今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「死神にも見はなされ」と題された、昨日引用した平成11年8月のコラムの続きです。
「私はテレビも見ないラジオも聞かない。それでいてコラムを書くのはあんまりだから時々六本木に行く、新宿に渋谷に実物を見に行くことは以前書いた。
そこで若者の大群を見る、ほとんどまる裸の女たちを見る、去年は見なかったぽっくりのように高い靴のかかとを見る。この男女は十年前も見た、二十年前も見たといえばとがめていると思うかも知れないが、昭和十年代の銀座のクリスマス・イブでも見た。風俗がちがうだけで全く同じものだった。百年前のパリで見た、二千年前のローマで見た。
なまじ人には顔があるから一々違うと自分だけ思うが、たれか鴉の雌雄を知らんや。あれは個人ではない細胞である。細胞であるにたえないから事ごとに『個性』だの『オリジナリテ』だのと口々に言うのである。
昆虫の細胞には食ってばかりいるのがある、たった一度雌と交尾して、たちまち息たえるのがいる。あわれだというがそうか。我々はなまじ個体のなかに食を求めたり雌を求めたりする細胞があるので個人だと思っているのはとんだ間違いである。 私はながめて細胞ならまもなく死ぬだろう、死んでも全く同じ『種』としての人があとを継ぐだろう。これを新陳代謝という。故に私は死を恐れない。『死ぬの大好き』と書いたくらいである。ただ不思議に命ながらえていまだに生きている。死神にも見はなされたのである。」
(山本夏彦著 「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
「私はテレビも見ないラジオも聞かない。それでいてコラムを書くのはあんまりだから時々六本木に行く、新宿に渋谷に実物を見に行くことは以前書いた。
そこで若者の大群を見る、ほとんどまる裸の女たちを見る、去年は見なかったぽっくりのように高い靴のかかとを見る。この男女は十年前も見た、二十年前も見たといえばとがめていると思うかも知れないが、昭和十年代の銀座のクリスマス・イブでも見た。風俗がちがうだけで全く同じものだった。百年前のパリで見た、二千年前のローマで見た。
なまじ人には顔があるから一々違うと自分だけ思うが、たれか鴉の雌雄を知らんや。あれは個人ではない細胞である。細胞であるにたえないから事ごとに『個性』だの『オリジナリテ』だのと口々に言うのである。
昆虫の細胞には食ってばかりいるのがある、たった一度雌と交尾して、たちまち息たえるのがいる。あわれだというがそうか。我々はなまじ個体のなかに食を求めたり雌を求めたりする細胞があるので個人だと思っているのはとんだ間違いである。 私はながめて細胞ならまもなく死ぬだろう、死んでも全く同じ『種』としての人があとを継ぐだろう。これを新陳代謝という。故に私は死を恐れない。『死ぬの大好き』と書いたくらいである。ただ不思議に命ながらえていまだに生きている。死神にも見はなされたのである。」
(山本夏彦著 「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)