今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「読者は作者の遺体が、つめたくなると同時に去るから、蚤に似ている。」
(山本夏彦著「笑わぬでもなし」中公文庫 所収)
「人は死んでもその人の友人知己のなかになおしばらく生きている。いつまで生きているかかねて私は気になっていた。すぐ忘れられてその死を完了する人もあるし、しばらく生きている人もある。いずれにせよ気がかりなのは私ばかりではないようで、フランスの作家ジュール・ロマンは『ある男の死』という小説でこれをテーマにしている。
ジュール・ロマンは『善意の人々』全二十七巻という大作を残した人で、戦前はずいぶん読まれたが戦後は読まれない。昔読まれて今読まれないのはありがちなことで、以前あんなに読まれたアンドレ・ジイドも今は読まれない。芸術家もまた生きているうちが花なのである。
『ある男の死』の主人公は開巻二十余ページで死んでいる。主人公がこんなに早く死んでしまう小説は希である。むろんわざとである。あとの二百余ページはその死が完了するまでの物語である。
かくの如きは十九世紀の小説にはないことで、小説という小説が書き尽されたので、苦しまぎれに出した新機軸のひとつではないかと思われる。それなら小説の衰弱、または堕落かとはじめ私は快く思わなかったが、二十代の昔読んでいまだにおぼえているのは、この作の手がらではないかと今は思っている。以下あるいは読者も同じ感銘をうけはしまいかと、かいつまんでその粗筋を書いてみる。
ジャック・ゴダールはパリ、ル・アーブルの急行列車の運転手である。アパートには帰って寝るだけだから、誰ともつきあいがない。
このゴダールは独身のまま老いて定年を迎え、自分がパリを全く知らないことに気がつく。毎日五分間で矢のようにパリを通りぬけることを繰返していただけである。退職したのを機会にパリ見物を思いたって、ひまにまかせて出歩く。
ゴダールは風のつめたい早春のある日、パンテオンの塔にのぼった。見わたせばパリは何と大きな街だろう。自分のアパートはどこかとさがしても模糊として見当もつかない。ゴダールはながいことこのながめを楽しんだ。そのせいだろう風邪をひいて、それがもとで死んでしまった。
死なれてみれば放ってもおけないとアパート中大騒ぎして、ようやく遠い田舎に老父母が存命だとさがしあてて電報を打つ。
そこはめったに電報なんか来ない片田舎で、配達の少年は嬉しくてならない。手に電報をかざして、勇んで老夫婦宅にかけつける。パリに出たまま消息を絶った息子が死んだと聞いて、なんだそれならまだ生きていたのか――老いた父親は這うようにパリに出て、貧しい葬式に参列した。それは墓地へのろのろと進んだ。
ゴダールは生きているうちは、話題になるような存在ではなかった。死んではじめてアパート中にその名を知られた。また村では電報が来たことによってしばらく評判になった。埋葬されて何日かはまだアパートでも村でもうわさするものがあったが、半年たち一年たったらそれも絶えた。ゴダールの老父母も相次いで死んだ。
二年たった。早春のまだ寒い日、パンテオンの前を一人の美しい若者が歩いていた。ステッキを弄びながらふと『そうそう二年前の丁度こんな日、やっぱりこのあたりで貧しい葬式に出あった。あれは誰の葬式だったろう。』
これがジャック・ゴダールを思いだした最後の人で、以来彼は全く忘れられこの世から消え失せたのである。」
(山本夏彦著「おじゃま虫」中公文庫 所収)
「読者は作者の遺体が、つめたくなると同時に去るから、蚤に似ている。」
(山本夏彦著「笑わぬでもなし」中公文庫 所収)
「人は死んでもその人の友人知己のなかになおしばらく生きている。いつまで生きているかかねて私は気になっていた。すぐ忘れられてその死を完了する人もあるし、しばらく生きている人もある。いずれにせよ気がかりなのは私ばかりではないようで、フランスの作家ジュール・ロマンは『ある男の死』という小説でこれをテーマにしている。
ジュール・ロマンは『善意の人々』全二十七巻という大作を残した人で、戦前はずいぶん読まれたが戦後は読まれない。昔読まれて今読まれないのはありがちなことで、以前あんなに読まれたアンドレ・ジイドも今は読まれない。芸術家もまた生きているうちが花なのである。
『ある男の死』の主人公は開巻二十余ページで死んでいる。主人公がこんなに早く死んでしまう小説は希である。むろんわざとである。あとの二百余ページはその死が完了するまでの物語である。
かくの如きは十九世紀の小説にはないことで、小説という小説が書き尽されたので、苦しまぎれに出した新機軸のひとつではないかと思われる。それなら小説の衰弱、または堕落かとはじめ私は快く思わなかったが、二十代の昔読んでいまだにおぼえているのは、この作の手がらではないかと今は思っている。以下あるいは読者も同じ感銘をうけはしまいかと、かいつまんでその粗筋を書いてみる。
ジャック・ゴダールはパリ、ル・アーブルの急行列車の運転手である。アパートには帰って寝るだけだから、誰ともつきあいがない。
このゴダールは独身のまま老いて定年を迎え、自分がパリを全く知らないことに気がつく。毎日五分間で矢のようにパリを通りぬけることを繰返していただけである。退職したのを機会にパリ見物を思いたって、ひまにまかせて出歩く。
ゴダールは風のつめたい早春のある日、パンテオンの塔にのぼった。見わたせばパリは何と大きな街だろう。自分のアパートはどこかとさがしても模糊として見当もつかない。ゴダールはながいことこのながめを楽しんだ。そのせいだろう風邪をひいて、それがもとで死んでしまった。
死なれてみれば放ってもおけないとアパート中大騒ぎして、ようやく遠い田舎に老父母が存命だとさがしあてて電報を打つ。
そこはめったに電報なんか来ない片田舎で、配達の少年は嬉しくてならない。手に電報をかざして、勇んで老夫婦宅にかけつける。パリに出たまま消息を絶った息子が死んだと聞いて、なんだそれならまだ生きていたのか――老いた父親は這うようにパリに出て、貧しい葬式に参列した。それは墓地へのろのろと進んだ。
ゴダールは生きているうちは、話題になるような存在ではなかった。死んではじめてアパート中にその名を知られた。また村では電報が来たことによってしばらく評判になった。埋葬されて何日かはまだアパートでも村でもうわさするものがあったが、半年たち一年たったらそれも絶えた。ゴダールの老父母も相次いで死んだ。
二年たった。早春のまだ寒い日、パンテオンの前を一人の美しい若者が歩いていた。ステッキを弄びながらふと『そうそう二年前の丁度こんな日、やっぱりこのあたりで貧しい葬式に出あった。あれは誰の葬式だったろう。』
これがジャック・ゴダールを思いだした最後の人で、以来彼は全く忘れられこの世から消え失せたのである。」
(山本夏彦著「おじゃま虫」中公文庫 所収)