と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

隣人を愛せよと言われても、なかなかできないです。凡夫のボキには。

2018年10月14日 09時03分13秒 | 精神のありかた

隣人を愛せよと言われても、お互い波長が合わなかったら、会わないことである。無理は禁物だ。

 

 

「汝の隣人を愛せよ」とは、バイブルにも書かれている。よく言われる教訓でもある。

ボキは聖人君子でもなんでもないから、これは無理だと最初からあきらめている。お互い波長が合わなかったら、無理に愛することはできないし、会おうとも思わないことである。

世間は、やれ親戚だから、兄弟だから、夫婦だから離れてはいけないというけれど、離れても親戚は親戚・兄弟は兄弟・夫婦は夫婦である。樹木希林さんのような別居夫婦だっているのだから。

離れられない理由を最初に考えるから苦しいのである。そんなもん、後付けでよろしい。本当は離れても暮らしていけるのだ。

理由なんか追求していちゃ物事は解決しない。原因もそうだ。

こうなっちゃったのは、あーたのせいよと言われたことがある。あるが、そりゃ全部他罰主義というもんである。自分だけが正解であって、いけないのは全部他人のせい。理由とか原因を求めて一生涯人のせいにしている御仁がたくさんいる。挙げ句の果てには、酒に逃避して、めちゃくちゃ暴れ回る。そんなんでいいのかねぇ。時間の無駄であるからだ。

そういう御仁とはアワナイ方が良い。アワナイから会わないのである。親戚でも、兄弟でも、夫婦でも同様である。

ケンカになっちまうからだ。

そんな体験はいくらでもしてきたからである。中には、今日朝から雨が降ってきたから原因はオメェにあるとまで言ってのけた御仁もいた。つまりアホである。アホとはつきあわない方が良い。こっちの身が持たない。そういう本が売れていると知ったが(「頭に来てもアホとは戦うな」という本)、事実ボキもその本を買ってみた。同感だった。アホとつきあっている暇があったら、本でも読んでいるほうがいい。

それに、分別ができていない年齢で結婚をしてしまうから、離婚が流行する。たいして苦労もしていないのに、一丁前に大人になったつもりで結婚なんかしてしまう。だから後悔するのである。

人間観察もできないのに、よくまぁ結婚なんかできるものだと思っている。

もっとも、樹木希林さんは「分別のできないうちに結婚しちゃえばいいのよ」とも言われたそうだ。そうかもしれない。分別ができるまで待っていたら、永遠に結婚なんかできるわけもない。

世の中の娘たちは、なんでこんな男と結婚したのかとこっちが見ていても危うい形で結婚してしまう。

愛する対象が欲しいのが女のサガである。赤ちゃんが欲しいというのも、愛の対象が欲しいのである。だから、そのついでに旦那にも口うるさく言ってくるのだ。

なんか「汝の隣人を愛せよ」という教えを誤解しているのではないのか。

そういう建前だけを後生大事にしていると、本質が見抜けない。

ボキのように上っ面だけで世の中を渡っている悪行三昧の人間を説得できないではないか。

ボキなんか、ただおとなしいだけのジジイである。表面上はである。裏でなにを考えているかは、このブログでも明らかにはしていない。ただひたすら駄文を打鍵しているだけである。暇だからだ(^_^)。

さっきまで、柳家小三治の落語をベッドの中で聞いていて強情な男どもに大笑いしていた。キンドルで聞いていた。強面の男どもが、道を譲る譲らないで二時間もケンカしているというような話であった。

大同小異。

ボキもたいして変わらん。

ただし、二時間もケンカするようなアホなことをしていたら逃げるが勝ち。

争いごとは一番良くないからだ。

争いごとをするなら、離れてしまった方が良い。

歩いていて、正面から来たクルマにぶつかって勝てるわけがないではないか。

ちょっと下がれば良いだけである。避ければ良いだけの話である。危険は向こうから去っていくのだ。

 

今日は、午後から孫と遊ぶ。夕食を一緒にとって。それまではまたまた暇である。

昨日千葉市で歴史の会に参加していた。役員会、文化講座、古文書講座と参加してきた。

時間を見つけて、近くにある古書店チェーンに行ってきた。運動のためである。古本を二冊買ってきた。一冊は高校数学のⅡB。三角方程式が一昨日の塾でわからなかったから、買ってきたのである。

ぼけ防止には良いですなぁ。

 

わはははははっはははっはははっははははっは。

 

今日も楽しくすごそう!

(^_^)ノ””””

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選択の基準は、楽しいか・楽しくないかであった

2018年10月13日 07時25分21秒 | 精神のありかた

楽しければ人生は楽に生きられるちゅうもんですなぁ。マジに。

 

 

ボキの前半生は他の選択肢はなかった。能力や適性から考えてみて、他にやりたいこともあった。否、やってみたいことがあった。今では笑い話であるが、美男だったら役者もやってみたかった。学芸会では率先して自分から出ていたのだ。戯作者もである。なにしろ、作り話が得意であった。なんということもない。嘘つきだったからである。いわばオオカミ少年だったのだ。

しかし、とうとう定年まで同じ仕事をやってしまった。後悔はない。そういう運命だったのだ。そして、なにより適性があったのだ。そして現在も同じような仕事をやらせていただいて、ぼけ防止になっている。某大学、二つの高校、学習塾、交通安全講話とやっている。以上は有償のもの。ボランティアで歴史の会。

全部、「頼まれごと」であった。いつの間にか、こんなにやらせていただいている。感謝している。そうなるようになっていたのである。

こんなボキでも夢はあった。博士である。博士になりたいとは、今となっては笑い話である。てめぇの能力を知らないで、大学院博士後期課程に入学したからである。こんな笑い話は金輪際ないだろう。そして、大金を投入したことだけは後悔している。理解のあった古女房殿にも感謝しているが。

そもそもがである。仕事をしながら、別の大学大学院で修士をとってしまったのが、勘違い人生をスタートした根本の間違いであったのだ。

もしかして、俺にでもできるのではないかと勘違いしてしまったのである。

しかし、博士はかなり難しいことであった。内容がである。量的には書けた。A4で五〇〇枚以上はできた。事実である。嘘ではない。でも、内容が駄目だった。テーマである、日中比較芸能というのも頓挫した。なにしろ中国に行っている時間がなかった。中国語もおぼつかない。

こんな状況では、話にならなかった。

ま、あきらめるのにだいぶ苦しんだけどねぇ。このブログにその思いをぶつけて、やっと断念できたのかもしれない。

これまでも挫折はずいぶんしてきた。大学学部入学もまさかの展開であった。亡父亡母が学費を出してくれなかったから、新聞配達した。いわば、苦学である。

ところが、こいつが実に薬になった。思い上がった小僧っ子に世の中の厳しさを知らせてくれた。ありがたかった。お客さんにも励まされた。大学生なの?ときれいな奥様に励まされたこともある。がんばってねというお言葉に、我知らず涙したこともあった。

今では、実に懐かしい。

そして、それもまた他の選択肢はなかったのである。こういう人生を送ることになっていたのである。

 

これからもそうだ。

他の選択肢はない。

余生は、源氏物語を私家版で訳して楽しむつもりである。昨日からノート作りを開始した。生涯現役で講師もやりたい。オシャレを十分楽しんで、まだ生きていたのかと言われるほど、しつこく生きていきたい。

こういうのは、すでに決まっていたのだから。こうなる運命だったのだということである。

どうせ最後は死ぬ。

絶対的な事実である。

だったら、思う存分楽しんでジジイ生活を送るつもりである。

 

今日も千葉市に出かける。会長代行をさせていただいている歴史の会がある。千葉市民会館で10時から会議である。それから文化講座と古文書講座を所属している団体で開催する。楽しみでもある。趣味だし。

喜んでくださる方々がおられるから、いそいそと出かけるのである。その方が人生楽しい。楽しければ楽に生きられる。


わはははっはははっははははっははははっははは。

 

(^_^)ノ””””

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棺桶に入るころには・・・・トホホ

2018年10月12日 16時16分23秒 | 精神のありかた

捨てて捨てて、捨てられて。棺桶に入るころには、できるだけ軽い方がよろしいようである(^_^)。

 

 

人生の後半は固定観念を捨てることだなぁとしみじみ思う。

だって、もう関係ないからである。すべてである。仕事もしていないし、どっかの学校や大学に行って勉強しているわけでもない。こだわりがない。なんにもない。

ついでに言えば銭もない。あ、髪の毛もない。つるつるである。見事なくらいにつ~るつる。

組織にも所属していない。

趣味の世界では所属している。歴史の会や柔道の会である。それだけである。退職なんとかの会というのにも属しているけど。思い出しても手の指数本である。アルバイトの方は、組織に所属しているのではないから、数のうちに入らん。アルバイトを入れると9本になっちまうが。

このことは未練を捨てているようなものである。

本来ボキはあまり未練がない。なさ過ぎて、困るくらいにない。天涯孤独だからだ。九十九里浜にはボキの亡父と亡母の親戚は一人もいない。ボキの長男は住んでいるけど。孫も。

「死」の側から人生の後半を見つめているようになったから、未練がないのかもしれない。

後は、死ぬだけと思ったら気軽である。本当に後は死ぬだけである。

安らかに死にたいものである。トラブルなしに。

平穏無事が最高である。

事故死だけは避けたいものだが。しかしどうなるかはまったくわからん。どうなるかはわからんが、死ぬことだけは絶対に確実である。死んだらどうなるのかもわからん。生まれ変わって、なにかになるのかもしれない。それもわからん。悪行三昧であるから、天罰が下るかもしれん。そうなったらなったで、仕方なし。

だから、いつでもその覚悟で今を生きている。明日には、灰となっているかもしれないではないか。

したがってウカウカしていられないのだ。つまらんことにこだわって、成就するわけもない夢を追いかけていたらアホである。

そんなもん捨てることである。

自分はこれがしたかった、やりたかったというのが無くなってきた。某大学大学院在学中にはあった。博士になりたかった。でも能力不足で頓挫した。挫折した。もう二度とそういう夢は見ないことにした。

以来、ボキは変貌したのだ。

受け入れたのである。

受け入れるまで、大変苦しかったけど。なにしろ大金かけて居住地に近い某大学大学院までせっせと通ったのだ。

アホだった。アホと思うのは自己分析が不足していたからだ。自分を知らなかったのである。

能力もである。

これって、てめぇの顔を知らずしてドンファンを気取っているのと一緒ではなかったのか。

そういう「固定観念」を捨てることによって、ボキは実に身軽になった。体重まで軽くなった(^_^)。10キロ以上も軽くなった。運動の結果である。

もっとも、元々クチも軽いし、人格も軽いんだけどねぇ。

 

これからも軽く軽く生きようと思っている。

なにしろ、棺桶に入るには身軽な方がよろしいからである。

 

わははっははははっははっはははっははははっははは。


今日も千葉市に行っていた。某高校で授業をやってきた。楽しかった。若い人々と接していた。さらに今日の夜は塾である。こっちも楽しい。未練がないからすごく楽しい。明日はクビになっているかもしれないからである。こだわりがないからである。

 

(^_^)ノ””””

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CONTROL、コントロール、こんとろーる・・・難しいです

2018年10月11日 15時21分40秒 | 精神のありかた

相手をコントロールするより、自分をコントロールすることだ。しかし、こんな難しいことはない。

 

 

「相手を自分の思うとおりにコントロールしよう」とするから、トラブルが起きる。経験上そうだ。

そもそも相手というのは、コントロールできないのだ。それをである。こっちの思うとおりにしようとするから、抵抗される。当たり前である。相手だって人間である。

そこのところを勘違いしていると、ケンカになる。

夫婦間でもそうだ。お互いなんでも言いたいことは言い放題、相手の言っていることなんか一切聞かない。罵りあってばかりいたら、そりゃケンカになる。

職場でもそうだ。お互い言いたいことを言い合っていたら、人間関係の円滑さなんて現実離れしてしまう。ま、それでも利潤追求だけが目的の組織ならば、それでも良いのだろうが。それじゃぁあまりにもサミシイ。

自営業はどうだろうか。ボキは経験がないので、書けない。書けないが、お客さんをコントロールしようとしたら、その業種は繁盛しないのではないのか。

コントロールしようとしたら、相手は気がつく。あたりまえである。他人にコントロールされるということは、気分が悪いからである。嫌悪感というやつである。さらに、ボキのようなジジイにコントロールされたら、おもしろくないであろう。

要するに上手にやればいいのである。円滑に、人間関係を維持するのならばである。上手にやれる人が大人の人間のやり方である。いつもいつも本音ばかり言って、怒鳴っていたら、そりゃガキのすることだ。

小さい子どもならばわかる。子どもは、相手をコントロールしたがる。親をもコントロールしたがる。それだけ、自分の欲求が強いからである。おなかがすいてしまったら、親に要求する。親をコントロールしたいからである。当たり前である。それができなかったら、空腹で死んじまう。

本能でやっているのだ。

攻撃性の発露なのかもしれない。だから、我々大人も相手をコントロールしたがる。

そこをじっと我慢していくことだ。

相手をコントロールしたいと思うより、「自分をコントロール」しているかどうかを問題にすべきである。自分ほど、難しいものはないからである。自分を知ることなんか、できやしない。自分がなにを考えているのかすら、ボキはよくわからない。

行動はわかる。これから千葉市の某高校に行ってくるが、アルバイトで行っているだけである。目的はそれだけである。往復の電車の中で中国語講座を聴きながらである。それもなんのためにやっているのかとなると、さしたる価値はない。せいぜい中国に行ったときに、なんかになるのかもしれないと思っているだけである。大上段に振りかぶった理想論なんかない。今更である。

そもそも、ボキはなにをしたいのだろうと思うだけである。つまり、自分をコントロールできていないのだ。

こんなことを考え始めたら、堂々巡りである。考えないことである。

だから「淡々として生きる」ことである。自分をコントロールするもへったくれもない。目的なんか関係ない。目標もない。

「淡々として生き」て、「他人に喜ばれて」生きることが楽しいのである。

それで良し。

それっきりの人生だ。

 

わははっはははっはははっはははっはははっはは。

 

(。・_・)ノ

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動かざること水のごとし。でもいったん動き始めたら、こんな始末に負えないものはなし。

2018年10月10日 08時10分02秒 | 精神のありかた

変幻自在、自由自在、一定の形にとらわれない「楽しい」人生でありたいもんです。

 

 

「水のように自由に生きる」ということを理想にしてきた。柔道も水をヒントに嘉納治五郎先生が創始されたと聞いたことがある。もっとも、ボキごときが柔道について語る資格はない。たったの四段でしかない。素人である。

太極拳も語る資格はないが、こちらも水のような美しい動きが核となっていると受け取ったのだ。なにしろ、堅い体から力みが抜ける。これは気持ちがいい。蹴りの角度も増してしまった。今では、相手のあごを直接狙うことも可能になったのだ(^_^)。

水には形がない。箱に入れれば一応の形にはなる。しかし、それは器の中にある水本来とはまったく関係がない。水は、水でしかない。

水は変幻自在である。川にもなるし、海にもなる。

ゆっくり流れている時もあれば、急流になって流れる時もある。滝のように上から激しく流れる時もある。台風が来たら、暴風雨となって荒れ狂う。

つまり、水は状況にいかようにも変化するのである。置かれた状況、形になり続けるし、変幻自在でもある。

それは、水は液体でもあるし気体にもなるということである。熱してみれば、水は気体となってしまうからである。

水温を下げれば氷にもなる。動きにくい状況になると、固体となって動かなくなる。

つまり、目に見える氷、手に取ることができる氷から、水蒸気までいろんな形に変化してしまうのである。

水は、相手の器に合わせてしまう。相手が大きければ、そのようになる。相手が小さければ、またまたそのようにあわせてしまう。量は別としてである。

変幻自在というのはそういうことである。相手にあわせてしまうのである。相手が望むように、自分の形を変えてしまう。本質は別としてである。本質はなんにも変わらないのにもかかわらず、形だけ変わってしまう。

だから、「ナニガ正しいのか?」「間違っているのはなにか?」とか、政治問題とか社会問題を糾弾して、オノレの心が暗くなるより考え方を変えてしまった方がずっと良い。

相手を変えるのではないのである。相手をコントロールしようとすればするほど、相手は意固地になってくる。拒絶してくる。耳を貸さない。聞いてやろうという気持ちもない。

相手を自分の思うとおりにしてやろうと思わないことである。

そんなことをやっているよりも、自分が「楽しい」と思うように生きることである。自分が楽しければ、すべてが上手くいく。円滑に回っていく。自分が楽しければ、トラブルもない。相手を傷つけることもない。

そして、「淡々と生きる」ことである。他人を指導しようと思わないことである。他人は他人。ボキはボキ。他人のために生きているのではないからである。他人の期待に添って生きているわけではないのだ。

ふむ、ふむ。

 

今日も天気が良い。

今日もやることがない。

英文法のノートでもとることにしている。

明日はバイトで行っている千葉市の某高校で授業をやるが、その下準備は昨日で終わっている。「土佐日記」である。古文書から資料を作って正解資料も準備した。土佐日記史跡も動画で準備した。関連資料が、A4で二〇枚ある。これを配布して、生徒に調べさせるつもりである。まさに灘高校の橋本武先生流である。

笑われるけど。

 

(。・_・)ノ

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「どれくらい人生を楽しんできたか」と聞かれたら=ボキはこう答える

2018年10月09日 07時10分15秒 | 精神のありかた

楽しんだ方が良し。どうせ人生は単純なのだから。なんも悩む必要なんかない。

 

 

「どれくらい人生を楽しんできたか」と閻魔大王に聞かれたら、ボキはこれまでもこれからも十分楽しんできた(いく)と答えるだろう。だろうと言うのは、まだ聞かれたことがないからである。

立身出世して、あるいは大金持ちになり、毎日多忙な方を知っている。しかし、一日もこころ休まる日がないと言っていた。これまで死ぬほどの努力をしてきたし、人を裏切ったこともあった。また裏切られることは日常茶飯事でもあったと言われていた。まさに、それくらいでないと成功できないんだろう。ボキとはだいぶ違う人生である。

某大学大学院中退後に通った老人大学時代にも、そんな方がおられた。独居老人である。大金持ちとまではいかないが、けっこうな小金持ちであった。親しくしていたので、いろんな話をした。薬品株中心の株式投資が趣味で、事実儲けてもいた。海外旅行が趣味で、ボキにもいろいろと教えてくれた。トルコに行っていたときに、彼からメールがきて、なんとスペインにいると書いてあった。ボキは即返信をして「ボキも今飛んでイスタンブールにいますぜ」と書いて送ってみた。帰国してから会って、お互い大笑いである。

しかし、本当に人生が楽しいかとなると疑問である。やはり、出世するような方や金持ちというのはクセがある。ちょっと変わっている。人を信用しないし、俺が俺がという出しゃばり傾向がある。これまでの経験上。

独居だからというのではない。独居だろうが、同居だろうがそんなことは関係ない。


昨日の夕方から夜にかけて、樹木希林・阿部寛が出ている映画「海よりもまだ深く」という映画を見ていた。亡くなった樹木希林さんの関係映画を見ているからである。AMAZONのプライム会員になっているので、ゼロ円で見ることができた。阿部寛の役柄は、さえない小説家志望で、現在は探偵社に勤めている男の物語であった。息子である男の子が一人いて、離婚した奥さんもいた。月に一度息子に会うのが楽しみで、無理に金を作ってでも息子に会う。野球をやっている息子に野球用品を買ってやったりしている。そして、樹木希林がおばぁーちゃん役をやっていた。

「海よりも深く人を愛したことなんかない」という台詞も考えさせられた。

大上段に振りかぶって、愛だの仁だのと高邁なる理想を言うことは誰でもできる。しかし、日常生活の中で理想が活かされているかとなるとかなり怪しいのがほとんどの人ではないのか。

複雑化して、人生を混乱させているのが理想という名の幻想なのである。愛だの仁だのという言葉はあまりクチにしない方が良い。難しいからである。さらに自分自身をしばってしまう。固定観念となってである。

樹木希林がこんなことも言う。「人生なんて単純なものなのよ」と。

これにもなるほどとシミジミ考えさせられてしまった。

複雑化しているのはオノレ自身である。

学校教育を真剣に受け止め、壮絶な努力をしてきた方々は、他人と競争してきた。だから成功したのである。小金持ちにも、大金持ちにもなったのだ。

でもボキはうらやましいとは思わない。そりゃ金は欲しいが、金のために本来楽しいはずの人生を捨てることになったら・・・・そりゃ寂しい。

死んだときに、「お前は楽しい人生を送ってきたか?」と閻魔大王に聞かれたら、「ええ、十分楽しんできましたよん」とにこやかに笑って答えるだろう。そしたら、閻魔大王に「よんだけ余計だ」と叱られてしまうかもしれないが。

わははっははははっはははっははははっはははは。

 

今日は、これから歩いてくる。歩きが終わったら、女児の孫を連れて(むろんその母親とボキの古女房ドノも)ちょっと離れたショッピングセンターに、おもちゃを買いにいく。

楽しみである。

だって、「人生は単純」だからである。

 

(^o^)/~~~

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全力ダッシュというのが、ボキには所詮無理でありますなぁ~~~マジに。

2018年10月08日 09時49分20秒 | 精神のありかた

「力を抜いて」「気を抜いて」というのが、実に大事でありまする。

 

 

「力を抜いて」「気を抜いて」というのが、ボキのモットーでもある。とりわけ、他人から「頼まれごと」をしたからと言って、それでもって病気になっていたら話にならないからである。

なにも今更評価されるために働いているのではない。定年退職してからは、年金暮らしである。ささやかな五つのアルバイトをしているのはぼけ防止のためであって、成果が欲しくてやっているわけではない。

今更である。今更、高い評価をいただいてなにかをやってやろうと企んでいるわけではないのだ。

だから、ボキは「いやぁ私ごときものが・・・」と言わない。それは謙虚を装った傲慢でしかない。謙虚高飛車人間の言うことである。

今現在の自分の力でやっていくしかないではないか。こんなボキでもよろしいのですかとは聞くけど。確認の意味である。

相手は困っているから、ボキに頼んできたのである。別にこちらはやりたくてやりたくて待っていたわけではない。いろんな方々に断られてきたから、と~ま君のようなアホでも良いかと思って頼みごとをしてきただけであんだろうから。

ならば、素直に「ありがとうございます」とお礼を言ってから引き受けることにしているのだ。

頼まれごとというのは、自分がかいている汗でもって他人の幸福に結びつく。

これは頼んできた人に感謝するしかない。生きている目標が見つかったからである。少なくとも、オノレだけのシアワセだけを考えているという狭い了見からは解放される。

しかし、100キロの荷物を持ってくれと言われたら断るしかない。柔道現役のときはできたけどねぇ(^_^)。

つまり物理的に無理な場合は断るしかない。できないと正直に申し上げるしかない。借金もそうだ。借金の申し込みはお断りである。だって、こっちは年金暮らしである。無理である。

それに、ボキは頼まれごとをしても全部自分でやろうとはしない。可能な限り、組織を活かす。他の人でもやれることは、なるべく任せていく。これは仕事人現役時代からやっていたことである。

もう限界であるというところまで追い込まない方が良い。それではアカン。

だから、「力を抜いて」「気を抜いて」ということになるのだ。

それが気に入らないという方は、そもそもボキごときには頼みごとをしてこない。当たり前である。

そもそもがである。ボキは、一つのことに鋭意専心というタイプではないのだ。そういうタイプだと、今のように五つもアルバイトをやっているわけにはいかない。どっかで上手に切り抜けているからである。

ま、結局「淡々として」生きているだけだけどねぇ。

 

わははっはははっははははっはははっはははっはは。

 

あ、今日は祝日だそうな。

昨日は太極拳に行っていた。だいぶ動きがスムースになってきたと言われた。蹴りの時に、足も上がるようになってきた。後は、この太極拳講座が日曜日から撤退してしまう。他の曜日では受講不可能になってしまう。五つもアルバイトしていたらできるわけがない。それこそ物理的に不可能である。

来年また受講してみようと思っている。それまでは、DVDで自学自習するしかない。

 

オシマイ。

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ジジイになったら、「頼まれごと」をやって「他人に喜ばれる」存在になっていくことである。 過去も未来も考えなくていい。

2018年10月07日 07時55分32秒 | 精神のありかた

過去も未来も考えなくて結構、毛だらけ、猫灰だらけ、けつの周りは・・・である。今の自分がなにをやっているのか、それが大事でっせ(^_^)。

 

 

過去を悔いているばかりの人は(ボキもそのうちの一人だが)、もうやめるべきだ。と、そう思うことにしている。

定年退職後に某大学大学院を中退せざるを得なかったことが、ボキにとっての悔いている過去。病気になって中退したのだが、学力劣等というのが最大の原因だった。しかも、中退するまでそのことに気がつかなかったのだから、おめでたいものであった。

立ち直りのために、毎日考えていたのだ。中退してからもいろんな本を読んだ。なぜこんなに苦しいのだろうかと。挫折してあきらめたのだから、苦しいわけである。

しかし、その間勉強だけはした。歴史や国文学の読書である。読書だけでなく、カード取りもやっていた。ノートもむろんである。

無駄ではなかった。

成果が唯一あった。それは、「今の自分がいかに未熟であるか」ということを知ったからである。確かに定年まで一つの仕事をやり遂げた。それで退職できた。年金も全部もらっている。ある意味ご褒美である。退職金もいただいた。

だから完成したのではなかった。

退職して日々をむなしく過ごしていた。さらに追い打ちをかけられたのが、某大学大学院中退であった。生涯学習ごっこと自称しながらけっこうあちこち手を出していた。それが、全部無駄になったような気がしていた。

俺はなにをやっているのだろうと、自分が嫌になっちまった。

最近になって、アルバイトを頼まれた。全部引き受けた。むなしい日々を送っているよりは、ま、良いかと思った。そして感じた。

「頼まれごと」をやっていると、「他人に喜ばれる」のだということをである。

如実にその結果が現れた。千葉市の某高校で生徒たちが、ボキの授業を楽しみにしてくれている。他の先生に言ったそうである。楽しみだと。通信制高校での授業もそうだ。いろんな事情を抱えている生徒たちが、こんな授業は受けたことがないと言ってくれた。

ありがたいものである。

やはり、ボキは生涯現役でやっていこうと思っている。先月から働き始めた某高校では、自学自習として源氏物語の私家版訳にチャレンジしている。古文書で源氏物語を所有しているので、それをA4の大判ノートにコピーして、訳にチャレンジしている。ふむ、これを死ぬまでやっていこうと思っている。それこそ生涯学習であり、生徒たちに還元できるというものである。

ジジイになったら、「頼まれごと」をやって「他人に喜ばれる」存在になっていくことである。

過去も未来も考えなくていい。

今、目の前の「人、こと、もの」を大事にしていくことである。

自分がやるべきことはそれだけである。

 

昨日は、来月17日(土)に所属している歴史の会で歴史探訪をやるので印西市に行っていた。一日であった。歴史の会事務局の方々と事前下調べであった。事務局の方々は学芸員で専門家である。ボキなんかとはレベルが違う。柳田国男とか、利根川図誌の話を伺いながら楽しく下調べをやっていた。

感謝である。

こういう後半生が待っていようとは、お釈迦様でも考えなかったに違いない。

 

(´∀`*)ノ

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後悔も反省も必要なし。今日が一番充実していれば、それで良し。

2018年10月06日 08時40分50秒 | 精神のありかた

過去のことで悩む必要はまったくない。今日現在が一番充実していれば、それで良しであるから。

 

 

あああああああ、シマッタ。あのとき、ああしていれば良かった、こっちの選択肢があったのではないのかと思うことがある。過去のことである。

しかし、そう思えるということ自体、自分が向上しているのだ。過去の経験から何かを学んだのである。ありがたいではないか。

今日という日は、過去の経験が一番生きている日である。あるいは、もっとも知恵がついた日である。今日のボキは、これまでの人生の中で一番の長老であり、一番のベテランである。経験があるからである。

つまり、今が大切だということである。禅僧がよくそういうことを言われるが、ボキは禅僧ほどの知識はない。されど、同感である。今の連続が、今日であり、未来である。確かにそうだ。

しかし、過去も現在も未来も「受け止め方」である。どう受け止めるかということが、もっとも大切である。少なくとも、そう思うことにしている。

受け流すと言っても良し。

感情的にならないことである。

未来のことも考えると、今日はもっとも未熟な日である。過去の積み重ねが一番なのが今日だとするなら、同じ論理で未来はこれからスタートするのだから、未来は発展形である。だから今日が一番未熟なのである。未来の経験は永遠に前もって積むことはできない。だからである。

未来の前には、ボキは最年少ジジイである。さらに未熟である。だから、「もっと勉強しよう」「もっと向上しよう」となる。

過去の人生から得たもので最高の自分が今日の自分であり、未来はもっとも未熟なこれからの自分なのである。

階段の下にいるのが、過去の自分。

階段の一番上にいるのが、未来の自分。

今日、生きている自分は階段の途中にいる自分である。

ということは、現在の自分は下の階段から見れば、最高の自分。

過去の自分は確かに未熟であり、あの時あすれば良かったとか後悔が先に立つのは仕方なしという面もある。でも、そりゃぁあたりめぇであって、未熟に見えない方がおかしい。もうすでに終わったことであるから、後悔も反省もしなくてよし。そんなことにこだわっていたら、第一人生がおもしろくないではないか。

ところが、階段の上を見ると、今の自分は一番低いところにいる。見上げるように高い階段かもしれない。あるいは途中で壊れているかもしれない。したがって、謙虚に十分注意しながら生きていくしかない。

過去の自分にこだわって後悔や反省ばかりしている人は、未来のことを考えていないのではないのか。

自分を磨いたり、向上させるという観点がないのではないのか。

ボキも人のことは言えない。言えないけど、過去にこだわって後悔ばかり、反省ばかりの日常生活ではない。

某大学大学院中退事件だって、もう取り戻しはできないのだから。

そんなことより未来を見据えて、今日を充実させていくことである。

 

今日はこれからお世話になっている歴史の会で史跡巡りをするから、その下見で利根町まで出かけてくる。ある寺院にあいさつをしてこなくちゃならない。3人で。有名な柳田国男関連である。

定年退職直後には、こんなことをやっている自分だとは夢にも思わなかった。

感謝である。 

それに昨日は千葉市の某高校で、授業をやっていた。二クラス合同であった。健康問題についての小論文を書くために材料を提供していた。サクセスフル・エイジングということを主眼にしてみた。修士の時に扱ったテーマでもある。パワーポイントでやった。生徒が大学の授業みたいと言っていたのには笑ってしまったけど。動画も採用して、興味を持ってくれるように工夫した。そんなのも、過去にコンピュータ関連の千葉県の教育研究センターに在職していたからできるようなもんである。ありがたい限りである。

 

さ、出かけよう。

 

夜は美酒を飲もう。般若湯というではないか。


わははっははははっはははっははっはははっはははっは。

 

(´∀`*)ノ

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ニコニコ、ニコニコ、ニコニコ

2018年10月05日 17時02分20秒 | 精神のありかた

ニコニコ笑ってばかりいる毎日だけれども。楽しければそれでよし。

 

 

なにをやっても上手くいく。ドンドン銭も入ってくる。事業も家庭も順調である。学歴も立派だし、他人は尊敬してくれる。自分自身に自信があって、他人が馬鹿に見える。

そういう人もいるのだろうが、ボキはまだお目にかかったことがない。

ボキのように、挫折の連続、失敗ばかりの人生もあるんだよん。

仕事も家庭もトラブル続きで家族とも同僚ともケンカばかりしている、体調も悪いというときに、ニコニコ笑っていられるか。

ボキはそう思うことにしている。

どんなに知識を持っていても、あるいは仕事ばりばりのやり手であっても、「尊敬」されたり「敬愛」されるかと言うとちょっと違う。

あまりに仕事仕事とやっていると、ニコニコ笑うことも忘れてしまう。目が三角になり、鋭くなり、他人をにらみつけることになる。だって、世の中が、人生がおもしろくないからである。

自分は自己満足に陥っているのだから、まさか現在の心境が顔に出ているとは思ってもみないだろう。

「謙虚」に生きていないからこうなる。俺が、俺がという自己主張だけであって、くだらない展開である。

どれだけ賞賛され、どれほど高く評価されても、決して威張っちゃならないのである。うぬぼれないことである。慢心しないことである。

偉くなった人ほど、それを忘れる。最初に、言葉が乱れる。偉そうにものを言う。タメ口なんてぇもんじゃない。上から目線で、命令ばかりする。もっとも命令が仕事だという人もいるだろうが、それはそれ。感謝しながら仕事を命令することである。言い方はきつくても、感謝しながら言っていると表情に出る。やわらかになる。

淡々と生きると思っていると、そういう命令の場面に出くわしてもきつい言い方にはならない。強く言わなければならないときは、強く言わなくちゃならない。危険な場面にあったときには、危険防止のために強く命令しなくちゃならないのである。

これは致し方ないことである。リーダーというのは、そういう役割を負っているのだ。それを忌避してはリーダーとは言えないからだ。

「実践」しているから、謙虚さを失わないのである。リーダーとして行動するという実践のことである。実践というのは、あらゆる結果責任を負うことになる。それがリーダーである。まさか、部下の責任にして逃亡するわけにはいかない。最後は、リーダーとして潔く切腹するのが、古来日本武士道にあった精神である。

あまりうまくいっていない時にこそ、そういうことを考えておくべきである。どんな場合でも、ニコニコ笑っていられるかということである。

 

今日は雨が降っている。ついさっき千葉市から帰ってきた。これから夜の塾にも行く。ニコニコ笑って行ってくる。若い人たちと一緒に勉強する。

あああああああああああああああああああああああああ。

楽しいこと限りなし。

 

(´∀`*)ノ

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不足しているもの、欲しいもの等々を考え始めたらキリがない

2018年10月02日 21時28分55秒 | 精神のありかた

今のままで十分シアワセでございます。マジに。

 

 

「今のままでシアワセである」と思うことにしている。なにも無理にそう思うことにしているというのではない。

人生で最も楽しい18歳から22歳くらいまで、ボキは苦学生であった。恋愛だの、派手な服装とはまったく無縁の大学生活を送っていた。

東北の片田舎から集団就職の列車に乗って上京したようなもんだった。I君という竹馬の友がたった一人で温泉町の駅で万歳をしてくれたっけ。

正直言うと、「つらい体験」であった。こんなことまでして大学に行く意味があるんだろうかとも思った。それもエリートコースからは大外れの大学生活のスタートであった。

「惨め」だなぁとも思った。高校の同窓生は、ほとんど遊学していたようなもんだった。新聞配達までして進学したのは、ボキだけだった。

しかし、「つらい体験」をしたことによって、それこそ「今のままで十分シアワセである」と思ってきたことも事実である。

これはジジイになった今でも変化していない。常に「今が一番シアワセ」だと思っているからだ。「自分も相手も、今のままで100点満点」と思っているのだ。

欲しいものを書いてみてくれと言われていくらでも書ける人は多い。それこそ100個でも200個でも書くことができる人が多いだろう。

しかし、今現在手にしているものはなにかと言われてしまうと、数が限られてしまう人も多いのではないのか。

それは足りないもの、持っていないもの、手に入れたいものだけを見つめているからでもある。

上昇志向や、学歴志向、向上心というようなものは、18歳の苦学生開始から捨ててきた。世の中には、どんなにしても自分の意のままにならないことがあるのだと気がついてしまったからでもある。

東京の下町で新聞配達をしていた時に、マジにそう思った。日本経済新聞だったから読者層が他の新聞と違っていた。お客さんで、銀行員とか、株式投資をしている金持ちとかたくさんいた。

それこそ肌で感じていたのである。世の中は、たいしたもんだと思っていた。

間違いなかった。すでにスタートからして違っていたのである。

手に入れたいものがあるから、苦学していたのではない。偉くなって世の中を見返してやりたいと思って始めた苦学ではなかった。立身出世して、金持ちになり、今に見ておれ仕返しをしてやるというような考えにはなかった。

苦学もあらかじめ決められていた人生のシナリオだった。能力もない、銭もない。あるのは体力だけ。下町に立ち並ぶ住宅公団の団地をいちいち上り降りしながら、ひたすら新聞を配って歩いた。自転車に新聞を積んで。朝刊は、折り込み広告を新聞紙に挟みこんでから、4時ちょうどにスタートする。だから、結構な重さと積んだ新聞の高さがあった。自転車に積むからふらふらである。

しかし、これでもってボキは、いろんな体験と考えをもらったと感じていた。確かに「つらい」体験であったが、得たものは大きい。今でもその当時購入した書籍もたくさんある。ドストエフスキー全集、椎名麟三全集、漱石全集、森鴎外全集、太宰治全集、芥川龍之介全集、中島敦全集、藤村全集、折口信夫全集、柳田国男全集、露伴全集、・・・・・・幾多の全集本が今もボキの書庫にある。懐かしい読書遍歴だった。

だから、得たもの、欲しかったものに今も囲まれているのである。ありがたいものである。

すべて必要なものは、もうすでにいただいているのである。だから、今でも働いていられるのである。現役を退いても、まだ講師としていくばくかの収入をいただいている。ありがたいものである。しかも、頼まれごとで降ってわいたような仕事(バイト)である。ローンもないし、完全に書籍代となって消えていくだけだが。

 

今日も千葉市で働いてきた。先週の金曜日に、進学校の2年生と北大の英語という過去問シリーズで苦戦していた。能力がない。自己嫌悪に陥ったが、これもまた「まだまだ勉強がたりないぞ」という天の意志であろう。上昇志向はないけど、知りたい欲望はあるので(^_^)。

楽しい毎日でございまする。

 

終わりよければすべてよし。

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問題の解決方法はなにか。これしかない。

2018年10月01日 07時51分45秒 | 精神のありかた

なにを言われても気にしない。問題にしないこと。事実であっても問題にしなければ、気軽に生きることができる。事実でなくても問題にしないことである。だって、事実ではないのだから。

 

 

問題を問題として認識しないというスタイルが一番楽である。「気にしない」「気にならない」というスタイルである。

どこにも問題がないというものである。目の前になにか問題が起きたときは、その問題を解決しようとしていろいろやることがある。黙ったり、戦ったり、逃亡を図ったり、我慢したりするというようなことである。

それを最初からまったく相手にしないという解決方法があるのだ。

つまり問題は問題にあらずということである。

ボキだって、否、ボキだからこそ時に舐められることがある。おとなしいからである。一見おとなしく見えるように演技している。だから、たまにボキのことを馬鹿にしてくる御仁がいるのだ。そんなに大物かよとか、デカイ面していると言われたことがある。現役時代の成果を素直に申し上げたときに言われた。相手は腹が立ったのである。もっともボキも自慢たらたら言ってしまったのかもしれない。そんなのは受け取り方であるから。ただちに(_ _ )/ハンセイしたけど。

されど、問題を問題と認識していなければ、問題で(_ _ )/ハンセイする必要もない。

ボキのことを「やぁい、やぁいハゲ」と言われたこともある。あるスナックで、ボキの禿頭をなでながら気持ち良い気持ちよいと言った酔っ払いもいた。ボキはされるままになでられていた。笑っちまうくらいである。

要するに気にしない。気にしないどころか、そもそも問題意識がない。

確かにハゲているし、それは事実である。それを嘘だと言って反発していてもそれこそ嘘である。いくら言っても否定できない事実である。ハゲはハゲなのである。ハゲていたからいろんな場所で救われたのだ。女性のいる店で、セクハラまがいのこともしないで済んだ。もてるわけもないからである。

逆に、ハゲではない、髪の毛がふさふさでうらやましいと言われても腹が立たない。事実ではないからである。事実ではないことを言われても、問題にならないではないか。

誰かに「と~~~ま君は、馬鹿なやつだ」と言われても腹が立たない。本当に馬鹿なのだから、全然腹も立たない。アタマも悪いし、事実自分でもそう思っているから腹が立たないわけである。

この逆に「と~~~ま君はおりこうさんだ。たいしたもんである」と言われても、真実のボキはただのアホジジイであるから腹も立たないのである。

つまり、「初めから関係ない」「問題を問題と認識しない」のである。

イエスは、「右のほほを打たれたら、左のほほをむけよ」と言われたような気がする。ボキなら違う。ほほを打たれないような人間になりたいと思うだけである。ほほを打たれないような日常生活を送りたいだけだ。

だから「淡々として生きる」ことを目標にしているのだ。

難しいけどねぇ。

 

今朝は台風一過ですばらしく天気がよい。さっきまでNHKのラジオ英語講座を聞いていた。10月から新しい教材になった。楽しみにしていた。先月から、千葉市の某高校で働き始めたので、朝早くなってしまって、ラジオ講座を聴く時間がなくなってしまった。でも、録音アプリを仕込んであるからパソコンを立ち上げて聞いている。

これが良い。頭の活性化に。

 

オシマイ。

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ドンブラコ、ドンブラコと流されて生きるのもまた良し。

2018年09月28日 08時05分35秒 | 精神のありかた

川の上流から流されてきたかということが重要である。ナニガ?それはこの記事を読んでくだされば・・・(^_^)

 

 

ある決断に至るまで、実は99個のことを考えている。その決断は、100個目であっていきなり決断という形で登場したのではない。

たとえば、ある場所で店を開店したいということは、その前に99個の逡巡や調査や計画があって実現する。いきなりということはあり得ないわけである。もしいきなりだったら、そりゃアカン。ただの思いつきでしかない。深慮遠謀がなくちゃならない。

さらに、その決断は川の上流から流されてきたのかもしれない。ある意味、価値を持ってである。流されてきたのならば、たとえばお店を開業するのも良し。

そういう人生のシナリオになっていれば、決断の基本になる要因は流されてくる。そしてそれらを検討して(無意識であっても)、決断すれば良いのである

こういう視点をもっていると、流されてきた要因や現象のとおりやった方が良い。

それでなければやらない方が良い。やりたくないとか、やりたいということとは無関係である。

自分が決断するように(自分がした)と我々は思っているけど、ボキは自分が自分がという部分はちょっといかがなものかとずっと考えてきた。自分が相手をあるいは他人をコントロールしたいから独立するとか、他人にこき使われているからやめたい、だから独立して店を開業したいと思うのは視点が自分側にある。店に来てくださるお客さん側にない。したがって、成功する確率は低くなる。

あくまで、相手に他人に喜ばれる存在であるかということが重要なのである。

そういう感覚が川の上流から流れてきたら、やった方が良い。頼まれごとでもそうである。頼まれごとも流されてくる。ドンブラコ、ドンブラコと桃太郎のように桃に入って流れてくる。その桃は、100個目かもしれない。

それでも良いではないか。

ただし、自分の意志とは関係なく桃が流れてきそうもない時は、やらない方が良い。なんとなく、流れに流されている、あるいはやる羽目になってしまったという位の方が良い。そういう時は、やった方が良い。

選択の際には、「好き嫌い」を言わないことである。それは自我の暴走である。我慢とも違う。

好き嫌いでものを選択しないで、お星様からお日様からお月様からなんとなくそういうイメージが伝わってきたら従っていく。それが風流なのである。

九十九里浜で海を見ていても飽きないというのがこれである。ボキは、海からメッセージをいただく。ぼ~~~っとしているとあるメッセージが来るのだ。不思議な体験ばかりしている。これは東北の寒村で育ったボキにはまったくの不思議ちゃんであった。

その結果が、現在の楽しい「まだまだ若いジジイ生活」である。いつも若い男女に囲まれていて、楽しい・楽しい。千葉市の某高校や、居住地に近い某大学、学習塾のことである。

これらもまたあちらから流されてきた「頼まれごと」であった。

感謝である。

 

明日は孫(男児)の運動会。長女の住んでいる県まで出かける。日帰りである。新米を持ってだ。楽しみである。台風が来ているから、かなり心配だけど。

 

(´∀`*)ノ

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落ち込んだり、有頂天になったりしていたらアカンですなぁ。それだとただの気分屋でしかないから。

2018年09月27日 08時19分18秒 | 精神のありかた

ボキの課題は自分の力を見定めることなり。所詮、大したもんではないから。

 

 

自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と思うことができるかというのが、ボキの課題である。

事実、ボキはそのとおりの人間である。矮小なものだし、ろくなことをしてこなかったし、日常生活もきちんとしていない。掃除も洗濯も料理もできない。きちんとできない。やる気はあるのだが。

だから他人に説教たれることができるほど、立派じゃないのだ。

あたりめぇである。君子でもない。聖人でもない。ただのボンクラである。

ガキのころから、虫取りをして幾多の虫たちの命を奪ってきたしなぁ。

他人のことを笑うことはできないのだよ。まったく。

だから、ボキは落ち込むことがない。他人のことを笑えないということは、最低限の心境からスタートしているからである。有頂天になることがないからだと言い換えてもよい。

自分じゃどうにもならないことや自分ではコントロールできないことを、心配したり悩んだりしても仕方なし。それでもって、気分に波が出ていたら全くの無駄である。

気分に波ができるというのは、自分のことを高評価しているからである。こんなに俺は私は優秀なのに、なぜ勤務先あるいは他人は認めてくれないのだと慨嘆しているのと一緒である。

有頂天になるのは、自分が大したものであるという自己認識に他ならない。賞賛されるからである。こいつは大きな落とし穴である。必ず、ひっくり返される。奈落の底まで落っことされる。そして、気分が落ち込む。

だったら、最初から、俺は大物ではない、ちゃんとしたものではないと思っていた方が楽である。

そんな完璧な人間なんていないからである。仕事も人格も完全な人を「正しい人」「義人」というのだろうが、そんな人には出会ったこともない。むろん、ボキ自身は不完全人間だし。

もともと人間は、完全に正しい人間として生きることなんかできやしないのである。不完全で不十分で未熟なのである。それでいいのだ。やることなすことミスばかり。もともと人間というのは、そういうもんではないのか。

そう考えていれば、落ち込まない。もともと「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と思っていれば、落ち込むことはなくなる。体験しているからそう思うのだ。

ただし、努力は前提となる。普段から努力だけはしていた方がいい。

それでも、「大したものじゃないねぇ、君は」と言われてもニコニコ笑いながら肯定していればいいのだ。逆に舞い上がってしまうこともない。それだけ慎重に生きることができるというもんである。

自分の力だけで生きているんじゃないってことである。誰かのおかげで今があるのだ。それを自覚していると、失敗は防げる。

そういうのを謙虚に生きるということだと思うのである。

 

今日は朝から雨である。参ったなぁ。それに寒くなった。あれだけ暑かった夏がどっかに行ってしまった。体調の維持に留意しようっと。歩きにも行かなくちゃ。ショッピングセンターへ。

(^_^)

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人生の追い風は、「追い求める」人生には吹かない。「捨てる」ことにあり。まったく、今まで欲張りな人生を送ってきたからで・・・トホホ。

2018年09月23日 08時52分32秒 | 精神のありかた

捨てるか、追い求めるか・・・それが問題だ。現在のボキにとっては。ま、たいした問題ではないのだけれども。

 

 

「捨てる後半生」ということをシミジミ考えている。まさしくそうだ。今までやってきた仕事や、地位(ボキにはまったくないが)や、名誉(これもない)、収入もである。収入にいたっては、年金暮らしだから減る一方である。仕方なし。

この逆に「追い求める前半生」というのがある。否、あった。もう過去形である。仕事でやりがい、生き甲斐、収入、出世、マイホーム、マイカー等々いろんなものを追い求めてきた。若い人なら当然であろう。結婚して、子どもができてますます張り切るというのは当たり前である。

むろん、途中で挫折する場合もある。それはそれで、挫折したらやり直しのきくかぎりチャレンジしていくべきである。

なぜなら、後半生ではなかなか難しいからだ。やり直しは。すでに一定の評価を受けてしまっているからだ。でも、ボキはあきらめないけどねぇ。生涯学習ごっこをやっているのもそのためであるから。つまり惚けないで生きるというのがあるからだ。

成果も出している。そうなのだ。まだ惚けていないからである。それに生涯学習ごっこで修士もとらせていただいたし。そうなのである。若いときに修士課程で学んだのではないからである。

わははっはははっはっはははっはははっははははっははっはは。

 

手に入れる前半生、捨てる後半生と言い換えても良い。仕事につくのが前半生である。仕事というのは、事に仕えると書く。うまくできている。まさに、そのとおりである。事というのは次から次へとやってくる。向こうからやってくる。どのような職種でも良し。仕事を選択したら、なんでも追求して自分のものにしていくことである。若いときは吸収ができる。ドンドンできる。貪欲に学ぶことである。実践することである。

仕事をドンドン・ガンガンやっていれば、周囲に喜ばれる。そうすると収入も上がっていく。やりがいにつながる。

時に、ボキ&アタシは収入なんか要らないと聖人君子ぶっている方がいるが、あれは嘘である。それに収入を馬鹿にしてはいけない。収入あってこその生活である。米だって、買わなければ食えない。農家は別として、まさか農家からドロボーしてくるわけにはいかない。そりゃ犯罪であるからだ。

問題は、後半生である。人生の折り返し点を過ぎたら自分でなにかをしたいと考えるよりも、頼まれごとをされたら引き受けていくというのが楽だということに視点を切り替えていくということである。

一見、おとなしい消極的な生き方のように見えるかもしれない。しかし、喜ばれるのである。頼まれごとをしてくださる方は、困っているから頼むのである。今月から、千葉市の某高校で授業をやっているが、同じである。頼まれごとであるからだ。しかも、喜ばれている。生徒にである。動画を使った国語授業も展開しているし、漢文だって資料をかなり渡している。話題を発展させている。池上彰の「伝える力」には、そんなことが書いてあって、こちらは通信制高校の授業で用いている。それの応用である。動画を作っていく授業も企画している。絵コンテを描かせるつもりである(^_^)。

楽しいなぁと思う。

もう捨てまくっているからである。自我をである。わがままな若い時とは、まったく変わってしまった。金銭の亡者でもなくなった。株式投資もやらなくなった。第一、資金がない。ちょっと年金が貯まったら、海外旅行で逃亡してしまう(^_^)。

捨てるということが、人生後半生の「追い風」になる。毎日が楽しいからである。

明るく笑ってばかりのジジイである。

 

今日は、孫と一緒に剣道の大会を見に行く。長男が審判をしているからである。孫に父親の活躍している姿を見せてやりたい。これもまた捨てる人生の楽しみでもある。

孫がなにを感じてくれるか。

あ、まだ11ヶ月の女児だった。

 

(´∀`*)ノ

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/