今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「『さきだつ不幸をお許しください』とニュースで肉声で聞いてびっくりした、わが耳を疑った。実に三十年ぶりで聞く文句である。平成十年五月五日大蔵省の青山官舎で自殺した同省開発機関課係長(二十八)が残した言葉だという。
昭和三十年代まで自殺する若者は両親にあててたいていこの言葉を書いた。その時だって本気じゃなかった。自分の体は自分のものだという考えが一般だったが、それでも自殺するのはよくよくのことだ、万感こもごもいたって筆舌につくせない。
その時つかむのがこの紋切型だった。人は多く自分が信じてない言葉を残して死ぬのだな、二千年来の教えはまだどこかに生きているのだなと私のなかなる第三者は見た。若者たちは知るまいが『身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり』というのは『孝経』のなかの言葉で、明治大正時代までは知らないものはなかった。毀傷は傷つけることで親にさきだって死ぬのは不幸の極だった。
『だって病気で死ぬんだ、どうしてそれが不孝になるのか』と口をとがらすのは大正以来である。『親の嘆きを思わぬか』と歌舞伎のせりふにある。
谷崎潤一郎や吉井勇は親不孝を看板にデビューしたと谷崎自身がその青春回顧に書いている。それが受けたのだから大正デモクラシーは親不孝が売物になった時代である。『あいつ親のためを思えば勉強せずにはいられないんだとサ』と嘉村礒多は長州の名門山口中学で上級生にあざけられたことは前に書いた。明治末年のことである。それ以後でも田舎にはまだ親孝行は残っていた。近所でうしろ指さされるからである。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
「『さきだつ不幸をお許しください』とニュースで肉声で聞いてびっくりした、わが耳を疑った。実に三十年ぶりで聞く文句である。平成十年五月五日大蔵省の青山官舎で自殺した同省開発機関課係長(二十八)が残した言葉だという。
昭和三十年代まで自殺する若者は両親にあててたいていこの言葉を書いた。その時だって本気じゃなかった。自分の体は自分のものだという考えが一般だったが、それでも自殺するのはよくよくのことだ、万感こもごもいたって筆舌につくせない。
その時つかむのがこの紋切型だった。人は多く自分が信じてない言葉を残して死ぬのだな、二千年来の教えはまだどこかに生きているのだなと私のなかなる第三者は見た。若者たちは知るまいが『身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり』というのは『孝経』のなかの言葉で、明治大正時代までは知らないものはなかった。毀傷は傷つけることで親にさきだって死ぬのは不幸の極だった。
『だって病気で死ぬんだ、どうしてそれが不孝になるのか』と口をとがらすのは大正以来である。『親の嘆きを思わぬか』と歌舞伎のせりふにある。
谷崎潤一郎や吉井勇は親不孝を看板にデビューしたと谷崎自身がその青春回顧に書いている。それが受けたのだから大正デモクラシーは親不孝が売物になった時代である。『あいつ親のためを思えば勉強せずにはいられないんだとサ』と嘉村礒多は長州の名門山口中学で上級生にあざけられたことは前に書いた。明治末年のことである。それ以後でも田舎にはまだ親孝行は残っていた。近所でうしろ指さされるからである。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)