今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「むかし芥川龍之介は勲章を馬鹿にして、あの名高い『侏儒の言葉』のなかに書いた。
軍人は小児に近いものである。……この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似てゐる。緋縅の鎧や鍬形の兜は
成人の趣味にかなつた者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩
かれるのであらう?
芥川は昭和二年数え年三十六で死んだ。今から五十二年前である。当時の文士は社会的には全く認められていなかった。
若きは不良少年、壮なるは破落戸(ごろつき)とみられていた。文士に勲章が授与される見込は絶無だった。漱石に博士号を
くれようとしたのは、漱石が一高や帝大の教師の経歴があったからである。鷗外が尊敬されたのは軍医の親玉だったからで
ある。文士で無位無冠だったら誰も相手にしなかっただろう。
芥川の友である菊池寛はそれを遺憾として、文士の社会的地位をあげようとして、自分が国会議員になろうとした。当時
は代議士になれば尊敬してくれたのである。また菊池は若くして死んだ芥川龍之介と直木三十五の名を冠した賞を設けて、
新聞記者を招いて、辞を低くして記事にしてくれるように頼んだ。第一回の賞だから少しでも大きく書いてくれとたのんだ
のに、新聞は意地悪して書かなかった。
芥川、直木の両賞は文藝春秋社のもので、公私をいうなら私事である。公器である大新聞が、一雑誌社の宣伝になる記事
が書けようかと一行も書かなかったのである。
新聞が芥川賞を記事にするようになったのは、昭和三十年第三十四回『太陽の季節』(石原慎太郎)以来のことである。
それからというもの一雑誌社の私事であることを忘れて、大騒ぎするようになったことはご存じの通りである。
太宰治はこの賞の第一回(昭和十年)の選にもれて、次回にはぜひ当選させてくれと審査員に頼んだ。おがみます頼み
ます一生恩に着ますと佐藤春夫に頼んだと佐藤自身が書いている。川端康成にも頼んだと、近ごろその手紙が公表された。
第一回から第三十三回までの芥川賞は、もらったところで新聞が騒いでくれるわけではなし、原稿料があがるわけでは
なし、世間が名士とみてくれるわけでもないのに、太宰がこんなにほしがったのは彼が異常なのではない。
その見込が生じると、人は一変するのである。見込がなければほしがらないが、見込が生じればほしがるのである。
ほとんど実利がない賞をほしがるのは、太宰がいやしいせいかというと、そうでないのである。もし彼がいやしいなら、
人はみないやしいのである。太宰とちがって多くの人は、おがみます頼みますと、ただ口にだして言わないだけである。
出来たばかりの芥川賞や直木賞を、どうしてそんなにほしがるのかけげんに思うのは、想像力がないのである。かりに
自分をその業界においてみれば、すぐ分ることである。
絵かきは芸術院会員になりたがる。文化勲章をもらいたがる。文士はそれを笑う。芥川龍之介のように笑う。文士は
芸術院会員なんかになれっこないと思っていたからである。昭和十二年幸田文さんは電光ニュースで、コウダロハンと
一字ずつ読んで、てっきり父が死んだと思ったという。それでなければ露伴の名が電光ニュースに出るわけがないと思
っていたからである。それが芸術院会員だったか文化勲章だったかを受章したニュースだと知るまでは時間がかかった
という。
芸術院会員になるのは絵かきに限ると文士は思っていた。それが文士もなれると分ったら、なりたくてたまらない人
が出てきた。絵かきは会員になると、これまで号当り○万円という絵の相場が一躍して高くなる。高くなるからなりた
がる。絵かきは暮夜ひそかに審査員の自宅を訪ね、何十万何百万の金を置いて、よろしくたのむという。それだけの金
をつかっても引きあうのだという。
文士は会員になってもにわかに小説がうまくなるわけではなし、原稿料があがるわけではないから、手土産の底に
現金をひそませて審査員宅を訪れるとはまだ聞かない。
それでもなりたいのは同じことで、賞というものは魔ものなのである。そしてそれは『八百長』なのである。それ
を非難する人があるが、授賞も人間のすることだから仕方がないのである。」
(山本夏彦著「来いに似たもの」文春文庫 所収)
「むかし芥川龍之介は勲章を馬鹿にして、あの名高い『侏儒の言葉』のなかに書いた。
軍人は小児に近いものである。……この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似てゐる。緋縅の鎧や鍬形の兜は
成人の趣味にかなつた者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩
かれるのであらう?
芥川は昭和二年数え年三十六で死んだ。今から五十二年前である。当時の文士は社会的には全く認められていなかった。
若きは不良少年、壮なるは破落戸(ごろつき)とみられていた。文士に勲章が授与される見込は絶無だった。漱石に博士号を
くれようとしたのは、漱石が一高や帝大の教師の経歴があったからである。鷗外が尊敬されたのは軍医の親玉だったからで
ある。文士で無位無冠だったら誰も相手にしなかっただろう。
芥川の友である菊池寛はそれを遺憾として、文士の社会的地位をあげようとして、自分が国会議員になろうとした。当時
は代議士になれば尊敬してくれたのである。また菊池は若くして死んだ芥川龍之介と直木三十五の名を冠した賞を設けて、
新聞記者を招いて、辞を低くして記事にしてくれるように頼んだ。第一回の賞だから少しでも大きく書いてくれとたのんだ
のに、新聞は意地悪して書かなかった。
芥川、直木の両賞は文藝春秋社のもので、公私をいうなら私事である。公器である大新聞が、一雑誌社の宣伝になる記事
が書けようかと一行も書かなかったのである。
新聞が芥川賞を記事にするようになったのは、昭和三十年第三十四回『太陽の季節』(石原慎太郎)以来のことである。
それからというもの一雑誌社の私事であることを忘れて、大騒ぎするようになったことはご存じの通りである。
太宰治はこの賞の第一回(昭和十年)の選にもれて、次回にはぜひ当選させてくれと審査員に頼んだ。おがみます頼み
ます一生恩に着ますと佐藤春夫に頼んだと佐藤自身が書いている。川端康成にも頼んだと、近ごろその手紙が公表された。
第一回から第三十三回までの芥川賞は、もらったところで新聞が騒いでくれるわけではなし、原稿料があがるわけでは
なし、世間が名士とみてくれるわけでもないのに、太宰がこんなにほしがったのは彼が異常なのではない。
その見込が生じると、人は一変するのである。見込がなければほしがらないが、見込が生じればほしがるのである。
ほとんど実利がない賞をほしがるのは、太宰がいやしいせいかというと、そうでないのである。もし彼がいやしいなら、
人はみないやしいのである。太宰とちがって多くの人は、おがみます頼みますと、ただ口にだして言わないだけである。
出来たばかりの芥川賞や直木賞を、どうしてそんなにほしがるのかけげんに思うのは、想像力がないのである。かりに
自分をその業界においてみれば、すぐ分ることである。
絵かきは芸術院会員になりたがる。文化勲章をもらいたがる。文士はそれを笑う。芥川龍之介のように笑う。文士は
芸術院会員なんかになれっこないと思っていたからである。昭和十二年幸田文さんは電光ニュースで、コウダロハンと
一字ずつ読んで、てっきり父が死んだと思ったという。それでなければ露伴の名が電光ニュースに出るわけがないと思
っていたからである。それが芸術院会員だったか文化勲章だったかを受章したニュースだと知るまでは時間がかかった
という。
芸術院会員になるのは絵かきに限ると文士は思っていた。それが文士もなれると分ったら、なりたくてたまらない人
が出てきた。絵かきは会員になると、これまで号当り○万円という絵の相場が一躍して高くなる。高くなるからなりた
がる。絵かきは暮夜ひそかに審査員の自宅を訪ね、何十万何百万の金を置いて、よろしくたのむという。それだけの金
をつかっても引きあうのだという。
文士は会員になってもにわかに小説がうまくなるわけではなし、原稿料があがるわけではないから、手土産の底に
現金をひそませて審査員宅を訪れるとはまだ聞かない。
それでもなりたいのは同じことで、賞というものは魔ものなのである。そしてそれは『八百長』なのである。それ
を非難する人があるが、授賞も人間のすることだから仕方がないのである。」
(山本夏彦著「来いに似たもの」文春文庫 所収)