久しぶりに論語をひもとく。知るとはどういうことか。本物の知は善をもたらすが、知ったかぶりは、空虚なおしゃべりに過ぎない。
(陰翳礼賛、FZ300、F4)
稀勢の里の引退会見の翌日、荒磯親方を襲名した稀勢の里が関係先に挨拶回りを笑顔でしている姿がTVで報道されていた。涙の会見から一夜明けて、重すぎる国民の期待へのプレッシャーから解き放たれたような、吹っ切れた姿がブラウン管にあった。
私も含めた外野席のつぶやき、コメンテイターと称するテレビ人のしたり顔の論評。新聞、雑誌、インタネットなどで知った情報はほんとに知ったとはいえない、要するに無責任な空虚な、ただのおしゃべりに過ぎないということ。
土俵にあがったこともなければ、150Kg以上の巨体の力士とがっぷり四つに組んだこともない、汗と砂にまみれた稽古の凄さを目の当たりにしたこともない、まして稀勢の里と2年間べったり密着して過ごしたわけでもない。
いかに稀勢の里が身体が思うようにならないことに焦り、国民やファンの期待への重圧に苦悶していたか、ふがいない成績を怪我のせいにしない寡黙な愚直な性格、そんなすべてから解放された姿が挨拶回りの表情に出たのかもしれない。これもあくまで私の想像に過ぎないが・・・
孔子は論語の中で、知っていることと、知らないことを区別できるのが知恵であり、世間の情報を聞きかじっただけで、自分の足で確かめ、考えて、ほんとに確信して初めて知ったというべきであり、そうでなければ知ったとは言えない。ましてテレビなどはどこまで真実を報道しているかなどは知れたものではない。
この本の著者の中野孝次さんは「現代人はテレビの影響で総じて早口になり饒舌になった。50年前の日本人と比べたら顕著で、特に女性が多弁になった。人の言説をうのみにしてペラペラ何にでも口を出すのは無責任もいいところで、それこそ「巧言令色、少なし仁」であり、人を安っぽくするだけ」と言っている。
知っていること、言うこと、やっていることを一致させる「知行合一」が真に信頼され、尊敬される人間の基本ですね。おおいに反省させられた1日でした。