今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さん ( 1934 - 2023 ) のエッセイ
「 夕暮れの時間に 」から「 三つほどのこと ―― 山本周五郎について 」
と題した小文の一節 。
備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 ・・・ 氏は二度の結婚をなさっている 。はじめの夫人は氏が四十一歳
の時に病没して 、その翌年に最後までの夫人きんさんと再婚されている 。
そのきんさんの『 夫 山本周五郎 』という回想記は「 これ以上は 、面
倒はみられない 、というくらいに主人 ( うち ) の世話はした気持です ( 略 )
ああもしてやりたかった 、こうもしてあげたかった 、という後悔はあり
ません 。主人 ( うち ) としても 、『 ぼくみたいにしあわせものはない 』
と今でも思ってくれているのではないか 、と思うんです 」というさっぱり
した 、気持のいいもので 、子連れの男と一緒になった初婚の女性の苦労など
はほとんど書かれていないのだが 、一点だけ前夫人に触れたところがある 。
今井達夫氏が「 ある雑誌の座談会でおっしゃっておりますが 」という前振
りで前夫人が「 『 私は大衆作家のところへ嫁に来たのではない 』と言って
主人を逆に発奮させた 」そうだというのである 。 ( 今井達夫氏は山本氏の文学仲間 )
伝聞だから事実とはちがうかもしれないが 、そんなことを女房にいわれたら 、
さぞたまらないだろうと思う 。氏は二十七歳でその夫人と結婚し 、ほぼ十六
年を暮している 。そのどの時点でそんなことをいわれて発奮したかは知らない
が 、氏は一貫して大衆作家であり続け 、大衆作家でなにが悪いか 、問題はそ
の質だ 、質で他を圧することだ 、ぬきん出ることだと考えていらしたと思う 。
そして初期の代表作といわれる『 日本婦道記 』を書いた 。すると直木賞に選
ばれたという知らせが来た 。
直木賞はある程度すでにプロとしての実績を持つ『 大衆作家 』に与えられる
賞である 。『 大衆作家 』として折り紙をつけてやろうといって来たのである 。
女房にそんなことをいわれていたら受けとれるだろうか 。
世間は今ほどではないにしても『 おめでとう 』といってくるだろう 。にこ
にこしないわけにもいかない 。夫人も笑顔をつくり 、祝い客に酒の用意をする
かもしれない 。しかし内心『 大衆作家のところへ嫁に来たのではない 』と思っ
ている 。これはキツイ 。議論してやっつければすむというものではない 。そん
なことをすれば尚更みじめだろう 。
エイ 、断ってしまえ 。賞などで分類されなければいいのだ 。『 純 』も『 大衆 』
もない 。いい小説を書けばいいのだ 。
その信念は無論氏のものだが 、あの辞退には底に夫人の言葉が強い動機になって
いたのではないかというという空想をしてしまう 。その方が人間らしいし 、切な
いし 、立派すぎなくていいと思ってしまう 。
しかし辞退で夫人は氏が『 大衆作家 』からぬけ出したと思っただろうか 。きっ
とそうは思わなかっただろう 。なぜなら 、氏は『 大衆作家 』であることをやめ
る気はなかったからだ 。やめて 、そこからは芥川や谷崎 、志賀直哉を目指すとい
う愚に走るような人ではない 。そこまで自分が生きて来た『 大衆作家 』の道を深
めて 、凡百の大衆作家をひきはなして独自の大衆作家になることを目指したのだと
思う 。
しかし 、それは口でいうようなことではない 。作品で証明するしかない 。で 、
更に黙々と大衆小説の成熟を求めて書き続けたのだと思う 。真意を口にしないでじ
っくりと達成を期すところは 、『 樅ノ木は残った 』の原田甲斐のようである 。
しかし 、その伊達騒動の通説をくつがえした名作も前夫人は読めなかった 。直木
賞辞退からわずか二年後に亡くなってしまったのである 。とりわけ私は『 青べか物
語 』を読んで貰いたかったと思う 。 」
引用おわり 。
( ´_ゝ`)
若いころは 、道徳臭いので辟易したこともあったが 、大のお気に入りになった作品も
数多ある 。気に入って 、タイトルを覚えているものだけでも 、
「 ながい坂 」「 樅ノ木は残った 」「 青べか物語 」「 よじょう 」「 さぶ 」
「 赤ひげ診療譚 」「 日本婦道記 」「 泣き言はいわない 」「 五辨の椿 」
「 正雪記 」 。
時間をつくって 再読したい 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註:「 山本 周五郎( やまもと しゅうごろう 、1903年( 明治36年 )
6月22日 - 1967年( 昭和42年 )2月14日 )は 、日本の
小説家 。本名:清水 三十六( しみず さとむ )。質店の徒弟 、
雑誌記者などを経て文壇に登場 。庶民の立場から武士の苦衷
や市井人の哀感を描いた時代小説 、歴史小説 を書いた 。」
「 一般からは 大衆小説の作家とみなされ 、新進 、中堅時代には
純文学作家や批評家からはほとんど黙殺された 。だが 周五郎は
純文学と大衆文芸との区別を認めず 、『 面白いものは面白いし 、
つまらないものはつまらない 』 という信念の下 、最大多数の読者
を対象とする小説を書き続けた 。 」
以上ウィキ情報 。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます