と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「このままじゃいけない」「もっと向上するはずだ」「もっと努力しなくちゃ」=果たしてそうだったか?

2018年09月22日 07時30分15秒 | 精神のありかた

ゆるんで生きていこう。ゆったりと生きても、セカセカ生きても時間は平等に流れていくだけだから(^_^)。

 

 

ボキは、自分を許せない人間だった。「このままじゃいけない」「もっと向上するはずだ」「もっと努力しなくちゃ」というように、マジメな人間だった。

つまり、自分で自分を痛めつけていた。現状に甘んじることなく、努力こそ必須、まだまだ向上しなくちゃと焦っていた。

弦楽器の弦のようなものである。ぴぃ~~~~んと張っていて、緩みがない。いつもいつも緊張していた。成果を出したいと思っていた。

その結果、一日13時間も論文を書いていても飽きなかった。じっとしていた。某大学大学院に入学してからも、大学院生だけが入室できる部屋で閉じこもっていた。その代わり、知る喜びや調べる楽しさというのは十分味わったけど。

そして、その代償がエコノミークラス症候群で入院16日となった。某大学大学院も退学した。

まさに、ピーンと張っていた弦であった。張りすぎて、弦が切られてしまったのである。

自分の意志ではなかったと今になっては思う。天とか、神とかのご意志であったと思う。あらかじめシナリオが書いてあったのだ。

と~ま君よ、無謀なことをしたのだよんとおっしゃっていたのだ。

今になってよくわかる。

「ゆるみ」がなかった。その一言に尽きる。自分の神経を全部それこそフルに使っていた。

こうあるべきだという固定観念に凝り固まっていた。努力すべきだ、向上すべきだ、時間も無駄にしてはいけない等々。そういう固定観念に支配されていた。

自分を受け入れることができなかった。能力のない自分、博士になれない自分、論文が書けない自分が許せなかった。

某大学大学院を中退してから、海外旅行に行く機会が増えた。後半生の目的も目標もなくなったからである。

しかし、海外旅行に行ってみて、おおいに反省した。それはリラックスできたからである。リラックスすなわちゆるみである。時間の流れが国によって極端に違う。時差がある。今、朝であっても外国では別の時間である。

それに気がついたら、なにも焦って生きている必要はないと思い定めたのである。

それに、大学院で博士になろうがなるまいが、外国の人にとってはなんの関係もない。そんなもん、ただの紙でしかない。へぇそうですかと言われてお仕舞いである。

自分にも他人にも厳しく生きてしまったのだ。それが見えてきた。

これからは、自分に対しても他人に対しても「甘く」生きていこうと思っている。「緩やかに」「甘く」である。なにも焦って生きる必要はないということである。

ボキは、一生懸命、十分生きてきたからでもある。よく働いてもきた。37年間も、運動部(柔道、野球、バレーボール)の練習試合で土日もまったくなかった。さらに朝練習までやっていた。

もう良いではないか。

今まで十分やってきた自分を褒めてあげましょうと考え方を変えてしまった。

だから淡々として生きていくことができるのだとしみじみ思う。

 

昨日、千葉市の高校で4限目の授業が終わって帰ろうとしたら、4限目の授業をやっていた3年のクラスの生徒が「もう帰るんですかぁ~~」って聞いてきた。13:12分の電車で九十九里浜まで帰りたいからである。不思議だったのだろう。こんなに早く帰るのだから。心配してくれたのかもしれない。ありがたいものである。

こんなジジイになっても若い女子生徒に心配されてしまうのである。

ありがたい。本当にありがたい。

 

今日は、久しぶりに朝よく寝た。7:26である。一日ゆったりと過ごすつもりである。体のためにも、精神のためにも。

 

(´∀`*)ノ

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一切笑顔も見せないで、ブスッとしていたら運気も逃げていくのではありますまいか?

2018年09月21日 15時50分40秒 | 精神のありかた

ニコリともしない厳しい表情の某紳士を知っているが、何が楽しくて生きておられるのかねぇ。笑顔が一番、冗談も大いにやった方が人生楽しくて良いと思っているのだが。

 

 

エラク厳しい表情をしている方々と会うことがある。定年退職したのに、まだ前職にこだわっている方々である。やめたのに、思い出はつきないのだ。しかも表情が硬い。こわばっている。厳しい顔をしておられる。舐められてたまるかという強気がミチミチている。

ボキとハナシをしたがっている方というのは、****という部署にいたとか、ナントカという役職にいたとか、偉かったのだとかいう話題が多い。辟易してしまう。もうそんな話は関係ないではないか(^_^)。

もっとある。それは、古文書講座でお見かけする某紳士のことである。厳しい表情をされている。読み方が順番にくるから自分の番になったときに、ミスしたくないというわけである。緊張感がこっちにも伝わってくるのだ。しかも、おもしろくなさそうにしておられる。不機嫌なのかとずっと思っていた。そしたらそうでもなかったのだ。笑顔もない。誰ともクチをきかない。不思議な御仁である。

ボキ?

ボキは、わざとゆっくりつっかえつっかえ読んでいる。すらすらと読んでいたら、そりゃ約束違反である。だって、師匠があらかじめ解読されたノートを配ってくださるのだから、それを対照して読めばいいだけだからだ。つまり、自分の実力ではないのである。すらすら読める方が当然なのである。ま、それをわざとゆっくり読んでいる方もおかしな人間だが(ボキのことである)。

他にどう思われるかということは無縁の生活を送っている。関係ないのである。

どう思われようと、自分が楽しければいいだけの生活である。だから明るく生きている。さらに謙虚に生きている。可能な限り敬語を使っている。誰に対してもである。タメ口はきかないことにしている。その方がトラブルが少ないからである。

その結果、娘婿にすら敬語で接するようになった。あるいは長男の嫁さんにもそうである。タメ口をきかないようにしているからだ。

でも、思うことがある。究極的には人間は孤独だということをである。九十九里浜では、所詮ボキはよそ者であるということを実感しているからだ。親しい友人、つまりタメ口をきけるような友人は数少ないからだ。故郷にはいるけど。

どこまで行っても、ボキはそういう意識を持っているらしいのである。どっかに冷めた意識がある。だから、淡々と生きていられるのだろう。

何が起きても腹を立てないで生きていきたい。穏やかに生きていきたい。頼まれごとは的確に処理し、やるべきことはキチンとやる。そういう生き方が後半生の特色になってきた。

あまりギラギラしなくなってきた。

おとなしいだけのジジイなのだ。

わはっはははっはっははっはははっはははっはははっははは。

自分で言うかであるが。

 

今日は、15:44千葉市から帰ってきた。楽しい授業をやらせていただいた。ジジイだからこそ心許してくれる若人が多い。これもまたありがたいかぎりである。

さらに夜は塾である。夜バイトである。依頼があるだけありがたいもんである。

ぼけないからだ。

 

(´∀`*)ノ

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夢や希望を持って・・・とやっているよりも楽しさの追求の方が良い。

2018年09月20日 17時07分55秒 | 精神のありかた

楽しいから疲れない。目の前にある仕事を楽しくやっているからである。

 

 

「夢や希望を持って努力せよ」とか「他人を蹴落としても這い上がれ」とか「受験競争に勝つことだけが人生のシアワセだ」とか、まぁまぁいろんなことを言われてきた。そうやってジジイになってみて、これはちょっと違ったのではないのかと思うことしきりである。

特に、夢や希望を持って・・・という部分にはかなりの違和感を感じる。

なぜなら、夢や希望というのは、目の前にないからである。事実、目の前に存在しないから夢となり希望となる。

高級な外車もボキの目の前にはない。

豪壮な宮殿のような大邸宅に住んでいるわけでもない。

誰をも圧倒するようなチョーブランド高学歴もない

なんも欲しくないし、これからはひたすら年金暮らしだから、希望もない。あるわけない。希望なんかとは縁遠しである。それで良いのだ。

そんな程度の夢や希望を持っていると、永久に渇望感でもって悩まされるではないか。

くだらない夢や希望を持っていると、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれも足りない、これも足りない」と、足りないもののオンパレードに陥る。そいつはかなり寂しいことである。

 

自分がなにをしたいのか、どうなりたいのかという自問自答ばかりしているのも、だいぶ危険である。少し離れてみるのも良しである。

価値観を変更してみるのである。これまで、いろんな方々から教育されてきた。特に母親からの影響が大きい。まるで母親の期待どおりに生きてきたような気がする方々は、かなりいるのではないのか。

親が、子どもを思い通りにしたいからである。子どものことはそっちのけ。影響力を及ぼして喜んでいるという構図がかなりある。

だから自立できないのである。子どもがである。自分で生きていけないのだ。自分で考えないから、夢も希望も母親から伝達という名の押しつけをされてそれを自分のモットーにしてしまうのだ。

そしてそれに気がついていないのがいるのだ。

 

気がついた男女は、強くなる。強く生きていくことができる。そういう男女は、楽しい人が多い。当たり前である。自分で生きているからである。楽しさを自分で見つけて、それなりの努力をしている。

したがって、経済生活もけっしておろそかにしない。銭を馬鹿にしちゃアカン。

聖人気取りで、霞を喰って生きていくから、銭が欲しい人は馬鹿であるとか、純粋ではないと思っている人はちょっと改めた方がいい。

夢や希望やシアワセを追い求めている人は、「自分は楽しいことをやっているのだろうか?」と問うてみたらいい。楽しければ問題なしである。

 

さ、これからボキは夜のバイトに行く。塾である。千葉市の高校で授業をやってきたから普通は疲れるのであろうが、疲れない。なぜか。それは楽しいからである。

(^o^)/~~~

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優先事項というのは、約束がいつ入ったかというのが大事だと思うのだが。まったくそのとおりである。

2018年09月19日 08時03分51秒 | 精神のありかた

よく考えてみれば、優先事項なんて確かなものではないんですなぁ。

 

 

優先事項というのがある。すべてのことにおいて、「これは重要」「これは重要ではない」という分け方である。

ビジネス世界では当然の考え方であろう。

しかし、果たしてそうだったのか。ここで過去形を使っているのは、ボキは今現在ビジネス社会に生きているわけではないからである。もっとも、これまでもビジネス社会で生きてきたわけではない。そんなことを言ったら、おこがましい。

ボキの乏しい社会体験でも、重要か重要ではないかということはあまり関心がなかった。

要するに、いつ予定を入れたかという順番が大事なのであって、どの予定を優先するかというのはまた別問題であるからだ。

よくドタキャンする人で、「ゴメン!予定が入ってしまった」という方がいるが、そりゃ違うだろう。予定が入ったのではなくて、入れたのは自分だからである。つまり、キャンセルするほど急いでいたのだろうけど、そりゃ相手に失礼である。別の予定が入ったからという言い方はしないほうが良い。そんなんだったら。それこそ友人を失ってしまう。

用事や予定というのは、「はいっちゃった」のではないのである。「入れちゃった」のである。自分がである。だから、スケジュール管理が大事なのであるが、これもまた度が過ぎるとアカン。

時間のためだけで生きているようなものであるからだ。いくらスケジュール管理をしても、人生のシナリオなんてあらかじめ決まっているのだ。いつ病気になって、いつ死ぬのかも決まっているとボキは常日頃から感じているのだ。ジタバタしたって、始まらんのだ。

冗談で、ボキの方が、私の方が早く死ぬとか言っている方がいる。佳人薄命とか美女は長生きできないというのと一緒である。美女だから早死にしてしまうからだとも言う。自分で言うかである(^_^)。

冗談でもそんなことは言わない方がよい。実現してしまったら、話にならんではないか。

ジタバタしないというのはそういうことである。そういうこと。

だから、ボキは「頼まれごと」が来たら引き受けることにしている。いつ入ったかという観点からだけで引き受けている。

後から入ったら、それはお断りしている。でないと失礼になるからだ。ゴミ出しを家人から頼まれていたら、それは以前からの「頼まれごと」である。だからやる。ただそれだけのことである。

それをである。有料の「頼まれごと」だからやる、お世話になった人だからやる、他の人ならやらないというのではいかがなものかと思っているからでもある。先に来た方を優先するだけである。

 

さ、今日は午前中に古文書講座を受講してくる。夜は中国語講座である。楽しみ、楽しみ。

(^.^)/~~~

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実践こそ大事だと思うけど、本来そんなもんはしなくてもいいことばかりかも。そう思っていると気が楽になる。

2018年09月18日 18時59分46秒 | 精神のありかた

しなくてもいいことを、自分の意志でやってみようというのが大事なことだと想定しているのだ。ま、ボキだけそう思っているというだけだけど(笑)。

 

 

「自分の意志でなにかをしよう」というのが大事なことだと思っている。しかもそれは本来「しなくてもいいこと」と思い定めていると気が楽である。むろん、これはボキだけがそう思っているというだけで、それを他人に押しつけようとかはこれっぱかりも考えていない。

そういう意味で、拙ブログはまったくの独り言であって、まさに自分に語りかけているだけである。自分の考えを打鍵してみて、確認しているだけでしかない。

昨日、国立歴史民俗博物館に行ってきた。「お化け暦と略縁起-くらしのなかの文字文化-」(第4展示室)というのがあったからである。楽しみにしていた。古文書もあるのかなと思ったので行ったのだが、こっちの方は期待外れ。

ま、いいか。行っても行かなくてもどうでも良いような話である。道楽でやっている趣味の世界であるから。

それに久しぶりにクルマを動かしたし。たまには遠出しないとバッテリーに悪い。

十分楽しんできた。沖縄の映像資料にはまったく驚いてきたが。この担当の総合研究大学院大学の准教授の女性の先生が担当されたのかもしれないし。たぶんご担当なのであろう。ちょっとお会いしたことがあって、大学院進学の相談に乗っていただいたからである。

結果的には進学の夢はかなわなかったけど。

それにしても、この資料数で、環境で論文書きをしていたらおもしろかっただろうなぁとは思ってきた。蔵書数もダントツであるから。しかも専門書のみ。古文書の数ときたら、モーレツである。

しかし、また病気になったらアカン。一日10時間以上はこもりっきりになってしまうだろうから。

なにしろ厭きないのであるから、始末におえない。机にしがみついて、動かない。当然、エコノミークラス症候群になってしまう。またICUに入るのはごめんである。

と、ここまで打鍵してきて、ハタと気がついた。そりゃ自分のためだから楽しいのであって、それこそハタから喜ばれる行為であろうかということである。家人が特に喜ばない。病気になってほしくないからである。お互いの趣味である海外旅行にも行けなくなる。海外旅行というのはリラックスの極地であるからだ。世界には知らないことがたくさん落ちているし、食事も観光も楽しい。

あまりケチケチで暮らしているとお金も回らない。お金は入ってくることを心配しているよりも、回すことである。回るから、世の中が循環する。死んじまったら、あの世にまで持っていくことはできない相談である。

リラックスして生きることである。しかも、薄味で。薄味なら、他人は厭きない。あまり個性が強いと人は寄ってこない。当然、孤独になる。

ステーキと一緒である。毎日ステーキを食わせられたら、ゲップである。胃腸がやられてしまうではないか。

それよりもお茶漬けの味である。

減塩した味である。

濃いめの味は、人生を間違ってしまう。

他人をどうにかしようと思っているから、個性豊かな濃いめの味になってしまうんだよんとマジに思っている。

プラス「自分の意志でなにかをやる」ことである。実践である。実践していなければ、生きている自覚も持てない。理想論ばかり言っていたって、そんなのは学者さまにでも任せていればいい。

 

今日もアルバイトである。千葉市に行ってくる。橋本武先生のように、いろいろな資料を使って古典の授業をやってくる。楽しみである。それだけだけど。

夕方相撲を見る時間までには帰ってきたい。なんと言っても稀勢の里ファンなので(^_^)。

 

BYE-BYE!

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もうおぼれても良い、これで結構だと力を抜くと浮かびあがるのである。ゼロラインである。

2018年09月17日 08時35分06秒 | 精神のありかた

初めからゼロラインを想定していると、結果がおもわしくなくとも絶望だけはしないというもんである(^_^)。

 

 

ボキは、奥州の山奥で育ったから水泳が大嫌いである。なんと言っても川で泳ぐしかなかった。それも最上川上流の吉野川という川で川幅が5メートルくらいしかなかった。そこで遊んでいただけである。楽しかったけど。

小学校の4年生くらいから町のプールができた。しかしそこは有料だった。貧乏な町役場職員の亡父と小学校の教師であった亡母を両親として生まれ育ったから銭がなかった。だから川で泳いでいたのである。

で、どうしても嫌いだった理由がある。それは知らず知らず力んでしまって沈んじゃうのだ。これは困った。近所のガキどもに馬鹿にされたからである。それを心配した従兄弟にもう亡くなったが、ショウジさんという方がいて、ボキを特訓した。一度なんか、岸辺から放り投げられたことがある。当然、ぶくぶくと沈んでしまった。

そのときである。

突然開眼したのである。もう沈んでしまってもいい、もうこれでボキの人生終わりだと思って力を抜いたのである。

そしたら、びっくりした。

なんと、浮かび上がったのである。ショウジさんが拍手してくれた。ボキも大いに喜んだ。生まれて初めて泳げたのである。ありがたいものであった。

この体験があるから、脱力が大事だとしみじみ思うのである。

つまり、基本的にゼロラインというものがあるんだということである。ゼロラインというのは、そうならなくても良いというものである。初めからそう思っていると気が楽である。

基本的に、「どうしても浮かびたい」という思いがあるとそうならないのだ。もういいや、沈んでもいいやと思うと浮かぶのだ。気持ちがゼロになると、自然と体から力みがとれてしまうのだ。ゼロラインというのは、そういうことである。

太極拳なんかもそうだろう。力むとロクなことはない。柔道もそうだ。さらに仕事でもそうだ。力いっぱい力んでいると、結果的はことごとく失敗する。自分が堅くなってしまうからである。人間関係もそうだ。なんとか円滑にやりたいと思えば思うほど人間関係は悪くなる。だから、会いたくない人とは会わなければ良いのである。仮病を使ってでも会わない。しかし、仕事でどうしても会わなくちゃアカン場合もある。そういう時は仮面をかぶれば良いのである。すくなくともボキはそうしてきた。それでもって急場をしのいできた。こつは敬語を使って遠ざけるのである。そしたら、人間関係が濃密にならなくてすむ。

夫婦間は難しいだろう。仮面をかぶってでもアワナイという場合もあるだろう。そういうときには無理せんほうが良い。そういう夫婦には、かまってあげないことにしている。さっさと別れてしまいなと申し上げることにしている。そうすると、え?そんな結論で良いのですかと言われたときもある。つまり、説得されたがっていたのだ。引き留められてみたかったのである。後は、銭勘定が支配する。慰謝料の問題である。それを覚悟で結婚したのだろうから、致し方なし。

鬱病もそうだ。かまいすぎると、だんだん症状がひどくなる。ある一定のガイドラインを設定しておいて、このレベルを超えたらドクターのところに行くとしていたら安心である。愚痴を聞いていれば良いという方もいるが、かまいすぎるから暗くなる。暗くなるから鬱になる。結局は、自分が治すしかないのである。

この自分が治すというのは、ボキの糖尿病克服の記憶と一致している。食事療法と運動療法で克服したからである。アルコールを飲むのも自分。病気になるのも自分。自分が選択したからそうなるのである。

ゼロラインというものを基本的に持っていると、いろいろうまくいかなくなっても立ち直れる。

人生万事塞翁が馬である。

 

今日はこれから佐倉の歴博に行ってくる。あそこにある総合研究大学院大学には一度ならず入学を検討した大学院である。あこがれの施設である。博士課程しかないけど。楽しみである。

やりたいことはいっぺぇあるのだ。

わははっははっはははっはははっはははっはははっはははっは。

 

(^.^)/~~~

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なにも事件が起きず、毎日普通の生き方をしていることがありがたい=天からの最高のプレゼントである

2018年09月16日 08時36分42秒 | 精神のありかた

波瀾万丈よりも、毎日がなにごともなく普通に淡々と過ぎていくことがありがたい。居住地の神社でもお礼を言うだけでお願い事はしたことがないし。宝くじも当たったこともないし(^_^)。

 

 

仕事をしている時代には、毎日が同じことの繰り返しでつまらないとも思っていた。しかし、あるときからかなり変化した。やることが大変化した。学校をよみがえらせるために粉骨砕身努力した。この時期が実に楽しかった。成果も出た。

しかし、だからと言ってそれがなんになろうか。自慢して言っているのではない。

なにも起きない、変化しない、一見つまらない日常であっても良いのだと最近は思っている。

淡々として生きている、あるいは淡々と過ぎていく今のこの瞬間が幸せの本質なのではないだろうか。

波瀾万丈という生き方がある。そういう名前のテレビ番組もある。しかし、波瀾万丈というのは周囲から見たらそう見えるだけであって、波瀾万丈の生き方をしているご当人は自覚がないのだろうと想像している。

生きているただ今が、すべてであって、なにもオノレの生き方が波瀾万丈だとは思っていないからである。

ボキだって、新聞配達しながら苦学したことを従兄弟たちに波瀾万丈だと言われたことがある。従兄弟たちにすら、ボキの生き方は普通じゃないと受け止められていたのであった。本にしてみないかとも言われてしまったが、それはいくらなんでもできない。才能がない。やる気もない。

なにも事件が起きず、毎日普通の生き方をしていることがありがたいのである。天からの最高のプレゼントだと思っているのだ。朝、目が覚めたことも奇跡である。本当なら、昨夜のうちに死んでいたのかもしれないからである。

そして、やおらウオーキングに出かける。朝日が上ってきたら最高である。パワーが伝わってくる。今朝もすでにMetsで5000歩は突破した。しかも早歩きである。おかげで、血糖値も正常で、糖尿病の薬ともオサラバしてもう二年になる。

なにかが起きてくれたら最高なんだけど、という言い方は危険である。幸せというのがあっちから来てくれると思っているからである。幸せというのは、来てくれるものではない。むろん、こっちから迎えにいくものでもない。

今、現在がすでに幸せなのである。本来、幸せなのである。手かせ・足かせから自由になっていることが、幸せというものである。

水前寺清子さんの歌に「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」というような歌があったような気がする。でも、ボキは、この歌は、ちょっと違うような気がするのだ。努力が前提にあるのだろうけど、努力しても精一杯努力しても駄目だったらどうするのか。

そうじゃないような気がする。

失敗しても挫折しても受け止め方次第なのである。

今のこの瞬間を大切にしていれば、道は開けるような気がするのだ。

今朝のウオーキングで毎朝寄ってくる神社がある。家人の女子校時代のクラスメイトが神主をしている神社である。拝殿にむかって、作法通りにお辞儀して「ありがとうこざいます」とお礼を言ってきた。ちなみに、ボキはお願いごとを一切しない。病気治癒もお願いしない。宝くじが当たりますようにともお願いしない。100歳過ぎまで生きられますようにともお願いしない。

ここから先は神様こそ知るである。

わはははっはははっははっはははっははっはははっははは。

 

(^_^)ノ””””

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楽しい生涯を送りたいものである。自分が楽しければ、周囲も明るくなるから。バイト三昧の後半生でもあるけど。

2018年09月14日 18時41分01秒 | 精神のありかた

中勘助の銀の匙を扱った灘高校の橋本センセのように生きてみたい。最も尊敬している方であるから。楽しい生涯であったろうなぁと思うので。

 

 

なにが正しいのかと思うことがある。あるがクチには出さないことにした。社会現象万般のことについて、マスコミをはじめとしてまぁまぁうるさい。首相批判に始まって、いろいろな組織のあり方について、全否定ばかりしている。

本当にそうだろうか。そんなにデタラメなものばかりだろうかと疑問に思う時があった。果たしてマスコミの言っていることは正しいのだろうかということである。

マスコミの言うことを鵜呑みにして、ボキも一丁前に社会批判をしたことがあった。

しかし、今はちょっと違う。

全部自分の思うとおりにしたいとは思わなくなったからである。相手を、社会を自分の思うとおりにコントロールしたいというのは、不遜であると感じるようになったからだ。

家族関係でもそうだ。家人を思うとおりにコントロールしたいと思ってもそんなもんは不可能である。自分とは一心同体だと思うから、腹が立つのである。

たとえ自分の子どもであっても、思うようにならないのが家族である。

だったら、そういう現実を受け入れるしかないではないか。

そんなもんで、グチャグチャ悩んでいるよりは、「自分にとって楽しい」と思われるようなことをやったほうがずいぶん良い。自分が楽しければ、他に喜ばれる。他が喜んでくれるのならば、自分も楽しい。好循環である。

毎日が楽しくなる。自分も他人も、家の中も。それにアルバイト先でもそうだ。

働いているとどうしても評価される。他人からどう見られているかということが気になる。そりゃしょうがないことだ。

まだ現役の仕事人ならば、そりゃ仕方なし。会社には勤務規則もあるし。

ま、ボキは、定年で引退してしまったから、自由自在に生きている。評価もまったく気にならない。誰がなんと言おうと、ボキの評価が低かろうと関心がない。関係ないからである。しかし、そんなボキでもトラブルは起こさない。自分が楽しいからである。楽しくアルバイトをさせていただいていれば、周囲がよくしてくれるのだ。今日もこれから行くが、千葉市の某高校でも楽しいから同僚の方々も親切だ。さらにボキの胸にぶら下がっているネームプレートも、カードとネームカードの入れ方が逆だと直してくださるのだ。女子生徒がである。こんなことは初めてであった。長いこと学校関係で仕事をさせていただいてきたが、初めてである。

楽しいものである。だから必然明るくなる。そりゃそうだろう。こっちが生き生きとしていれば周囲も明るくなる。なにがなんでも明るくふるまうことである。

そうして「ありがとう」と感謝していれば、ありがたいことが向こうからやってくる。

 

中勘助の銀の匙という作品を材料に、これ一冊で3年間授業をやったあの名門高校の灘の橋本センセという方から教えていただいたことでもある。

ちなみに、小学館文庫のHPにこんな紹介がある。橋本先生の解説付きの文庫の方である。

 

>漱石絶賛の名文が伝説教師の解説付きで甦る

古い茶箪笥のひきだしから小さな銀の匙(さじ)を見つけたことから、幼年期の叔母の愛情に包まれた日々を、透き通るような無垢な目線で回想していく主人公。明治43年に前篇が執筆され、夏目漱石の「子供の世界の描写としては未曾有」という絶賛・推挙により、大正2年から東京朝日新聞で連載された、中勘助(1885-1965)の自伝的作品。戦後の灘中学でこの作品を3年間かけて読み込む授業を実践、同校を名門校へと導き、中本人とも深く交流した橋本武(現在100歳)による当時の授業を再現する[解説]を全編に掲載。本文の理解を助け、横道にそれる橋本授業の真骨頂を体験できる、[知的ヒント]と[気づき]がちりばめられた1冊です。

※橋本センセは、2013年に亡くなられたけど。

 

こういうことをボキはやりたいのである。100歳まで。

 

わははははっはははっはははっはははっは。

 

さ、今日も元気に千葉市に行ってくる。さらに夜は塾に行く。数学のⅠの問題が昨日できなかったから、往復の電車で参考書とにらめっこである。

楽しいなぁ。

アホのごとく楽しいですよん。(アホだけど)

 

BYE-BYE!

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世の中のおかーさんに物申し上げたい。大切なのはなんなのかということで。

2018年09月11日 22時52分29秒 | 精神のありかた

母心の大切さは、古来変わっていないのである。思いやりの心で子育てをすべきである。とりわけ男の子は、母親の存在がでかいと思うから。

 

 

母親が「思いやりの心」を持って子育てすることによって、いい子供が育つ。ということを何かの本で読んだが、然りである。まさにこのとおりである。

ともすると、母親というのは、子供を「自分の思うとおりにしたい」という欲求にかられる。それが母親としての愛情だと錯覚する。そりゃそうだろう。自分の腹を痛めて出産したからである。自分の所有物だと思っているだろう。だから、子供に対して要求度が上がる。厳しく接してしまう。

そして、途中で子供の反抗にあって挫折する。

一流大学に入れれば、我が子は生涯仕合せだろうと思う。それはそれで反面当たっているから一概に否定はできない。それもまた母親としてのありがたい側面でもあるからだ。

しかし、だからと言って無制限に厳しくしてもよいというものではないだろう。自分の人生が失敗したからせめて我が子には成功してほしいというのはよくわかる。でも、だからと言って我が価値観を押しつけるのはいかがなものか。

我が子をコントロールしたいという我欲の現れなのである。

子供にしてみればおおいに迷惑である。

母親からの独立が妨げられるというものである。いつまでもかまっていることはないのである。

ほっとけば子供は育つ。

特に女の子はとりわけ丈夫に育つ。このあたりは、女性陣特有のたくましさである。

我が孫たちを見ていても、女児はたくましい。生命力にあふれている。健康的でもある。弱弱しさがない。だから女は怖いのである。たくましいからである。

よく言われることで、女性は繊細で、風が吹けばなよなよとしているというのは、ありゃ嘘である。

後天的に学習した結果、生きるための方法・手段として女はそういう能力を得たのである。

つまり、男女差別があったから、女性は我が身を守るために弱いようなふりをしてきたのである。男は戦争、女は家庭にあるべしという文化があったからである。ある意味、生きていけないのであれば、そりゃ当然の行為であったろう。

しかし、女はたくましいのである。なんといっても、出産できるのだから。男は絶対耐えられないであろう。

生物学的にも女性優位である。男は、付け足しで生まれてきたようなものである。そもそもが不要なのである。動物界でもそうではないか。一人の雄がいれば事足りるのである。ライオンだって、雄が一頭いれば、群れは維持できるというではないか。選択権は雌のほうにある。選ばれなかった雄は、ずっと孤独のままである。

ある意味人間界と一緒である。否、人間のほうが、動物界から発展してきたのだから、女性上位は古来からの文化であったのだ。

 

今日も千葉市にいた。午後3時41分の電車で居住地まで帰ってきた。充実している。これまたアルバイトをやってきたのであるが、良いものである。選択権がこちらにあって、アルバイトを選んでいるからである。自主性と言い換えてもいいのかもしれない。

記事のアップが遅くなってしまったのは、そういう理由による。

さ、もう寝よう。

 

明日も生きて目が覚めることを願いつつ。

(笑)

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自己嫌悪は天からのプレゼントであると思ってきたが、間違いはなかったような気がする。

2018年09月10日 08時11分00秒 | 精神のありかた

自己嫌悪も他人との比較の上で成り立っていることでしかない。なにも悩むことはない。オノレはオノレ。他のヒトのために生きているのではないからだ。

 

 

すべてのことを「受け入れる」というのが重要だと思ってきた。反対にすべてのことを拒否していると、なかなかこの世の中を生きていくのが辛くなってしまう。

仕事の面でもいろいろとあった。出世出来ないとか、上司の受けが悪いとか、重大な失敗をしたとか経験させていただいた。今となってはアリガタイものであった。

ボキは、本来自己嫌悪の強い人間である。今でも、時々自分が嫌になることがある。これまで生きてきた時間の中で、多くの方々に迷惑をおかけしてきた。慚愧の思いである。

だからである。

さらに能力もない。今でもない。英単語なんか次から次へと忘れてしまうし。

カミの毛もない。こっちは遺伝でもある。

わはははっはははっはははっはははっはははっはは。


だから独り言のように自分を自分でバカと言ってしまうのである。すこしおかしいのではないかと長女にも言われたことがある。

それほど、自己嫌悪が強いのだ。プライドなんかまったくない。世の中でボキほどつまらない人間はいないと思っているし。

そういう意味では、若い人でいろいろと悩んでいる人にアドバイスできるのかもしれない。

自己嫌悪が強いからである。そして、そこから立ち直ったからである。

その立ち直りのコツが、「受け入れる」であった。

そもそも自己嫌悪するのは、たとえ自分がつまらない人間であったとしてもそういう自己規定を受け入れられないからである。原因はそこにあるのだ。

自分で自分をつまらない人間であるとか、悪業三昧であるとか、そういう自己規定をしているからそれを嫌悪するわけである。

だったら、全部を「受け入れる」しかない。良い点も、悪い点もである。

しかも、「自己嫌悪は天からのプレゼント」だと思えばもっと気楽になる。

嫌悪しているタイプの人間にならないようにと天が注意してくれているのだ。そう思えば良いのである。

父母の期待に応えられなかったからと言って自殺するような大学受験生も多いと聞く。一流の高校に学ぶ受験生である。父母の期待が縛っているのである。

もっとある。W大学に入りたくて、浪人を10数年続けていた人を知っている。新聞販売店にいたのだ。もう30歳を過ぎていたのにどうしてもW大学でないとアカンと言っていた。彼も、生きていたら80代になっているだろう。

つまり、W大学に合格できないという自分を「受け入れられない」のである。

ダメなときはダメ。そういう人生もあるのだ。

ダメだったら、また別の道を歩むこともできるのだ。その道すら閉ざしてしまうようでは一生浮かばれない。

自己嫌悪も比較の上で成り立っているだけのことである。比べないことである。

そんなもんで一生を振り回されたくないではないか。

オノレはオノレ。

他人のために生きているのではない。たまにふれあいがあればそれで良しとしなくちゃならない。

ボキは、そんな風にして生きてきた。だからノイローゼにはならなかったのである。風が吹いてきたら、流されて生きてきた。

淡々として生きるというボキのモットーは、そういうことなのである。

 

今日は朝ウオーキングに行ったら、途中から雨が降ってきた。

(*_*) マイッタ。

5000歩(Metsで)しか歩いていない。ショッピングセンターでも行って歩いてくるつもりである。

雨が降ってきたのも「受け入れる」しかないからなぁ~~~。天気のことまで、オノレの思うとおりになるわけがないからだ。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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気にしない、気にならないというのが淡々として生きるコツみたいなもんであります(^_^)

2018年09月09日 09時24分10秒 | 精神のありかた

「気にしない」「気にならない」というのが一番良い考え方ですなぁ。マジに。体験上。

 

 

指導と称して、学校や家庭でグチとか文句をつけているのと変わらないことを言っている人が多い。中には、暴力を振るうモノもいる。学校も家庭でもある。

こういう学校や家庭で育った人間は、うつになってしまう。教師や親は、良かれと思ってやっているけど、それは抜本的にアカン。

暴力以外に解決の方法がないと教わった子どもは、人生が・世の中が暗くなってしまう。

通信簿の成績が悪かったからといって、いちいち殴られていたらたまったもんじゃない。

ボキがその良い(悪しき)例であった。亡父は、軍人上がりで、しかもシベリア抑留体験までした人間である。徹底的に人間不信であった。戦友仲間を遠いシベリアの地で喪った体験は、今ならわかるような気がする。ともかく亡父は怖かったのである。

そして徹底的に殴られた。精神がぶったるんでいるといつも言っていた。確かにボキはぶったるんでいる見本である。やる気も本気も外面に出てこない。ひたすら、淡々として生きているだけであるからだ。

成果も目標もない。あるわけない。仕事がない。

わははははっはははっははっはははっははっはははは。

 

だから周囲に問題を抱えている方がおられたら、真剣に聞いてあげることも大事である。

大事であるが殴ったりしたらアカン。

そしてもっと大事なことがある。

それは、「気にしない」ことである。周囲の方々がである。特に、うつの人にはあらゆる励ましが逆効果になってしまう。ガンバレ、ガンバレはうつの人には、自己否定の言葉としか聞こえない。芝居で、演技でうつを演じているのだろうとか言っちゃいけない。かえって重症になるからだ。

周囲の人たちは、「気にしない」ことだ。むろん経過観察はしておきたい。ある一定レベルの症状を超えたら即ドクターに診てもらうしかない。だから、観察だけは怠ってはならない。

家族の間で「気にしない」「気にならない」という雰囲気を作ることも大事である。

いつも笑いの満ちた家庭でありたい。馬鹿笑いでも良し。笑いの絶えない家庭でありたい。

それをである。渋面作って、眉間に皺を寄せていたら子どもだって暗くなるではないか。

世の奥様方も、亭主に嫌味やグチ、文句ばかり言っていないことである。亭主なんかおだてれば良いだけだ。あ~たは素晴らしい、いつもさわやかに働きに行ってくださってありがとうねぇとでも言っていれば良いのである。オトコは、そういう女房ドノに弱いのである。そして一生懸命働いてくれるのである。

オトコなんて、母親からの賞讃がなければ生きていけないのである。褒められたくて頑張っているのだ。特に母親からである。それほどオトコは弱いのである。

なにかの本で読んだことがあるが、オトコは1000ccの血液を失ったら死んでしまうそうな。

オンナはそんなことはないそうである。そもそも毎月一回は血液を失っているし、丈夫なのである。戦車のようにである。

「気にしない」「気にならない」という家族の雰囲気を作っていれば、大丈夫である。

 

他人からどんな風に思われていても、同じである。「気にしない」「気にならない」というのが基本にあれば、強く生きていけるというもんじゃよん。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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倒れても悔いなし。世間への恩返しであるのだから。マジに。

2018年09月08日 08時12分10秒 | 精神のありかた

他人に必要とされているうちが花である。淡々と頼まれごとをやっているしかない。その結果倒れても仕方なし。それきりの人生だったのだから。なにもすることがないというのが、諸悪の根源である。

 

 

今日も千葉市に出かける。千葉市民会館である。歴史の会がある。文化講座と古文書講座である。ボキは文化講座の方に登壇させていただく。「敦煌と鬼来迎 日中比較藝能史からの一仮説」という演題である。動画を使って話をさせていたく。午後1時からである。

歴史の会では、この5月の総会に間に合わないからということで、ボキは会長代行にさせられてしまった。でないと予算決算案が通らないからである。

こんなことになるとは夢にも思わなかった。元会長にお世話になったから、楽しみで行っていた歴史の会である。元会長というのは、ボキの勤めていた農業高校の校長で、ボキはそこで実に八面六臂の活躍をさせていただいた。なにしろ、教務主任なのに柔道着を着たまま明日の自習監督割を作っていたのである(^_^)。それから再度柔道場に行って生徒と一緒に稽古していたのだ。関東大会にも出場したから、それなりに思い出はあるのだ。

この歴史の会会長代行というのも頼まれごとである。入会させていただいた時は、まだ某大学大学院生であった。なにしろ定年後に入学させていただいたのだから、毛色の変わった院生であった。

おかげで勉強になった。大きな財産になった。自己満足だけど。

比較文化が某大学はウリであった。だから入学したのである。かなり有名な学者につくことができた。退学になったからもう実名をあげさせていただいても良いだろう。三木紀人教授(お茶の水女子大学名誉教授)であった。中世文学では日本を代表するような泰斗である。著書もかなりある。そして、それから3年間先生に教えていただいた。一対一の時もあったし、クラスメイトと言っても非常に少人数で教えていただいた。憧れの先生であった。

で、歴史の会でもって、さらに磨きをかけていただいた。学芸員の先生方とか、それこそ専門の先生方がたくさんおられた。古文書も相当なレベルにある。

わからないことだらけであった。否、今でもそうだ。能力不足は否めない。

大学院での勉強と同時進行であった。

これが効いた。かなり効いた。クスリがである。

だから尾畠春夫氏ではないが、「世間への恩返し」である。これまでお世話になった方々への。

 

現在、火曜日と木曜日と金曜日に某私立高校で授業をさせていただいている。古典と言語理解である。さらに、木曜日と金曜日には学習塾。前期だけだが、木曜日は某大学で授業である。水曜日は千葉市にある通信制高校。あとは、不定期で交通安全講話をやらせていただいている。微妙に実施時期が異なっているから、可能なのである(^_^)。

と、書くとかなり多忙に見えるかもしれない。しかし、時間数にするとそんなに多くはないのである。

頼まれごとを淡々とやっているだけである。その結果倒れても我が人生に悔いなし。どうせ永遠に生きているわけにはいかないのだから。

 

わはははっははっはっはっははっはははっはははっははははっはは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ 

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頼まれごとをしていながら、ひたすら流されていくのだ。目の前にある仕事を淡々と淡々とこなしていく。

2018年09月07日 18時20分44秒 | 精神のありかた

ただ淡々とひたすら淡々と頼まれごとをこなしているだけである。楽しい。実に楽しい。

 

 

頼まれごとを引き受ければ、おもしろい展開が待っている。今まで考えてもみなかったような人生が待っているからである。これは実感である。それをである。不遜にも断ってばかりいると相手にされなくなってしまう。

頼んだ方が、相手にされないとわかってしまうと、ナンダあいつ!となってしまう。声をかけたくても、かけにくくなる。当然だろう。

だからと言って言われたことを全部引き受けることもない。経済的に無理ならば断ってもいい。あるいは借金の申し込みは断るべきである。友人関係が破綻するからである。

これがボキの生き方の基本なのだ。

頼まれごとをしていながら、ひたすら流されていくのだ。目の前にある仕事を淡々と淡々とこなしていく。それでもって他人に感謝されたりしたら、こんな喜びはない。ありがたいものである。

今週はそういう頼まれごとを通して、実に充実した一週間を過ごしていた。第五番目のアルバイトである。千葉市まで出かけなくてはならないのがちょっとしょうもないが、これまた時間がたっぷりある。電車の中で過ごすことができるからである。往復3時間。中国語の勉強もしていた。帰りは寝てしまったけど(^_^)。

第五のアルバイトでよく話をする御仁もできた。専門が一緒だから、話に花が咲く。親切な御仁である。いろいろと教えてくださる。これが良いのである。

こっちが腰を低くして、教えを乞うとたいていの方は指導してくださる。事実、なんにもわからないから教えてくださいと願っているからである。こっちがである。

世の中は、そういう関係性でてきているのだ。

わからなければ聞けば良し。

メモでもとっていれば一大データベースになってしまう。だから、ありがたいのである。

それをである。

さも大物であるかのように振る舞い、威張っていたらアカン。所詮たいしたもんではないのである。ボキが特にそうだが、ボキは一介の庶民である。ゼニもなければ、カミの毛もないではないか。

わははははっはははははっはははっははははっはは。

強欲に生きていたらアカンでっせ。

世の中の全部のゼニを集めることなんかできないのだから。

たとえ集まったとしても、あの世まで持っていくことはできないではないか。

執着しないことである。

さわやかに生きていくことである。あのスーパーボランティアの尾畠春夫氏のようにさわやかに生きていくことである。尾畠氏だって、頼まれごとをしているだけであって、なんの執着もないではないか。

見習いたいことの筆頭である。

 

今日はこれから本日二つ目のアルバイトである塾に行く。

これまた楽しいものである。

タダひたすら流されているだけだから。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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川の上流から流れてきたというのが実感。童話の桃太郎みたいである。

2018年09月05日 06時58分38秒 | 精神のありかた

流されて生きてきたから、肩に力が入っていないのだ。ボキはそういう生き方をしてきたし、これからもそうなんだろう(^_^)。

 

 

ボキは強い強い決意と目標を持って生きてきたことはない。ある目標を自分に設定して、しゃかりきになって努力したこともない。他人に勝つことのみをオノレの課題にして、蹴落とし、蹴落とし生きてきたのではない。むしろ敗者経験の連続でもあった。世間的にはである。だから、強くなってしまったのかもしれない。挫折体験についてである。

人間関係で死にたくなったというようなこともない。トラブルには悩まされてきたが、そういう現象はそもそもがゼロだと思い始めてからは、まったく気にならなくなった。ただし、全面的にトラブルを忘れているわけではない。許しているわけでもない。気にしないことにしたのである。気にしていないのであるから、相手にしない。関わらない。アワナイのであるから、仮病を使ってでも会わない。これが一番良い。

仕事だって、いつのまにか向こうからやってきた。依頼とか頼まれごとだった。

川の上流から流れてきたというのが実感である。ボキはそれに流されて生きてきたのだ。童話の桃太郎みたいである。違いがあるけど。桃太郎は成功する。ボキは挫折の連続である(@^▽^@)。

美空ひばりの「川の流れのように」という歌があるが、アレである。アレ。あのまんまである。

ジタバタしたってしょうがないものはしょうがない。

まったく流されて生きてきたような気がする。

大学学部時代に苦学したのもそうである。学部の学費を出してくれなかった亡父亡母にも今となっては感謝している。あの選択肢しかなかったのだ。そういう人生のシナリオが書いてあったのだ。おかげで、人生勉強になった。世の中のことがよ~~~くわかった。冷酷な面もあるが、あったかい部分もあった。とりわけ映画の「フーテンの寅さん」シリーズで有名な葛飾柴又で、新聞販売店に住み込みそこで3年を過ごしたことがクスリになった。

アリガタイものである。こういうシナリオになっていたということがである。

昨日から始めた第5番目のアルバイトもそうだ。あらかじめシナリオが書いてあったのだ。若い方々と一緒に勉強させていただきながら、楽しい4時間を過ごしていた。これもまた「頼まれごと」であった。ご縁があるから、頼まれるのである。

ただし、家人は呆れていたが。いつまで働く気でいるのかとか、そんなにゼニが欲しいのなら海外旅行に行かないよとも言われた。違うのである。亭主元気で留守がいいのである。

病気しないで、元気で、しかもアルバイト代を稼いでくるなんてぇことはまさに理想の亭主ではないか。

わははあっはははっはははっはははっははははっははあっは。

 

今日は、古文書講座がある。午前中である。夜は中国語講座もある。

流されて生きているから、気楽なもんである。モノにならなくてもまったく気にならない。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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ドンキホーテのように楽しい・明るい生活を送っていきたいと思っている。

2018年09月03日 07時22分46秒 | 精神のありかた

笑われてナンボの世界である。楽しい存在でありたいから。

 

 

ドンキホーテたれ!というのが、ボキの信条である。

笑われる存在である。楽しい存在である。喜ばれる存在である。受け入れている存在である。

他人を否定しない。あるいは拒絶しない。自分のことばかりを考えていない。自己利益ばかり考えていることがない。さりとて、他人の利益ばかりを考えているのでもない。奉仕して、立派なボランティアをさせていただいて賞讃されたいとも思っていない。思うわけもない。そもそもが立派でないからだ。

太極拳に行ってしみじみそう感じた。まったくのお笑いものである。なぜか。いつまでも覚えられないからだ。

しょうもないボキである。

なんでだろうかと考えてみた。それは、ボキの心底に太極拳で発表会に参加したいというのが無いからである。

健康のためにやっているのだ。だから完成しようとか、発表のためにやるという視点がない。

自分が健康になれればそれで良いのである。あるいは、楽しければそれで良し。気功というモノにも関心を持ってきたし。トータルバランスでもって体調を維持していくことの大切さも教えていただいたからである。

ありがたいことである。

まさに、ドンキホーテである。あ、これって特定の店を指しているのではない。店ではなくて、人物の話である。

わはははっはははっははははははっはははははは。

 

楽しく生きていかなくちゃ、人生つまらない。つまらん人生を送っていてもしょうも無い。時々、食べ物の店にも行くときがある。あれも、店主が楽しそうにやっていればこっちも楽しくなる。料理も美味になる。それをである。ムスッとして不機嫌そうにやっていたら美味いモノもまずくなる。

経営のコツとはこの辺りにあるのではないのか。

組織体でもそうである。トップが楽しそうにやっていなければ、業績はアップしない。構成員である部下たちが、やる気にならない。

社長のために仕事をしているのではないのである。楽しい仕事をやりたいのである。それでサラリーを貰っていたら、こんな嬉しいことはないではないか。

結果として所属している組織体が発展していけばそれで良し。

社長の仕事なんて、組織員に感謝していれば良いのである。それをアレコレ口やかましく欠点を指摘しているから、ヒマだの悪党だのとワルクチを言われてしまう。

ドンキホーテで良いのである。トップが楽しそうに笑って仕事していれば良いのである。笑っても笑われても良し。そういうスタイルを所属員は見ているのである。

 

昨日眼鏡を新調した。けっこう高かった。13万もした。年金暮らしだから、財布が軽くなってしまった。もっとも元々軽い財布だけれどもねぇ。

明日からは、第五のバイトで千葉市に出かける。これまたドンキホーテですなぁ。

淡々として生きているから、こんなことも出来るんでしょうよん。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/