(米軍)上陸のときは逃げていましたね。国頭(くにがみ・本島北部)の方に。そのときは、部落で馬車のある人は避難しきれた。国頭の方に。そして、馬車とか馬のない人たち、ちょっと貧しいなと思った人たちは、部落にとどまってあっちこっちのガマ(洞窟)に(潜んだ)。
Q:国頭に逃げて、その後のことを教えてください。
あっちこっち避難して、山の奥にですよ、逃げて。また敵が来たらまた逃げて。そして8月何日かな、捕虜になったんですよ。そして、田井等(現・名護市)のカンパンというところにみんな集められて、そこからまた各部落に。こっちからはどこの部落、私たちは仲尾というところにあてられたんですよ。その部落に。そしてそれからまた貧しい思い。また貧しい、何にもないですからね。もう食事、人のイモを盗みにいったんですよ。
Q:沖縄戦の終結は6月23日って聞いているんですけれど。
でも8月ぐらいだったと思いますよ。みんな嘘(うそ)だろと言って、山にこもっているわけですよ。出ない。山から出ない。そして、山の周囲をみんな焼かれたもんだから、どんどん火は山の中に入ってきたもんだから、びっくりして出てきたんですよ。そのときに捕虜になって、羽地にあれされたわけですよ。
Q:キクさんは誰と山原(やんばる・本島北部)に逃げていたんですか?
お母さん、おばあさん。だけどおばあさんはもう亡くなって、向こうで。仲尾で。食事関係でみんなひもじい思いしてるから、栄養が足りなかったんでしょうね。
Q:亡くなるところは見ましたか?
私見てないですね。でも、うちのおばあちゃんは・・みんなは兵隊も民間の人も穴を掘ってね、みんな一つに入れるんですよ。だけどうちのおばあちゃんなんかは、ちゃんと横に掘ってちゃんと葬った、葬ったりした、お父さんが。だから、遺骨もちゃんとありました。後で取りにいったら。
Q:山原まで逃げるときに、見たものはありますか?
子供が、みんな頭に乗せてね、食べものとか着物とか持っていくときに。いっぱいですからね、逃げる人がいっぱい。那覇からもあちこちから、みんな山原(やんばる)に。みんな国頭に逃げるんですから。そんときに小さい4、5歳なる子供かね、「お母さんお母さん」して泣いてよ。もう、お母さんどこに行ったかわからない、自分一人走っていくんですよ。だれもふり向く人もいません。みんな逃げるのに一生懸命で。どこでお母さんと離れたかなと思ったんですけれど、もう誰も振り返る人もいません。途中で、名護の方でまた空襲があったんですよ。馬車にいろいろ乗せてあったんですけれどね、みんな弾にやられてめちゃくちゃ。米も油も。それをまた持って行って、なんとかして食べたんですけれど。でもう一か月ぐらいで底尽いたんですかね、食べ物は。それからはもう、いろんな草を取って食べたり、盗みに行ってまたイモを取ってきて食べたり。敵が来ない間に、そのときに、イモを取りに行くときに、ある青年がこっちを撃たれて、敵に撃たれて、こっちを押さえて、そのまま走ってくる人もいるし。あとどこで倒れたかねと思いましたね。男の方。会ったんですよ、私たちがイモ取りに、あの人逃げてくるの。
Q:他におじいかなんかの姿は。
あれはですね。羽地(現・名護市)に捕虜にならない前に山から下りてくるときに、みんな自分の子供を連れて、手を引いておんぶして、何かまた頭載せていますよね。おじいまで連れて歩けないんですよ。おじいちゃんたちは「そこにいておきなさいね、後で、迎えに来るから」というふうに形で。みな、ただ人の来るのを見ているわけですよ。
Q:おじいは何で連れて行けなかったんですか?
自分の子供守るために。ついてこれないんですよ、おじいはゆっくりゆっくりしか歩けないから。みんな前進ですからね。その途中で、兵隊が倒れて、脚絆(きゃはん)巻いて、戦闘帽かぶって撃たれて死んで。そして葉っぱね、誰か枝を取ってあまり醜いからこう覆われてるわけですよ。顔をね。また少し歩いたらまたそこら辺にもいるんですよ、死んだ、これは民間の人が倒れて。怖くもなかったですね。それが当たり前と思って。
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