令和四年度の全国戦没者追悼式が、先日行われた。
追悼の辞というのは、心に響く。
追悼の辞を聴くたびに、特に私達が忘れてはならないことを、遺族代表の方が述べられていた。
それは、追悼の辞の中の次の部分である。
今日のわが国は、世界有数の経済大国となり、平和と自由を享受しておりますが、これは、国の命運を決する戦いに際して、最愛の家族の安寧を願いつつ、懐かしい故郷に思いを馳せながらも、一身を顧みず、精魂込めて戦い、散華された戦没者の犠牲の上に築かれているものであることを私たちは決して忘れてはなりません。
大槻健一さん(83歳)の追悼の辞より。
散華された方々は、家族やふるさと、そしてこの国の未来が少しでも良くなるようにと願っていたはずである。
その方々の願いに応えられるような生き方になっているだろうか。
それを振り返るためにも、知覧の特攻平和会館に足を運んだり、関係者が書かれた本を読んだりするようにしている。
今年は、鹿屋航空基地史料館を訪ねることができた。
ここには、知覧特攻平和会館と同じように、特攻で散華された方々の資料が展示してある。
残された手紙を読むと、背筋が伸びるような気がした。
軍隊では、検閲があったので、どれだけ本音がかけたかは分からないが、「家族や故郷、国を守るために特攻に行く」という気持ちはひしひしと伝わってきた。
鹿屋航空基地史料館で、特に心に残ったのは、美濃部正氏の言動である。
美濃部氏は、特攻ではなく、夜間の攻撃を提言し、実行した方である。
感銘を受けたのは、次の言動である。
○ 「全員特攻をさせる」という作戦方針が決まりそうだった会議で、「特攻の掛け声ばかりでは勝てるとは思えません」と反対した。
これは、命令に逆らったということで、抗命罪で死刑になる可能性がある発言である。しかも、美濃部氏は、その会議では末席の立場だった。
命をかけての発言だったはずである。
○ 隊員を夜間飛行訓練で鍛え、特攻ではなく、夜間の攻撃で戦わせ、戦果を上げることで、上層部を納得させた。
美濃部正氏の考え方や行動を学ぶために、書籍を購入した。
石川真理子著「五月の蛍」
渡辺洋二著「彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 」
鹿屋航空基地史料館の展示品を色々と見ていると、知りたいことが出てくる。
○ なぜ美濃部氏以外に、特攻以外の戦法を提案する人がいなかったのか?
○ 特攻を命じた上層部の人間で、戦後も生き続けた人は、どのような気持ちで生きていたのだろうか?
(「特攻は志願だったから、自分の命令ではない」というのは詭弁だろう。特攻を命じ、死を選択させた責任がある。)
書籍を読むことで、少しでも答えに近づくといいなあ。
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