今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じテーマで。
「福沢諭吉は身長五尺七寸(一七三センチ)、体重十八貫(六七・五キロ)あったと私は友人に教えられた。『身長と体重』のなかに、明治以来体重はともかく身長を気にする男女がふえたのに、それを記録したものが少ないと書いたからである。
ラフカジオ・ハーンは身の丈五尺一寸あまりで、猫背でひょこひょこ歩いたという。西洋人のくせに色は白くなかった。左の目はほとんど視力がなく、右の目はとびだして、その上はなはだしい近目だったという。
片目がとびだしていることは写真で知っていたが、五尺一、二寸だとは知らなかった。五尺二寸は一メートル五七センチに当る。日本人でも小男で、西洋人にはめったにないことである。
漱石は五尺二寸だったが、ロンドンでは自分より小さい男を見なかった。同じくらいかと恐る恐る近づくと二寸(六・〇六センチ)は高かったと書いている。背の低い人は、ひそかに背くらべして、二寸は高い人を同じくらいだと思う。三寸以上高くないと高いと思わない。欲目で見るからである。
私はハーンの書いたもので晩年のハーンを知って、若年のハーンを知らない。ハーンが西洋を嫌悪して日本を愛したのは、日本人として嬉しいけれど、そのあまりの熱狂ぶりに時々へきえきすることがある。
ハーンは西洋では人に見られただろう。人並以下の男は、人並の男に見るともなしに見られる。女たちは多く彼を男として見なかっただろう。ハーンは恋して打明けられなかったことがあったのではないか。
ハーンの文学と身長は密接な関係にある。ハーンは日本でも注目されたが、それは西洋人として見られたので、小男として見られたのではない。ハーンは安住の地を見いだした思いをしたことだろう。すくなくとも身長について思いわずらうことからは解放されただろう。
ハーンとは反対に、日本人は西洋に行くとたいていの人は人並でなくなる。日本の大男は欧米の人並である。日本の人並は人並以下である。それなのに自分がどんな思いをしたかを書くものは稀である。漱石はその稀なるものの一人である。他は自分がいかに西洋人に伍して談論風発したか、いかに女にもてたかというようなことをあるいは露骨に、あるいはさりげなく書く。これしきのことも人は本当のことは書けないのだから、これしきでないことはもっと書けないだろう。したがって『告白』というものは多くまゆつばである。自慢話の一種ではないかと私はみている。
さて日本人が身長を気にしだしたのは、西洋人と比較するようになってからである。旧幕のころは比較することがなかったから、五尺一寸は大威張りだった。五尺一寸が恥ずかしくなったのは、開国以来だろう。西洋人とつきあうようになってからだろう。それならインテリがさきに気にしだしたのだろう。鹿鳴館以来としても、百年近くなる。
明治二十九年五月、広瀬武夫は自分を育ててくれた祖母に自分の写真を送って、裏面に五尺六寸の孫武夫満二十八年と書いた。島田謹二は武夫の身長は一七五センチあったと書いている。それなら五尺八寸である。広瀬は露都でロシヤの少女に恋されている。おびただしい手紙が残っているからこれは本当である。
広瀬をめぐる男たちのなかで、身長のわかっているものをあげると、山本権兵衛一七〇センチ(五尺六寸)余り、加藤寛治一五五センチ(五尺一寸)ぐらい、田中義一当時三十四歳の大男と広瀬は日記のなかに書いている。
明治三十六年ハーンは東大の講師を辞し、漱石がその後任になった。漱石は一高の講師もかねた。そのとき生徒に数え年十八になる一高生藤村操がいた。」
(山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)
「福沢諭吉は身長五尺七寸(一七三センチ)、体重十八貫(六七・五キロ)あったと私は友人に教えられた。『身長と体重』のなかに、明治以来体重はともかく身長を気にする男女がふえたのに、それを記録したものが少ないと書いたからである。
ラフカジオ・ハーンは身の丈五尺一寸あまりで、猫背でひょこひょこ歩いたという。西洋人のくせに色は白くなかった。左の目はほとんど視力がなく、右の目はとびだして、その上はなはだしい近目だったという。
片目がとびだしていることは写真で知っていたが、五尺一、二寸だとは知らなかった。五尺二寸は一メートル五七センチに当る。日本人でも小男で、西洋人にはめったにないことである。
漱石は五尺二寸だったが、ロンドンでは自分より小さい男を見なかった。同じくらいかと恐る恐る近づくと二寸(六・〇六センチ)は高かったと書いている。背の低い人は、ひそかに背くらべして、二寸は高い人を同じくらいだと思う。三寸以上高くないと高いと思わない。欲目で見るからである。
私はハーンの書いたもので晩年のハーンを知って、若年のハーンを知らない。ハーンが西洋を嫌悪して日本を愛したのは、日本人として嬉しいけれど、そのあまりの熱狂ぶりに時々へきえきすることがある。
ハーンは西洋では人に見られただろう。人並以下の男は、人並の男に見るともなしに見られる。女たちは多く彼を男として見なかっただろう。ハーンは恋して打明けられなかったことがあったのではないか。
ハーンの文学と身長は密接な関係にある。ハーンは日本でも注目されたが、それは西洋人として見られたので、小男として見られたのではない。ハーンは安住の地を見いだした思いをしたことだろう。すくなくとも身長について思いわずらうことからは解放されただろう。
ハーンとは反対に、日本人は西洋に行くとたいていの人は人並でなくなる。日本の大男は欧米の人並である。日本の人並は人並以下である。それなのに自分がどんな思いをしたかを書くものは稀である。漱石はその稀なるものの一人である。他は自分がいかに西洋人に伍して談論風発したか、いかに女にもてたかというようなことをあるいは露骨に、あるいはさりげなく書く。これしきのことも人は本当のことは書けないのだから、これしきでないことはもっと書けないだろう。したがって『告白』というものは多くまゆつばである。自慢話の一種ではないかと私はみている。
さて日本人が身長を気にしだしたのは、西洋人と比較するようになってからである。旧幕のころは比較することがなかったから、五尺一寸は大威張りだった。五尺一寸が恥ずかしくなったのは、開国以来だろう。西洋人とつきあうようになってからだろう。それならインテリがさきに気にしだしたのだろう。鹿鳴館以来としても、百年近くなる。
明治二十九年五月、広瀬武夫は自分を育ててくれた祖母に自分の写真を送って、裏面に五尺六寸の孫武夫満二十八年と書いた。島田謹二は武夫の身長は一七五センチあったと書いている。それなら五尺八寸である。広瀬は露都でロシヤの少女に恋されている。おびただしい手紙が残っているからこれは本当である。
広瀬をめぐる男たちのなかで、身長のわかっているものをあげると、山本権兵衛一七〇センチ(五尺六寸)余り、加藤寛治一五五センチ(五尺一寸)ぐらい、田中義一当時三十四歳の大男と広瀬は日記のなかに書いている。
明治三十六年ハーンは東大の講師を辞し、漱石がその後任になった。漱石は一高の講師もかねた。そのとき生徒に数え年十八になる一高生藤村操がいた。」
(山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)