また、一部原住民をキリスト教に改宗させて軍に採用し、民族の族長
を通じた間接統治を行なって氏族の分断を図った。
集会や団体行動は一切禁止され、多数の民族語を統一した標準語を
作ることも禁止された。
日本のインドネシア侵攻は、まさにそういう時期に始まった。
1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃に踏み切った
直後、オランダは日本に宣戦布告した。
日本はオランダ領東インドの攻略を『蘭印作戦』と名づけ、
1942(昭和17)年1月11日にボルネオ島のタラカン、
セレベス島のメナドへの攻撃を皮切りにジャワ島を目指した。
スマトラ島のベンクルに幽閉されていたスカルノはじめ、ハッタ、
シャフリールら、当時のインドネシアの代表的な指導者を解放した。
そして今村均中将が率いる陸軍の主力第16軍は3月1日に上陸を開始、
わずか9日間でオランダとアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍
を降伏に追い込んだ。
日本軍は侵攻の前からインドネシアに向けたラジオ放送で、
インドネシアの解放を呼びかけ、『インドネシア・ラヤ』(後の国歌)
を繰り返し流した。
また、当時のインドネシアでは、
「長い間白人に支配されたのち、北から来た小柄な黄色人が白人を
追い出し、その後、幸福な時代が来る」
というジョヨボヨの予言が信じられていたのである。
日露戦争に勝利し、アジアの解放を主張する日本には、この予言の
体現者となる期待がかけられていた。
そして実際に、350年にわたってインドネシアを支配してきた
オランダが、たった10日足らずで降伏したという事実は、驚きと
感謝を持って多くのインドネシア国民に歓迎されたのである。
しかし、インドネシアの人々にとって、日本人は未知の存在だった。
憎むべきオランダを追い出したとはいえ、日本は単にオランダに代わる
存在にすぎないかもしれない。
そんな不安もまた多くの国民に共通のものだった。
それを払拭したのが、今村司令官を通じて出された
『布告第1号』である。
日本人とインドネシア人は同祖同族である
日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
同一家族、同胞主義に則って軍政を実施する
『民心の安定』こそ第一と考えた今村が強い信念をもって、
強圧方針を唱える軍政担当者を説得して掲げたものだった。
「日本が掲げた“八紘一宇”とは同一家族同胞主義なのに、
侵略主義のように誤解されているところがある。
軍事力を持っているわが軍は、何かあればいつでも強圧を加えること
ができる。
だからできる限り、緩和政策をもって軍政を実行することとする」
それでも、今村の決断にはなお強い反対があり、元内務大臣の
児玉秀雄ら3人が統治政治顧問として陸軍大臣から派遣されてきた。
今村は上陸以来のインドネシアの人たちの日本軍に村する好意
と協力ぶりを説明し、児玉らに現地視察を勧めたのである。
「どこへ行っても日本の内地と変わらない。原住民は日本人に親しみ、
オランダ人は敵対を断念し、華僑は迎合を強めている。産業の回復も早く、
軍事物資の調達成績も優れている。ジャワでは強圧政策は必要ない」
児玉を含む3人の顧問はそう言って感心した。
陸軍省ではさらに武藤軍務局長を派遣して強圧策の必要性を説いたが、
今村はそれを見解の相違だと突っぱねた。
「新しい統治要綱が発令されれば軍紀に従うが、自分の起草案に
もとるものに屈することは耐えられない。
新要綱の指令が出る前に免職を計らってください」
今村は、まさに自信の首を賭してジャワ軍政の基本方針を
貫いたのである。
この史実以外にも、日本の空挺部隊が空からパラシュートで
降りて来た時、当時の現地の人達は、白人であると思っていたのに、
それが日本人であることを知って、度肝を抜かれたということだそうです。
今の学校教育では決して出てこない事実であり、「八紘一宇」
という精神も軍国主義の象徴であるかのように曲解されて
しまっています。
決してそうではなかったという厳然たる史実として語り継いで
いきたいものです
http://blogs.yahoo.co.jp/ryo_smileforme/folder/482499.html…