今日の取手駅西口ウエルネスプラザでのイベント(健康まつり)は雨のために中止となる。
期待していたイベントとイベント会場に出店する浦島のウナギを食べ損ねた。
ところで、室内が寒くなったものだ。
外は雨が降り続いている。
仙台の楽天とロッテの野球は中止となる。
家人は「電気炬燵にしようか」とが言うが、準備がいる。
テーブルの上を整理したり布団を出したり、手間がかかるのだ。
そこで、石油ストーブにした。
それが部屋を直ぐに暖めてくれた。
今日の取手駅西口ウエルネスプラザでのイベント(健康まつり)は雨のために中止となる。
期待していたイベントとイベント会場に出店する浦島のウナギを食べ損ねた。
ところで、室内が寒くなったものだ。
外は雨が降り続いている。
仙台の楽天とロッテの野球は中止となる。
家人は「電気炬燵にしようか」とが言うが、準備がいる。
テーブルの上を整理したり布団を出したり、手間がかかるのだ。
そこで、石油ストーブにした。
それが部屋を直ぐに暖めてくれた。
▼何か大事業を志す人は眼を後世に向けることだ。
▼持論ばかりを互いに強調するのは「対話」というより「討論」だ。
▼対話は分かち合おうとする<歩み寄り>の姿勢が基本になる。
討論は相手を否定する言動になることがある。
▼たとえ意見や主義が違っても、相手のことを考える「もいやり」を持てばモチベーションや生産性は増し、ストレスや停滞感は減る。
▼「対話」とは、互いに異なる光を当て合うなかで、それぞれの生き方や進めべき道を、より豊かに、より鮮やかに、より広々と照らしていく、創造的精神の営為といえるだろう。
▼相手の声に耳を澄ます。
その前にわが心を澄ます。
ここに、価値的な対話の一歩がある。
今回、自分たちの体験をきちんと語って共有したいと取材に応じてくれた家族。母のメグミさんが息子を産んだのは27歳のときでした。
かわいいと思ったのもつかの間、間もなく、想像以上に手がかかる子だと気づきました。何をしても激しく泣き叫び、寝かしつけるのに2時間かかる。夜泣きは毎晩10回以上。しかし夫は夜勤で不在。頼れる人はなく、来る日も来る日も夜を徹してあやし続けました。
2歳になっても、夜泣きは続きました。さらに強い偏食や、かんしゃくにも悩まされるようになりました。
そしてついに、息子を叩くようになってしまったのです。このとき、メグミさんには虐待という意識はなく、気がつけば手を上げているという状態でした。
「息子の泣く感じがすごく私を責めている感じがして。すごく攻撃されてる気がしてたんですよ」(メグミさん)
3歳になってもまだ夜泣きが続きます。指示がまったく伝わらない。こだわりが強く、思い通りにならないと泣き叫ぶ。そんな日ごろの様子から、息子には発達障害の疑いがあるのではと考えました。
救いを求めて、メグミさんは地域の子育て支援課に相談に行きました。しかし、保育園での様子を見た臨床心理士の答えは「問題ありません。健常です。」というもの。
息子は言語の発達が早く、周囲からは問題があるようには見えなかったのです。
「他の子どもたちと同じように育てなければ…」。さらに追い込まれていったメグミさん。虐待はますますエスカレートしていきました。
しかし、それでも息子の行動は変わらないまま。メグミさんは子育てに自信をなくし、外に出ることもできなくなりました。その後、娘の出産が近づき、息子の子育ては、主に夫のケンジさんが担うようになりました。
「(息子の子育ては)本当に大変で。今まで妻がこれをやってたんだというのが驚きで。もう絶対無理だと思って」(ケンジさん)
子育てのしかたがわからず、言うことを聞かないと、つい怒鳴ってしまったケンジさん。妻と同じように手を上げるようになっていきました。
虐待やDVを受けた人のカウンセリングに長年携わっている臨床心理士・公認心理師の信田さよ子さんです。子どもの泣く姿が自分を責めている、攻撃しているように感じるという母親の心理状況は、珍しくないと言います。
「虐待に関わってる者からすると、本当によくある発言なんですね。『一生懸命やっているのに…』と、相手がわずか0歳であっても自分の言うとおりにならず、泣き止んでくれないと、『この子は自分をバカにしてるんじゃないか、攻撃されてるんじゃないか』と思うことがあるんです。そういう気持ちになった時は、自分でもまずいと思ったほうがいい。助けを求めるチャンスだなって思ってほしいですね」(信田さん)
家族に転機が訪れたのは息子が小学校に入学して間もなくのころでした。
授業中、座っていられず、立ち歩いてしまうという指摘を学校から受けました。そこで、発達の専門医の診察を受けることにしたのです。
結果は、発達障害。自閉スペクトラム症とADHDでした。
「そのときに、基本的にこうしてあげるといいですよという紙を2枚もらったんですよ。そこに『指示は短い言葉で』とか、『怒ったりするのは逆効果』というのが書いてあって。やっとこれで始まったって。これでなんとかしていけるんだって思いましたね」(メグミさん)
ようやく、息子との関わり方を相談できる相手が見つかったのです。その後も、医師や臨床心理士から、問題が起きたときにどう対処したらよいか学びました。
まず、親が落ち着くこと。
怒らず、1つ1つ優しく教えること。
しかし、その多くは当時のメグミさんにとって難しいことばかりでした。
「できませんって。すごくキレているときに、このまま本当に殺しちゃうかも、っていうぐらい、私すごく怒りを感じているんですって言いました」(メグミさん)
それを聞いた臨床心理士から、今は子どもを支援できる状態ではないと告げられました。そして、ある言葉をかけられました。「まずはお母さんが満たされることをしましょう。外に出かけて好きなことをしてみてください」と。
最初は驚いたメグミさんですが、週末を利用して、昔から好きだった文具や雑貨を扱うお店をフリーマーケットなどに出店。楽しいと思える時間を過ごすことで、自分を取り戻していきました。
発達障害についても積極的に学ぶようになりました。親向けの勉強会には夫のケンジさんも参加。他の親たちと交流しながら、息子の特性への理解を深めていきました。
「前だったら、ただ頑固で、融通が利かない子だと思っていたのが、実はすごく真面目だから、物事に真剣に取り組んでいるからこそ、そうなんだということがわかったり。そうやって行動の1つ1つを見ているうちに、愛着が湧いてきた」(ケンジさん)
それでも、思わず叩いてしまう、暴言をぶつけてしまうという行動を完全にやめることはまだできませんでした。
そんな自分たちを見つめなおすきっかけが訪れます。息子が小学校で、毎日のようにクラスメイトを殴っていると学校から連絡があったのです。
ケンジさんは厳しく叱り、「なぜ叩くのか?」と問いただすと、思いもよらない答えが返ってきました。
「『どうして叩いちゃいけないの?』って聞かれて。『えっ、いや、だって叩いたら駄目でしょ』と言いながら、自分(親)たちも叩いてることに考えが至って。愕然としたんですよね」(ケンジさん)
これまで、子育てのために仕方ないと思ってきたことが、実はやってはならない暴力なのだと気づかされたのです。2人は暴力と暴言をやめると、息子の前で宣言しました。
「両親が、私たちも叩くのをやめるから(あなたも)やめようって。本当?と思ってた。本当にやめられるの?あなたたち、とは思ってましたね」(息子)
宣言を確実に実行するため、夫婦で話し合ってルールを決めました。
息子に手を上げてしまいそうになったときには、冷静な方が、相手を止める。それでも怒りが収まらない時はその場を離れる。
メグミさんが1人でいる時は、息子への不満をノートに書き込むことにしました。暴力や暴言を、息子に向けないためです。
何度も失敗を繰り返しながらも、1日1日と手をあげない日を増やしていきました。両親が必死で暴力をやめようとする姿に、息子の気持ちも変わっていったと言います。
「『私たちもやめる』って言い出して。それで本当にやめた時にちょっと信頼感が出はじめたかな。有言実行したって感じ」(息子)
そして息子が11歳の頃。両親の暴力をふるってしまう衝動も収まりました。
息子は今は14歳。自分の意見を臆せず伝え、両親もそれに耳を傾けます。
「自信はないですよ、ただ努力し続けているので。とにかくもう『あの頃に戻りたくない』ということを意識し続けている。10年後、20年後、息子が子どもを持った時にどうなるか。そこまでずっと変わらず続けていくことかなと」(メグミさん)
虐待がなかなかやめられず、子どものふるまいからようやく自分たちの加害性に気づいた夫婦。評論家の荻上チキさんは、虐待をやめるためには外部とのつながりが大切だと指摘します。
「家族だけの関係性の中で暴力が進んでいく状態から、子どもの先生からお子さんが暴力的だと指摘されて、親御さんもカウンセリングなどを受けて、外部からのモニタリングが少しずつ入るようになった。一般的にも、外部のケアの目とつながって、周りからいろんな道具をもらうことがしやすい社会を作ることが、とても重要になると思います」(荻上さん)
信田さんは、同じ悩みを持つ親たちとつながることも効果的だと話します。
「グループを作っていろんな機会でつながり続ける、何かあったら聞いてもらうっていうことが、本当に大事だと思います。専門家じゃ及ばない知恵が生まれるんです。本当に私たちも感服します」(信田さん)
そして「虐待をしない」ことを続けるには、親が自分自身を観察することも必要だと言います。
「毎日やるべきこととしては、セルフウォッチング。危険な状態になったなと気づけるかどうかは大きいです。自分をいつも観察して、このままいくと危ないなというときに、ちょっと席を外すとか、冷蔵庫を見に行くとか、スマホを見るとか、2秒間深呼吸するとか。時間の流れを中断する“タイムアウト”がすごく大事ですね」(信田さん)
虐待をする親も実は苦しんでいる。そのことから目をそらさずに、周囲も、親自身も、虐待をやめるためにはどうしたらいいのかを真剣に考える必要があるのです。
【特集】子どもの虐待
(1)エスカレートする親の暴力
(2)親が抱える困難
(3)虐待をやめるために親ができること ←今回の記事
(4)元里子が受け継ぐファミリーホーム
(5)親や社会ができること
※この記事はハートネットTV 2020年2月12日放送「特集 子どもの虐待 虐待をやめるまで 親子の軌跡」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
2023年7月10日(月)午後0時00分 更新
ことし6月で亡くなってから15年になる、作家・氷室冴子。 10代の若者を主人公にした「少女小説」「青春小説」と呼ばれる分野で数々の作品を残し、累計売り上げは2000万部を超える大ヒットメーカーでした。 社会やルールの枠を超えて躍動する主人公たちの姿に、多くの若者が「自由」を受け取り、その精神はいまもリレーされ、息づいています。 番組では、かつて読者だった作家や友人、編集者のインタビューを通じて、氷室冴子の作品が放つ力と彼女の人生をたどります。
北海道道「没後15年 氷室冴子をリレーする」(再)
7月12日(水)午後2:05~2:32<総合・全国>
【MC】鈴井 貴之・多田 萌加 【出演・語り】酒井 若菜
※放送後1週間NHKプラスで配信
「氷室冴子をリレーする 少女たちよ自由に!没後15年・ベストセラー作家の人生と作品」※7月9日(日)放送・43分拡大版
NHKプラスで配信中(7月23日(日)まで)←道外の方もご覧頂けます!
<スペシャルインタビュー>
番組で取り上げる氷室冴子とゆかりのある人物のインタビューを、全6回にわたり詳しくご紹介します。
<番組概要>
岩見沢出身の作家・氷室冴子。1980~90年代にかけ、『クララ白書』『なんて素敵にジャパネスク』『海がきこえる』などの作品で、一世を風靡した。
累計売上は2000万部を超え、とりわけ小学生から高校生にかけての少女たちに絶大な人気を誇ったベストセラー作家だった。
作品の多くは、ティーンエージャーの女子が主人公。
“社会”や“大人”や“男性”にあわせて、自分を変えてしまうのではなく、自立して自由に生きようとする姿を氷室はいきいきと描き出した。
現在よりもはるかに男性中心主義だった時代、それは“大人”になる前の若者たちを勇気づけた。
2008年、がんのために、氷室は51歳の若さで亡くなる。だが、女性が、あるいはすべての個人が生きることをエンカレッジするような氷室からのバトンは、今に至るまで受け継がれている。
没後15年になる今年、証言から氷室の足跡をたどりつつ、その影響を受けて、物語を生み出す現代の表現者たちの姿と言葉から、時代を超えた普遍性を持つ氷室作品の意味に、改めて光をあてる。
<番組関連イベント>
7月8日(土)から、NHK札幌放送局8K公開スタジオで番組と関連した企画展を開催。氷室冴子原作漫画の原画約30点を展示するほか、番組で紹介された映像を上映します。
没後15年 NHK札幌ミニ企画展「氷室冴子をリレーする」
2023年7月8日(土)~7月17日(月・祝)
平日 午前9:30~午後6:00/土日 午前10:00~午後6:00
【会場】 NHK札幌放送局1階8K公開スタジオ
(札幌市中央区北1条西9丁目1-5)
【主催】 NHK札幌放送局
【後援】 札幌市、札幌市教育委員会
【参加方法】入場自由・無料
※詳細はこちらから
2021年3月31日(水)午後4時30分 更新
あなた、やっぱり処女なんでしょ――。「少女小説家」は嘲笑された。『なんて素敵にジャパネスク』『クララ白書』ほかベストセラーを多数送り出し、セクハラという言葉が世間に登場し始めた頃、「いっぱし」の年齢・三十歳を超えた著者。女としてただ社会に在るだけで四方八方から襲い来る違和感を、まっすぐに、そして鮮やかに描いた不朽のエッセイが満を持して復刊!
氷室 冴子(ひむろ さえこ、本名:碓井 小恵子(うすい さえこ)[1]、1957年1月11日[1] - 2008年6月6日[1])は、日本の小説家。1980年代から1990年代にかけて集英社コバルト文庫を代表する看板作家であり、かつては正本ノン、久美沙織、田中雅美とあわせてコバルト四天王と呼ばれていた[2]。
生涯
北海道岩見沢市出身[1]。
北海道岩見沢東高等学校を経て藤女子大学文学部国文学科へ進学。
当時の知的流行であった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫本をバラして一日1ページのペースで文章を一字一句に至るまで解析する学究生活を送る。
大学3年の夏に賞金目当てで第10回「小説ジュニア青春小説新人賞」へ応募して佳作を受賞。その時点では職業作家を目指していなかったものの、このときの受賞作「さようならアルルカン」で、1977年(昭和52年)に小説家としてデビュー、翌年には初の単行本『白い少女たち』が刊行される。
卒論では堀辰雄を論じた。1979年(昭和54年)に大学は卒業するがオイルショックの影響で就職ができず、母親と喧嘩して家を出て札幌で高校時代からの友人2人と共同生活を始める。
手元にあったのは『白い少女たち』の印税60万円であり、家賃から雑費まですべて含めて月1万9000円の貧乏生活を開始。
月に1本のペースで小説を書いては出版社に送りつける。1980年(昭和55年)4月に刊行された学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。
その後、宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになり、1981年(昭和56年)、取材のため兵庫県宝塚市へ転居。小説家であることを隠してファンクラブに潜入し、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世している。
『雑居時代』(1982年7月刊)が版を重ねることで職業作家としての道が確立、1982年(昭和57年)に札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて1985年(昭和60年)に上京。
これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立し、少女小説ブームの立役者として活躍した。
“少女小説家”という言葉の生みの親でもあり、同名作品を83年に著している。
古代日本を舞台に設定したファンタジー『銀の海 金の大地』シリーズ、小学校時代を舞台にした半自伝小説『いもうと物語』、結婚を迫る母親との攻防戦を描いたエッセイ『冴子の母娘草』などの作品もある。次第に『Cobalt』以外にも活動の場を広げ、徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化された。
1990年代後半以降は体調を崩しがちになり、目立った執筆活動はなかった。2000年代は漫画賞の選考委員などを行っていた。2001年に雑誌コバルトの取材で斎宮歴史博物館を訪れ学芸員と対談、斎宮を舞台にした平安時代小説の新作の構想で盛り上がったという[3]。2008年(平成20年)6月6日午前9時、肺癌で死去した[4]。51歳没。
生前親交の深かった日本橋学館大学(千葉県柏市)の田中二郎准教授に約850冊の本を譲っていた縁で、2009年10月24日、同大学で「氷室さんを偲ぶ一日」が開かれ、田中准教授は「思い出を語る会」で氷室のパワフルに過ごした私生活などを紹介した。
また同大学図書館では、寄贈された本や氷室が愛用したパソコン・キーボード、原稿用紙などを公開する展示企画「氷室冴子の世界 ~寄贈本と思い出の品~」を同年9月中旬から10月末まで開催していたが、読売新聞や千葉日報で紹介されるなどしたため、11月末まで展示は続けられることになった[5] [6] [7] [8] [9]。
2017年、岩見沢市では氷室冴子の功績をたたえ「氷室冴子青春文学賞」を創設することになった[10][11][12]。
作風と影響
最初期の『さようならアルルカン』やミッションスクールの寄宿舎を舞台にしてそれぞれの内面を抱えた3人の少女の精神的な交流を描いた『白い少女たち』には、少女小説の元祖的存在である吉屋信子の強い影響が認められる[13]。また、子供の頃から少女漫画を愛読しており、萩尾望都らの影響を受けたと語っている[14]。
萩尾らが少女漫画で「虚構の少年」、男女どちらからも自由な新しいイメージを描いたことに感銘を受け、しかし、男の子はうらやましい、男の子に対して現実の女の子は人生の主役にもなれないし物語の主役にもなれないと感じ、少女を主人公にした「少女小説」を意識して書くようになった[15]。
大塚英志は、氷室や久美沙織らが少女小説に「アニメのような小説」、「少女まんがのような小説」を持ち込んだと述べている[16]。
氷室以前に、平安時代を舞台にしたものは歴史小説が主で、創作キャラクターが活躍する小説はほとんどなかった。
氷室は、現代的な感覚のヒロインが平安時代で活躍するというスタイルを確立した。平安時代に育った人物は平安時代の感覚を持つはずであり、現代の女子高生のような感覚の主人公が平安時代にいるという設定は本来不自然であるが、氷室は並々ならぬ歴史・古典知識と愛情、綿密なストーリー構成によってその壁を超えた(同様の挑戦を行った作品として、荻原規子の児童文学「勾玉三部作(1988 ‐ 1996年)」がある)。
氷室の歴史ものは「古典の現代的再生」に成功した希有な例であり、その後の少女小説やライトノベル、漫画における平安もの、歴史ものに大きな影響を与えた[3]。
ブロガーのペトロニウスは、「平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントにする手法」のフォーマットの始まりは氷室作品で、これは広く一般化しており、D.キッサンのマンガ『千歳ヲチコチ』(2011年 ‐ 2016年) のような近年の作品は、このフォーマットが深く浸透している前提で、平安時代の風習の説明も省いていると指摘している[17]。氷室作品が古典や歴史に興味を持つきっかけになった人も多く、斎宮歴史博物館の榎村寛之は、「『古典や歴史の研究を志したきっかけは、氷室先生の作品に接したことでした』という研究者は、特に若手の女性研究者を中心に少なくないようです」と述べている[3]。
『Cobalt』2006年2月号で行われた、同誌で活躍中の作家に初めて読んだコバルト文庫作品を尋ねるアンケートで、今野緒雪、金蓮花、倉世春らが氷室の作品を挙げており、氷室による現代少女小説の流れは次の世代の作家たちに受け継がれていると言える[18]。
漫画家・青山剛昌原作の『名探偵コナン』87巻に収録の『蘭GIRL』と『新一BOY』は、氷室の『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』を元ネタとしており、青山は、「『なぎさボーイ』を読んだ後で『多恵子ガール』を読み、『女の子ってこんなこと考えてたんだ。おもしれー』と感動し、いつかオレもこんな連載を描いてみたいなぁと思っていたら30年もたってしまった…(笑)」と話している[19]。
作品
小説
*出版社表記のないものは全て集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)
白い少女たち 1978年
さようならアルルカン 1979年 - 表題のデビュー作を含む短編集
収録作品は「さようならアルルカン」「アリスに接吻を」「誘惑は赤い薔薇」「妹」
クララ&アグネス白書
クララ白書 1980年
クララ白書ぱーとII 1980年
アグネス白書 1981年
アグネス白書ぱーとII 1982年
恋する女たち 1981年
雑居時代 上下巻 1982年
ざ・ちぇんじ! 前編・後編 1983年
シンデレラシリーズ
シンデレラ迷宮 1983年
シンデレラ ミステリー 1984年
少女小説家は死なない! 1983年
なんて素敵にジャパネスク シリーズ
蕨ヶ丘物語 1984年
ボーイ・ガールシリーズ - 蕨ヶ丘物語と同舞台
なぎさボーイ 1984年
多恵子ガール 1985年
北里マドンナ 集英社 1988年 のち文庫 1991年
ヤマトタケル 1986年
冬のディーン 夏のナタリー1-3 1988年 - 1993年
レディ・アンをさがして 角川文庫 1989年
碧(あお)の迷宮 上 角川書店 1989年
いもうと物語 新潮社、1991年 のち文庫 1994年
ターン―三番目に好き 集英社、1991年 のち文庫 1994年
銀の海 金の大地シリーズ
海がきこえる1-2 徳間書店 1993,1995年 のち文庫
月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ! 2012年 - 『ざ・ちぇんじ!』と文庫未収録3作品を収録した作品集
収録作品「月の輝く夜に」「ざ・ちぇんじ!」「少女小説家を殺せ!(少女小説家は死なない!番外編)」「クララ白書番外編 お姉さまたちの日々」
さようならアルルカン/白い少女たち-氷室冴子初期作品集- 集英社 2020年
収録作品「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」「おしゃべり」「悲しみ・つづれ織り」「私と彼女」「白い少女たち」
エッセイ
冴子の東京物語 集英社 1987年 のち文庫 1990年 のち文庫再刊行 2022年
プレイバックへようこそ 角川書店 1989年 のち文庫 1991年
プレイバックへようこそ2 角川書店 1990年 のち文庫(「委員物語」に改題) 1991年
ガールフレンズ―冴子スペシャル 集英社文庫コバルトシリーズ 1990年 - 対談集+αのバラエティブック
マイ・ディア―親愛なる物語 角川文庫 1990年 - ブックガイドエッセイ
いっぱしの女 筑摩書房 1992年 のち文庫 1995年 のち文庫再刊行 2021年
冴子の母娘草(ははこぐさ) 集英社 1993年 のち文庫 1996年 のち文庫再刊行 2022年
ホンの幸せ 集英社 1995年 のち文庫 1998年
翻訳
落窪物語 講談社 1993年 改版 2009年
共著
僕が好きなひとへ 海がきこえるより 近藤勝也共著 徳間書店 1993年
戯曲
レディ・アンをさがして
漫画原作
螺旋階段をのぼって(香川祐美、小学館)
ライジング!(藤田和子、小学館)
ラブ・カルテット(谷川博実、集英社)
氷室作品を題材・原作とした作品
ドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(主演:富田靖子)
海がきこえる〜アイがあるから〜(主演:武田真治、佐藤仁美)
ラジオドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(NHK-FM 主演:小林聡美)
映画化
クララ白書(主演:少女隊)
恋する女たち(主演:斉藤由貴)
「さよなら」の女たち(主演:斉藤由貴)
アニメ化
海がきこえる(スタジオジブリ、主演:飛田展男・坂本洋子)
漫画化
クララ白書(みさきのあ:小学館)
アグネス白書(みさきのあ:小学館)
なんて素敵にジャパネスク(山内直実:白泉社)
雑居時代(山内直実:白泉社)
蕨ヶ丘物語(山内直実:白泉社)
ざ・ちぇんじ!(山内直実:白泉社)
月の輝く夜に(山内直実:白泉社)
少女小説家は死なない(にしざわみゆき:白泉社)
恋する女たち(南部美代子:集英社)
絵物語化
シンデレラ迷宮(絵:いのまたむつみ、構成:成井豊、徳間書店)
舞台化
レディ・アンをさがして
OSK日本歌劇団が1996年、煌みちるのトップお披露目公演として近鉄劇場で上演。
ラルフ・ベッカー役:煌みちる、レディ・アン役:湖上芽映。
ざ・ちぇんじ!-新釈とりかえばや物語-
テアトル・エコーが2000年11月12 - 21日新宿南口紀伊国屋サザンシアターにて上演。
壌晴彦脚色・演出。大谷美智浩脚本。綺羅姫:杉村理加、綺羅君:溝口敦。
女性ミュージカル劇団「劇団スター・オブ・ドリームズ」が上演。
1991年9月初演。2005年9月森之宮プラネットステーションにて15周年記念公演で再演。
大浦薫演出。綺羅姫:響優、綺羅君:世羅雅。
シンデレラ迷宮
演劇集団キャラメルボックスが1994年、東京芸術劇場小ホール、新橋ヤクルトホールにて上演。
久世龍之介演出。成井豊脚本。
その他
テレビ番組
『北海道道』「没後15年 氷室冴子をリレーする」(2023年6月23日 他、NHK札幌放送局)- 没後15年の特集が組まれ、7月9日には43分拡大版「氷室冴子をリレーする 少女たちよ自由に!没後15年・ベストセラー作家の人生と作品」が放送された[20]。
参考文献
10月9日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。
氷室さんが卒業した札幌のF女子大学は、北海道では有名なミッション系女子校で、大体が中学・高校からのエスカレーター学生が多い。シスターがいて、神様を敬う奉仕の精神は教えてくれるけど、例えば、経済的に困窮した生徒や、親に東京行き、海外留学等を反対されている生徒に対する生きるための術(働きながら大学へ通うとか奨学金をもらうとか)を教えてくれる教職員はおらず、「祈りなさい」「祈っていればいいことがある」って感じの教育方針でした(昭和30年代から昭和50年代)。
私の親類は、氷室さんと同じ学校で学び、邪気のない人でしたが、生きる術というものを知らず、人に頼る、人に助けてもらうという人でした。それもまあ、人徳ではありますが。
地元で有名なお嬢さん学校なので、氷室さんのお母さんが、北大卒の男でも捕まえて結婚しろっていう思想だったのは、何となくわかります。
でも、子どもの頃から頭がよく、いわゆる学習指導要領の枠にも収まり切れない人が、こういう女子教育の価値観の中で生きることは、とても生きづらかったのではないでしょうか。
お母さんに反抗して家出し、作家として印税稼いで東京暮らしをしていても、札幌のテレビ局の占いコーナーに娘の結婚について相談しちゃった話のくだりは、さすがに気の毒でした。
それをネタにして飯のタネにするっていうのが、母親に対する一番の復讐なのかもしれませんが。
いわゆる少女小説の第一人者としての作品は、すでに発売済みですが、願わくば絶版になっている「冴子の東京物語」「冴子の母娘草」等のエッセイの復刻を希望します。
賢くハンサムな作家のエッセイって感じがして、とても面白い作品でした。
30代の独身女の所感は当時高校生だった自分には本当のところよく分からず、でも大好きな作家のエッセイであり、高校生には高額な本だったこともあり、何度も読み返しました。
人生の中で長年、一種の格言のように指標としていたあのフレーズやこのフレーズの出典はここだったのかと驚く思いです。思った以上に自分の根源部分に食い込んでいる一冊です。
30歳過ぎのときに書かれたエッセイの内容はぜんぜん古くない。
なかでも『とてもすばらしかつた旅行について』は秀逸である。
ある海外旅行に一人参加した氷室さん。不満を何でもすぐ口にし、他の参加者に同意を求める
金持専業主婦らしき高齢夫人が、独身で一人参加の氷室さんに目をつけて、醜悪な発言をしたり、
氷室さんの容姿や服装にケチをつけるようになる。
特に「私、学校を出てから十年間、ひとりで稼いで食べてきましたの」は、働いたこともなく
夫が稼いだ金で旅行している金持夫人をぎゃふんと言わせて痛快だ。
他のエッセイや小説も読んでみたい。
わたしは自分自身20代の、発売当初に読みました。
作者が友人たちと共同生活をしていたことは、しばしばエッセイに登場したり、
小説のネタ元になったりしていますが、今回のエッセイには、昔は知りえなかった
友人の本音を知った時の衝撃が書かれています。
「夢の家で血のつながらない他人と暮らすには…」
結婚前に読んでいてよかったと思いました。