「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・04・13

2006-04-13 06:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日引用した「蝉しぐれ 子の誕生日なりしかな 敦」と題した平成十年初出のコラムの続きです。

 「やがて久保田万太郎が死んで、安住はそのあとを継いで旧に倍する結社に育てた。『安住敦百句』『古暦』など句集が出るたびに贈ってくれた。

 しぐるるや駅に西口東口

『田園調布』という前書がある。この駅なら東京名物である。昭和十六年初めて私はこの駅に降りた。若年の編集者として岡鬼太郎翁に原稿を頼みに行ったのである。翁は名だたる劇評家で、画家の岡鹿之助の父君である。昭和初年には枯枝みたいだった(ろう)銀杏並木は既に大木になっていた。

 春昼や魔法のきかぬ魔法壜
 うぐひすや母は亡くとも母の家

 共に百句のなかの秀句である。春燈同人には鈴木真砂女がある、渋沢秀雄がある。真砂女は安房鴨川の旅館の女あるじで、思ってはならぬ男を思い思われて家を捨てて東京に出た。やがて男と別れ、帰る家はなし銀座のはずれに『卯波』という小料理屋を開いて四十年になる。卯波は卯月のころ立つ波だという。故郷忘じがたく貧しい店にこの美しい名をつけた。『あるときは船より高き卯波かな』。

 渋沢秀雄は渋沢栄一の晩年の子で、まかされて田園調布の都市計画に当った。実業家より文人で春燈同人の一人で『年賀状来る数減りし今年かな』(今年で九十歳になる)という句なら以前この欄に紹介したことがある。」


   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
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