今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私はこの世を『生きている人の世の中だ』と思っている。死者はあっというまに忘れられる。」
「死者でなくても社会的名士は社会的生命が終れば死んだとみなされる。そしてあらためて生理的に死んだときに、ああまだ生きていたかと思いだされる。すなわち二度死ぬのである。
今年もまた私はわが家の近くの川のほとりで花見をした。花見客は去年と変らないように見えたが、去年の客で今年の客でない人があることは、去年死んだ人がおびただしかったことによっても察しられるのである。名士が死ぬ年は名士でない人もまた死んでいるのである。花かげに幾たびか酔いえんや、貧しともうま酒を買いてましと古人はうたった。
私はわが家の庭に来るひよどり、尾長鳥、雀のたぐいを見て、それが去年来た鳥の子か孫か区別しない。たれか鴉の雌雄を知らんやというが区別できない。たぶん去年の鳥もいようが死んでその子もいよう。
私には鳥たちが区別できないように、鳥たちには私たち人間を区別できない。年々歳々花は同じだが、それを見る人は同じでないとシナの詩人は言ったが、それが自然なのである。これを新陳代謝と言う。」
(山本夏彦著「おじゃま虫」 中公文庫 所収)
「私はこの世を『生きている人の世の中だ』と思っている。死者はあっというまに忘れられる。」
「死者でなくても社会的名士は社会的生命が終れば死んだとみなされる。そしてあらためて生理的に死んだときに、ああまだ生きていたかと思いだされる。すなわち二度死ぬのである。
今年もまた私はわが家の近くの川のほとりで花見をした。花見客は去年と変らないように見えたが、去年の客で今年の客でない人があることは、去年死んだ人がおびただしかったことによっても察しられるのである。名士が死ぬ年は名士でない人もまた死んでいるのである。花かげに幾たびか酔いえんや、貧しともうま酒を買いてましと古人はうたった。
私はわが家の庭に来るひよどり、尾長鳥、雀のたぐいを見て、それが去年来た鳥の子か孫か区別しない。たれか鴉の雌雄を知らんやというが区別できない。たぶん去年の鳥もいようが死んでその子もいよう。
私には鳥たちが区別できないように、鳥たちには私たち人間を区別できない。年々歳々花は同じだが、それを見る人は同じでないとシナの詩人は言ったが、それが自然なのである。これを新陳代謝と言う。」
(山本夏彦著「おじゃま虫」 中公文庫 所収)