「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

キグチコヘイ 2005・09・14

2005-09-14 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「キグチコヘイ」について。

 「ご存じの通り昭和二十年八月まで、小学校では国定教科書が用いられていた。日本全国同じ教科書が用いられていたから、キグチコヘイの名は日本中にとどろいていた。
 昭和二十年に一年生だった子は、高見順がなくなった昭和四十年には二十六、七である。すなわち、このとき二十六、七以上の日本人はキグチコヘイを知って、知らないのはそれ以下の青少年である。日本人の半分が知っている人物が、百科事典に出ていないはずがないと私が怪しむものだから、キグチコヘイなら、同じ事典の旧版に出ている、調べて知らせてやるという友があって、折返し左のように知らせてくれた。

  木口小平は岡山縣川上郡成羽村の人。明治二十七年日清戦役に際し、歩兵第二十一聯隊第十二中隊に属し喇叭卒として出征した。七月二十九日午前三時、朝鮮成歡に於て彼我會戰して苦戰した。小平命により進軍喇叭を吹奏すること三度、吹奏中敵彈のために殪る。夜明けて小平の死屍を収容したところ、喇叭をかたく握り口に當てたまま絶命してゐた。その名は今なほ兵士の龜鑑として傳えられてゐる

 ――以上昭和二十七年度平凡社大百科事典よりとあるから、これは同じ事典の旧版で、せっかく旧版にある項目を、新版では削ったということが分る。なぜ削ったかはあとで述べるとして、これでキグチコヘイは木口小平であることが分った。小平が出征したのは日清戦争だということが分った。
 注意してみると、この文章は旧かな旧漢字である。喇叭(らっぱ)、殪(たお)るの如きは今は用いない文字である。今なほ龜鑑として傳えられてゐるは旧かなである。
 この事典は昭和二十七年印刷発行とあるが、戦前の版をそのまま増刷して売っていたものだと分る。何ぼ何でも旧かな旧漢字ではあんまりだと、全部改めることにして、昭和三十一年版はそれを改めたものだと知れる。このとき新かな新漢字にすると同時に、内容を一新し、全三十一巻という厖大なものにしたのだろう。そして、木口小平は削除されたのである。
 木口小平は死んでもラッパを離さなかった兵士である。軍国主義の権化である。あるいは権化として修身の巻頭を飾った人物である。そんな人物を、この新しい百科事典にのせてはならないと削除したとすれば、ほかにも削除した人物や項目は山ほどあるに違いない。
 私はわが国随一といわれる百科事典が、こんな方針で編集されているのを残念に思うものである。事典中に木口小平を掲げても軍国主義にはならない。削除しても軍国主義を追放したことにはならない。
 今日の目で昨日を見ることなかれと、弱年のころ私は教えられたことがある。敗戦直後の編集者は多く進歩的で、したがってその眼鏡で項目を取捨し、解説を書く傾向があった。」

   
   (山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)





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