今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。
「 私の家族は私の目の前で、スコンスコンと何人も死んだ。昔は皆、病人は家で死んだ。
三歳の時、生まれて三十三日目の弟が、鼻からコーヒー豆のかすのようなものを二本流して、死んだ。
あんまり小さかったので顔も覚えていない。ただの赤ん坊の顔していた。三十三日目くらいでは人間の
顔にならないのだろう。私は悲しいと思わなかった。あんまり赤ん坊だったからだ。あれはいったい何
の病気だったのだろう。病院に連れて行く間もなく突然に死んでしまった。
でも母は泣いていた。人が来ると泣いたが、身も世もないほど泣いたとは思えないとわかったのは、何
年かたって兄が死んだ時の母を知ってからだ。
それから私の下の下の弟が大連から引き揚げて三ヶ月目に、またコロリと死んだ。
名をタダシと言った。その時、家(うち)は子供が五人もいて、八歳の私は四歳のタダシの子守係だった。
今でも私はタダシの柔々と丸っこい小さな手の感触がよみがえる。
いつも私が手をつないでいた。引揚船の船底からほとんど縄ばしごのようなものを上り、つるつるに氷
ですべる甲板のトイレに連れて行った。タダシは四歳にして貫禄があった。一度もぐずったこともなく
我儘も言わなかった。無口だった。その上、眉毛のはじにつむじがあり、小さい西郷隆盛のようだった。
母は背中に生後三カ月の赤ん坊を背負い、ほかに三人の子供がいたので、タダシは私の子供のようだった。
たぶんタダシのことは母より私の方がよく知っていたと、いま思う。
父の田舎に引き揚げてからも、タダシは私の子供だった。二月に引き揚げて来て五月に死んだ。
死ぬ前の前の日、私とタダシはれんげ畑にいた。私はれんげの花を摘んではタダシに握らせた。いつもは
とても喜ぶのに、その日は笑わなかった。石に座ったまま花を握った。花をまた握らせようとした時、前
の花の束がばかに熱くて、くったりしていた。
家に帰ろうと思ってタダシの手を引くと、動こうとしなかった。私は強く手を引いた。タダシは嫌々歩いて
すぐしゃがみ込んだ。私はじれてタダシを背負った。背中がすごく熱くなった。タダシがその時、高熱を出
していたのだとわかったのは、私が大人になってからだった。
父の実家の蚕部屋で、タダシは二日目の夜に死んだ。
小さな小さな棺桶だった。医者も来なかった。医者のいない村だった。
母が泣いたかどうか覚えていない。父は泣かなかった。
タダシは白い米の飯を生涯一度も食わずに死んだ。
中国ではコーリャンと粟を、日本に帰ってからは、さつま芋入りの麦飯か、さつま芋だけを食った。たぶん
栄養失調で、熱と闘うエネルギーの蓄えが一グラムもなかったのかもしれない。
死にそうなタダシの隣に同じように死にそうなもう一人の弟の布団があった。
下の台所で親戚の小母さん達が、『どっちが先に死ぬずら』と言う、賭けをしているみたいな言葉を聞いた時、
そうか、どっちかが死ぬのかと私は思った。
次の日、目が覚めた時、もうタダシは死んでいた。
小さい小さい棺桶だった。百姓の七男の父に墓はなかった。どこかさしさわりのない、誰のものでもない墓地
のはじっこにタダシを埋めた。
次の年の六月の大雨の日に兄が死んだ。兄は一週間くらい寝た。母は半狂乱だった。
あまり母が泣き続けるので、父は寺の坊さんの所に母を連れていった。今にして思うが、母は宗教心のまるで
ない人だったから、坊さんは何の役にもたたなかった。二度行ってやめ、そして泣き続けた。
その時は富士川の向こう町の外れに、疎開していた医者がいた。大雨で富士川は氾濫し、鉄骨の橋の橋桁の上
まで水が流れていた。夜中の二時頃、一時間以上かかる真っ暗な山道を、私は医者をたたき起こしに行った。
生涯であんなこわかったことはない。夜中の真っ暗な森がどんなにこわいか知っている人はいると思う。
もう寝ている医者を私はたたき起こした。泣き叫び怒鳴り、雨戸を破るほどたたいた。私はただ怒鳴った。
『オキテクダサーイ、オキテクダサーイ』のどが痛くなった。
医者が寝巻を着たまま雨戸を開き、ぼーっとした声で『一人で来たのか』と言った。
私は医者を連れて走った。連れてと言ってもいいと思う。医者は『待ってくれ、待ってくれ』と、私のうしろ
でぜいぜい言いながらついて来た。
医者を呼びに夜中に行ったのは二度だ。二度目の時、医者の前で兄は死んだ。
私と兄はほとんど近親相姦と思うほど一心同体であった。
兄の目の色をいつでも正確に読んだ。
私は兄が私を信頼しているのをはっきり意識していた。右に心臓のある病弱な兄を私は守る人だと自分で思って
いた。
母は泣いた。声が森進一のようになっても泣いた。
長男を失った母はたくさんの同情を寄せられた。同情がやって来ると母はすぐ泣いた。
兄が死んだ瞬間、私は泣いた。畳に体をぶちつけて泣いた。そして、そのあと泣かなかった。
長男を亡くした母のために泣いてくれる人もいた。しかし、兄を失った妹の私のことに同情する大人はいなかった。
私は毎日、兄と手をつないで寝ていた。
兄が死んだと本当に思えたのは、つなぐ手がない夜、毎晩はっと気が付く。兄ちゃんは死んだ。私は兄ちゃんが死
んでいることを毎晩忘れているのだとギョッとするのだった。」
(佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収)