今日の「お気に入り」。
「海辺は、本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに、決して適当な場所ではない。何年にもわたる経験で、わたしはそのことを知っているはずだった。
温かすぎるし、湿気がありすぎる。それに、頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするには、あまりにも居心地よすぎる場所でもある。」
「海は、もの欲しげな相手や貪欲なもの、焦っているものには何も与えてはくれない。砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには、自然への配慮のない行為である。
海は、柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と、そして率直さ。
わたしたちは、海辺の砂浜と同じように空っぽになって、そこに横たわっていればいいのだ。海からの贈りものを待ちながら。」
(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)
アン・モロウ・リンドバーグ女史(1906-2001)の著作 "GIFT FROM THE SEA" の邦訳としては、すでに吉田健一氏の翻訳本(昭和42年、新潮文庫)があり、名訳としての評価が定着している。
吉田氏の、原文に従って一語一語忠実に翻訳する、抑制のきいた逐語訳に慣れ親しんだ読者にとっては、落合恵子さんの新訳には、「飛訳」というか、原書の用語は違うのではないか、と思わせる部分がいくつもある。上に引いた冒頭の章にもそれはある。 読後感として、リンドバーグ女史ならぬ、落合さんの著作を読んだような気分にさせられるのである。なぜか。
「翻訳」というより「脚色」とでもいうべき箇所がいくつもあるからである。落合さんは自身の感想を、原書の随所に書き込みつつ翻訳をすすめたという。そうした自身の備忘のための感想(書き込み)の部分が訳文にまぎれこんでしまったのではないかと推察されるのである。
「翻訳」に「誤訳」はつきものだが、原文を離れた「我田引水」的な「意訳」、「脚色」の度が過ぎると、「贔屓の引き倒し」というもので、そうした「脚色」や原書にはない文章の挿入が意図してなされたとすれば、残念なことである。
リンドバーグ女史の原著の内容の素晴しさはあらためて言うまでもない。
ついでながら、上に引用した「落合さんの文章」と同じ箇所について、吉田健一氏は次のように訳しておられる。
「浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。私は前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、本当に頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのにはい心地がよ過ぎる。」
「海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。」
* * * * *
<筆者註>
"too impatient"を、吉田氏も、落合さんも「焦っている」と訳され、すぐその後に出てくる "impatience"を、吉田氏も、落合さんも「せっかち」と訳しておられる(落合さんが吉田氏の訳を踏襲したということ)。ところが、もうひとつその後に "Patience, patience, patience" と三語連続で強調されて出てくる、"impatience"の反対語である "patience" について、吉田氏は「忍耐」と訳されているのに対して、落合さんはなぜか「柔軟性」と訳される。落合さんは "patience" という単語を「忍耐」と訳すのが余程お嫌いのようで、最終章の最後に出てくる "patience" については「おおらかさ」と訳されており、原書の用語を意図的に書き変えておられる。
また "lack of faith"を、吉田氏は「信仰がないことを示す」と訳されているのに対して、落合さんは「自然への配慮のない行為である」と "lack of faith" とまるで関係のない言葉を並べておられる。原文にある "faith"を、吉田氏は「信仰」と訳しておられるのに対して、落合さんはなぜか「自然への配慮」とか「率直さ」と言った言葉を訳語として使われている。
翻訳を専業とされていない落合さんの個人的な好みや自己主張の強さがもろに出てしまい、「翻訳」を逸脱し、「創作」に走ってしまったと思われる。
「翻訳」と銘打った書物としては、どう贔屓めにみても、問題があると言わざるを得ず、改訂せず放置する版元の料簡が知れない。翻訳者が決してしてはならないことである。落合さんの、そして版元の、「欲」のなせる業である。
古人曰く、過ちては即(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。
嗚呼、残念。
「海辺は、本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに、決して適当な場所ではない。何年にもわたる経験で、わたしはそのことを知っているはずだった。
温かすぎるし、湿気がありすぎる。それに、頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするには、あまりにも居心地よすぎる場所でもある。」
「海は、もの欲しげな相手や貪欲なもの、焦っているものには何も与えてはくれない。砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには、自然への配慮のない行為である。
海は、柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と、そして率直さ。
わたしたちは、海辺の砂浜と同じように空っぽになって、そこに横たわっていればいいのだ。海からの贈りものを待ちながら。」
(アン・モロウ・リンドバーグ著 落合恵子訳「海からの贈りもの」学習研究社刊 所収)
アン・モロウ・リンドバーグ女史(1906-2001)の著作 "GIFT FROM THE SEA" の邦訳としては、すでに吉田健一氏の翻訳本(昭和42年、新潮文庫)があり、名訳としての評価が定着している。
吉田氏の、原文に従って一語一語忠実に翻訳する、抑制のきいた逐語訳に慣れ親しんだ読者にとっては、落合恵子さんの新訳には、「飛訳」というか、原書の用語は違うのではないか、と思わせる部分がいくつもある。上に引いた冒頭の章にもそれはある。 読後感として、リンドバーグ女史ならぬ、落合さんの著作を読んだような気分にさせられるのである。なぜか。
「翻訳」というより「脚色」とでもいうべき箇所がいくつもあるからである。落合さんは自身の感想を、原書の随所に書き込みつつ翻訳をすすめたという。そうした自身の備忘のための感想(書き込み)の部分が訳文にまぎれこんでしまったのではないかと推察されるのである。
「翻訳」に「誤訳」はつきものだが、原文を離れた「我田引水」的な「意訳」、「脚色」の度が過ぎると、「贔屓の引き倒し」というもので、そうした「脚色」や原書にはない文章の挿入が意図してなされたとすれば、残念なことである。
リンドバーグ女史の原著の内容の素晴しさはあらためて言うまでもない。
ついでながら、上に引用した「落合さんの文章」と同じ箇所について、吉田健一氏は次のように訳しておられる。
「浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。私は前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、本当に頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのにはい心地がよ過ぎる。」
「海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。」
* * * * *
<筆者註>
"too impatient"を、吉田氏も、落合さんも「焦っている」と訳され、すぐその後に出てくる "impatience"を、吉田氏も、落合さんも「せっかち」と訳しておられる(落合さんが吉田氏の訳を踏襲したということ)。ところが、もうひとつその後に "Patience, patience, patience" と三語連続で強調されて出てくる、"impatience"の反対語である "patience" について、吉田氏は「忍耐」と訳されているのに対して、落合さんはなぜか「柔軟性」と訳される。落合さんは "patience" という単語を「忍耐」と訳すのが余程お嫌いのようで、最終章の最後に出てくる "patience" については「おおらかさ」と訳されており、原書の用語を意図的に書き変えておられる。
また "lack of faith"を、吉田氏は「信仰がないことを示す」と訳されているのに対して、落合さんは「自然への配慮のない行為である」と "lack of faith" とまるで関係のない言葉を並べておられる。原文にある "faith"を、吉田氏は「信仰」と訳しておられるのに対して、落合さんはなぜか「自然への配慮」とか「率直さ」と言った言葉を訳語として使われている。
翻訳を専業とされていない落合さんの個人的な好みや自己主張の強さがもろに出てしまい、「翻訳」を逸脱し、「創作」に走ってしまったと思われる。
「翻訳」と銘打った書物としては、どう贔屓めにみても、問題があると言わざるを得ず、改訂せず放置する版元の料簡が知れない。翻訳者が決してしてはならないことである。落合さんの、そして版元の、「欲」のなせる業である。
古人曰く、過ちては即(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。
嗚呼、残念。