「一緒には、もう戻れないね。先に帰ってもらおうかな。いいですね」大沢はホテルの影にが眼に映じた時に言った。
「ええ、私先に行きます」幸恵は小走りになった。
一度も振り返えらなかった。
意識から遠のいていた潮の香りを鼻腔に感じた。
自然に胸が熱くなって、涙が溢れてきた。
「おとうさん」と幸恵は海を振り返る叫んだ。
父親が亡くなったのはちょうど今のような爽やかは時候のころであった。
「なぜ、こんな季節に人は死ななければならないのだろう」幸恵は哀しみを噛み締めるのだった。
幸恵の頭にもう大沢のことは薄れてゆく。
明日帰ったら義母の家を訪ねてみようと思った。
夫にも無性に逢いたくなった。
幸恵が部屋に戻ると二人の同僚の寝息が静かに聞こえてきた。
それらは規則的で安らかそのものであった。
幸恵は同室の二人を起こさないように気遣いながら布団に身を横たえた。
同僚の上田仁子も中沢美津子もまだ独身の身であった。
二人とも酒が飲めず宴会の席を最初に立っていた。
幸恵はこの二人とは、5歳、6歳年上であった。
もう社内では幸恵は古株の一人となっていた。
中沢美津子が突然「あ~」と声を発した時は、幸恵はドキリとさせられ、身を起こす。
彼女は夢でも見ている様子だった。
怖い夢なのか、豆ランプの下でも、美津子が眉を潜めているのが認められた。
眼がしらが何度か痙攣し、よく見るとまつ毛が震えていた。
美津子は幸恵のアパートに3度遊びに来て、1度は夫が出張で家に居なかったので泊っている。
誰とも気が合うようで、同僚の家に遊びに行き、「泊ったら」と言われれば泊まってゆくよいうな人慣れしたところがった。
寝つきの悪い幸恵は美津子の心の大らかさが羨ましかった。
美津子は幸恵と違って細身であり、幸恵は好ましく思っていた。
幸恵は薄化粧であり、一方の美津子は厚めの化粧で個性的な容貌は一層、際立っていた。
幸恵は、美津子の寝顔が平穏になったのを認めると「おやしみなさい」と言ってみた。