ゲノム研究は、医学、薬学、農学等の分野で新技術の開発に貢献するだけでなく、「生命とは何か」「人間とは何か」といった問いに対し、重要な基礎知識を提供する。
微生物ゲノムの解読からは、「生命として成り立つ最小のゲノムは何か」という問いが立てられるようになり、ヒトゲノムの解読からは生物としてのヒトの起源やヒト集団内での多様性が具体的に研究できる。
しかしながら、ゲノム研究が生み出す生命や人間についての見方を体系的にまとめるという作業は、これまで十分になされていなかった。
ゲノム研究から見えてくる生命観・人間観を、ゲノム研究者との議論を通してまとめることを目指した。
人間は特殊な生物か?
自分自身を変える技術を獲得した点で、やはり、特殊な生物だと考えられる。
生物や人間の全体像の理解が完全でない段階でも、医療やその他の目的のために、人間は自分自身を改変すると思われる。
そもそも科学研究が生命観・人間観(生命の見方・人間の見方)に与える影響を分析しようとする営みは、どこかに区切りをつけられるようなものではない。
ゲノム研究の動向を文献や聞き取り調査によってしっかりと把握する作業を時間をかけて進めることが重要である。
その上で、研究が生み出す知識や技術がどのように生命や人間の見方に影響を与えようとしているのかを、様々な手法を用いて分析することが必要であろう。
人文社会科学的な分析を進めていくことが必要である。
20 世紀の後半は、しばしば生命科学の時代と形容される。
生命の本質と、疾病を含む様々な生命現象についての我々の理解は、この半世紀で飛躍的に深化し拡大した。人類は遺伝子を操作する技術を手に入れ、細胞・生体を用いて有用物質を量産することが可能になり、さらには細胞を望みの組織へと分化させる手段をも獲得しつつある。このような生命科学
の発展が医療や食料生産にもたらした恩恵は計り知れない。しかし我々はまだ、生命を理
解し尽くしたとはとうてい言えない地点にいる。個々の生体化学反応の詳細、それらを統
合して生命システムとして成り立たせている仕組み、さらには脳や神経の働きにより我々
が知覚し、記憶し、行動するメカニズムなどはまだまだ未知の大海である。21 世紀におい
てこれらの問題に果敢に挑戦し、人類の知をより深化させるために、どのような学術研究
体制を構築していかなければならないかは、極めて大きな問題である。
また、生命科学を含めた科学技術の発展により、一方では豊かな生活を享受しつつ、他
方では地球規模で人類の生存基盤の崩壊が進行するという事態に我々は直面している。こ
れからの時代においては、科学技術で生じた負荷を新技術で克服するというテクノロジー
優先の考えではなく、生物としての人類が地球環境の中で生き延びていくには本質的にど
のように生活すべきであるかという叡智を与えてくれる生命科学の展開が不可欠である。
これからの生命科学
日本の生命科学研究は、これまで生命現象の解明において優れた成果を上げてきた。
しかしそれは、専ら「ヒト」を生物として理解することを目標としたものであり、生命科学の成果を「人間」の福祉につなげることが明確な目標として認識されることは少なかった。
これからの生命科学においては、「生命現象の包括的・統合的な理解」と「人類の福祉への貢献」とを両立させることが重要である。
そのためには、未来を見据えた基盤技術・機器開発と、特にボトムアップ型の研究に対する継続的な支
援の充実を図るとともに、先端的な研究の成果を医療・創薬や農業・食料科学などへ適切に橋渡しする研究を支援する体制を、法制度等も含めた社会的なインフラストラクチャーとして整備することが望まれる。また、人間の生命や健康・生活の安全と、それに影響を与える諸要因との関係を解明し、調整するための目的指向的な科学分野、レギュラトリーサイエンスの発展も重要である。
こうした目標を達成するためには、生命現象の理解を目指す生命科学領域に加えて、「人間」を深く理解し、その健康と福祉に貢献することを目的とした、新たな生命科学の研究領域を開発し、両者を調和させながら発展を図ることが有効である。
基盤技術の開発とボトムアップ型研究への支援
生命現象の包括的・統合的な理解を大きく発展させるために、
① 大容量データを取得、解析、保持し、関連する資源を保存、頒布する技術
② 細胞や個体の操作、情報計測、システム模倣技術
③ 再生医学、ドラッグデリバリー、ナノテクロジーなどを活用した医療・創薬技術
④ DNA マーカーや組換え DNA を利用した技術など、基盤となる技術の開発が重要である。
また、我が国の今日の科学政策においては、トップダウン型研究に比してボトムアップ型に対する支援は手薄であると言わざるを得ず、両者の調和に関して適切な考慮が行われなければならない。
生態系の研究など、長期に渡る地道な観測が必要な研究分野においては、研究基盤そのものが崩壊に瀕しているものも少なくない。生命科学研究の基盤として不可欠なバイオリソースやデータベースなどの整備も遅れており、生命科学の幅広い分野の基礎研究に対する支援の拡大は急務である。
社会のニーズへの対応地球に暮らす多様な生命全体の持続的な存続と、人々の幸福にとって、生命科学は様々な形で重要な関わりを持っている。
生命科学は、遺伝子から生態系まで、多様な生物学的階層において、生物多様性の様々な要素を研究対象として、複雑で動的な生命システムに関する知見を蓄積してきた。
人類を含む生命全体にとって危険な方向に向かう地球環境の変化をおしとどめるために、生命科学は、さらに基礎的理解の深化を図るとともに、科学的な監視と評価に基づく対策の立案に積極的な役割を果していくことが求められている。
また、子どもが健全に成長できる環境の整備や、働く人々の心身の健康の維持増進、高齢者の介護予防対策の充実など、人生のすべての段階を通して人々の健康や安全を守るとともに、食料の安定供給と食の安全の確保、環境調和型の農林水産業の推進など、人々の食と、それを支える農林水産業の存立と発展にとっても、生命科学の知見は不可欠であり、社会の期待に応える研究の推進が必要である。
なお特に医療に関しては、現在直面している危機的な状況を克服するために、何より国民の不信感を払拭し、専門医療職と患者の信頼関係を堅持することが欠かせない。
そのためには、専門医制度の抜本的な整備を図り、医療の質とその透明性の確実な保障を医師自らが行うとともに、医療は公共財であり、医療を疲弊させる過度の要求は、結局は国民の損失につながるという理解の普及が重要である。
グローバル化への対応
先端的な創薬科学研究は、グローバルな社会を基盤として発展しており、医薬品承認審査基準の合理化・標準化への適切な対応はもとより、若手研究者の海外派遣や留学生の積極的な受入れなど、教育面も含めた国際化が重要である。
また、開発途上国における様々な格差や、保健医療職の偏在・流出などが大きな問題となっており、国際的な保健医療協力や医薬品の適正な供給に積極的に取り組む必要がある。
さらに、近隣諸国との国境をこえた環境汚染や食の安全問題への対応や、感染症対策のための国際的なネットワークの構築など、グローバルなレベルで健康と安全に関わる問題は数多く、こうした問題を総合的に捉える科学領域を発展させるとともに、国境を越えて活躍できる人材を育成することが急務である。
アジア・アフリカ地域の国々に対しては、生態系・生物多様性と調和した、持続可な土地と資源の利用を実現するための科学的・技術的支援を行い、食料問題等の解決に貢献すべきである。
またその際は、地域の文化を尊重し、固有の知識を活かしながら、人々の生活の質や福祉を充実させて行くという視点が重要である。
生命科学における人材育成大学や研究所では、短期雇用のポストが増加して常勤職が減少した結果、若い研究者の意欲が著しく低下している。
能力ある若手研究者の雇用環境の改善は喫緊の課題であるとともに、大学院生への経済支援や、大学院修了者の雇用拡大のための対策も重要である。
研究に従事する人材の不足は、とりわけ医学・歯学・薬学など、専門職業資格に直結した分野で深刻であり、経済的なサポートを含めた支援策が必要とされる。
また、健康科学や予防医学、安全性に関する評価やリスクマネジメント、基礎となる疫学・生物統計、政策的なマネジメントや国際保健など、多様なニーズに対応する人材養成のために、文理統合型の教育を行う公衆衛生大学院の整備が望まれる。
小・中・高等学校の教育や大学の教養教育に関しては、遺伝子に始まり、様々な生命現象の仕組みや、生態系とその保全などを論理的に系統立てて教え、そこから医療や環境、食料等の問題に展開するような、新しい教育体系の構築に取組むべきである。
生命科学と生命倫理
生命倫理に対する今日の生命科学の基本的視点として以下が重要である。
①人を対象とした治療や研究の透明性と説明責任。
②脳の計測・加療や脳死問題の開かれた充分な
検討。
③次世代に影響を与えるような生殖細胞等の操作の禁止。
④温血動物を実験材料とすることの可能な限りの回避。
⑤地球環境と生物多様性の歴史の中に人類を位置づけた生命倫理観。
⑥ 適切なインフォームドコンセント等、研究や医療における倫理面での法令遵守と体制整備。
なお、高度医療の恩恵は大きいが、各種の先端的な医療技術の適用に関しては、倫理上の諸問題への配慮が不可欠である。高額の費用を伴うことによる保険財政への影響の懸念もあるが、高度医療の費用が医療費全体に占める比率は大きなものではなく、総合的な観点から適切な判断を行い推進すべきである。
また、代理懐胎を始めとする生殖補助医療は、未成熟な「実験的医療技術」であり、新たに誕生する命と、さらにその後の世代への影響の全体像は把握されていない。
生まれてくる子の健康で幸せな人生を送る権利を最優先に、子と親の長期的な追跡・観察体制を確立し、透明性を確保した上での実施と、安全面・倫理面での厳格な検証・評価を行いながら、社会的合意を形成していく必要がある遺伝子の本体としての DNA 二重らせんの発見に端を発し、生命を分子のレベルから理解する生命科学は 20 世紀の後半に爆発的に進歩した。
その成果は、疾病の予防・治療や、食料の増産から、犯罪捜査や親子鑑定など社会生活の諸々の局面まで、広く多様な場面で人間の生活に恩恵をもたらしている。
しかし、このような生命科学の成果も大元を質せば、科学者が生命の本質の疑問に対して、粘り強く一つ一つ解き明かしてきた謎解きの積み重ねの上に築かれたものである。
科学が歩んできたこのような歴史背景を十分理解した上で、その流れを受け継ぎ、さらに発展させられるよう、我が国の学術研究体制の整備に資することが、日本学術会議の生命科学を担当する第二部に課せられた第一の責務である。
21 世紀の生命科学においても、研究で得られた成果を基盤にさらに新たな技術が展開され、また技術開発を契機とした研究の進展によって新たな知識が人類にもたらされるという科学の基本メカニズムを着実に推進することが、まず基本的に重要であると考えられる。
一方、科学技術の発達に裏打ちされて、人類の経済活動、社会活動はその範囲を大きく広げ、かつては各国各地域において限局的な問題であったことが、今や時間、空間の距離を超えて互いに因果関係を及ぼしうる状況が出現している。旅行者の往来によるインフルエンザの急速な拡大、フロンガスなどによるオゾン層の破壊、森林や湿地の開発による野生生物の生息域の縮小や侵略的な外来種の影響の拡大など、グローバル化してきた問題は枚挙に暇がない。
また CO2 の大気中濃度の上昇による地球温暖化が強く懸念されており、人類の活動により絶滅へと追い込まれていく生物種がいくつも存在するなど、人類が自らその生息圏・生存基盤を破壊していることも周知の事実である。
人類の将来の生存に関わる諸問題に対して 21 世紀の生命科学は、科学的で有効な指針を与えていかなければならない。