「超勉強法(実践編)」に書いてあったこと。
それは、「英語以外は、これでいいのだ」というふことなり。
ちょっと気が楽になったけど。
どうしてもマスターしなくちゃと思っていると、ノイローゼになっちまうからであります。
わはははっはははっはははは。
自分のアタマの悪さを言い訳にしているだけだなぁ~。
野口悠紀雄先生の「繰り返し学習」の結果、再度新たな発見があったので書き込み。
それだけ、それだけ。
「超勉強法(実践編)」に書いてあったこと。
それは、「英語以外は、これでいいのだ」というふことなり。
ちょっと気が楽になったけど。
どうしてもマスターしなくちゃと思っていると、ノイローゼになっちまうからであります。
わはははっはははっはははは。
自分のアタマの悪さを言い訳にしているだけだなぁ~。
野口悠紀雄先生の「繰り返し学習」の結果、再度新たな発見があったので書き込み。
それだけ、それだけ。
勉強法もwalkingの世界でも、方法論はこれまた日々新たである。まったく退屈している暇がないっすねぇ~。
最近、勉強法の古本を例の古本チェーン店から連続で買ってきて、それこそ風呂場で読み終えた。
野口悠紀夫先生の「超勉強法」「超勉強法(実践編)」和田秀樹先生の「受験は要領 テクニック編」石井貴士先生の「一分間勉強法」等々である。
どれにも共通するのが、「繰り返し学習」であった。繰り返し、繰り返し同一のテキストでもって勉強していくことを力説されていた。
もっともそういう傾向のある著者を無意識で選んでいるから、同じ傾向のある古本を買ってしまうのであろう。それはそれでいい。
ではなんのために買うのか。
塾で生徒に話しかけるためである。そういう知識を持っているといろいろと勉強法で悩んでいる生徒には実にいいと思っているからである。
さらにある。
それは、ジイジである自分自身のためにとってもいいからである。
長年生きていると、勉強方法にもある種の固定化されてしまった悪癖がある。暗記にしても、独自性と言えば格好がいいが、それは独りよがりのきらいもあるからである。
もっとも還暦過ぎて、まだ暗記法なんかにこだわっているんか?とせせら笑いをされるのはわかっている。それでもいいのである。
野口悠紀夫先生も「超勉強法(実践編)」で言っておられるが(同書pp.13-42)、「学歴社会」から「勉強社会」に移行しつつあるからである。生涯学習と言われてきた部分は、実は「勉強社会の実現」でもあるのだと実感しているからである。
そして学歴社会から勉強社会への移行がなされてきたとも書かれている。それは大いに共感できることである。終身雇用というシステムのもと、働く場所が確保できて、それでもって定年退職まで収入を得ることができた。
だからこそ、学歴社会であったわけである。固定化されていたからである。雇用が。終身雇用が支配的であったら、学歴を重視した方が、採用側から見たら失敗は少ないであろうということは容易に想像できることである。
日本を取り巻く国際環境はかなり変化しつつある。さらに、従来の雇用環境も崩れてしまっている。学歴社会も大いに変化しつつある。
良い例が(悪い例かもしれないが)、法科大学院の事例である。崩壊してしまったというのが実感である。あのシステム自体がである。
法科大学院で一生懸命学んだとしても、なかなか合格できない。さらに諦めて脱落していく若者もいると聞く。体の良い集金システムではないのか。大学にとっては。合格もできない、夢だけ若い人に見させてあとは放り投げてしまうというのは、いくらなんでもかわいそうである。
さらに、昔のように大学学部卒だけではなかなか通用しない時代になってきたという。博士だって大量生産時代になってきた。論文博士と課程博士ではレベルがまったく違ってきているというのも非常によくわかる。そういう時代になってきたということである。私の大学学部時代の恩師たちは、博士を持っておられる方々はなかなかいなかったし、そもそも文学系の博士号はなかなか取得できない傾向があるからである。
修士を取っておられる方々もたくさんいるようになってきた。大いに結構なことである。私も一個だけ持っているが(人間学)。
それはともかく、もう学歴社会は終わってしまったというのが正直な感想である。
大学入試までは死にものぐるいで受験勉強をして、入学したとたんに疲れてしまって勉強を中断してしまうのが多い。
大学を出てからも、勉強を続ける方々はいる。しかし、圧倒的に少数派であろう。生涯教育とか生涯学習の必要性とか、重要性は昔から言われてきたものの、あまりそういうことが重視されてこなかったのは、職場での人間関係の方が大切であるとされてきたからであろう。
一人でコツコツと勉強しているよりも、コミュニケーションが大事だというわけである。
むしろ一人でコツコツとやっている方は変わりモンだとされて疎まれてきたのではないのか。
しかし、変化している、あるいは変化しつつある社会では、知識の有効期限は短くなっている。
あまりにも情報過多の時代になっている。インターネットがそれを可能にしたし、旧態依然、昔のままでいいとおっとり構えているとあっと言う間に取り残される。
だから勉強しなくてはならないのである。
40年も昔に勉強した知識でもって、勝負できるほど世の中は甘くはない。
勉強社会では常に勉強することが求められるのである。そうすることによって、いくらでもチャンスが転がっているということである。むろんそれは目に見えるような出世とか、収入アップというような話ではない。
そういう観点から、勉強の方法を調べて日々チャレンジしてみることである。還暦を過ぎても、自己満足に陥ることなく、日々改善をしていくことである。
それを自ら実践してみることによって、若い方々に対してアドヴァイスできれば、こんなに幸せなことはない。
そう思っているのである。私は。
今日は、朝から曇っている。
午前中はまたまたwalkingに行く。そういえば、walkingの世界でも方法論はこれまた日々新たである。
まったく退屈している暇がないっすねぇ~。
わはははっはははっははははっはははっははは。
元気なジー様でありまするよん。
(@^^)/~~~
ゴミ箱行きの小説は、かえって貴重な体験でしたかな?・・・不快さに耐えるという意味では(^w^)
私の嫌いな作家に村上春樹と渡辺淳一がいる。どれくらい嫌いだというと、彼らの小説は読了後すぐゴミ箱行きになるからである(いちおう読むのだが・・時間の無駄であっても)。
なぜか。かなりのインテリに見えるような男女が、「非現実性」を生きて居るからである。もっとも、村上春樹と渡辺淳一の二人とも真っ赤なウソ話を書いては大御所としてかなり儲けていらっしゃる。だから、なにもハラを立てる意味もないのだけれども。
しかしである。村上春樹の「ノルウェイの森」なんかは、どうみても世間からはじき出されてしまったまともでないような人々が、次から次へと登場してくる。しかも、みんな知的にも肉体的にも経済的にも世間の中流以上。否。かなり恵まれている生活をしている。ここらへんが、貧しい苦学生をやっていた私の相容れない部分である。相容れないどころではない。ハラが立って仕方がなくなるのである。貧乏な私の被害妄想だと言われてしまうけど。
特に、女性陣。
みんな綺麗な美女なんだろうなぁと想像させてくれる。「debuでbusuで誰にもモテない」とか「三流大学ですら合格できない」とか「家庭内暴力で育って」というような環境に無いのである。そして、みんな早熟であって、性的な発達だけは見事にやっている。映画も劣情をそそるようなシーンだけが目立つ。
さらに、たいした理由でも無いのに簡単に自殺してしまう。抽象的な理由でもって。こころを病んで、である。全員が、ワケのわからない抽象的な理由でもって簡単に世間を忌避して(あるいは世間から忌避されて)、なんだか浮いている。おそらく、早稲田の学生であろう主人公と、学生寮に入っている方々の天国にでもいるような金持ち金満富裕層(中国の富裕層もびっくりするような)の生活そのものであるよん。バカバカしい。
これは、渡辺淳一の名作と呼ばれる(黒木瞳主演の映画にもなった)「失楽園」もまったく同じである。抽象的な理由づけをもって、自殺の理由としていて、これもまったくハラが立つ。そんなもんではない。ハラワタが煮えくりかえる。
「失楽園」も、また美人で、世間の荒波に翻弄されることもなく、「debuでbusuで誰にもモテない」とか「三流大学ですら合格できない」とか「家庭内暴力で育って」というような環境に無いのである。
しかも、失楽園の方の女性はちゃんとした家庭まで持っている。それを、つまりは家庭を・結婚をどうやって否定するのかと思って、読み進めてみたのである。かつて。そうしたら、まことに身勝手。自分のご都合主義であった。必然性のまったくない台詞が臭すぎる。肌のふれあいが愛だという台詞があったが、思わず吹き出してしまった。まるっきりコメディである。台詞が。これを大まじめに演技と自称している俳優たちがかわいそうになってしまったよん。ある意味予想はできたのであるが。
こっちも、流行の恋愛(不倫)至上主義である。愛とか恋とか、そんなに価値が高いものなのであろうか。あんな程度のものがなぜ愛になるのであろうか。なぜ疑問に思わないのであろうか。なんだか騙されているようであるという自己認識がなぜ無いのであろうか。次から次へと疑問がわき出てきて(*_*) マイッタ。それに、台詞が臭い。大いに臭い。小説も、映画も。
要するに、メシを食っていくのにたいして困らないから、こんな浮ついた生活をしていられるのである。
「ノルウェイの森」も「失楽園」もである。現実味がふっとんでいる。そして、なぜ最後が「死」なのであろうか。もっとも、「ノルウェイの森」のワタナベ君はなかなか死なないけれども。この男は、冒頭からかっこういい登場の仕方をしてくる。
「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。・・・」と書かれているのである。
かっこうが良すぎる。まるでマンガである。飛行機と言っても、ビジネスクラスなら、こういう登場の仕方もいいだろうが。これがエコノミーだったら、笑ってしまうぜな。まったく。疲れ果てた「ワタナベ君」が、どんな顔をして飛行機に乗っておられるんだろうと思うと、ますます吹き出してしまうのである。
ハンブルク空港だって、場所の設定自体臭い。大いに匂ってくる。読んでいる方はそんな空港に行ったことがないだろうからという計算も見えてしまう。海外の空港だからかっこうがいいとは限らないからである。キタナイ空港だって世界にはいくらでもあるだろうに。私はあまり海外には行ったことが無いから、よく知らないのであるけれども。
なんだか、そういう生きること、永遠に生きていることが大前提でいいのかね?
そう思わないからこんな小説なんか書いていられるんだろうなぁと感じるのである。でも大儲けしたからいいのか。
どうせ人間は100%死ぬのである。それをなにもこの二人の小説のように、急いで死ぬ事はねぇだろうにと思うからである。そもそも小説設定自体に無理がある。上っ面の愛情悲劇だけを追いかけていれば、それでいいというのでは、私のような偏屈ジジイには受容出来ない。
私も相当ひどいジジイであるが、ここまでひどくはない。そう思っている。
ま、すべてどうでもいいような話ではある。
さ、これにて退散。もう過ぎ去ってしまったことがあまりも多くて、ジジイは退散するにかぎりますな。ただし、惚け防止のためには努力するけれども。
(・u・)>ベー
「すべてはあなたが決めたこと」なんだねぇ~アドラーの言う如く
昨日、ヨルバイトの塾から帰ってきて入浴をしてからyoutubeを見ていた。亡父が体験したシベリア抑留ということを検索ワードにして、ちょいと調べてみたのである。南京大虐殺がユネスコにどうだらこーだらと騒がれているからである。シベリア抑留も大虐殺であったのではないかとふと思ったからである。そして、もしかしたら動画であるのではないかと思ったので、そのとおりにした。あった。たくさんあった。そのうちのいくつかは、拙ブログにリンクをかけておいた。いつでも見られるようにである。
こういうように、テーマ別にyoutubeの動画を整理できるというのがgooブログの良い点である。ありがたいもんである。惚け防止のために始めたのだから、リンクをかけておけば、ジジイの私はいつでも見られるというもんじゃ。感謝、感謝。
その前に、実はアドラー心理学も調べていたので、それも動画をリンクさせておいた。こっちも、いつでも見られるようにと思ったからである。
なぜアドラー心理学かというと、お世話になった方に、コーチングというのを教えていただいたことがあって、どうやらこの両者関連するらしいと思ったからである。
一冊の本がきっかけである。
そうなのだ。昨日のgymの帰りに、「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる 100の言葉」(ダイアモンド社)というのを古本店で買ったからである。ダイアモンド社だから、ビジネス書である。こういう類いの本は久しぶりである。そうなのだ。もうビジネスをやっていないからである。仕事をしていないのに、ビジネス書を買う必然性はない。
わかりやすかったから買ってみた。それにアドラー心理学は、知らなかった。というよりまがい物という認識があった。さらに、フロイトの方がホンモノだという思い込みがあって、敬遠していたという方が当たっている。
そんな誤解が一気に解消してしまった。
知らないということは、恐ろしいことである。誤解も誤解。なんにも知らなかったということである。まったく、どうしようもない。
「自己啓発の父」であるという。さらに「まえがき」に、「自己啓発の父・アドラーはなぜ無名なのか?」とタイトルが書かれている。これが買った理由である。無名?・・そんなことはないだろうと思ったからである。少しくらいなら、私も知っていたからである。しかし、フロイトに比べたら確かに無名である。さらに、アドラーからいわゆるぱくりをしていった学者・研究者が多いとも書かれていた。それは知らなかった。
大前研一さんもアドラー派だと言ってはばからない。デール・カーネギーもそうだという。例の「道は開ける」「人を動かす」という名著を書かれた鉄鋼王である。
もっといる。マズロー、フランクル、ロジャーズ、アルバート・エリス、フロム等々である。こっちは、まったく知らなかった。不勉強で。ただし、ロジャーズ、フランクル、アルバート・エリスは、現場の仕事人をしていた時代は大いに参考にさせていただいた。つまり、狭い範囲でしか勉強していなかったということになる。
(_ _ )/ハンセイ
どーも、心理学というと生理的な反発を感じてしまっていた。心理学をやっている方々の分析的な傾向にである。したり顔で、こっちを簡単に分析してくるから、フンと思っていたのである。マジに。
京都の龍谷大学で研究発表をさせていただいた時もそうだった。仏教心理学会で研究発表をさせてもらったのである。退学した大学院の一年生の時であった。その時に、酒宴があって、心理学系の研究者にいろいろと言われたのであった。なにしろ分析的であるから、閉口した。マイッタ、マイッタというわけである。こっちは定年退職してから、生涯学習を気取って、現役の大学院生をやっていただけで、他意はなかったからである。目的もなにもない。ただひたすら勉強したいから勉強していたのである。それを分析されて、どうのこうのと言われたくない。なかったからである。ま、今となってはどうでもいい。退学してしまったからである。そう、もうなんにも関係ないからである。分析していただいたが、あれは徒労でしかなかったというだけである。ま、オレがかなりの変わりもんだということだけは理解できたが。(^0^)
原因とか、理由なんてあまり信用できない。
そもそもなんでもかんでも、人間の行動に原因とか理由が存在するのであろうか。遺伝が人間の行動を縛るもんであろうか。さらに潜在意識が、人間の考え方や心理を左右するのであろうか。正直な疑問である。かなり以前からそう思っているのだ。フロイトのいうように性欲というものが、人間を左右するものであろうかとは、しみじみ感じる。年取ってくると、ますますそう思う。フロイトの言っているようなことが、ほんとうにそうだったのだろうかという疑問である。
そうなのである。
もう恋愛とか性欲とかのフロイトの言ったようなこととは、無縁であるからである。かえって面倒臭いだけであるからだ。なにを今更である。バカバカしいと思うしか無い。村上春樹に対する思いと一緒である。若い時だけの一時の感想でしかない。
ところがである。
アドラーはちょっと違う。
責任転嫁をしない。「すべてはあなたが決めたこと」と、最初にハンマーパンチをくらわしてくる。どうしても他のヒトのせいで、アタシャ、こうなったと言いがちであるからである。評価されなかったのも、アンタのせいという論法である。終いには、オレの能力が低いのは、政府のせいだと言いかねないのが、私のような一般庶民にはありがちであるからだ。親のせい、会社のせい、大学受験に熱心でなかった教師のせい、論文が書けなかったのも教授のせい、大学のせい、カネがたまらなかったのも古女房のせい、子どもが思うように育たなかったのも、社会環境のせい・・・・・と延々と恨み辛みが続く。
そんなんじゃぁ、人生は辛いだけである。そうなのである。「すべてはあなたが決めたこと」なんだねぇ~。退学したのも、そう。病気になったのもそう。酒を飲みすぎて、あるいは毎日ゴミ論文書きに、10時間以上も机にしがみついていたのもそう。「すべて自分で決めたこと」でしかなったのだ。
もっとある。
「幸せになる唯一の方法は、他者への貢献」という考え方もなかなかである。アドラーは「共同体感覚」を大事にせよと言っておられるが、これもマスターすべき考え方であろう。
他にもたくさん宝石のような言葉がたくさんある。
しかし、まだまだこれからアドラーの本を読むしかないから、拙ブログにはこれくらいしか書けないし、書かない。
逆に楽しみである。楽しみ。
さ、今日はこれから塾の研修会がある。午前中である。歩いて行ってくるつもりである。運動のためである。
じゃぁねぇ~。
(ToT)/~~~
入浴の友をしてくれていた本(ピンクの風呂で)
濱嘉之先生の「列島融解」なる小説を読んでみた。というより、最近ずっと風呂の中で入浴の友をしてくれていた本である。推理小説なのだが、これがすこぶる面白い。
東日本大震災以来の政界、財界、原発問題等々の話題がところせましと登場してくる。
いろいろな方の読後感もインターネット上は、いろいろあってちょっと評判も良くないのだが、私は面白かった。
筆者は、元警察官僚であって、しかも中枢部にいたらしい。これが面白いのである。警察官僚が、どのように動いて、国家の危機に対応していたのかということが裏側からよくわかる。だから面白いのである。これは当時のマスコミには書かれていなかったことであるからだ。さらに中国との関係も、なるほどと思う。中国は資本主義国家ではない。だから、我々自由主義経済を国是としている日本とは違っていて当たり前である。それを明確に書いてくれたなぁと思う。
こういうスタンスは、私の好むものである。
一方的な書き方でもって、国家のことを書いているマスコミは信用できない。政党団体もそう。
ま、だから情報収集が重要である。もっとも一人ではできないけれども。
ともかくこの小説は、以下のような内容である。
内容の紹介(カバー裏面より引用)
『東日本電力社員を経て衆議院議員となった小川正人は、未曽有の大震災後、日本が直面するエネルギー問題に真っ向から取り組んでいた。原発の行方と、代替エネルギーの可能性は、停滞した経済は復調し、安全は守られるのか。日本自由党政権となり激動する政財界を見つめながら、この国のかたちを描き直す意欲作。』
どうであろうか。
なかなかのものである。さらに濱嘉之先生の他の小説に出てくる警察官僚は、特に情報収集が実に近代的である。ビックデータの活用法が書かれている。つまり、犯罪捜査のためにどうやっているのかがよくわかるようになっている。コンピュータを使った捜査方法がすばらしいのである。さらにハニートラップ。これも正面から扱った推理小説は読んだことがなかった。もっとも、私は文学に関して素人だから、こんな気楽なことを書いていられるのだろうけれども。
しかし、冴え渡る分析である。
こういう方々によって警察官僚が構成されているのだとしたら、なんと恐るべき集団であろうか。悪い事はしない方がいいという見本である。
たぶん、浜嘉之先生は勉強が大好きなんだろう。でないと、ここまで鋭く分析した小説が書けるわけがない。
この小説をタダ単に推理小説だからとバカにしていると、時代に遅れてしまうとまで私は思う。世の中のことを知らないで、そのまんまジジイになった私としては反省するしかないような小説である。こういうのはあまり良く無い読み方なんだろうが、まさか、今更恋愛小説を読んでマニュアルとするわけにもいかないしねぇ。そんなことは不可能だから。
つまり何を言いいたいのかというと、情報収集も一点に限ってやらないということである。それを言いたいのである。新聞や、テレビや、週刊誌や雑誌、インターネットでもってことたれりとしてはいけないという自分の反省である。
これまでそれで満足してきたからである。
分厚い研究書や解説本を見て、それでもって満足してきた。
もっともっと範囲を広げていかなくちゃならんですな。
入浴の友なんてブログに書いていると、濱嘉之ファンから叱られてしまうのかね?たぶんそうだろうねぇ。失礼だとか言われて。
しかし、風呂の中では別にすることもないし、じっとしていても面白くもなんともない。あったまったら、浴槽から出て身体を洗うだけ。それに私の家の浴槽はデカイ。色はピンクである。これまた楽しい浴槽なのだ。作ったときは、違和感があったけれど、今はもう慣れっこになってしまった。もうこれでないと、幸せ気分を味わえない。
なぜか。
「ピンク」だからである。
ピンクは、幸せを呼ぶ色である。
一日の終わりに、良い気分で身体をあっためて、清らかに就寝してしまうってことがどんなにありがたいことであるか。それをしみじみ最近は感じているのだ。
ま、濱嘉之先生のホンとはなんの関係もなくなってしまったが。
最後は。
☆
今日はこれから、古文書講座である。
これくらいにする。
また午後からでも書いてみようっと。(無理かな・・・無理はしないけど)
では出かけますので。
(^_^)ノ””””
一度でいいから絶世の美女なんて拝んでみたいっすよん。原節子みたいな美女を見てみたい。「学校ごっこ」をやっているだけの、バカな爺ではあるけれど。
朝起きて、一杯の茶を飲むのが実にいい。
茶といっても、私の場合は麦茶である。なぜか。ビタミンKが緑茶には含まれているから飲めないのである。飲んでいる薬の関係からで。禁じられているからだ。だからである。麦茶ならいいと言われているから、それにしている。もう10ヶ月麦茶だけで生きている。笑ってしまう。これでもう、アルコールも一滴たりといえども呑んでいない。こっちは「呑んでいない」のである。茶の方は「飲んでいない」のである。漢字が違う。語彙から受けるカンジも違うけど。
「飲む」は酒を飲むという「飲酒」の使い方からもわかるように液体に関して使う。「呑む」はどちらかというと固体が多い。それに恨みの意味も持つ。だから私には「呑む」の方がふさわしい。ま、どっちでもいのだが。(^_^)3 フムフム。でも、これからは「飲む」の方を使うか。どっちでもいいんだから。
しかし、どっちでもいいようなことが世の中には多い。多すぎる。こだわっているからどっちでもいいことに、いちいち文句をつけて悩みを持つ。思うようにならないからである。自分の思うようにしたいから、そしてそうならないから怒りに支配される。
最近は、あまりにも暇なので推理小説も読んでいる。「も」である。濱嘉之のものを読んでいる。この作家は元々警察官僚の情報捜査担当のエリートだったらしい。だから読んでいる。実に綿密に書かれているからだ。資料が相当豊富なのであろう。警察を舞台にした作品だけ読んでいる。しかも、あまり恋愛に関する表現は上手ではない。さもありなんである。かたい職業だったのだろうから。
だからと言ってはなんだが、彼の国際犯罪とか、国家観というか、ウラ社会についての書き方がおもしろい。実におもしろい。特に、中国・韓国がからんでくる国際犯罪の書き方は、最近の政治状況もあってなかなかである。昨日まで、中国と日本の産業スパイを扱った作品を読んでいた。それが今日の記事の写真である。「警視庁情報官 ハニートラップ」(講談社文庫)である。
中国への防衛機密漏洩事件がテーマである。主人公黒田は公安畑のスーパーエリート。著者は公安や内閣情報調査室での勤務経験がある元警視。だからと言ってはなんだが、ちょっと説明が細かい。でも、ハニートラップについて知りたい場合には、これ以上の教科書はないと思う。それくらい詳しい。
近代的な情報戦というと、これはアメリカCIAが世界一であろう。そうではない人間がかかわる旧式の情報戦となると、諜報活動(ヒューミント)では共産国家である。今までやってきたからである。有名なのは、日本の首相であったH氏である。さらに高級官僚もこれにひっかかって自殺もしている。
濱先生の小説は、だからそういう意味では教科書である。さすがに元警視が書いただけのものがある。小説的なおもしろさという点では、京極夏彦とか東野圭吾にはかなわないだろうが。ま、そういう文学者だと思えばいいだけである。
現代中国というと、私は思想の国家であって、遊びとは無縁であるとばかり思ってきた。コテンコテンのお堅い国で、遊びなんかまったく無いのではないのかとも。なにしろ34年前、文革終了直後に桂林に行っただけである。だからわかっていないのだが。それに、最近の中国には興味がないからどうしようもない。厦門とか福建省には目連救母劇を見たいということで、興味があるけど。
ところがそうでもないらしい。思想一点張りでもないということが、だんだんわかってきた。中国福建省に行ってみたいとあるとき発言したら(退学した大学の大学院生時代)、遊びに行くのかと聞かれたこともあるからである。しかも、中国から来た留学生にである。びっくりしたっけ。え?と思わず聞き返してしまった。そういう遊びの部分もあるのかと正直思ったからである。
むろん、日本国内でも遊ぶ場所はある。それを考えると国家が違っても、人間のすることはミンナ同じだということになる。
おもしろいものである。人間はミンナ同じようなことをして、他の国家のワルクチを言い、溜飲を下げている。
これもねぇ。。。。なんにもならないことをしているだけである。バカバカしい。いかに強大な国家であっても、永遠に続くわけではないではないか。歴史はそのことを証明しているからだ。ローマ帝国だって、サラセン帝国だって、元だって、中国だって、韓国だって全部興亡の歴史を経験しているではないか。
永遠はないのである。人間と一緒だ。さらに言えば、地球だって永遠ではない。100万年後に人類だって、存在するのかどうかわからないではないか。滅亡しているかもしれないし。
☆
ここまで書いてきて、あっと気がついたことがある。
それは、私には間違ってもハニートラップが仕掛けられるということは無いということである。絶体にない。ハニートラップを仕掛けるだけの価値が無い。まったく無い。
あははははっはははははである。あはははは。
一度でいいから絶世の美女なんて拝んでみたいっすよん。原節子みたいな美女を見てみたい。そんな美女ならやられてみたいけど、やる価値がないっちゅうんではねぇ~。黙って引き下がるしかない。当然である。ただの田舎ジジイである。
ジジイは黙ってサッポロビールである(これも古すぎて誰もわらかんか・・・・トホホ)。
今日も暇だなぁ。
夕方相撲を見て、それまで時間つぶしをしているか。Gymに行ったり、昼食は好きなレストランに行ってくるけど。隣の県に。カフェ・セレンディピティーというところなり。古女房ドノと一緒に(^-^)/。
じゃぁねぇ~。
人生を降りる、99%降りてしまったけど
哲学者の中島義道先生が書いた「人生を半分降りる」という本は、現役時代に買った。本の題名に惹かれたからだった。そして、いくつか中島先生の本を買ってあちこちと読んでいた。
ただし、現役時代はこれはこれで言いたい事はよくわかるが、ちょっと仕事人間としてはいかがなものかと思っていた。だから読書ノートもつけなかった。
ところがである。
昨日、古書店チェーンに本を20冊ほどウリに行って、その査定があるからちょっと店内でうろうろしていたのである。
そしたら、この本が目に飛び込んできた。いつもそうだ。欲しい本があるのではなく、向こうから飛び込んでくるのである。「買ってぇ~」って。
笑ってしまう。ホントの縁である。本の方から、飛び込んでくるのである。
あ、これ読んだっけなと思って、ちょっとだけ手にした。そしたらもうダメである。
そうなのだ。「人生を半分降りる」どころか、アタシャ「人生をほとんど降りた」という状態であるからだ。現役時代は考えもしなかった「半分降りる」ということが、事実「降りてしまった」のだから、受け取りかたが半端ではない。身に迫ってくるからだ。マジに。
「あなたはまもなく死んでしまう。だから『自分のための時間を確保せよ』。時間がいかに大切か」というようなことから書き始まっている。
これはこれは。なんという毒を持った書き出しであろうか。私も現役時代には、こういうことをチラと考えはしたが、今は、まるっきり「自分の時間だらけ」である。しかも、死んでしまうのだからという理由がサラッと書かれていて、それが書き出しになっているのだ。
また、「一花咲かせたい」とも思わないことだとも書かれている。人生を半分降りて、「何をすべきか?」ではなくて「何をすべきでないか?」の問いの方が大事だとも。こちらも切実な問題である。一花咲かせようとしたからだ。大学院博士後期課程に入って、学位を取ってみたいと思ったのが大間違いであったからである。笑ってしまうけれども。まったくまったくその通りである。
仕事なんて、その人でなくてもいっこうに構わないものだとも続けて書かれていた。確かにそうである。オレがいないと会社は組織は動かないとか、考えないことだとも書かれていた。その人が会社や組織から降りたら、誰か他のヒトがやるだけであるとも。
つまり、そんな誰でもできるような雑事に追われて、人生の無駄遣いをしちゃならんというわけだ。中島先生なら新学科のプランだとか(そうなのだ、大学の先生だから)、学会の編集委員会とかの雑事を捨てることだとのたもう。学者だから。中島先生は。
なにが成果主義だ?という中島先生のせせら笑いが聞こえてきそうだよん。
もっとずきりとなったのが、「公職から離れよ」という文章である。昨日、副区長になってくれないかと言われて即座にお断りしたが、断っておいて良かった。権力から、公職から離れて生活して、なるべく遠くにいればいいと言うのである。確かに一理ある。
今の現役時代の地位というのは、生活のため、能力発揮のため、他人を支配する道具、他人から尊敬される場としてある。そうも書いてある。組織にとって、あなたは絶体に必要な人間では無いのであるとも。これもまた然りである。
「もうじき死んじゃう」のに、なにを血迷っているのだろうという警告であろう。80,90の老人たちが、20年後の大学問題や、人口減少を憂いているのと一緒である。今、目の前に展開していることが永遠に続くと思っているからだ。大問題だけ論じていてもそんなことはなんの価値もない。現実に立脚していないのだから、話にならない。日常生活から目を離して、さも大学者ぶって大問題だけ考え論じていたら、それで終わりである。人間が終わってしまう。
それに、学者先生たちの書いている論文についても大笑いをした。
論文なんて誰も読まないだろうに、と書かれていたからである。
これはこれはなるほどである。さらに自己満足でしかないとも書かれている。つまり「理性の自己批判」をやめたらアカンということである。
偉い学者や芸術家というのは、ハラの底から、自分だけ優れていると思っておられる。間違いない。体験上。「センセ、センセ」と言われるから、言い続けられるから、自己評価が高くなってしまう。
しかし、一見謙虚そうに見える輩もいる。世界の偉人や、大哲学者と比較したら、アタクシなんぞまだまだだとのたもう方々である。そこに「向上心」を持つのだろうが、決してそんなことを信じちゃいけない。
遠藤周作だって、のろまで、醜男で、要領が悪くて、ナマケモノでと書いている。ユーモアエッセイで。しかし、正直に受け取ってはならない。あくびをしているフリをしながら、じっと他人のすること・考えることを観察しているのかもしれないからだ。
どんな学者も自分のやっていることの「虚しさ」を考えていないという中島先生の指摘にも思わず賛成してしまった。
専門バカと揶揄されるように、学者というのは一つのことにこだわって、人生を終わる。そういうのを専門バカというのであるが、気がついていないことがある。それは、一生をかけた研究は、ゴミのようなものだということである。死ぬや否や、忽ち忘れられてしまうものでしかない。小説だってそうだったではないか。残っている作家とか、作品は実に乏しい。あれだけ売れた松本清張だって、今はなかなか売れない。あるいは丹羽文雄にいたっては、誰も読まないだろう。そういう作家は多い。
ただの名だけである。しかも誰も読まない。生きているうちには、師匠だから、弟子だからということで仕方無しに読む可能性はある。誰も読まない膨大な論文を必死になって生産していることこそ虚しいものである。
本人にとってはとても大切な論文も、ほとんど誰も読まないのである。これは私もそうだ。いくら書いても家族すら読んでくれない。あ、そう。それで終わりである。ご苦労様もない。言ってもらえない。
もっとも先人たちの書いた膨大な論文を隅から隅まで入手して読んでいたら、それこそそれだけで一生が終わってしまう。
さらに、論文を書くためだけの読書はアタマを悪くする。
「~~~について」というような、あるいは「妖怪の~~~について」なんていうような大論文を書くために、参考資料として読書すると、論文はたいてい二流・三流の論文であって、ゴミである。しかも、オノレの論文は大論文であるという自負があるから、次から次へと読まなくちゃならない。
殆どの論文というのは、「まとめ仕事」にすぎない。これは大学や大学院での学習もそうだろう。自分だけが発見した真理だとは間違っても言えないだろうから。いろいろな参考文献や、他人の書いた論文を読んで「まとめ仕事」をしているだけである。そういうのを虚しいと中島先生は言っているのである。
しかも、有名にも金持ちにもなれない。世間的には大学の教授と言っても無名である。一部ブランド大学の教授を除いては(こっちも最近はかなり怪しいけど)。だから、世間的には無名であるからこそ、名誉を求めるわけである。そして壮絶なる戦いをすることになる。この戦いは、自分が狭い仲間たちの中でいかにエライかということを示す実に簡単な戦いである。自分がいかにいい仕事をしているか、自分が狭い業界でいかに認められているか、他人を貶めてそれでもって自分を引き上げることが最重要課題になるわけである。そういえば、学部時代も修士のときにもそういうのがいたっけな。学生や院生で。私の得点をやたら聞き出したがるのが。比較するわけだ。そして一人悦に入っているわけだ。なにしろ、こっちは出来が悪いことにかけては天下一品であるからだ。だったら私なんか相手にしないで、自分だけエライと思っていればいいのにと思うケドねぇ。マジに。
ま、どうでもいいような話ではある。こっちは、99%人生を降りてしまったからだ。
こっちは惚け防止のためにこのブログの記事を書いているだけだから。惚けを比較して、あっちのジジよりも、こっちのババよりもオレの方がまだ惚けてねぇ~ぞ!なんてやっていたって、虚しいだけだからなぁ・・・・トホホ。
じゃ、これにて(^_^)ノ""""
万物は縷々変化して、とどまることなく、人生も人体もただ虚しきものということ、永遠などというものもない。永遠の美女なんて存在しないのと一緒である。
九相図という絵がある。
これは私がいろいろと考えるときに、ずいぶん参考になる絵である。「生老病死」を考える時にである。私も、そんなに長生きはできないだろうから(200歳とか300歳とか=冗談だけど)、今から「死」のことをよく考えないとアカンからである。
さらに「病」と「老」もである。このことを考えない「生」はあり得ない。見て見ぬふりをしても、確実に「生老病死」は来る。特に最後の「死」である。誰だって100%死ぬからだ。現代文明は、とくに「死」を忌み嫌い、「老」も「病」も考えのうちに入れていない。だからアンチエイジングとかが流行る。いつまでも若く、美しい状態でありたいという無理な発想を持つ。
これがいかに無理なことか、我々はもっと見つめるべきである。逃れようのない真理が「死」だからだ。誰だって、明日生きて居るかどうかはわからないのだ。さらにどんな美女も、老いる。美女かどうかなんてことは、オノレの感じ方でしかないのであって、誰でも美女かとなるとそんなことはない。自分勝手にそう思っているだけである。
若い時に、美人だった方も、年齢と共に老いる。そして若い時の面影はまったく無くなってしまう。仕方がないのである。加齢をしたからである。永遠に若々しく、美しく生きていられるわけもないのだ。それをどんなに否定しても無理である。無理なものは無理なのだ。そういうのを無駄な抵抗ともいう。
若くていきいきとして、しかも美しいという若者は、次から次へと現れてくる。当然である。後から生まれたからだ。そしてそういう若者がこの世の中を支えていく。
ありがたいことである。ジイジとしては、感謝するしかない。
で、今日は、京極夏彦の「巷説 百物語」のことを書きたくてここまで引っ張ってきた。
この中に「帷子辻」という短編がある。これが冒頭にあげた「九相図」から発想を得ている作品で、しかも読ませる。京極夏彦の傑作であるとまで、私は思っている。なぜそう思ったか。まさに「生老病死」のことが書かれているからである。さすがに京極夏彦さんは、現代の語り部である。すばらしいもんである。こういう作品からなにかと考えることは多い。
さて、「帷子辻」である。
この題名は、京都の地名である。帷子辻(かたびらがつじ)は京都市北西部にあったとされる場所である。現在の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」付近と言われる。京都には修学旅行の引率でなんども行ったし、これでも中世文学が好きでいろいろとやっていたから、自分でも数知れないくらい出かけていった。そして、必然的に知ることになった地名である。
その場所に、京極夏彦は、屍を捨てる場面から始めるのである。これはこれは。かなりの衝撃である。嵯峨天皇の后であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)様がこの帷子辻にはからんでくる。世にいう檀林皇后様が身罷られた時に、死してなおご自分の亡骸は、弔いもせず、埋めもせず、辻にうち捨て野にさらせと言いのこされた方でもあると伝えられている。
万物は縷々変化して、とどまることなく、人生も人体もただ虚しきものということ、永遠などというものもないということを示しておられるというのだ。
世にも類い無き麗人であった皇后が、骸を野ざらしにせよ、雨ざらしとせよと言われるのである。亡骸が腐って、朽ちてゆく様を、あるいは禽獣に喰われていく様でもって、色香に迷っている者ども(私のようなモノだ)を、導き救われたというのである。
それが帷子辻であるというのである。
つまり、それが九相図を材料に描かれているのだ。
これは私の学位請求論文になる予定であったゴミ論文のテーマでもあったから、かなりおもしろい材料である。そして、九相図を資料としてこれほど見事に小説に仕立てあげた京極夏彦の力量に感服した。
ちなみに九相図とは、ウキに以下のように書かれているから引用してみよう。
九相図(九想図、くそうず)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。
名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれる。九つの死体図の前に、生前の姿を加えて十の場面を描くものもある。九相図の場面は作品ごとに異なり、九相観を説いている経典でも一定ではない。『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。
脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区やアフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも唐や南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。
仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后や小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる。
どうであろうか。
私はこれをいつも見て、戒めとしている。だから、奇人変人と言われるのかもしれない。しかしである。こいつは真理である。一休さんも同じことを言われている。いつまでも生きていると思うなよ、いつ死ぬかわからないのが人間ですよと。
まさに戒めである。
これくらいショックな戒めはない。
浮かれて、その日暮らしをしていて、働く事もせず、楽しい楽しいと酒池肉林の日々を送っていてもいいのかという戒めになるからである。
どうかすると私は、そっちの方に活路を求めてしまうからである。どうしても浮かれている方が楽だからだ。その日その日だけ生きていられればいいとか、あるいは酒に溺れ、美女に溺れ、バカバカしい生活を送っているほうが楽しいからである。
そのうちには、浦島太郎ではないが、竜宮城から帰ってきたら、もう後は老いと死しか待っていないっていう寸法である。
ナンという空虚な人生ではないか。
現役時代には考えもつかなかった思いである。
なんでか。
それは生きていることが永遠に続くという前提のもとに働いていたからである。誰だって、自分の会社が綺麗さっぱり無くなってしまうとか、職業も含めて、自分のやっていることが一過性のものでしかなかった、ということを知ることは寂しいもんであろう。
それこそ空虚というものである。
しかし、真理である。みんな消えて無くなってしまうからである。死んだら。
「巷説 百物語」は、古本店で108円で売っている。九相図を思い出しながら、人生を考えるのには好材料である。
今日は、大雨である。そして、夜、塾もある。塾では今日書いたようなことは言わない。若者にはこれからの人生おおいに羽ばたいて欲しいからである。言わずが華である。ただのジイジの戯れ言でしかないからだ。
さ、これから塾の教材研究と、専門学校の仕事をする。いろいろあるんで。午後はgymに行くけど。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ""""
京極夏彦センセの本を眺めて、別段、ノートにとって「研究」して「大論文」にしあげようとして読んでいるのではない(アタリメェだけど)
巷説百物語 (角川文庫) 文庫 – 2003/6 京極 夏彦 (著) 角川文庫
この小説をトイレや風呂の中で読んでいるが(その程度の本だから)、ファンタジーである。まったくの楽しい・愉快なファンタジー・・・と書いてみて、あっと思った。伝承・口承文学もそうだったのだ、と(ついでに言えば、村上春樹も)。オレのやってきたこともまたそうじゃなかったのではないのかということも。また現代文学も。真っ赤なウソ話であるからだ。
こんなことをやっていたら、確かに生産性はない。だから、文科省から文学部廃止を通達されるのであろう。生産性がないからだ。カネにはならないからだ。せいぜい、老人の手慰みでしかないと言われれば肯定せざるを得ない。
理科系の学部がもてはやされるのはわかるような気がする。しかし、時代の変遷と密接につながっていることも、また否定できない。つまり流行廃りということである。
看護学部が彼方此方で出来ているが、これも需要と供給のバランスが崩れたら経営破綻を来す私立大学が出てくるだろう。薬学部もそうだ。微妙なバランスの上に成立している。そういう意味では時代の流行廃りという要素から影響を受けるということは否定できないことである。
理科系ではないが、法科大学院もそうだ。需要と供給の微妙なバランスの上でもって成り立っている。最近の法科大学院の廃校・学生募集停止は非常に関心があった。なぜこうなったのかということである。完全に司法試験制度の側からのある種の意向がこの法科大学院の存続を決定している。もしかしたら、もしかして業界団体の意向も影響しているのだろう。そう思わざるを得ない。
さらにある種の思いつきでもって、政策決定がなされているのではないのかとも思った。政策決定の評価(総括とも言う)が無いからだ。さらにアカウンタビリティがなされていない。政策のである。政策の「評価」に関する当局自体のものがどこにも出てこない。幾多の教育改革と一緒である。国民の税金を投入しているのが財政政策である。つまり、財政主導でもって、教育の政策決定がなされている以上、政策に関するアカウンタビリティは重要である。そう思うのだが、なかなかお目にかかることがない。
ま、これ以上は書かない。理系学部と言っても、旧制帝大系のような本格的な学問をやっている大学は安泰であろう。なぜなら、カネを念頭に置いていないからだ。もしかしたら、就職もアタマの中に無いのかもしれない。
そういう世間離れしたのが、本格的な学問志向の大学である。だから魅力的なのだ。そう思う。私立大学でも、流行に乗っていない伝統大学の方が本格志向であろうと感じる。文科省の先日の国立大学から人文科学系学部再編通知というのは、そういうことであろう。
さらに旧制師範学校や専門学校を新制大学にしたのが戦後の学制改革であるが、それも見直ししようというのが透けて見える。これをやるとすると、専門職大学院なんて吹っ飛んでしまう。そういう魂胆があるというのは、田舎教師をしていた私でもわかるくらいに単純な話の展開である。ご自分の教育改革政策の評価無しのまま、またまたこういう展開がなされてきたからびっくりしているのである。
大学の評価とか、就職率というのが大事なのはよくわかっている。なにしろ高校側にいたからである。つまり送り手の側にいたからである。これは若い高校生には慎重に対処してあげないといけない。
当たり前である。これから長い人生を送って行かなくちゃならないからである。
しかし、今、田舎に住んでいるタダの生涯学習者となってからは、そういう世間的な評価とか、就職率とかアタシャもう関係がないから、関心もない。どうでもいいような話である。でも、これから学者センセや研究者、あるいは就職して活躍していきたい、世間に雄飛していきたいと思っている方々には真剣な問題であろう。
これはこれで真剣に考えてあげないといかん。若い人々の将来をおちょくってはならない。
アレレ・・・・
冒頭に揚げた京極夏彦センセからずいぶん脱線してしまった。
なんでこうなったのかね?
いつもそうか。脱線ばかりしてきた人生だったからなぁ~。
書きたかったことは、妖怪とか怪談話のことである。この京極夏彦センセの文庫本は、真っ赤なウソ話ではあるけれど私のような一般大衆が、どのようにして妖怪とか怪談民話を受け入れてきたかということがよくわかるから買ったのである。実に楽しい。
しかも108円であった。
別にこの本を見て、ノートにとって、なにかを暗記しようとしたのではない。そんな価値はない。ただのファンタジーでしかない。真っ赤なウソ話であるからだ。別段、ノートにとって「研究」して「大論文」にしあげようとして読んでいるのではない。
簡単である。
ただ楽しむためにやりたいというだけである。退屈しないという理由だけで読んでいるだけだからだ。これを持ってトイレや風呂の中でニヤニヤ笑いながら、あるいはフンフンと読んでいると時間がたつのが実に快適であるからだ。フンフンと読んでいると、うんうんとなって、トイレも快適になる(笑)。バカみたいな話である。もっともバカだから、こんな小説を選んで読む。そして読んだら捨ててしまう。古本店には売らない。なんでか。
どの頁を見ても、折ってある。さらに書き込みもある。トイレや、風呂の中で読んでいたのだ。売ってはならない。引き取りもしてくれない。
ゴミとして捨てるしかない。読書ノート、あるいはカードには書き込まれるが。
そういう運命である。
ある意味、アタシと一緒ですな。捨てられる運命。
そういうことである。そういうこと。
さ、今日は夜に塾がある。それまで教材研究だよ~ん。暇だし。やることないし。
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Amazonの本紹介から引用↓
ほとんどの人は死を前にすると後悔するという
では、人生の最期を前に、どのようなことに後悔するのか。
本書は、終末期医療の専門家である著者が、
1000人を越す患者たちの吐露した「やり残したこと」を25に集約して紹介。
儚くも、切ない思いが行間から滲み出てくるようで胸が締め付けられます。
例外なく、死はすべての人に訪れます。
だからこそ、1人でも多くの人に後悔の少ない人生を送ってほしい。
心の苦痛を訴える末期患者と、正面から向き合ってきた著者が
綴った切実なメッセージが心に響く1冊です。
死ぬときに後悔すること25
1たばこを止めなかったこと
2感情に振り回された一生を過ごしたこと
3遺産をどうするか決めなかったこと
4故郷に帰らなかったこと
5仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
6会いたい人に会っておかなかったこと
7結婚しなかったこと
・・・など
これは修士を取得した大学院でもって教えていただいた老年学、死生学と同じ問題を扱っている本である。じつは、こちらの方が私には切実な問題である。
なぜか?
それは実に明白なことである。そうなのだ。もうそんなに私には時間が残されていないからである。いつ死ぬかわからないし、それに一度死にかけたからだ。去年の十一月に。それでもって、大学院博士後期課程も断念した。あのままやっていたら、もう死んでいたからだ。
カナダにもアメリカにも行けなかっただろうし、日本国内の温泉にも二度と行けなかったであろうから。
幸い生き残ることができた。
だから、こんなふうに駄文を書いて、あるいは古本チェーンで買ってきたこの本を読んでいることができるのである。この本も昨日古本チェーンから買った。なんとこっちも108円。しかも入り口のドアの脇に投げ捨てられていた(簡単な台の上にはあったけど)。格安本であった。かわいそうになったから買ってみたのである。
良かった。買って良かった。そういえばこの著者のdoctorは、修士論文の時の参考文献欄に登場してくるdoctorであったから、余計買いたくなったからである。さらに、この本は読んだ事がなかったからでもある。修士の時代に興味関心があったことを思い出してしまった。
故に、感謝している。
「ありがとう」である。
著者にも、家族にも、周囲の方々すべてに感謝である。
それに後悔してばかりもいられない。
そんなに時間を経なくても人間誰でも死ぬからである。
生老病死である。生きているものは、必ず老いて、病気になり、死んで消滅しなくてはならないからである。そして、どうせ誰でも消滅するんだったら、後悔しないで生きていきたいからである。当たり前である。だからむろん生きるという側に私はスタンスを置いている。死ぬ事は簡単らしい。一度死にかけたからよーくわかる。だったら、思い切って大いに楽しんで生きることである。誰でも死ぬのだから、生きているうちが花である。
この本には、老年の恋愛とか、そういうことにも話題が及んでいる。まったく同感である。
なにも遠慮して、世の中の隅っこでイジイジと生きている必要もない。正々堂々とジジイはジジイらしく生きていればいいのだ。遠慮は無用!
誰も注目してくれないのだから、気兼ねもする必要が無い。
ま、他人に迷惑をかけない程度にではあるが。
?
今更恋愛?
違う、違う。
そういうことはあり得ない。そんなことを言っているのではない。イキイキと生きていきたいということを書いているのである。それにおバカキャラというのが、ワシは苦手である。なぜか。ワシもおバカであるからだ。変わりもんだし。バカが、バカを相手にしていたら地球環境に悪い。似たモン同士は接近しない方がよろしい。すべてが無駄である。わはははっはははっはははっはは。
それでは、今日はずいぶんたくさんの記事を書いてしまったから、このあたりで。
サラバです。
(^_^)ノ""""
今日は高校野球を楽しみに午後まで、この作品に出てくる5歳児たちのように「お勉強っ!」である(^0^)。
Gymでバイクという自転車こぎをしていた。高校野球の早実が敗退したから、完全にやることが無くなったので早めにGymに行った。で、Gymでも毎日同じようなメニューなのだ。飽きてきている。完全に。それで、インストラクターに相談してメニューだけちょっと作りかえてもらった。初級コースを卒業したかったからというのもある。
利用者一人一人が病院のカルテみたいなものを持たされているのである。そのカルテみたいな紙に、トレーニング内容が書いてある。殆どカタカナで書いてある。だからよくわからないのだ。男性インストラクターなら気軽に聞くことができた。しかし、これを作成してくれたのは美貌の若い女性インストラクターである。気後れがしてしまう(^0^)。きゃぁ~セクハラと言われてしまったらどうしようもない。だから、黙っているのである。
ま、そんなことはどうでもいい。
問題は自転車こぎならぬバイクでこれまた退屈だから、東野圭吾という作家を読みながらやっていたのである。Gymに置いてあるのだ。これでもって、毎日完全に30分以上は読書時間を確保していることになる。いいもんである。
ところがだ。実に楽しい作品にでくわした。「毒笑小説」という文庫本である。その中の「誘拐天国」という短編であった。
抱腹絶倒。
内容は、財閥で大金持ちの福富が主人公。我が人生に不可能はないと、まるでナポレオン並みの大富豪。ところが、思うに任せないのが孫。財閥の後継者である自分の長女が教育ママゴンで、なにかとジイジから遠ざける。孫を。しかも、5歳だ。でも、孫と沢山遊びたいけれどできない。さらに、教育熱心な娘夫婦が、孫を塾や家庭教師、お稽古ごと漬けにしているので遊ぶ暇がない。人生最大の悩みが、孫と遊ぶことができないというところからスタートしていく。
そして、それを聞いた麻雀仲間の老人2人(これまた大富豪)と孫を誘拐して遊ぶ時間を作る。その誘拐の仕方のスケールが凄い。デタラメと言ってもこれくらいデタラメをやるとかえっておもしろくなってしまう。真っ赤な嘘話である。見事なものである。
県警本部長もタメ口で罵倒するし(どっかで会っているらしい)、ともかく破天荒なのだ。
海外の豪華な遊園地に連れて行き、お友達が遊びを我慢して勉強をしているのを気にして遊べない孫の為にお友達を19人も誘拐してしまう。普通の誘拐に見えるように身代金を要求し、そのお金の入手方法も凄い。遊園地で自由に遊ぶように言っても指図をされないと遊べない子供達も、3日目には子供本来の姿になって遊びだす。
このあたりが、実に諧謔に満ち満ちている。
そして結末が、まったく予想外。ホームシックの子供も現れ、家に帰す事にして、家に帰ったらまず最初にしたいことを聞いたら、子供達は声を揃えて 「お勉強っ」と言ったのだ。
わはははっははははっはははっははっははははである。
バカバカしいけど、これくらい徹底して諧謔をやられると、なんだかスカッとする。教育ママゴンに対してである。あるいは、地位や名誉でもって、それだけで生きがいにしている世の中のお偉いさんたちへのすばらしい嫌味であるからだ。
さらに、指示待ち族というか、そういうサラリーマンの多い世の中にあって、どういうふうに育てられてきたのかということへの諧謔でもある。
東野圭吾という作家は初めて読んだ。売れているのは知っていた。売り上げランク表になんども出てくるからである。
Gymでひょんなことから初めて読んだ。
そしたらおもしろかった。それで、Gymの帰りにまたまた古本チェーンに寄ったのである。探してみた。108円コーナーで。あった。何冊もあった。だから速攻で買った。三冊である。それが限度である。カネもないが、もし他の作品がつまらなかったらしょうがないからだ。「毒笑小説」「怪笑小説」「黒笑小説」の三冊である。
さっそくお風呂で、トイレで読むことにした。が、中国語講座があるから、昨日の夜は読んでいない。今朝からチャレンジするつもりである。現在7:43であるから、まさか今から風呂に入っていたら、それこそ古女房ドノに追い出されてしまう。だから、一応リビングで勉強しているフリをして読むことにする。
あ、今日から塾もある。塾の予習もしておかんと。センター試験の対策法というのをちょっとやってあげるつもりだから。国語と英語を。数学は無理だが。
ま、これもおおいに矛盾しているけどねぇ~。階級制と教育改革の矛盾なんて、ワシには言えそうもない。さらに論文という名の駄文にも書いちゃいけねぇ、いけねぇ。塾に片足つっこんでいるからである。
惚け防止のために塾にも行っているだけであるから。いいんだ、いいんだ。エラそうに、教育改革の是非について論じるなんて、ワシにはできそうもないからだが。それに学者でもなんでもないしなぁ。
ただのジイジである。孫二人いる。ただし、こっちの孫は、ジイジとおおいに遊んでくれる。私の娘もまったく教育ママゴンではない。むしろ放任主義で、逆にこっちが心配になるくらいである。大丈夫かい?って。そういう娘を育てたのも、ワシたちジジババである。仕方ないか。
しかし、笑える小説っていいな。
気が楽になる。
学位や地位や名誉が欲しくて基地外になるよりは、ずっといい。所詮庶民であるから。
笑って過ごすことである。肝心なことは。
わはははっははっはははっははっははっはは、とね。
それでは今日は高校野球を楽しみに午後まで、「お勉強っ!」である。「誘拐天国」の子どもたちとかわらんなぁ、これでは。
(^_^)ノ””””
折口信夫全集と同じ棚にデ~ンとある「柳田國男全集」である。私の書庫にある。
こっちも折口信夫全集と一緒で、全部で7000円で神田神保町から買ったものである。全巻である。全巻そろってこの値段である。退学した大学院に通学していたときに、紀尾井町キャンパスで平家物語の講演があった時の帰りである。ゼミで、先生に7000円で売っていましたと報告申し上げたら、なんで購入してこなかったのかとやさしくご指導いただいたから早速次の日に神田東陽堂書店に電話して着払いで送ってもらった全集である。
懐かしい。
これまた民俗学のbibleである。
これまで、文庫本の全集とかは読んできたが、全集そのものはとうてい買えないと思っていた。いたから諦めていたのである。しかし、これもまた買えたのである。折口信夫と一緒である。
こういうことの積み重ねが、余生を決定する。
暇なジイジであるが、時間をもてあますということはないだろうから。
で、思ったことは、サブノートをとらないで、本に直接メモなり、マーカーでもって本を読破していこうと思っているのである。(もうやっているけど・・・センター試験の過去問集みたいにバラバラにはしていないが)
まさに「読破」である。読んで、破り捨てるようにチャレンジしていくつもりである。
民俗学も素人である。
だから、こっちもこれまでやってきたように「繰り返し学習」である。かつて読んだ文章も、またまた読んでいく。それが一番いい。新たな発見があるかもしれないではないか。
年取ったから、もういいやではないのである。
さらに、アタシャ、なにをやっても素人だからできる。完成していないからである。誰にも教えることもできない。そのチカラがない。まったくない。嫌になっちゃうほどない。なにしろ大学院を三年で中退せざるを得なかったバカである。健康問題、学業劣等ということで。逆に言えば、だからできるのだろうなぁと思う。自分に愛想がつきているからだ。これほどバカだったとは、現役時代には考えてもみなかったよ~ん。まったく、まったく。
おめでたいバカジイジである。
お笑いくださいませ。
(^0^)
(自分で笑ってどうするんじゃ・・・・・トホホ)
古文研究法 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2015/2/9
驚いた。4:56、Amazonのサイトに行ったら、十五歳以来愛読している学参が文庫本になって売っていた。これはこれは。びっくりした。
こいつは、中学校を卒業したときに、やっとすっとこ入学した母校(高校)の必須参考書であった。全員買わされたのである。入学式の直後にこれから試験があって、エライ高校に入ってしもうーたと思ったっけ。吾以外全部秀才であったからである。事実、そうだったからである。ついていくのが容易ではなかったからだ。吾以外は、出世していったし、成功者が実に多いからである。繰り返す。「吾以外」は、である(^0^)。
この小西甚一センセの本があったからこそ、その後四〇年近くにわたるナガ~イ国語教育人として実践する支えになったのである。それでもって生きることができた。だからとても感謝している。それにぼろぼろになるほど、繰り返して読んできた。何度も買い換えてきた。今も私の書庫にある。あるどころか、塾にも持っていっている。いつでも読めるようにである。
こんなアタシでも、それくらいの準備はしているからだ。
それにつけても、こういう基礎的な知識というのは重要である。
専門外の英語・数学も塾では担当するから、余計にそういうことを感じる。
数学はさすがに大学レベルのはできない。高校受験までである。しかし、英語はそうも言ってられない。しかも、もう四年目に入っている。だからそれなりに自学自習していないとアカン。
だからかえって楽しみになってきた。
生涯学習の効果であると思っている。
楽しみで英語もできるってぇことがいい。それに趣味で行っている海外旅行にも役にたつ。こんなにいいことはない。本当に。度胸があれば、英語はなんとか通じるもんであるからだ。特に幼児に語りかけると実にいい。 発音が明瞭であるし、こっちはジイジであるから、幼児の扱いは慣れたもんじゃ。
ゆっくりしゃべってくれるし。実力に応じて。わはははっははははっははである。
コツは、「笑顔」である。笑顔で接すれば、幼児も、そのママたちも相手にしてくれる。
それに私は、スキンヘッドである。こいつも重要だ。逃げも隠れもしないという態度が丸見えである。下手に隠そうとするから、警戒される。
私の場合、隠したくても隠しようがないから安心である。隠しても無駄なものは無駄。隠すものが生えていないのじゃ(^0^)。
そういう意味では素直である。
ハゲのことを自虐的に言うと、笑われるが、まったく気にしない。私は。そういう心境になったのは、ジイジになったからである。村上春樹のようなどっかで異性にモテテみたいというようなスケベ根性といったもんがない。異常な女性遍歴をまったく考えていないからであろう。もっとも今更無理であるがねぇ。それに、漱石のような高尚さもない。アタシには。当然ない。
だから両者ともに、小説の主人公にスキンヘッドは似合わない。ファンからしたら当然であろう。ハルキストも漱石のファンも許しがたいジイジであろう。私なんか。
今更、関係がないけど。
そういうのが好きな方々と会うこともなくなったし。機会がまったくない。議論もできなくなった。そういう意味で通学できる大学というのがあったら、これはおおいに活用させていただくべきである。学生としてである。同じ学問をさせていただいているんだから、議論も積極的にすべきである。相互の勉強になるからだ。
退学した大学院での勉強はそういう意味で懐かしい。もう二度とできない体験であったからである。感謝している。先生にもクラスメイトたちにも。こんなバカジイジ院生の通学を許可していただいただけでも、稀有の大学院であったからだ。学業劣等だったのが、残念でたまらなかったが。もう二度とお会いすることもないだろうし、世の中や人生万般会うは別れの始めであるからである。
だから一期一会というのである。大切にすべきことである。
日本の中世文学には諸行無常というか、別離の儚さというか、そういう宗教的なことが、文学を通して語られている。だから好きなのである。中世文学が。
よくわかっていないのだけれどもねぇ~。
いくら読んでも歯が立たない。
だから「繰り返して学ぶ」しかない。
あらすじだけ追っていてもそんなもんは話にならない。
よくいるではないか。受験国語のように、一回読めばわかっちまうからそれで完了。終わり。もういいやっていう輩。
アタシャそういう輩にだけはなりたくねぇのだ。
そんな一遍読んだからってわかるような優秀なアタマを持っていないからだよ~ん。
所詮、鈍才。バカ丸出しである。そもそも一介の田舎教師であったし。田山花袋のようなことはやらなかったケド。
塾でも気がついたことがある。
それは英語。
英語の大学受験用の問題集を解いていて、それでもって満足してしまうタイプの高校生。それなりの進学校に行っているから余計そうなんだろうけど、一度解いたらそれっきりというタイプの高校生。
そりゃアカンといつも言っているんで。
余計なことかもしれんけど。
やっぱり「繰り返し」で勉強するしかないということを思っているし、実践してきたし、しつこいほど生徒たちには言っている。
それがジイジの遺言でもあるからだ。
特に、塾の高校生たちはこれから大いに伸びて行かなくちゃならん若者である。
普通に育って、普通に社会貢献をしてほしい。そう思っているからである。
文学の世界にのめり込んだりしないほうがよろしい。蟻地獄になっちまう。異常な世界で自己満足していて、それがなんになるのだとマジに思っているからである。
そういう意味で、村上春樹とか夏目漱石というのは反面教師になるということである。
今日も暑いのだろなぁ~。
仕方ないか。
それでも元気にやっていきまひょ。
お互いに。
日曜日だからといって遊んでいたら話になりませんぜ。
もっともこりゃオレに言っているんですが。大笑いですがねぇ~。
(^_^)ノ””””