と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

村上春樹の英語バージョンがNHKから出ているから

2015年07月24日 09時26分51秒 | やさしい本の話

村上春樹の文体は、まったくもって英語そのものだし。塾でも高校生に勧めているし。一緒に昨日から読みはじめているし

 

 

ここのところ旅行記ばかり書いていたので、少々飽きた。それに六日目は単なる移動日。セドナからトロントに行くだけ。定番のナイアガラの滝を見るためだ。

したがって、また駄文書きを復活する(もともと全部駄文書きですが・・・トホホ)。

こうやって駄文の垂れ流しをしているから、惚け防止になるっちゅうもんだ。そうなのだ。惚けないためにやっているだけの拙ブログである。だからなにか主張したい、読む方に訴えたいというのもなんにもない。言わば、無目的である。時間つぶし。やることがないから、ダラダラと打鍵をしているだけだ。

こういう爺にならんようにという悪い見本だ。

しかし、バイトだけはきちんとやっている。ささやかだけど、小遣いをいただいている。それはそれなりにやらないと責任も生じるから、私なりにやっている。むしろ自画自賛ではないが、かなり充実した経験を塾の生徒や大学生さんたちはしたのではないだろうか。

昨日は、非常勤講師をさせていただいている某大学で、前期最後の授業をやってきた。あとは、8月に試験をやってこれにて終わり。試験監督はむろん私である。だからもう一回だけ大学には行く。授業アンケートをやってきたが、そんなことより何を印象づけられたかである。昨日の授業の後半は、学生さんに一問一答形式でもって、問題を出して黒板の前で書かせた。まとめのつもりである。楽しく時間を過ごした。

今年の学生さんもなかなか頼もしい学生さんであった。普通の大学では味わえないおもしろい授業であったらしいから、今後の奮闘を祈るってなわけで締めくくった。

本当に今年もいい体験になった。

さらに夜は塾に行った。

こっちも昨日は英語漬けである。塾の経営者は私に英語と数学メインでやらせる。国語専門だということは、書類で提出しているからわかっているのだろう。ま、いいか。ニーズがあるらしいから。なんと私には、「小論文の神様」というニックネームがついているらしいから。こんな私でもお役に立つだけ感謝である。こっちから、カネを払ってバイトさせていただいているようなモンである。払ってないけど。

それくらい、オノレの勉強になるのだ。塾が。マジに。

メインは、英語と数学ですぜ。専門外である。専門外だから、自分で勉強するしかない。だから、なかなか惚けない。惚けないどころか楽しい。病気になっている場合ではない。

今日もこれから塾の教材研究を始める。それがすこぶる楽しい。孫のような中学生や高校生を相手にして、いろいろと一緒に勉強をさせていただくのである。

こんなに楽しいことはない。それもささやかだが、収入まである。ありがたいこと限りなしである。時間数さえ増やせば、それなりの収入になるのだろうが、私は複数の年金もいただいているので、そんなに要らない。それにもう爺になって、買いたいものもない。お化粧もしない(当たり前だな)。着るモノも頓着しない。別にTシャツ一枚でどこへでも行ける。人前に出ることもなくなったから、別に気にしない。大学の授業の時だけは、せめてブレザーくらいは着るが。それに靴も履く。靴下もだ。当たり前である。

昨日、最後の授業だからというワケでお世話になっている教授の方々にご挨拶をしてきた。それで、いろいろ宿題をいただいた。新たな学会に入ることになった。ある意味、教育が専門だから、ちょっとこれまでとは違った学会だ。そこでまたチャレンジをしてみることにした。学会を支えている出版社の編集者が仲立ちをしてくださったから、入会の許可をいただいた。それで今日これから振り込みをしてくる。ありがたいものだ。

徐々にではあるが、またまたチャレンジする意欲がわいてきた。この3年間は、どうしても学位が欲しかったから、狭い専門分野に閉じこもっていた。そして成果を出そうと焦っていた。

焦るとろくなことはないという見本であった。

カナダ・アメリカに行って、人生観が変わったなぁ~と思う。せせこましいことしかやっていなかったのだなとしみじみ感じてきた。あの大自然に比べたら、私のやっていたこと、やってきたことなんかただのカスでしかない。人間のしたことなんて、大自然と比較したら、蟻の小便みたいなもんだ。その小便している蟻が、焦っていたのだ。なにをやっていたのだろうと思う。実にバカバカしいことばかりやっていたのだ。

こんなくだらないことに、還暦を過ぎてまで気がつかなかったというのだから、本格的にバカである。

ここまでバカだったとはねぇ~。

だから、これまでも好きなように生きてきたけど、これからも好きなように生きていくつもりである。

それしかないんだもん、やることが。

草の枕を旅の友にして、思いついたら旅行に行くだけである。

そして生涯学習である。惚け防止のためである。

そして二時間に一回は、ちょっとだけ運動をする。それでないと、死んじまう。

今日もGymには行くけどね。

Gymでシャワーをあびてから、塾に行くようにしているから。

まさか日中暑い中を外でwalkingするつもりはないので。

 

さ、今日も元気でやりましょう。あ、村上春樹の英語バージョンがNHKから出ているから、それをちょっとだけリビングで読むけど。村上春樹の文体は、まったくもって英語そのものだし。塾でも高校生に勧めているし。一緒に昨日から読みはじめているし。

じゃぁねぇ・・・!

 

(^_^)ノ””””

 

 

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入浴用文庫本で知ったこと

2015年04月19日 08時22分11秒 | やさしい本の話

Kindleとpcの両方で読むことができるようになってきたのだなぁ~。ありがたいこと限りなし。

 

 

AmazonのKindleを尊敬する養老孟司センセもご利用されていることを、昨日、風呂の中で知った。そうなのである。入浴用の文庫本である(図書館から借りてきた本はこういうことはやりませんです)。耐水性の文庫本ではない。ただの文庫本である。だから、濡れると最悪である。濡れるとしょうがないから、最大限注意して入っているが、これが楽しみで止められないのだ。昔からそうである。

書名は、「養老孟司の大言論Ⅰ 希望とは自分が変わること」という新潮文庫である。一昨日買ってきた。古本ではない。新本である。珍しく。読みたかったから、読んだ。読みたければ、たとえ火の中・水の中でも読みたくなる。風呂は貴重な読書タイムでもある。だから、私の家の浴室は照明が明るい。明るいついでに、壁がナントナント、ピンク色である。みんな明るい。私のアタマのようだよん。笑ってしまうのだけれども。

その入浴用文庫本に書いてあったのだ。ファンタジーが多いとのことである。養老孟司センセは。

なるほど、ファンタジーならさもありなん。

Kindleで読むと、書庫のスペースを占領しない。これは助かる。ドンドン膨張していってとどまることが無いからである。迷惑だと、古女房ドノに嫌味を言われてしまうからだ。ところが、Kindleだと、わからない。数が増えているのが。これは隠れた喜びである。お釈迦様でも気がつくめぇ・・である。この場合は、古女房ドノでも気がつくめぇである。

もっとも、古女房ドノは、私が何をやっているのか、ゴミ論文を書いても書いても、一回も見たことがない。見ようともしない。さらに研究誌とか、冊子とか、教育雑誌に私の名前が出てもムシである。見ると目が腐るとでも思っているらしい。ただの道楽でしかないと堂々とのたもう。死んだら、棺桶に入れてくれるそうだけど。それだけでもありがてぇのか。トホホである。

私のKindleも数が多い。あの小さなKindleの中にどれだけ入っているか、考えたこともなかった。

事実、何冊あるか分からなかったのだが、これまたAmazonから無料のpc用のソフトがダウンロードできるということで、実は昨日試してみた。そしたら、なんと爺の私でもできたのである。できたから、インストールしてKindleとpcの両方で読むことにした。こいつはありがたい。実にありがたい。

そして、Kindleの冊数もわかった。200冊を超えていた。著作権のなくなった本は、無料でKindleに置いておけるから、便利である。漱石も、子規も、鴎外もある。太宰もある。中島敦もある。折口信夫もある。語学のもある。影印本まである。かなりある。マジである。

これがKindleだけでなくて、pcでも読めるとなると、実にいい。便利である。さらに画面が大きいからだ。

昨日の晩から、pcで読みはじめた。そして、大きいからノートにとるのにも実にいい。

入浴の効用である。身体も顔もおかげで綺麗になったのだ。綺麗なことは、いいことだ。爺でもそうである。爺だからこそ、綺麗にしておかないといけないですなぁ~。臭い、キタナイ、みっともないでは、世間に害悪をもたらしているばかりだ。それではあまりにも申し訳ないからだ。また拙ブログ経由で、批判のメールをいただいてしまうからだ。そんなことはどうでもいいことだが。自分勝手に書いているだけであるから。(^-^)/

しかし、養老孟司センセと一緒に風呂に入っているのでは、さまにならないが。逆に叱られたりして。そんなところで読まないでくれ!って。まともに読めよ!って。

ま、いいか。ファンなんだから。新本まで買って読みたいのだから。私のようなボンビー爺にはなかなか珍しいことであるからである。

明日は、千葉市に出ていく。

午前中10時に郷土史の会の会議がある。だから行く。研究誌の編集会議である。そっちはそっちで真面目にやってくる。なんと言っても、相手がみんなプロの研究者である。だからそういう時は顔つきが変わる。私のようなモンでもだ。

それはそれでいい。

楽しみにしていることがある。それは千葉市の古書店巡りができるということである。クルマで行く。クルマだから、何冊買ってもOKである。細くなった腕でも運搬できる。「細腕繁盛記」である。(あ、こんな番組もう誰も知らねぇか)

普段、ぼ~っとして太平洋ばかり見ているから、たまには大都会の古書店を冷やかして歩くのもいい。くさった「脳みそ」のためにもいい。

なぜなら、私は専門性に乏しいからである。

能力というのは、深く狭く、高次のレヴェルで開発される場合が多いだろう。学者センセとか研究者というのは、まさにこちらのチャンピオンである。しかし、浅く広く学んでいるというのも、ケースとしてはある。どっちがいいというのではない。自己満足であるからだ。

さらに、活字メディアでは垂直的思考(物事を深く掘り下げて考察する)、映像メディアでは水平的思考(多様な事象を関連付けて考える)がはぐくまれるという。

納得である。納得。

もっとも、生活の手段として学んでいる方々はそれなりに真剣であろう。当然である。生きるための学問であり、成果であろうから。そのおかげでもって、私のような呆け爺は助かるのである。大変に。

感謝感激雨あられである。

 

 

 

今日も、そろそろ字数が2000字を超えてきた。

これくらいにしまひょ。

朝の文章トレーニングは。

でないと、またビョーキになっちまうから。

 

じゃぁ~!

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

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「動かない」と人は病む

2015年03月25日 09時27分30秒 | やさしい本の話

私の場合は「安静」にしている必要は無い

 

 

下記の本がAmazonから来た。

 

「『動かない』と人は病む――生活不活発病とは何か 」(講談社現代新書) 新書 – 2013/5/17 大川 弥生 (著)

Amazonの解説には以下のとおり書かれている。

>「動かない」から「動けない」。高齢化時代の新しい常識! 誰の身にも起こりうる病気を徹底解明「体がだるくてボーっとする」「なかなか病気が治らない」のは年のせい? 定年後に元気がなくなってしまうのはなぜ?

>実は「動かない」だけでかかる生活不活発病という病気があります。これは誰にでも起こる可能性があり、またうっかりしていると寝たきりにまでなりかねない怖い病気です。

>年を重ねてもいきいきと充実した生活を送るために知っておきたいことを、生活不活発病を中心に介護の専門家がやさしくかたります。

 

以上である。

以上ではあるが、なかなかの本である。プライム便という超特急便である。郵政のメール便であった。自宅に来たのは、昨日の夕方6時頃である。朝注文して、その日の夕方には来たから実にありがたい。それから、押し戴くように読み始めた。もっとも、昨日は塾のバイトがあった。だから、途中まで読んで中断した。そして、塾から帰ってきてから、風呂の中、さらに書庫のボロ机で読み始めた。おもしろくてやめられない。結果、真夜中を過ぎてしまった。だから、今朝は寝坊した。起きられなかった。

起きられないほどムチュウになったのは、自分なりの理由がある。もしかして、動かないことによって、生きていきたいという気力みたいなものまで、奪われてしまうのではないかと密かに思っていたからだ。だから読み続けたのである。

去年の入院騒ぎでICUまで入れていただいたから、このままICUにいたら死んじまうと感じていた。ICUのベッドである。意識ははっきりしていたし、その日の午前中に足がむくんでいるからといって外来の内科に行って診察していただいただけの患者である。病気になっているという自覚が全く無い。全く無いから、エラク驚いてしまったのだ。ドクターの方が深刻そうにしていた。全部で五人のドクターが私の周囲にいて、説得してくださった。どんなに私が危険な状態にあるかということをである。その日は、夜、ちびっ子柔道教室に行こうと思っていたから、そのことも申し上げた。そしたら叱られた叱られた。柔道なんかやっちゃいけないと言われる。後日、この病気について、自分なりに調べたら、まさにドクターの言われるとおりである。

この大川先生の御著書では、老年のご婦人から料理や家事、洗濯等々を奪ってはならないとも書かれている(私はそう感じた)。配偶者が亡くなって、一人きりの生活になり、大都会で暮らしている長男夫婦からの誘いで、同居を始めたご婦人のことである。長男の嫁さんが、同居した姑に気を遣ってなにもしなくていいからというstyleで生活をしていたのだそうな。そしたら、だんだんと具合が悪くなってしまった。それまでは田舎暮らしをしていたから、田舎のスーパーに買い物も行ったし、友人知人も多い。さらに、趣味の卓球もしておられた。それらが大都会に住むことによってすべて奪われてしまったのである。足が悪くなってしまった。

それがある機会でもって改善した。孫娘が大学進学をして、長男夫婦とご婦人との三人暮らしになったのである。ある機会というのは、孫娘が夏休みでもって帰ってきたときに、おしゃれな杖をプレゼントしてくれたというのである。それをきっかけに、外に出るようになった。孫娘と一緒に、デパートに行ったり、美術館に行ったりと外に出る機会が増えた。どんどん生活が改善していったというのである。

つまり、生活不活発病からの改善である。生活そのものを改善したという事例である。

この事例ばかりではない。他にもいろいろ書いてある。是非大川弥生先生の本を買って読んでいただきたい。あまり拙ブログで紹介していると著作権違反になるだろうから、これくらいにする。

それでも、私にはいろいろとショックな本である。全部当てはまるからである。

運動といっても、私の場合は短期的にパワーを出して、それでもって運動になったというstyleであった。柔道が良い例である。つまり無酸素運動であったのだ。140キロもあげて、ベンチプレスをやっていたが、あんなもん、なんの効果もなかった。かえって健康上良く無かったというわけである。胸筋をピクピク動かして、自慢していたバカである。

柔道とかgymでもって運動していたと勘違いしていた。そうではなかった。

運動もとり入れた生活全体の改善をすることが、私に要求されていたのである。

やっと遅まきながらそのことに気がついた。やっとである。やっと。

ゴミ論文の大量生産というのも健康に良くなかった。だから、3年まで通学した大学院を中退した。もうこれ以上やっていると、あの世に行かなくてはならんとしみじみ思ったからだ。それもさらに3年くらいはかかるというのでは、カネもモタナイ。当然、500枚書き上げた論文の訂正作業も入る。それに耐えられないだろうと判断した。気力がないのと意欲もなくなった。配偶者は最初から反対していたから、ある意味スムースに退学できた。たとえ、学位をとったとしても、今更就職もできない。自己満足でしかない。すべてがそうだったけれども。自己満足というやつである。

ま、終わってしまったことである。方法論と論文の材料だけは豊富に得ることができたから、それも自己満足している。

これからは、それなりにアマチュアとして駄文書きをしていく。塾と大学非常勤講師のバイト生活をしながらである。

古文書講座二つに所属することもできた。

四月から中国語講座も始まる。居住地の社会教育講座である。

さらに老人大学にも行く。毎週火曜日である。

母校の大学の学会にも入れていただいた。文学関係と史学関係である。こっちにも投稿をしたり、研究発表を聞きに行ったりするつもりである。

仏教心理学会は、修士をとらせていただいたもう一つの母校にある。こちらにも出かけていくつもりである。京都の龍谷大学で研究発表をさせていただいたご縁があるから、やめるつもりはない。

やはり、病気になったからといって、私の場合は「安静」にしている必要は無いようである。それよりも、「生活の改善」であり、「生活に意味を持つ」ことの方が重要である。「外部とのつながり」ということをもっともっと追求していきたい。

ただし、今更ながら、アルコールとミニスカおねーちゃんとのご縁だけはヤメタ。きっぱりとお断りである。もっともあちらから、今までもお断りを喰らっていたけどねぇ~。

もう悟ったのだ。

酒がないとクチもきけないというのでは、ホンモノの友人ではないということにである。

今更ながらである。

 

もう遅かったか・・・・・わはははっははははである。

自虐の笑いだ。

わはははっはははっはは。

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

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『撤退の研究 時機を得た戦略の転換』 

2015年03月21日 07時12分05秒 | やさしい本の話

無理な論理にしがみついていると碌なことはない

 

 

『撤退の研究 時機を得た戦略の転換』 森田松太郎・杉之尾宜生著日本経済新聞社(2007.11)なる本を、昨日市営gymからの帰りに買った。全国展開の古書チェーン店からである。108円。相変わらず、年金生活にはありがたい価格である。

目次を見ると以下のように書いてある。

 

第1章 事前に的確な見通しが必要

 軍事篇 大東亜戦争開戦前夜の戦略的混迷

 企業篇 ダイエー――拡大戦略の挫折

 

第2章 無理な論理は駄目

 軍事篇 日露戦争における卓越した戦争終末指導

 企業篇 松下電器の七転び八起き

 

第3章 決断は迅速に

 軍事篇 信長の金が崎撤退

 企業篇 日産自動車――日本的経営からの脱皮

 

第4章 事実を見る目

 軍事篇 南京で「ビスマルク的転換」は何故起こらなかったか?

 企業篇 IHI(旧石川島播磨重工業)――海から空へ

 

第5章 先見の明

 軍事篇 戦争様相を激変させた「電撃戦」

 企業篇 ノキア――勇気ある決断

 

第6章 タイミングが大切

 軍事篇 キスカ撤収作戦

 企業篇 ブラザー工業――新規事業への進出

 

第7章 臨機応変に

 軍事篇 旅順攻略の第三軍司令官乃木大将の戦場統帥

 企業篇 ニチロ――撤退と転換の繰り返し

 

第8章 隠された真実

 軍事篇 日露戦争を正しく学習できなかった帝国陸軍

 企業篇 カネボウ――真実の隠蔽

 

察しのいい方はもうお見通しであろう。

そうなのである。大学院退学とからめて、私の問題意識になっているからである。

この古本についているカバーには、「無理な論理にしがみつくな」「軍事と企業の実例から的確な情勢判断、スピーディな決断とタイミングのよい実行を学ぶ」と書いてある。まさにそのとおりである。

無理な論理にしがみついていると碌なことはない。そもそも「無理」であったという自覚がないと、路頭に迷う。その点、生涯学習者というのは厳しい。周囲に期待もへったくれもされていないからである。好きでやっているんだから、趣味である。趣味だから出世とかなんとかというのとは無関係である。

そこのところを勘違いすると、アカン。

「誤判断」というやつである。

私は、かつて株式投資をやっていて、撤退の時期を誤判断して、倒産する会社を見抜けなかったということも経験したから言っているのである。ヤオハンであった。もう二度とやらないし、やる気もない。

あの時も、撤退の勇気を持つことができなかった。だから失敗した。失敗してすべてを失った。

であるからして、私は、逃げ足だけは得意になったようである。危ない橋は渡らないことだ。

この『撤退の研究 時機を得た戦略の転換』という書籍には、大東亜戦争の「誤判断」が最初に書かれている。さらに、情勢分析の甘さというか、判断の無理が書かれている。

我が身に置き換えて考えてしまった。

大東亜戦争は、ドイツ、イギリス、アメリカの参戦態度についての情報判断の甘さがあった。そう書かれている。(かなり大ざっぱにまとめているケド)

だから未曾有の大戦争に走ってしまった。

戦争なんかやっちゃいけない。そういう基本的な認識はあっただろうに、どこかで方向を間違えてしまったのだろう。

そしてこの日経の書籍は、日経らしくダイエーの倒産のことを扱っている。ダイエーといえば、拡大に拡大を重ねてきた企業である。私は学部卒業の時期に、このスーパーマーケットの拡大戦略というのに興味があったから余計面白く読んだ。それはダイエーの経営を指導していたのは、学部時代の別の学部の教授だったからである。文学部ではない。当たり前である。

ま、懐かしい思い出である。

学部を出てから、故郷に一年ほど帰っていた。学部時代は苦学生をしていたので、教育実習をやることができなかったから、バイト生活をしながら母校の聴講生となっていたのである。通信教育である。だから、一年間はいろいろとやっていた。

その一年間でガキのころからの大親友が、地元のスーパーマーケットの社員をやっていた。そして、誘ったのである。

「教員なんかなろうと思わないで、うちの会社に入らないか?」という誘いであった。

ありがたかった。

しかし、この時だけは断った。

拘りがあった。どうしても、教員免許をとってチャレンジしたかったからである。

試験すら受けないで、最初から諦めるというのはちょっといかがなものか。

試験を受けてダメだったなら諦めることはできる。

納得できる。

試験を受けることすらできないというのでは去るしか無い。これが今回の大学院退学のもうひとつの理由でもある。もっとも、博士論文を出すための資格試験すら受験できないというのでは、それだけの低評価しかもらえていなかったということだ。不徳の致すところである。

もうこれからは好きなようにしていく。

生涯学習だって続行する。

形が違えども、というやつである。

こんなことがあってもいいのである。

人生万事塞翁が馬である。

起きたことは無意味では無い。

 

しかしである。

起きたことの正確な分析だけは誤ってはならない。分析して、その結果を大事にして、即実行である。そういうことを疎かにしていると、誤判断に陥る。

『撤退の研究 時機を得た戦略の転換』という書籍は、いいことをいろいろと教えてくれた。

これもまたご縁である。

5円ではない。

ご縁である。

結婚みたいなものである。

 

ありがたいよん。

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

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教師の話し方例話講座の紹介

2015年03月19日 11時25分22秒 | やさしい本の話

学事出版社から今年も出させていただきました。
もう連続7年くらいになります。
都合4つの原稿を掲載していただきました。
原稿料は、書籍代になります。

「文武両道」が特に私としては、力作であります。

今までの文武両道論とはひと味違った展開になっております。

(自分でいうか。。。。。トホホ)

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/