「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・11・20

2013-11-20 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。



「――ただ、今のひとが気の毒なのは、先生方と違って、組織に入りたい入りたいと思いながら、入れないためにフリーだと言うひともいましてね。
七平 ほんとなら就職したいけれども……。
夏彦 本質的にそういうところへ入れないひとはいま行くところがないんでしょう。ジャーナリズムなんて戦前はそのひとたちのためにあったんですよ。
 要するに銀行員になれないひと、役人になれないひと、三井、三菱の社員になれないひとが新聞記者、雑誌記者になったんです。
七平 そうそう、明治の昔の操觚者(そうこしゃ)(ジャーナリスト)。
夏彦 一流銀行の行員にもなれるし新聞記者にもなれるなんて、そんなバカなこと戦前はなかったのに(笑)。あれは新聞や雑誌が高給を出すようになったからいけないんです。
七平 高給なんか出しゃしませんよ。少なくとも、うちじゃ。
  でもこのごろはすごいのがいるんだなあ、大出版社にも。本なんて読んだことないし、読む気もないけど、月給がいいし、そのうえ編集者っていうとカッコイイから来たなんていうのもいるらしいなあ。一体、どうなってんのかなあ、と思うことがありますよ。
  あれじゃあ、何ともはや……。ああいうのをリードするってのは大変でしょうなあ。
夏彦 三千社だか四千社のうちの二十社か三十社が一流会社並み、またはそれ以上出すから大学の優等生が受験するようになり、試験官は成績がいいもんだから、つい魔がさして成績でとって、とること二十年に及んでいよいよ一流会社みたいになって、落ちこぼれの行くところでなくなったんです。
 ジャーナリズムというものは所詮、堅気のすることじゃない。堅気にはまずタイトルがつけられません。そしてジャーナリズムはついにタイトルです。
 昔、僕は『リーダイ』を例に言ったことがあります。昭和二十何年『リーダイ』が『純潔は流行遅れか』というタイトルを掲げたことがあります。
 当時の読者はギョッとなって読んで、『リーダイ』のことですから純潔は依然として結構で、流行遅れでないとあるのに安心しました。
 純潔は結構だと書いてあるに決まった原稿に、流行遅れかというタイトルをつけるのは才能で、どちらかというといかさまな才能で、堅気の銀行員には思いつかない才能です。試験するならこのいかさまの才の有無を見るべきなのに『優』がいくつあるかばかり見る。
 こうしていかさまの才があって、堅気の才のない若者の行くところを優等生が奪ったのは、大げさに言うと邦家のためになりません。こうしてジャーナリストの全部が優等生になる日は近づきつつあります。
 かくてその上に立つリーダーも凡庸(ぼんよう)になります。リーダーが凡庸っていうのはヨーロッパ人には理解できないことでしょうね。
七平 ヨーロッパでは、あり得ないんです。絶対あり得ません。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・11・19

2013-11-19 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。



夏彦 それからやきもちをやかないのが友人の資格の一つでしょう。
七平 そうですね。その逆『見くだす』もない。どんな境遇になっても『やきもち』も『見くだす』もない。これが『管鮑の交わり』でしょうな。
夏彦 だから僕困っちゃうんだなあ。
七平 そりゃお困りでしょう。
夏彦 あの最大のやきもちが、ここにはないんですよ(笑)。
七平 この世は嫉妬で動いているという説を改めないといけませんな、果然、ここにおいて。
夏彦 そうなんですよ。もし真の友人というものがあるとすれば、やきもちは二人の間にないんですよ。ほら有名な言葉があるでしょ。
 友の不幸を嘆いたり悲しんだりするのは真の友じゃない。友の幸運を祝ってはじめて友だっていうのがあるでしょう。
七平 あるある、名高い西洋人が言ってます。
夏彦 友の悲運にかけつける友はね、我にもあらずかすかに嬉しそうです。その自覚がなくて友を助けますが、助けられた友はそれを見逃さないでしょう。
七平 二人は友のごときものだと言いたいのですね。
夏彦 それはほとんど見えないくらいだけど、やっぱりかすかに嬉しいところがあるんですね。友が幸運に恵まれるのは一度は嬉しいんですが、二度、三度と重なると、重なりすぎやしないかとだんだん面白くなくなってくる。
 自分の中にそれを発見することに鈍感な人はいい。そのまま友情に厚いひととして死ねますよ。だけど真の友情は敏感なものだからやっぱり発見しないわけにはいかないのです。ただ、尋常なひとはそんなに追求しませんから、友でもないものを友だと思って死ぬんじゃないんですか。
七平 そうでしょうね。お通夜の時に集まるひとの多くはそれでしょうね。そのあとは全く寄りつかなくなる。
夏彦 そうなんですよ。けれどそのお通夜にも全然来てくれなかったら困りますよ。あれ、歳暮や中元と同じでね(笑)。いつかも言いましたが、お中元が来ないひとってのは社会人じゃないんじゃないかなあ。よく大げさな葬式をしてくれるなとか何とかこまごま指図するひとがいるけれども、死んだひとは生きてるひとを指図できないと思うなあ。
七平 できませんよ。
夏彦 死んだひとが生きてるひとを指図しようと思うのは間違いですよ。葬式は細君が死んだ時のほうがにぎやかですよね、亭主がまだ活動しているからでしょう。そのあと亭主が死ぬと……。
七平 誰も来ない。あれは気の毒なくらいです。
夏彦 森繁がパーティすると何百人ってひとが集まるけれども、こんなに来ているけど、この中で本当に喜んでくれているのは、まあ一割かなって述懐しているのを紹介したことがあります。あとは突き飛ばそうとか足をひっぱろうとかいう連中ばかりだっていうんです。
 森繁でさえそうなら、若いひとなら全部そうじゃないですかね。だけど森繁はだんだん説教癖が出てきましたね。
七平 年を取るとそうなる。
夏彦 あれ、老衰の兆なんですよ。年取ってから一番避けなくちゃならないのは、学校の、人生の師表になりたがることと説教すること(笑)。年取ったからって自動的にひとの師表になれるなんて、とんでもない誤解ですよ。
七平 夏彦さんはなかなか老衰しないな。でも老人は老衰したほうが可愛いですよ。もうちょっともっともらしいことを言って説教を世にたれるといいんだけど。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)



<筆者註>

 山本七平さんが口にされた「管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)」は、戦後生まれがあまり目にも耳にもしなくなった言葉で、スーパー大辞林によれば「〔管仲(かんちゅう)と鮑叔牙(ほうしゅくが)が少年時代から生涯変わらない友情をもって交わったという「列子力命」の故事から〕友人としての親密な交際。終生変わらない友情。」のことを言うんだそうです、ハイ。
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2013・11・18

2013-11-18 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

七平 会社員は定年を迎えると同窓会に出るようになる。
夏彦 定年でやめると会社に行けなくなるからですよ。そこに同役も下役もいるけれど、友はいません。一度は来てもいいけれども、二度、三度と来られたら、同役も下役もどういう顔していいかわからない。あわせる顔がない。あいさつの言葉がない。ですから歯をくいしばって行かないんですよ。そうして三年たち五年たつと電話をかける相手さえなくなる。
七平 社員だったころは忘年会、新年会、みんな友だちだと思っていたのに。
夏彦 定年にならなくたって電話かける先はないんです。むやみにかけてくるひとがいるでしょう。だからたまにかけてもいいだろうと思っても、それが駄目なんですよ。実ににべもないね。あれは自分の都合だったんですよ(笑)。
 よくいるでしょう?『今かまわない?』って一応聞くから、まあ仕方がないから『かまわない』って答えるとね、延々とやってる。あれだけやったんだからこっちからやっても、受けこたえぐらいする義理があると思うと、さにあらず、『何か用?』
七平 そういうひといるなあ。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・11・17

2013-11-17 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。



夏彦 七平さん、同窓会に出ろって言って来ませんか。
七平 来る来る。
夏彦 あの同窓会で友情を温めるというのがくせものなんですよ。あれこそ友に似たものですね。つまり某年某月、一つのクラスの中に放り込まれただけのことなのにね。あそこには選択がない。
  旧制高等学校の出身者なんて一緒に放り込まれたことを生涯自慢して、いまだに放歌高吟(ほうかこうぎん)している(笑)。
七平 強制の友だな。
夏彦 これこそ友だって言うんですから。
七平 いや、さっきフィロスが友だちでフィレーが恋人だなんて言いましたけど、もう一つ。『クシュネーテス』ってギリシャ語があるんです。『一緒にいた人間』という意味ですよ。普通は『友だち』って訳してますけど、違うんですね。
 一緒にいたひとです。偶然おんなじ所にいた。『知り合い』かな。知人であっても友人ではない。
夏彦 ですからね。友だちっていうものを追いつめていくと、次第にそれは存在しないんじゃないかと思われるから追いつめないんですよ。『同級生交歓』とか『交友抄』なんて名物コラムがあるでしょう。みんな成功したひとばかり交歓してますね。互いに『利』のある仲が二十年、三十年続いたのはめでたいが、友でしょうか。
 利のないひととはつき合わないでいたのに、晩年になると同じ学校にいたから友だって言いだすんですよ。死に目が近くなると旧交を温めたがる。それが同窓会です。もう少したつと死ぬひとがふえてくる。死ぬと嘆いたり悲しんだりして、自分は友情に厚いと再び三たび思う。
 なに若い時の友が死ぬと共通の思い出がなくなるから嘆いてるにすぎない。幼馴染はことにそうですよ。筒井筒(つついづつ)の友が死ぬのは、そのひとの記憶にある幼いころの自分が死んだのです。それを惜しんで嘆いているのを、私たちはそのひとの死を嘆いてると好んで取りちがえるんです。
七平 身もふたもない話になってきたなあ(笑)。やっぱり話はだんだん新年号らしく、『老年と死』の方へ行きそうですな。
夏彦 いやいや、友とは何かって試みに追いかけているんですよ。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・11・16

2013-11-16 09:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

夏彦 向田邦子さんに『あ・うん』というドラマがあったでしょう。ご覧になりました?
七平 見ました。
夏彦 テレビをご覧だとは珍しい(笑)。あれに出てくるのが岸本加世子ですよ。
七平 そうですか。
夏彦 里子という水田仙吉の娘になって出てくる。水田仙吉と門倉修造は無二の友です。水田は二流の会社の部長で四国の高松から栄転して上京して来るところからこの物語は始まる。
 門倉修造は二百人ぐらいの職工を使っている会社の社長ですからカネは自由になる。その門倉が水田一家の上京に備えて貸家を借り畳がえを済まし、障子をはりかえ、今風呂を焚きつけ、上京した親子四人がすぐ汗を流せるようにして待っている。『水田仙吉』という、ま新しい表札がかけてあるのを発見したのは水田の妻たみです。
 そういう友は戦前にはあった。そんなに珍しくなかったんです。
 片っぽは小さい軍需工場でカネならザクザクある。片っぽはないから常に世話されるほうに回っているんですけど、別に恩にきてないんです。あれは軍隊か何かの友ですね。軍隊といっても大正時代のまだ平和な時の軍隊の友なんです。
 カネは天下の回りもので、いま片っぽにあるのは偶然にすぎません。
七平 そう言やそうだ。
夏彦 たまたま門倉にあって水田に無いだけのことで、もし反対だったら水田は門倉の世話をやくことが両方にわかっているから二人とも気にしない。こういう仲は以前はそんなに珍しくなかった。
七平 ないです、ないです。そういう時変に気にするのは”水くさい”と言うんでしょうね。
夏彦 だけど水田の細君は、片っぽが世話になるばかりの仲は長続きしないといやがっている。幸か不幸か門倉が倒産すると、たみは初めて実はいつも気がねだった、これからは気がねなしのお付き合いができてうれしいと言うところがあるんです。やっぱり細君は……。
七平 負い目を感じている。
夏彦 ええ、あんまりいい気持ちはしてないんですよ。亭主はオレたちはそんな水くさい仲じゃないとほとんど叱っていますが、細君はなかなか承知しません。だけど七平さんもテレビをご覧になることがあるんですね。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・11・15

2013-11-15 08:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、日本語の文章構成でよく使われる「起承転結」(起で起こし、承で説明し、転で転換し、結で結論を述べる)の説明によく使われる俗謡。以前は、時々目にしたが、最近とんと見掛けない。

  起 浪速花町糸屋の娘
  承 姉は十八妹は十五
  転 諸国大名は弓矢で殺す
  結 糸屋の娘は眼で殺す

(オンラインジャーナル「翻訳通信」故山岡洋一氏の「翻訳批評;本物と偽物 リンドバーグ夫人著吉田健一訳『海からの贈物』」 所収)





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2013・11・14

2013-11-14 11:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

夏彦 『男子の本懐』っていう小説では浜口雄幸、井上準之助の両人は私利私欲を忘れて国事に奔走した志士仁人(じんじん)みたいに書いてあるけれど、当時の新聞は二人ばかりか政治家全部を財閥の走狗(そうく)――走狗ってイヌのことですよ。
 利権の亡者とかって書くこと今とおんなじなんですよ。それをうのみにして佐郷屋留雄(さごうやとめお)以下は政治家を殺したんです。
七平 そうなんです。
夏彦 だから新聞が教唆(きょうさ)して殺させたようなものなんです。
七平 いや、原敬を殺した十九歳の駅員中岡艮一(なかおかこんいち)の判決にはちゃんとそれが書いてある。『新聞雑誌の記事を信じ』っていう言葉がそれには出ているんですよ。
夏彦 そうですそうです、思いだしました。
七平 だから彼を罰するにはちょっと抵抗を感ずるっていうことがちゃんと書いてあります。倫理的に言えば一半の責任は新聞雑誌にあるっていうことをあの判決は言ってるんです。
 今になって原敬は立派だっていわれてますけど、あの当時はとんでもない、生かしておけない人間ってことになっていたんです。
夏彦 『西にレーニン東に原敬』っていう演説がありました。
七平 永井柳太郎の演説。
夏彦 永井柳太郎も訳のわからないことを言うひとですな。どこを押せば原敬とレーニンが似てるなんて音(ね)が出るんです(笑)。
七平 酔っ払って言ったんじゃないですか。
夏彦 それなのに今や原敬は偉いひとになっちゃった。田中角栄だって早く頓死すりゃ志士仁人になれたかもしれない。
七平 本人が言ってるかも知れないね。早く言ってくれればいいのにって。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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海からの贈物 GIFT FROM THE SEA 2013・11・12

2013-11-12 09:30:00 | Weblog


   今日の「お気に入り」。

   「 最初に来るのはこの日の出貝である。結婚の最初の段階をこれで表わすのは間違っていないと

    私は思うので、二つの少しも欠けた所がない面がただ一つの紐帯(じゅうたい)で結ばれ、完全

    に一つに合さって、どっちの面にも暁の光が差している。それはそれだけで一つの世界を作っ

    ていて、これこそ詩人たちが昔から歌おうとしていたものではないだろうか。


     私たち二人の目覚めた魂は、お早う。

     私たちは互いに相手の顔色を窺(うかが)ったりしなくて、
    
     それは愛が何を眺める時の心も支配し、

     一つの小さな部屋を凡ての場所にするからだ。
 
     探検家は新しい世界を発見し、

     地図は多くの世界を示すがいい。
 
     私たちはただ一つの世界を所有し、銘々が一つを持っていて、そして二人は一つなのだ。


   しかしジョン・ダンが歌っているのは『小さな部屋』で、それはやがて私たちには狭過ぎる

   ようになり、そしてそれが少しも不幸なことではない、小さな世界なのである。日の出貝は

   美しくて、壊れ易(やす)い、はかないものである。しかしそれだから幻影ではないので、我

   々はそれがいつまでもあるものではないという理由から一足飛びに、それが幻影であるなど

   と思ってはならない。持続ということは、真偽の尺度にはならない。蜻蛉(かげろう)の

   一日や、天蚕蛾(てぐすが)の一夜は、その一生のうちで極めて短い間しか続かない状態

   だからと言って、決して無意味ではないのである。意味があるかないかということは、

   時間とか持続とかと関係はなくて、他の基準に従って判断されなければならない。それ

   は或る時の、或る場所での現在の瞬間に属していることで、『現在あるものは、或る時

   の、或る場所での現在にしかない』のである。
日の出貝には、凡て美しくてはかない

   ものの永遠の価値がある。」

           (リンドバーグ夫人著 吉田健一訳「海からの贈物」新潮文庫 所収)



    上に引用した文章は、アン・モロウ・リンドバーグ女史の著書 "GIFT FROM THE SEA" を

   吉田健一氏が翻訳された「海からの贈物」(昭和42年、新潮社刊)の第4章「日の出貝」の

   最後の部分である。太字で示した箇所は、11月3日の「今日のお気に入り」で、落合恵子

   さんの訳文によって紹介したが、その原文は次の通りである。

   「 The day of the dragon-fly or the night of the Saturnid moth is not invalid

    simply because that phase in its life cycle is brief. Validity need have

    no relation to time, to duration, to continuity. It is on another plane,

    judged by other standards. It relates to the actual moment in time and place.

    "And what is actual is actual only for one time and only for one place."


    The sunrise shell has the eternal validity of all beautiful and fleeting things.


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海からの贈物 GIFT FROM THE SEA 2013・11・11

2013-11-11 07:30:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」。

  「 前にあった関係に恒久的に戻ることはできないという事実を、そしてもっと深い意味で、

   或る関係を同じ一つの形で保ってはいけないということを私たちは段々受入れるようになる


    そしてそれは悲劇ではなくて、伸びて行く生命の絶え間がない奇蹟の一部なのである。

   凡て生きた関係は変化し、拡張しつつあって、常に新しい形を取っていかなければならない


    そういう、絶えず変化する関係を表わすただ一つの固定した形というものはなくて、その各段階

   にそれぞれの形があるのかも知れず、それならば結婚生活の、或いはその他どんな関係でもの、

   違った段階を示す幾つかの貝を机の上に並べて置いてもいい訳である。」

         (リンドバーグ夫人著 吉田健一訳「海からの贈物」新潮文庫 所収)

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海からの贈物 GIFT FROM THE SEA 2013・11・10

2013-11-10 07:10:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

「 そのうちに、恒久的に純粋な関係というものはなくて、またあってはならない

  ということも解ってくる。そういう関係は時間的にも、空間的にも限られたものであって、その

  本質からして排他的なのである
。それはそれ以外の生活や、他の人間的な関係や、我々の性格

  の別な面や、他の責任や、将来起り得る他の可能性を無視し、そしてそれは成長を無視する。

  子供部屋の締っている戸の外では、他の子供たちが呼んでいて、その子供たちも愛さずには

  いられない。電話が鳴って、友達とも話がしたい。朝の食事がすんだ後は、その次の食事、

  或いはその翌日のことを考えなければならない。そういうことも現実であって、これに眼

  (め)をつぶる訳にはいかず、生活は続けられなければならない。しかしそれは、短い期間

  に二人だけでいる経験を繰返すのは時間の無駄(むだ)だということにはならなくて、その

  反対に、そういう瞬間は私たちを甦らせてくれる。小さな卓子越しに向き合ってする朝の

  食事はその日、またその後に来る多くの日々に光明を投げ掛ける。子供と浜辺で駈けっこ

  をするのは、海に飛び込むのと同様に私たちを若返らせてくれる。ただ私たちはもう子供

  ではなくて、人生も浜辺とは違っている。こういうことは恒久的な復帰を許すものではな

  くて、私たちを立ち直らせてくれるだけである。」

      (リンドバーグ夫人著 吉田健一訳「海からの贈物」新潮文庫 所収)


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