
 
1959年録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月のモントルー・ジャズ・フェスティバルにも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。イタリアで彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女はマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中にはジュリエット・グレコ、セルジュ・ゲンスブールといった当時の有名人たちの顔もあった。
 
当時の記憶を作家フランソワーズ・サガンはこう綴っている。
 
《 それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女ではなかった。痩せ細り、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた。……眼を伏せて歌い、歌詞を飛ばした。まるで嵐に揉まれる船上で手すりにでも掴まるかのようにピアノにもたれた。集まった人々が拍手を送ると、彼女は聴衆に向って皮肉とも哀れみともとれる眼差しを投げかけるのだった。それは自分自身に対する容赦ない眼差しでもあったのだろう。 》[10]
晩年
何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には浮腫が出現していたし、何よりも肝硬変が悪化していた。それでも彼女は酒を止めることができなかった。朝から晩まで酒を飲み続けた。2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演している。帰国は困難を極めた。
 
1959年3月15日、ビリーはレスター・ヤングの訃報を耳にする。埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる…『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』。
 
翌4月7日、彼女は44歳を迎える。マサチューセッツでの複数の契約を果した後、5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄っている。舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、ジョー・グレイザーなどは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れなかった。5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からだった)。
 
肝硬変以外にも、腎不全の診断が下される。メサドン治療が施され、少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、ビリーは隠れて喫煙を続けた。更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見される。彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれる。裁判は彼女の回復を待って行なわれることになった。回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変する。腎臓感染と肺うっ血が認められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけた。7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の秘蹟を受ける。
 
1959年7月17日朝3時10分没。 44年の生涯であった。
 
葬儀は1959年7月21日、セント・ポール教会で行なわれた。3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いた。遺体はブロンクスのセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬された。1960年、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させた。その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルであった。しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上った。
 
なお、彼女の死を悼んで彼女の伴奏者であったマル・ウォルドロンが「Left Alone」を制作している。
 
アルバム『レディ・イン・サテン』のレコーディングを担当したレイ・エリスは、レコーディング時に付きつけられるホリデイのあまりに難しい要求に疲れ果ててミキシングを拒否したが、後日このアルバムに収められた「恋は愚かというけれど (I'm A Fool To Want You)」や「You've Changed」を聴き、歌を際立たせるその限りない悲しみを感じ取った彼は、彼女の歌を残すことの芸術的な意味を理解する。その後、彼女と共にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作となった。彼は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思い出を書き記している。
 
《…一番感動的だったのは、「恋は愚かというけれど」のプレイバックを聴いていた時だろう。彼女の目からは涙が溢れていた。 (中略) アルバム制作終了後、私はコントロール室内に入って全テイクを聴いた。私は彼女の唄いぶりには満足できなかったことを認めねばならないが、感情を込めてではなく、音楽的にしか聴いていなかったのだろう。数週間後ファイナル・ミックスを聴くまでは、彼女の唄いぶりが本当はどんなに素晴らしいものかが解らなかった。》[11]
 
影響
フランク・シナトラやアビー・リンカーンらは生前からビリーを絶賛し、彼女の人生の終焉に於いては最も近しい友人の一人になっていた。1972年には、ダイアナ・ロスがホリデイの自伝に基づいた映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』でホリデイ役を演じた。この作品は商業的にも大成功し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞女優賞にノミネートされることとなった。メイシー・グレイも1999年に、ホリデイについて「ビリー・ホリデイは私に大きな影響を与えました。私が本気で勉強した最初のシンガーは彼女でした[12]」と語っている。またU2は、1987年にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem」をリリースしている。
 
生前は、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンほどの知名度はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史に於いてユニークな地位を占める存在となった。生涯を通じて人種差別や性差別と闘い、乱れた生活にもかかわらず名声を勝ち得た彼女は、現在、20世紀で最も偉大な歌手の一人に数えられている。また、彼女の名は、しばしばアフリカ系アメリカ人のコミュニティからも、ゲイのコミュニティからも引き合いに出され、差別を声高に反対して、同権を求めて立ち上がろうとした彼女の早くからの努力に対して敬意が払われている。
 
2019年には、近年になって発見されたジャーナリストのリンダ・リプナック・キュールが1960年代に10年間かけて関係者にインタビューを重ねた膨大な録音テープをもとに構成されたドキュメンタリー映画『BILLIE ビリー』が公開された。
また2022年に、ビリー・ホリデイが人種差別を告発する楽曲「奇妙な果実」を歌い続けたことで、FBIのターゲットとして追われていたエピソードに焦点を当てた映画『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』が公開された。当初は全米で劇場公開される予定だったが、新型コロナウイルスの流行が収束しない状況を受け、インターネットでの配信に切り替わった。
 
エピソード
 
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出典検索?: "ビリー・ホリデイ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年1月)
身長は165センチメートルであった。
祖父はヴァージニア州のアイルランド系農園主が、黒人奴隷の女性に産ませた子の1人だった。
従兄は、プロボクサーのヘンリー・アームストロング。
ブラック・アイド・ピーズは、コカコーラのCMで、ビリー・ホリデイへの称賛を歌った。
アメリカのモデル、マーシディーズ・イヴェットがビリー・ホリデイのポーズで肖像写真を発表し、ビリーの悲しげな雰囲気を上手く捉えていると好評を呼んだ。
1994年9月18日には、アメリカ合衆国郵便公社がホリデイの記念切手を発行した。
ボルチモアのラファイエット・アンド・ペンシルベニア・アベニューの一角には、ホリデイの銅像が建てられている。
2005年4月に、生誕90周年を記念して、コロンビア大学のラジオ放送局“WKCR-FM”([www.WKCR.org]) が、ビリー・ホリデイ音源のマラソン放送を行なった。