区分することの愚かしさ
上下とか、優劣とか、東西とか、南北とか、金持ちと貧乏とか、強弱とか、有名無名とか、早い遅いとか、あとなんだ?・・・いっぺぇあるではないか。
「比較する対象」ってぇもんが。
アホらしい。
東西というのだって、どこからが起点になっているんじゃ?
上下というと、どこが中間点なんじゃ?これも人間関係でよく使われるが。組織でもそうじゃろう。くだらない、ああつまらない。
強弱もあさましい。柔道の世界で長く生きてきたが、あれってなんになったのかねぇと思うからでアル。そんなもんで一生生きてこなくて良かったよん。もっとも、病気になって、柔道界からも追放されたけれども。部活に命を賭けるなんてことは、考えもしなかったが、それに柔道の昇段も。今はただの4段だが、何の意味もなかったよん。あさましいことであったから。実力もないのに、昇段しようっていう根性が気に入らないのだ。ボキの根性がである。オリンピックにも出たことないのに。
有名無名もそうじゃ。大学にも有名無名があるが、あれもくだらん評価じゃのぉ~と思うからで。なにをもって一流とか二流、三流としているのかね。不思議でならないからだ。自分が勉強したいからというその一点でいいじゃねぇかと思うのだ。教わりたい先生がおられて、通学できる範囲であればそれでいいではないか。ダメなのかね?それじゃぁ。さもしい根性ですなぁ。そういうの。
金持ち・貧乏もそうじゃ。大金持ちは、預金がいくらあってもマンゾクできないだろうから。大金持って居るとかえって不安なんだろうねぇ。持ったことないから知らないけど。ボキのようにスッカラカンだとかえって気楽である。なにしろ年金だけで暮らしているからだ。バイトはスズメの涙ほどでやっているが。つまり、預金ともご縁が無いからである。美人と一緒。あっちの方から、嫌ってくるからご遠慮申し上げるしかない。憧れはあるけど。美人もゼニも。でも、どっちもクソ袋みたいなもんじゃな。
わはははっはははっはははっはは。
つまり、分別をする意識というのは、根本にそれをしている「私」がいるからであるということである。
なんでもかんでも二つに分けて、あーでもない、こーでもないと区分しているから迷うことになる。
アホらしいことかぎりなし。
あさましいことかぎりなし。
あんまり知的な傾向にオノレを振らないことである。分析し、区分し、それぞれを比較して欠点を指摘し、批判し、是正をはかるなんてこたぁ、意味がないんですな。
しかし、自称知的だという方々には、ありがたく接することである。なにしろバカなボキに教えてくださっているのだから。ありがたいではないか。
教えてくださる方々が実力あるかどうかなんてことは関係ないのである。真理を教えてくださるのであるから、人間の好き嫌いではないのである。だからボキは、教えてくださる方は誰でもいい。誰にだって教えていただくわけである。
時には、ガマガエルからも教えていただくことがある。スズメにも教えていただくことがある。ネコにも、ワンコにも。道ばたでクソをしているワンコを見て、あんな風にクソをしてはいけないと思えばいいだけである。
そういうことでは、小林一茶の俳句はなかなかのもんであるが(^_^)。
ありがたいではないか。そういう奇特な方(動物も含む)がおられるのだから。世間には。合掌して拝むことである。マジに。
*
最近、やっとわかりましたよん。そういうことが。
どったけあさましいことをやってきたかということが。
どーせ、みんな死んじゃうんですぜ。
やがて消えゆく我が身であるのだから。ジタバタしたってはじまらねぇっていうもんじゃ。
わははっははっはははっはははっははは