お地蔵様色々
THE 歴史列伝 奇人の天才博物学者・南方熊楠 14 09 12
01.折口信夫「日本の創意 - 源氏物語を知らぬ人々に与す」(3)
03.折口信夫「日本の創意 - 源氏物語を知らぬ人々に与す」(2)
02.折口信夫「日本の創意 - 源氏物語を知らぬ人々に与す」(1)
>落日の赤光に輝いては翳る藥師寺の新旧の兩塔を大池越しに撮影してゐるうちに、折口信
夫のこの文章が思ひ浮かび、また、同時に私にとって最も天國的な音樂である Gustav Mahler の交響曲第五番の第四楽章「アダージェット」が鳴りつづけました。それをそのまゝ、わが『やまとまほろば』の一場面として Movie Clip に作ってみました。
2010/0514『やまとまほろば』薬師寺「日想觀」
「海南小記」を読みながら、朝から降っている大雨(よその土地では大雪だ)を、心配しているのだが
「海南小記」という文章がある。柳田国男のである。実に良好な文章である。もっとも、柳田国男のファンだから、おもしろおかしく読んでいるだけなのだけど。
全旅程は以下のとおりである。
1920年(大正9)12月から翌年3月にかけてのことである。のちに出版された本にちなんで、『海南小記』の旅と呼ばれているけど。(松本三喜夫の『柳田国男と海の道』や伝記の「年譜」を参照)
12月13日 沖縄の旅に出発
12月15日 神戸から船に乗り別府へ 別府から九州東海岸を南下
12月31日 鹿児島から徒歩で佐多岬へ
1月3日 鹿児島から船に乗り沖縄に出発
1月5日 那覇に到着(途中、名瀬に停泊)
1月7日 首里で旧王家の尚家を訪ねる そのあと3泊4日で国頭地方を旅する 那覇では伊波普猷と会っていることが多かった
1月16日 鉄道馬車で糸満に
1月21日 宮古島に向かう 船で比嘉春潮と会う
1月22日 宮古島に到着 平良の町を見ただけですぐ船に
1月23日 石垣島に上陸 岩崎卓爾に会う 石垣には5日間滞在 南海岸の村々と御嶽(うたき)を訪れ、石敢当(せきがんとう)を見る
2月2日 那覇に戻ったあと島袋源一郎と斎場御嶽をめぐる
2月5日 那覇の松山小学校で「世界苦と孤島苦」と題して講演
2月7日 奄美大島の名瀬に着く 島内、加計呂麻(かけろま)島を歩く
2月15日 鹿児島に戻る 以後、各地で沖縄のことなどを講演
2月20日 外務省から国際連盟の委任統治委員会委員就任を要請する電報(24日、受諾)
3月1日 帰宅
3月から5月にかけ、朝日新聞に「海南小記」を30回にわたり掲載
私の手元にある柳田国男全集の「海南小記」は、第一巻である。冒頭、「からいも地帯」という文章から始まる。これもまたよし。
次に書かれているのが、大分県である。臼杵の町から保土島に渡り、佐伯から船になる。そして、3の「海ゆかば」の文章になる。海で死んだ人の話を聞いている。幾人もの話をである。
4の「ひじりの家」も印象深い。日向路の月夜に延岡まで車を走らせている。
なかなか沖縄に着かないのであるが、九州の東海岸にある忘れられた島々のこともまた印象深い。無人島のことが柳田国男の洗練された文章でもって書き継がれていく。
ようやく奄美大島に渡ったのが、12「國頭の土」である。13の「遠く来る神」に至ってやっと近づいてきた。沖永良部島に渡る。ようやく琉球の話が出てくる。やっとである。ずいぶん長い前置きである。もっとも、柳田国男の勝手にファンを名乗っているだけの私であるから、前置きが長いと思ってしまうのかもしれない。
ま、いいか。
ここらあたりから、「御嶽」とか「ユタ」が登場してくる。私の目が爛々と輝いてくる。(^0^)
そうなのである。
「御嶽」とか「ユタ」が、私を琉球に誘ったからである。
「御嶽」は琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場である。地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされる。よって、王国時代は完全に男子禁制。現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていないけど。7つくらいあるらしい。全部行ったことはないのだけれども。もっとも私も四回しか琉球には行っていないから。
① 安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土
② クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
③ 斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
④ 薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
⑤ 雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
⑥ クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
⑦ 首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内
もうひとつの方の「ユタ」は、シャーマンである。
「ユタ」は、死者儀礼や死霊供養に密着した。その性格、生態、機能など多くの点で沖縄民間信仰の底辺を流れるシャーマニズムであり、沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言える、と櫻井徳太郎は述べている。
ちなみに櫻井徳太郎先生は、おおいに参考にさせていただいた学者である。中退した大学院で。
こんなブログでその全貌を書くつもりはない。書けるだけの能力も才能もない。学力もない。文才もない。だから、ほんのさわりでしかない。
なぜか。
私の読書ノートだからだ。
ま、それもありですな。
こうやって書き込みしていると、自分の勉強になるからである。
書きながら、インプットしていくことが一番いい。
*
今日は、朝から大雨である。
九十九里浜は、あったかいから滅多に雪はふらないのであるが、よその土地では大変なんだろうなぁ。ご苦労様であります。
注意して一日過ごされたいと思う。
それでは失礼します。
Bye-bye
伊勢神宮に「も」興味があってこまっちまう。あまりにも拡散してしまっているから・・・興味が
伊勢神宮にはこれまで3度ほど行ったことがある。
全部趣味で行った。一度は友人知人たちとであった。それぞれ楽しみで行ったから、それなりに思い出はある。二回は、一人旅であった。これもまた良かった。むろん美人と一緒の旅なんて経験したことがなかったから、そんなのは諦めたが。
わははっははっは。
そんなことより、伊勢神宮もそうだが、なんでこの手の大規模神社は海の入り口というか、入り口に接近した場所にあるんだろうか?という疑問である。
房総の香取神宮も、利根川を挟んで向こう側にある鹿島神宮もそうだ。霞ヶ浦というまさに海みたいな場所の入り口にある。出雲大社もそうだ。神門水海の入り口近くにあった。八幡宮の総本社である宇佐八幡宮も周防灘の入り口にある。金比羅宮も、今ではかなり陸の奥に入ってしまったが、海の信仰と密接に結びついている。もっとある。諏訪大社もそうである。海のような諏訪湖との関わりがある。
古い神社が、なぜこのように海との接点があるのだろうかと思うのだが、考え過ぎか。
房総九十九里浜にも神社が多くあって、かなりの数の神社が海との関わりを持っている。成田山のご本尊は、九十九里浜に流れ着いたという伝承もあって、実際祈念碑どころか、立派な像まである。もっとも、こっちは寺院であるけれども。関心のある方は、一度ご訪問なされるといい。私は近いので、カメラ片手に行っているけどね。時々。成田に行くより近いから。
で、伊勢神宮である。
伊勢というところの最初の統一者として考えられるのは、渡会氏の祖先である磯部氏であるとされている。むろん諸説あるのは前提で書いている。間違っていたら許されよ。なにしろこっちは素人であるから。
磯部氏は、漁業をもっぱらにする民であった。伊勢という地名も、磯部氏の「イソ」から来ているとしている学者さんもおられる。「伊勢国風土記」逸文にも、神武天皇東征の時に天皇の軍隊に敗退して、夜半大風の吹く中を東方目指して去っていった伊勢津彦という名前のものが登場してくる。伊勢地方の英雄であったのであろうと思う。海の民にふさわしく、波の間をぬって東方に去っていったのである。なんとも言えないロマンがあるではないか。
伊勢の在地勢力が、大和政権に敗退していく様がわかるのであるが、これが多くの大和政権による東征譚であり、統一王朝の先触れであったのかもしれないと思うと、感慨も一入である。
同じような話は、「日本書紀」の雄略天皇18年にも書かれていて、物部目連(もののべめむらじ)が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征服していることが読みとれる。
この南伊勢に天皇家の祖先神である天照大神が祀られている伊勢神宮が鎮座しているのである。
大和政権にとってもっとも重要な神である天照大神が、なぜこの伊勢の地におられるのか。
考えてみれば不思議なことである。
伊勢神宮そのものを一生涯かけて研究なされている先生方も多く、こんなブログでもって、その全容を紹介することはあまりにも畏れおおいことである。だからやらないが、しかしおもしろそうだなというのは私自身にある。あるから、単独でも伊勢神宮に参拝するのである。
関係する文献も数多い。
したがって、余生をこういった貴重な文献を読みながら、過ごすことも一興である。
やることを見つけようとしたら、たくさんあるのだ。
見つけないから、寂しくなっちまうのである。
そう思う。マジに、そう思う。
*
さ、これからwalkingである。
地元の神社に行ってきましょ。
何歩歩けるか、それは神のみぞ知るである。
わははっはははっははっはははは。
サラバ。
館長の特別講義付であったから、感動したねぇ
今日の千葉県立美術館での、香取神宮企画展はよかった。
久しぶりに大都会千葉市に出かけたから(愛車で)、ある意味高揚感というのがあったけど。
なんでか。
千葉市の成人式をやっていたからである。若い成人たちが、きれいな和装をしていた。しかし、歩き方がなっていない。私と一緒の外股歩きであった。これは情けない。
西洋人とか、中国・韓国とは違っているだろうに。和服は。
ま、どうでもいいようなことである。
しかし、県立美術館の香取神宮企画展は、勉強になった。
古文書も展示してあったから、京大式読書カードを片手に一生懸命メモをとっていたら、なんと職員から鉛筆を渡されてしまった。うかつだった。筆記用具まで配慮していただいたのである。ボールペン等は禁止であるからだった。うかつであった。
さらに良かったのは、館長のT先生から特別に参観者にトークをいただいたことである。希望者にである。
T先生は、もしかしたら知人のT先生かもしらんと思って行ったらマジにそうだった。
しかし、こっちは毛糸の汚い帽子をかぶって、靴はスニーカー、ジャージをはいていたからご挨拶は止した。失礼になると思ったからである。
受講者は50人はいただろうか。
見つからないようにできるだけ後の方にいて、館長先生の講義を聞いていた。
勉強になりましたよん。
ありがたいもんである。
*
県立美術館に行く前に、千葉市に来たらかなりの割合で行く都町食堂で昼食をいただいた。ここはじつにいい。いわゆる一膳飯屋である。
安いのと、美味いのと、栄養価が偏らないように作ってあるからファンなのである。
オニオンサラダと高野豆腐、炊き込みご飯と、卵とじをとった。さらに、貝のスープ。しめて780円なり。
こういうのが喰いたいのである。
江戸時代の町人のようにである。
江戸時代は、外食文化が盛んな時代でもあったから、古ぼけた一膳飯屋でかっこむように喰うのは様になったであろう。
それから楽しみの、ブックオフである。
千葉市にはいくつか同種の店舗があって、楽しみにしているのだ。
約二時間はいただろうか。
都合、15冊ほど買った。内田樹もまた買い戻した。文庫を。なんでか。彼の本は、速読がきかないからである。いわゆるスローテンポで読むしかないからである。それに、買い戻したのは、ある人にあげちゃったからでもある。またまた読み直してみたくなったからでもある。
こういう無駄はいくらでもやっている。
本だけではない。
平松愛理とかのCDも買った。3枚。これも安価だからありがたいもんじゃ。
で、CDを聞きながら、県立図書館に行ったのである。
*
家に帰ったのは、夕方になってしまった。高速道路をぶっ飛ばして帰ってきたけど。
それまで2000歩しか歩いていなかったから、それから家の周辺を歩き始めた。かなり歩いて8200歩。これで終わり。
もう疲れた。
疲れたから寝る。明日は老人大学があるし。登校せにゃアカンので。
(^0^)
お休みなさいね。
Bye-bye