子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

本「大聖堂 果てしなき世界」ケン・フォレット:闘争,パンデミック,性,献身,その他何でも

2009年06月15日 00時15分21秒 | Weblog
巷では村上春樹の新作が凄いことになっているようだ。オリコンで1位を獲得したシングルCDの売り上げが30万枚を越えることが滅多になくなったこの時代にあって,上下で4,000円近いハードカバーがあっという間に50万セットを売り切ってしまったというのは,既に一つの現象と呼んで良いのかもしれない。
だが今年の私の関心は,「世界のハルキ」の新作よりも,一昨年欧米で18年振りに続編が刊行されたというニュースが伝わってきていた,本作の和訳本の方にあった。案の定,3月末の発刊後も書店で平積みにされることはなく,書評欄でも朝日新聞で大きく取り上げられていた他は,いたって(冷遇とまでは行かない)冷静な扱いがなされた結果,日本では今のところ「大聖堂続編」現象は起きていないようだ。
しかし。やはり,ケン・フォレット入魂の仕事は素晴らしかった。灰色の世界で泥にまみれて生きることの尊さが,歴史という大きなスクリーンの上で,喩えようのない輝きを見せる瞬間に,2,000頁近い物語の中で何度も遭遇できた。この読書体験は,やはり特別だ。

物語を一言で言い表すとしたら,産業,宗教,政治が入り組んで繰り広げられる権謀術数を背景にした多彩な人間模様,という月並みなものになってしまうのだが,人間洞察の深さとエンターテインメント性の高さが,まるで大聖堂の高さを競うように共存している姿こそ,この小説(2部作)の最大の特徴だろう。

前作を読んだ方はお分かりのように,フォレットはこの世に存在する「悪」を何処までも残忍で醜悪なものとして力を尽くして描きながら,正義と悪,聖と俗の実は曖昧な境界を読者に突きつけて,究極の選択を迫るサディスティックな趣味の持ち主だ。
前作では修道院長のフィリップが,そんな時に登場人物が進むべき方向を指し示す羅針盤としての役割を果たしていたのだが,本作では修道院・キリスト教支配者側にフィリップが務めた仕事をこなす人物は配置されていない。あえて挙げれば,徒手空拳でペストに立ち向かうカリスが,文字通り天使の役回りを引き受けているのだが,彼女は神の存在に対して深い懐疑心を持っているだけでなく,魔女として処刑される寸前にまで追い込まれてしまうのだ。
そんな登場人物の性格や行動に関する数々の仕掛けを,物語の進行と共に活かす技も前作に劣らず冴えている。

膨大な登場人物の中では,英国一高い大聖堂の尖塔を立ち上げるという夢を実現していくマーティンが主人公ではあるものの,建築関係のウェイトは前作のトムとジャックの2代に亘る大聖堂建立に関するエピソードに比べると,かなり軽くなっている。マーティンは(ストイックな性分にも拘わらず)魅力的な女性達の触媒として,夜の活動の方に重きが置かれてしまう替わりに,真の主人公と言える立ち回りを見せるのは,前述のカリスと,自らの命を繋ぎ家族を守るために卑劣な男を手にかける勇気の塊グウェンダという2人の女性だ。
そして,いずれのエピソードにも政治と宗教と経済(と性)が分かち難く絡まりながらも,あらゆる叙述に農民・庶民の視点が貫かれているところが,同じ歴史物で高い人気を誇る「三国志」と異なる点かもしれない。

読み方によっては,中世のイングランドの町(キングズブリッジ)の盛衰を,PCゲーム「シム・シティ」のように楽しむことも出来る一方で,経済と大衆心理を理解すべき統治者の心得を説いたビジネス書としても,ペスト(≒新型インフルエンザ)のパンデミック状況を詳述したシミュレーション本としても読めるかもしれないが,とにかく人間が食べて,愛して,働く姿は,それだけで興味深いという,これまた月並みな感想が一番似合う読み物,という紹介が適切かもしれない。
ゆっくりと頁をめくる楽しさに浸った約3週間は,ジョン・アーヴィングの「ガープの世界」に出てきた清掃人が,本を読む理由について語った「先がどうなるか知りたくて読むに決まってる」という印象的な台詞を繰り返し思い出していた時間でもあった。


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