「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・07・21

2005-07-21 05:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「昭和八年の夏、初めて東京に防空演習があったとき、『関東防空演習を嗤ふ』と題して、社説でこれを嗤った新聞があったと聞いた。風のたよりで、うわさはどこからともなく聞えてきた。
 むろん、東京の新聞ではない。東京の新聞なら、すぐ日本中の事件になって、ながく語り草になったはずである。ならないところをみると、地方新聞だと分る。軍人たちは立腹して、その新聞社の屋上すれすれに、飛行機をとばして威嚇したという。在郷軍人たちはその新聞の不買運動をおこしたという。
 うそかまことか、そんなうわさだった。戦争が続くかぎり、うわさは絶えない。けれども、これは根のないうわさではないように思われた。とにかくそれを書いた大記者はいて、それを載せた新聞はあるように思われた。
 桐生悠々がその人で、信濃毎日新聞がその新聞だと知ったのは、戦争がすんでからである。正宗白鳥は悠々の友の一人で、東京新聞にそれを書いた。
 初めて関東防空演習が行なわれた昭和八年は、どういう年か。昭和六年には満州事変がおこっている。翌七年五月には五・一五事件がおこっている。翌八年三月、わが国は国際連盟を脱退している。
 このとき悠々は、軍人を恐れざる政治家はいないかと書いている。中央の大新聞が、五・一五事件を論評することを避けたから、ひとり忌憚なく書いたのである。
 昭和八年は、陸海軍人に阿諛するものがあって、直言するものがない時代である。ひとり言うものは槍玉にあげられる。防空演習を嗤うという一文は、こういうとき出たのである。」

 「初の防空演習はこの年の八月九日から行なわれたというのに、驚くべし当時の大新聞はその報道をしなかった。ひとり悠々は八月十一日付けで論じた。
 ――防空演習は敵機が首都の上空に侵入したのを迎えうつ演習だという。上空に至るまでに、わが軍がそれを阻止できなかったとすれば、その戦さは負けである。侵入される前に撃退すること、それが防空である。燈火は消すに及ばない。昨今の航空機は、離陸した何時間で、どこの上空にあるかを正確に知ることができるから、電気がついていようといまいと同じである。暗ければかえって下界の狼狽は増す、云々(大意)。
 ざっと右のような意見である。昭和八年の夏のある日、これを読んだ読者の驚きは察するに余りある。このたぐいのことは誰もかげでは言う。表では言わない。まして活字にはしない。すればうしろへ手が回る。」

 「あの戦争中、終始軍部に抵抗した新聞人はこの人ひとりである。大新聞の大記者たちは抵抗どころか、迎合した。悠々を助けないで見殺しにした。」

 「ジャーナリストというものは、読者の反響をあらかじめ心得て書くものである。防空演習を嗤えば、読者はどのくらい喜んで、軍部はどのくらい怒るか、読者は何もしてくれないが、軍部は直ちに報復するだろう。先方がこの手で攻めてくれば、当方はこの手で防ごうと、秘術をつくして、我に勝算があるとみて、はじめて書くものである。」

 「悠々という人は、いったんの怒りにその身を忘れる人ではないかと、同じくいったんの怒りに我を忘れる私は思うのである。だから再び同情に耐えないのである。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
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2005・07・20

2005-07-20 05:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「人は常に内心忸怩たるものを心中にもたないといけない。私はコンプレックスは人に必須なものだと思っている。コンプレックスがあって、はじめて人である。それが絶無な存在は人ではない。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
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2005・07・19

2005-07-19 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「総合雑誌の巻頭論文は、多く難解である。難解に二種ある。内容があって難解なのと、なくて難解なのとがある。オリジナルというものは、実は難解なものである。だから、もし内容があって、それがオリジナルなら、表現は出来るだけわかりやすくしなければならない。女子供にもわかるようにしなければならない。反対に、もともと内容がなければ、表現はむずかしく飾ることが許される。したがって、もしむずかしい論文を見たら、ひょっとしたら内容はないのではあるまいかと、読者は怪しむことが許される。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
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2005・07・18

2005-07-18 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「俗に猫に小判というが、三歳の童児は猫に似て、小判をありがたく思わない。小判より声をかけてくれる人、かまってくれる人のほうを喜ぶ。そして人の知能は多く三歳を越えないと、知能を調べる学者は言っている。
 四十五十になっても、人は自分のことでいっぱいである。私は画の展覧会でそれを見ることがある。大展覧会だから、五人や十人の知りあいの画家がいて、それぞれ見物するつもりでいると、画家はてっきり自分の画を見に来たものと思って、かけよって案内してくれる。そして感想を求める。ほめてもらいたいのである。彼にとっては、見物が何千人来ようと自分の画を見てくれなければ、それは一人もいないのと同じなのである。その気持は三歳の童児に似ている。」

 「批評家に画はわからぬと、画家が言うときは、自分の画が悪く言われたときである。ほめられたときは、批評家だからわかると莞爾とする。忌憚なく言ってくれというから言ったのに、機嫌を悪くするから、忌憚なくとは即ちほめてくれということだな、とわかるのである。
 画家がそうなら、音楽家もそうである。俳優もそうである。大人ばかりでなく、子供もそうである。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
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2005・07・17

2005-07-17 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「いつの時代にも流行作家というものが、五人か十人いる。それは最も広告に出る人である。月刊誌と週刊誌の広告に、常に大きく出ているから、ははあこれが目下流行している人だなと知ることが出来る。
 たぶん流行作家同士も、互いの作品は読んでいないだろう。月に何百枚も書くなら、他人のものを読んでいるひまはないだろう。ただ広告だけ見て、一喜一憂しているのではないか。今月は彼は一流雑誌の全部に登場している。自分より一冊多い。あるいは二冊多いと数えて、敵愾心をもやしているのではないか。そんなものでももやさなければ、あんなに書けないだろう。
 馬鹿らしいと思うのは、それが出来ない人である。出来る人は馬鹿らしいとは思わない。作者ならだれでも流行作家になれるわけではない。なれるには、なれるだけの才があって、その才はめったにないから、それのあるものは、ぜひとも流行児になって、なったからにはその座をおりたくないし、またおりるわけにはいかないのである。
 私は芸人と芸術家は同じものだとみている。芸術家をあまりえらいものだとみないほうがいいと思っている。各界名士というものも、芸人の一種だとみている。
 名士というものは、ジャーナリズムに召集されて、そこに登場してはじめて名士である。召集されなければ、そもそも名士ではないから、名士は新聞雑誌が望むことを察して発言する。アンポ反対、岸を倒せと言ってもらいたいのだなと察したら、それを言う。北ベトナムを是とし、アメリカを非としてもらいたいのだなと察したら、それを言う。
 戦前も戦後も、言論が一種類になるのはこのせいである。名声を得ようとするものは、目下流行している言論と同じことを言う。名声を得てしまったものも同じことを言う。違うことを言うと『村八分』になりはしないかと恐れる。」

   (山本夏彦著「笑わぬでもなし」文春文庫 所収)
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柘榴忌 2005・07・16

2005-07-16 06:15:00 | Weblog
    2004年7月16日に79歳で亡くなった作家の中野孝次さんが、その著書「五十歳からの生き方」の中で

  次のように書いておられます。


   「人間一人ひとりの身に即して見れば、わたしにとって生きるのは『今ココニ』という時空があるだけである。

   きのうは去ってすでになく、明日は未だ来ないので存在せず、わたしは今日という一日の、それも『今ココニ』のみ生きている。

   棒のようにつらなった時間のどこかに位置しているわけではない。


   しかもその『今ココニ』は、一瞬時だがただちに永遠に直結している。永遠が今であり、今が永遠である。

   そしてその『今ココニ』がごろごろころがっていくところにわたしの人生がある。」


  初めてこの考え方に接したとき、それまであった頭の中のもやもやがすっきり取り払われたような気がいたしました。

  同じ著書の別のところで、中野さんはこんな風にも書いておられます。


  「きのうのわたしも『今ココニ』である。今日の私も『今ココ二』生きる。十年前のわたしも『今ココ二』の今にのみ生きていた。

  それらはすべて『今ココ二』の時として、過ぎ去らずわたしの中にある。」





                                      
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一粒の麦 2005・07・15

2005-07-15 05:30:00 | Weblog



 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 わが神わが神では何のことか分るまいから、その前後を言うと、

  ――昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ごろイエス大声に叫びて『エリ、エリ、

  レマ、サバクタニ』と言い給う。わが神、わが神なんぞ我を見棄て給いしとの意(こころ)なり、云々。」

 「 聖書は文語体を最後まで残したものの一つだったのに、これも戦後口語に改められた。わが神わが神のくだ

  りは『私の神よ、私の神よ、なぜ私を見すてられたのか』となった。『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ

  一粒にてあらん、もし死なば多くの果(み)を結ぶべし』『もし一粒の麦が地に落ちて死なないなら、ただ一つ

  のまま残る。しかし死ねば多くの実を結ぶ』。

  わが神わが神のほうは朗々誦することが出来るが、私の神よ私の神よのほうは出来ない。どうしてこれほどの

  愚挙が行われたのか、すべては時の勢いだというよりほかない。」

   (山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)




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2005・07・14

2005-07-14 05:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「『彼は意識的に反抗した』『彼には国家という観念がない』などと言わずに『彼はわざと反抗した』『彼には国家という考えがない』と言ってはどうかと、谷崎潤一郎はあの名高い『文章読本』(中公文庫)のなかで勧めている。
 巡査よりおまわりさん、容疑者よりお尋ね者のほうがいい、それには職人の言葉が参考になると谷崎は同じ本のなかで書いている。
 職人の言葉もそうだが、花柳界の言葉も参考になる。その一つに、思い出すと苦笑せずにはいられない『ご相談』というのがある。
 芸者は『芸』を売って、『色』を売らないことになっているが、実際は売る。ただ、なかなか売らないのと、すぐ売るのがいて、なかなかはすぐを当然バカにする。すぐは芸者のくせに芸がないから色を売るので、衣装が劣るのでひと目でそれとわかる。
 別に時と場合によって売るのがいる。女将に相談すると、たいてい承知するからこれを『ご相談』と言う。
 客が帰るのを玄関まで芸者が送って出て、客が『おや雨か』と気がついて『たまらぬな』とつぶやいたのを『泊らぬか』と聞き違えて『どちらでも』と小声で答えたのをあざけって書いた随筆をむかし読んだことがある。この女は芸も少しはあり、衣装もさして見苦しくなかっただろうに、と思えば哀れである。
 いまもむかしも赤坂や新橋では『待合政治』が行われている。なぜ行われるかというと、待合での話なら絶対に漏れない。バーやクラブなら漏れる。いくら非難されても改まらないことには、改まらないわけがある。
 ところがついこの間赤坂でそれが漏れた。これでは待合の意味がなくなるから、近く滅びるだろうと、その委曲を『諸君!』に書いた。なかにちょっといい言葉がたくさんある。これはその一つである。」

   (山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)
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2005・07・13

2005-07-13 05:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 そのころ(昭和四十六年)私は毎日のように北京放送を聞いた。聞きたくて聞いたのではない。

  ラジオに勝手に入ってきたのである。ラジオは二十年前の旧式なトランジスタで、いまだにこわれ

  ないから使っているが、これで聞えるくらいだから、どんなラジオでも聞えたはずである。

  これよりさき中国は突然わが国を軍国主義だと言い出して、外国から攻められたらすぐ降参するつ

  もりのわが国民を驚倒させた。中国の新聞は、天皇ヒロヒトの手は日本人民の血にまみれていると

  書いた。

   北京放送は繰返して、佐藤(栄作)のやから佐藤のやからと言ったので、はじめ佐藤のやつらの

  間違いかと思ったら、続いて長官中曽根と言い放ったのでははあと合点した。尋常なら中曽根長官

  と言うところを、順序をさかさまにして唾棄する感じを出したのである。毛沢東のやから、周恩来

  の一味と試みに言ってみればニュアンスの違いが分るだろう。

   北京放送はその微妙な違いを心得ているばかりか、米日反動派はぐるになって云々と言って、近

  ごろ私ぐらいしか用いない字句をあやつること自在なので、かくのごとき言語を用いるアナウンサ

  ーの教養までしのばれて、私はひそかに彼に日本語を教えた教師に敬意を表したくらいである。

   その北京放送が入らなくなって、何年になるだろう。あれは勝手に入って勝手に去ったのだから

  私は忘れるともなく忘れていた。

   ところが新聞報道によると、いま上海ではスカートをはく婦人が続々あらわれ、公園では青年男

  女が相擁して接吻しているという。

   白い猫も黒い猫も鼠をとる猫ならいい猫だと言うものの天下になって、風向きが変ったのである。

  けれども一転するものなら再転し、再転するものなら三転するだろうから、いま北京放送は何と言

  っているか、参考までに聞きたいと時々私はダイヤルを回してみるが、怪しや北京はなんにも言わ

  ない。」

   (山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)





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愁いがきく 2005・07・12

2005-07-12 05:15:00 | Weblog



 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 美人を形容する文句に、沈魚落雁閉月羞花というのがある。ちんぎょ、らくがん、へいげつ、しゅうかと読む。

  あまりの美しさに魚は沈み、飛ぶかりがねは落ち、月は雲まに隠れ、花もはじらうというほどのことで、少年の

  ころ寄席でおぼえた。

   講談のなかの美人には必ず持病の癪があって、癪はにわかにさしこむもので、道中で苦しんでいると旅の若侍が

  助けてくれたりした。

   雨になやめる海棠という紋切型もあった。美人がしおれているのをむかしは海棠が雨にうたれているのにたとえ

  た。翠帳紅閨という字もしばしば見た。みどりのとばりとくれないのねや即ち貴婦人の寝室のことで、なかにい

  るのは美人にきまっている。

  その美人が酔うと、玉山まさにくずれんとする趣になると講釈師は形容したから、膝でもくずしたかと胸とどろ

  かした。

  ――御用さへ済めば別にはなしのある訳もなし、急いで帰らうとすると、『兄さん、お願ひだから、もう一度お目

  にかゝらせてね。』と寝乱髪に憂(うれひ)のきく淋しい眼元。袖にすがつていきなり泣き落しと来た、云々。

  戦前の芸者は客が五十だろうと六十だろうと、お兄さんまたは兄さんと呼んだ。ここでは今夜ひと晩だけでなく、

  もう一度会ってくれと、この芸者は言っているのである。

   右は永井荷風の『あぢさゐ』という小説の一節で、荷風はまた名高い『雨瀟瀟』のなかで――愛嬌は至って乏しく

  愁いもまずきかぬ顔立だと、女の容貌を叙している。『あぢさゐ』は昭和六年、『雨瀟瀟』は大正十年の作である。

  憂いがきくまた愁いがきくはそのころは美人を形容する文句の一つだったが、いまは全く見なくなった。私はそれを

  ファニー・フェイスが美人のうちに入って以来のことだとみている。あの顔に愁いはきかない。

  沈魚落雁や翠帳紅閨は滅びても惜しくはないが、愁いがきくは惜しいと思うがどうか。」
 

   (山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)
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