チェーホフ-七分の絶望と三分希望
沼野充義著
作家の姿は、「七分の共感と三分の憐憫」の人のように見えてくる。
愛と同情に溢れながら、知性ゆえにか微かな憐笑を抑えられなかった作家である。
トルストイは人生を肯定的描き、ドストエフスキーは否定的に描いたが、チェーホフは言葉の厳密な意味においてありのままに捉えた。
凡百の写実作家のよう価値観を密輸入したりせず、文字通り人生を見えるがままに見せたのがこの天才だ。
ありのままに人生を見れば、それが悲劇であるとともに滑稽であるのは当然ではないか。
しかも日本の私小説家と違って、この作家は当時のあらゆる社会問題から目をそらさなかった。
先輩の大長編作家たちとは対照的に、彼は短編途中編しか書かず、やがて劇作家として世界的な声望を得るわけだが、この評伝を読むとそれも自然だと思われる。
あの激動期にどんなイデオロギーにも傾かず、人生をあるがままに見るのは長く続けられる仕事ではないからである。
そして一つだけ私見を述べることを許して頂けるなら、演劇には小説にはない独特の仕掛けがあって、彼の危うい綱渡りを助けてくれたからだろう。
偉大な天才の照れ性には、天も加担するかもしれない。
山崎正和評
沼野充義著
作家の姿は、「七分の共感と三分の憐憫」の人のように見えてくる。
愛と同情に溢れながら、知性ゆえにか微かな憐笑を抑えられなかった作家である。
トルストイは人生を肯定的描き、ドストエフスキーは否定的に描いたが、チェーホフは言葉の厳密な意味においてありのままに捉えた。
凡百の写実作家のよう価値観を密輸入したりせず、文字通り人生を見えるがままに見せたのがこの天才だ。
ありのままに人生を見れば、それが悲劇であるとともに滑稽であるのは当然ではないか。
しかも日本の私小説家と違って、この作家は当時のあらゆる社会問題から目をそらさなかった。
先輩の大長編作家たちとは対照的に、彼は短編途中編しか書かず、やがて劇作家として世界的な声望を得るわけだが、この評伝を読むとそれも自然だと思われる。
あの激動期にどんなイデオロギーにも傾かず、人生をあるがままに見るのは長く続けられる仕事ではないからである。
そして一つだけ私見を述べることを許して頂けるなら、演劇には小説にはない独特の仕掛けがあって、彼の危うい綱渡りを助けてくれたからだろう。
偉大な天才の照れ性には、天も加担するかもしれない。
山崎正和評
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