Facebookプロフィールに仏国旗をつけることへの騒動で少し気になることがあったので筆をとった。

実のところ今回のパリでの連続テロの衝撃は大きくしばらく何も書く余力がなかった。これは第一に、事件後はフランス人の友人らでパリに住んでいる人のことは心配でならなかった。幸い彼らは大丈夫だったけれども、被害者が3桁にのぼっているということは、200万都市のパリの住民にとっては、(一人の交友範囲が100人程度と単純計算したとき)友人の友人までの交友関係の中に事件でなんらかの被害を受けたひとがいる可能性が十分ある。それを想像するだけで痛ましい事件である。

第二は距離である。ロンドンからパリへは電車で2時間あまり。東京から京都に行くのとさして変わらない。いや日本にしても、パリは人気の旅行先で飛行機にのれば一本である。そして日仏が生活様式・世界での立ち位置で共有するもの・人的交流の蓄積を考えると、東京とパリとの心理的・社会的距離は、その物理的距離よりもはるかに近いはずだ。

第三に、事件をよく見ると被害を受けた地区は下町で、ごく普通のひとが週末に訪れておかしくない場所に見える。パリにおける連続テロは確実に庶民を標的にした。つまりそれがロンドンだったら、あるいは東京だったら、自分がその場に居合わせておかしくないような場所であったわけだ。つまり、テロの標的対象になっている社会集団には自分も含まれているということは、おそらく欧米で広く共有される実感だろうし、日本でもそれを感じている人は多々いるはずだ。

小さな選択

この数日日本では、Facebookプロフィールに仏国旗をつけることが批判されているようだ(『FBプロフ「フランス国旗化」に対する強い違和感』『「Facebook」プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと』)。筆者はこれらの意見にむしろ窮屈さを感じた。理由は主に次の2つである:

1)Facebookプロフィールはその人を同定するアイコンでしかない。他人がどうしていようと好きにしたらいいものだろう。

2)フランスにおける痛ましい事件に対する思いを表現するために、FBプロフィールにトリコロールをつけて、フランス人に共感を表明するのは悪い方法ではないだろう。

私自身はFacebookのお仕着せ感がいやなので(またトリコロールをプロフィールにかぶせるというワンクリックでできる以上の具体的心配はすでに十分したので)トリコロールを選択しなかった。しかし個々人が、共感をプロフィールにかぶせる色で発信しようとすることについては、少なくとも非難したり警告するようなものではなかろう。情報が溢れる社会でパリの事件に敢えて注目し、忙しい日々の中で時間をかけずに行える限られた発信方法の中で行った小さな選択に対して、否定的な言葉しか投げかけられないとしたらあまりに寂しいのではないか。もちろんあまりにも小さな選択である。しかしもう少し好意的に捉えてもよいのではないかと思う。

善意が暴走するなどといった言葉をよく聞くようになったが、それ以前に、あらゆる善意からの行動に対して、あまりにも否定的な社会は、生きづらい社会ではないか。人の善意を善意として汲むこともまた共感の力の一部であろう。その力が今の社会で痩せ細っているように思う。

均質化の罠

今回のFacebookプロフィール批判の中には、なぜフランスのときに反応して特別扱いし、これまでのアラブ諸国ほかでのテロ犠牲者を無視するのか、という問題提起がある。これ自体はあってしかるべきだが、やはりフランスとの社会的距離・日仏両国の世界における立ち位置の共有からみて、日本社会に住むものの多くが、パリのテロの犠牲者をより注目して共感するのは自然なことだろう。

もちろんテロの被害の痛ましさは場所を問わない。しかし「それぞれの善悪」として全てを均質化して一様に扱おうとすると、かえって問題は見えにくくなる。問題は欧米側に立つかどうかといったレベルではなく、フランス一般国民を攻撃したテロにどう対応するかという問題だろう。一人一人の人間に出来ることは限られている。まずは自分の手元に見えてきた問題について自分の立場を偽らず本気で考えることから始めるしかなかろう。

おそらく、欧州からも中東からも遠く離れた日本でトリコロールをFacebookプロフィールにつける人がいることは、小さな励ましになりこそすれ、敵意をもって迎えられることはないのではないか。

いずれにせよ、自分は自分、他人は他人、と切り分けられていれば、この問題は問題にすらならないものである。なのにFacebookプロファイルでのトリコロールが異論を呼ぶ。ひょっとすると、この事態は今の日本で特有な息苦しさの反映かもしれないとも思う。