今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「出版というものをひと口で言えといわれると、私は発注者がないのに勝手につくる商売だと答える。
それは知恵の商売で、才能ある者だけの仕事である。けれどもその才はまねする才である。いかさまの才である。たとえば私が小学生のとき、アルスから『日本児童文庫』全七十巻が発売されたら、たちまち興文社から『小学生全集』全八十巻が発売された。アルスの企画を興文社がまねしたのである。まねしたというより盗んだのである。
またそのころ岩波書店から岩波文庫が出た。続いて改造社から改造文庫が出た。これは改造が岩波のまねをしたのである。その改造もまねするばかりではなく、まねされてもいる。『現代日本文学全集』は改造社のほうが早かった。春陽堂の『明治大正文学全集』はこれを模したものである。
およそ出版の歴史は模倣の歴史である。模倣といえば聞こえがいいが、ドロボーの歴史である。古い例ばかりあげたのは、新しい例をあげるとさしさわりがあるからで、今も昔と同じだという証拠を一つだけあげる。
『ノンノ』は『アンアン』をまねたものだのに、まねした『ノンノ』のほうが今は売れている。まねされたほうはくやしかろうが、あれはまねです、盗みですと広告しても読者が同情して買ってくれるわけではない。だからまねされても騒がない。いつ自分もまねするかわからないからである。まねされたほうは、まねして売れているほうの秘密を盗んで、見返してやるよりほかない。『英語に強くなる本』のことは前にも書いた。これが売れたと聞くと『数学に強くなる本』を出す。」
「『サンデー毎日』は『週間朝日』のまねしたものだそうだが、古い話で今となってはどっちがどっちのまねをしたのか定かでない。何度も言うが、まねされたほうがくやしがって、それを訴えても読者が同情して買ってくれるわけではない。まねっ子の方が売れて、元祖のほうが売れないとは神も仏もないが、神と仏は往々ないものである。読者は面白そうな方を買うだけで、それがくやしければ、今度は元祖がまねっ子のまねをして、まねっ子を凌ぐよりほかないのである。」
(山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)
「出版というものをひと口で言えといわれると、私は発注者がないのに勝手につくる商売だと答える。
それは知恵の商売で、才能ある者だけの仕事である。けれどもその才はまねする才である。いかさまの才である。たとえば私が小学生のとき、アルスから『日本児童文庫』全七十巻が発売されたら、たちまち興文社から『小学生全集』全八十巻が発売された。アルスの企画を興文社がまねしたのである。まねしたというより盗んだのである。
またそのころ岩波書店から岩波文庫が出た。続いて改造社から改造文庫が出た。これは改造が岩波のまねをしたのである。その改造もまねするばかりではなく、まねされてもいる。『現代日本文学全集』は改造社のほうが早かった。春陽堂の『明治大正文学全集』はこれを模したものである。
およそ出版の歴史は模倣の歴史である。模倣といえば聞こえがいいが、ドロボーの歴史である。古い例ばかりあげたのは、新しい例をあげるとさしさわりがあるからで、今も昔と同じだという証拠を一つだけあげる。
『ノンノ』は『アンアン』をまねたものだのに、まねした『ノンノ』のほうが今は売れている。まねされたほうはくやしかろうが、あれはまねです、盗みですと広告しても読者が同情して買ってくれるわけではない。だからまねされても騒がない。いつ自分もまねするかわからないからである。まねされたほうは、まねして売れているほうの秘密を盗んで、見返してやるよりほかない。『英語に強くなる本』のことは前にも書いた。これが売れたと聞くと『数学に強くなる本』を出す。」
「『サンデー毎日』は『週間朝日』のまねしたものだそうだが、古い話で今となってはどっちがどっちのまねをしたのか定かでない。何度も言うが、まねされたほうがくやしがって、それを訴えても読者が同情して買ってくれるわけではない。まねっ子の方が売れて、元祖のほうが売れないとは神も仏もないが、神と仏は往々ないものである。読者は面白そうな方を買うだけで、それがくやしければ、今度は元祖がまねっ子のまねをして、まねっ子を凌ぐよりほかないのである。」
(山本夏彦著「ダメの人」中公文庫 所収)