今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「与謝野晶子の名は歌集『みだれ髪』と『君死にたまふことなかれ』という詩によって残っている。教科書中に
出ているせいだろう。詩は晶子が出征した弟の無事を祈ったもので、お前は堺の古い商家のあとをつぐ者だから
死んではいけない。旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじな あきびとの 家のおきてに
なかりけり
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し 獣の
道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ(略)
晶子はいわゆる反戦詩を書いたのではない。日清戦争まで戦争は『士族』のすることで、百姓町人の知った
ことではないとまだ世間は思っていた。当時は長男は徴兵されなかったから、しばらく男の子のいない家の養子
になって難を避ける習慣があった。もし世間がそれをとがめること昭和戦前のようであったなら、まずこの詩を
雑誌『明星』は掲載できなかっただろう。あくる明治三十八年まだ戦争中だというのにこれを単行本に収める
ことはできなかっただろう。
必要あって私は日露戦争当時の『萬朝報』を見たことがある。萬朝報は涙香黒岩周六の新聞で、涙香は不世出
のジャーナリストで今はあとかたもないが当時は一流の新聞だった。それが内村鑑三幸徳秋水堺枯川(利彦)の
非戦論を掲げた。これも教科書中に出ているから、これだけで萬朝報の名は残っている。内村はキリスト者として、
幸徳と堺は社会主義者として開戦に反対した。ことに後者はこの戦さを金持と軍人の私闘だと断じ、国民の多くは
犠牲者だと書いた。こうした意見の掲載をこれまで許してくれた萬朝報が、開戦は避けられないと言うに至った
から去ると三人は紙上で挨拶して去った。
涙香もまた謹んで三氏との別れを惜しんだ。晶子がこの詩を書いた当時の情況は、およそ右のごとくだったから
晶子も雑誌もこれを発表するのにたいした勇気を要さなかったのである。むろん晶子は非国民だと罵られたが、
同時に当然の発言だと励まされてもいるのである。
俗に大正デモクラシーといって、言論は大正年間までやや自由だった。次第に不自由になったのは満州事変以後
だから、その以後の目で以前を見ると故意でなくても誤る。」
「どんなものでも利用できるものなら利用する左派の論客は、柄のないところへ柄をすげる。また教科書中で教え
られると、その言葉は覆せなくなる。こうして君死にたまふことなかれは反戦詩に似たものになった。古人は今日の
目をもって昨日を論ずるなかれと言っている。」
(山本夏彦著「『豆朝日新聞』始末」文春文庫 所収)