戦争裏面歴史の強姦  「米軍兵士の婦女暴行」 戦地:日本(沖縄)  

2025年01月15日 04時55分05秒 | 社会・文化・政治・経済
証言

「米軍兵士の婦女暴行」
戦地:日本(沖縄)  

(米軍)上陸のときは逃げていましたね。国頭(くにがみ・本島北部)の方に。そのときは、部落で馬車のある人は避難しきれた。国頭の方に。そして、馬車とか馬のない人たち、ちょっと貧しいなと思った人たちは、部落にとどまってあっちこっちのガマ(洞窟)に(潜んだ)。

Q:国頭に逃げて、その後のことを教えてください。

あっちこっち避難して、山の奥にですよ、逃げて。また敵が来たらまた逃げて。そして8月何日かな、捕虜になったんですよ。そして、田井等(現・名護市)のカンパンというところにみんな集められて、そこからまた各部落に。こっちからはどこの部落、私たちは仲尾というところにあてられたんですよ。その部落に。そしてそれからまた貧しい思い。また貧しい、何にもないですからね。もう食事、人のイモを盗みにいったんですよ。

Q:沖縄戦の終結は6月23日って聞いているんですけれど。

でも8月ぐらいだったと思いますよ。みんな嘘(うそ)だろと言って、山にこもっているわけですよ。出ない。山から出ない。そして、山の周囲をみんな焼かれたもんだから、どんどん火は山の中に入ってきたもんだから、びっくりして出てきたんですよ。そのときに捕虜になって、羽地にあれされたわけですよ。

Q:キクさんは誰と山原(やんばる・本島北部)に逃げていたんですか?

お母さん、おばあさん。だけどおばあさんはもう亡くなって、向こうで。仲尾で。食事関係でみんなひもじい思いしてるから、栄養が足りなかったんでしょうね。

Q:亡くなるところは見ましたか?

私見てないですね。でも、うちのおばあちゃんは・・みんなは兵隊も民間の人も穴を掘ってね、みんな一つに入れるんですよ。だけどうちのおばあちゃんなんかは、ちゃんと横に掘ってちゃんと葬った、葬ったりした、お父さんが。だから、遺骨もちゃんとありました。後で取りにいったら。

Q:山原まで逃げるときに、見たものはありますか?

子供が、みんな頭に乗せてね、食べものとか着物とか持っていくときに。いっぱいですからね、逃げる人がいっぱい。那覇からもあちこちから、みんな山原(やんばる)に。みんな国頭に逃げるんですから。そんときに小さい4、5歳なる子供かね、「お母さんお母さん」して泣いてよ。もう、お母さんどこに行ったかわからない、自分一人走っていくんですよ。だれもふり向く人もいません。みんな逃げるのに一生懸命で。どこでお母さんと離れたかなと思ったんですけれど、もう誰も振り返る人もいません。途中で、名護の方でまた空襲があったんですよ。馬車にいろいろ乗せてあったんですけれどね、みんな弾にやられてめちゃくちゃ。米も油も。それをまた持って行って、なんとかして食べたんですけれど。でもう一か月ぐらいで底尽いたんですかね、食べ物は。それからはもう、いろんな草を取って食べたり、盗みに行ってまたイモを取ってきて食べたり。敵が来ない間に、そのときに、イモを取りに行くときに、ある青年がこっちを撃たれて、敵に撃たれて、こっちを押さえて、そのまま走ってくる人もいるし。あとどこで倒れたかねと思いましたね。男の方。会ったんですよ、私たちがイモ取りに、あの人逃げてくるの。

Q:他におじいかなんかの姿は。

あれはですね。羽地(現・名護市)に捕虜にならない前に山から下りてくるときに、みんな自分の子供を連れて、手を引いておんぶして、何かまた頭載せていますよね。おじいまで連れて歩けないんですよ。おじいちゃんたちは「そこにいておきなさいね、後で、迎えに来るから」というふうに形で。みな、ただ人の来るのを見ているわけですよ。

Q:おじいは何で連れて行けなかったんですか?

自分の子供守るために。ついてこれないんですよ、おじいはゆっくりゆっくりしか歩けないから。みんな前進ですからね。その途中で、兵隊が倒れて、脚絆(きゃはん)巻いて、戦闘帽かぶって撃たれて死んで。そして葉っぱね、誰か枝を取ってあまり醜いからこう覆われてるわけですよ。顔をね。また少し歩いたらまたそこら辺にもいるんですよ、死んだ、これは民間の人が倒れて。怖くもなかったですね。それが当たり前と思って。

 

クレジット

番組名
[ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
収録年月日
2012年5月17日

証言者プロフィール

長浜 キクさん

1928年
沖縄県読谷村に生まれる
1945年
米軍上陸前に、家族で沖縄本島北部に疎開する
 
8月まで山中で生活、その後、米軍の捕虜になる
 
本島北部での収容所生活時、米軍兵士による婦女暴行を目撃する

出来事の背景

【沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日】

出来事の背景 写真

3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。
沖縄戦を生きぬいた人々も、戦後は米軍政下で過酷な歴史を歩み、いまも戦争や戦後の体験に苦しみ続ける人々がいます。
長浜キクさんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいましたが、米軍上陸前に、「山原(ヤンバル)」と呼ばれる沖縄本島北部に家族で避難しました。そこでは、飢えに苦しんだ末に、キクさんの祖母は命を落としました。組織的な戦闘が終わったとされる6月下旬以降も

山に潜み続けていた長浜さんたちは、8月になって山を下りて捕虜になりました。その時15歳だった長浜さんは、米軍兵士に沖縄の女性が暴行されるのを一度ならず目の当たりにする衝撃的な体験をしました。
その後も、沖縄では、米軍兵士による女性に対する性的暴行事件が起こっています。1995年9月には、女子小学生が3人の米兵に暴行される事件が起きました。長浜さんは、このできごとに再び大きなショックを受けました。米軍機の騒音や解決のめどが立たない普天間基地の移設問題などにも心を痛めています。



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