子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「アイム・ノット・ゼア」:「歌詞の無意味さこそが崇高なのだ」というメッセージ

6人の役者がボブ・ディランを演じる作品,だと思っていたら,6人の役者が「ボブ・ディランを想起させる6人の人間」を演じる作品だった。役者達は皆,あたかもボブ・ディランという巨大な構造物の切り紙を縁取る台紙のように振る舞い,出来上がった空洞は,正に原題通り,ボブ・ディランの「得体の知れ無さ」そのものに見えてくる。
後半ではサム・ペキンパーの傑作「ビリー・ザ・キッド21歳の生涯」へのオマージュも滲ませるトッド・ヘインズの目論見は,ディランが作ってきた歌曲同様,ヒットチャートとは違う地平で成功を収めたと言える。
ペキンパー版「ビリー・ザ・キッド~」との繋がりは,「ビリー~」で主役のビリー・ザ・キッドに扮し,当時のレコードの売り上げだけに着目すれば,ディランを凌いでいたかもしれないクリス・クリストファーソンが,本作でナレーターを務めているというだけに留まらない。
そのペキンパー版でボブ・ディランが演じたのは,ビリー役でも,ましてやパット・ギャレット役(ペキンパー版ではジェームズ・コバーン,本作ではブルース・グリーンウッドが二役で演じる)でもなく,ビリーに憧れ西部の最期を見取る若者という傍役だったのだが,ディランがあれから35年間にわたってショービジネスの本流からは距離を置き,独自のスタンスを貫いて時代を見つめ続けてきた,という事実を踏まえて見直してみると,当時は首を傾げざるを得なかった映画出演が,ディランを描くに際して,象徴的なイベントとなって浮上してきたことは想像に難くない。
脚本の構成力が作品のかなりの部分を占めるチャレンジだったが,上述した「ユダ」事件やオートバイ事故,イーディ・セジウィックとの恋など,実際に起きた出来事とフィクションの混在具合は絶妙だ。劇中で呟かれる「重要なのは伝承していくことだ」という台詞を地で行くような力作を連発している近年の音楽活動の成果を,「裏切り者」と罵声を浴びせた当時の若者達は,どう聴いているのか知りたくなる。
6人の中ではギターをエレクトリックに持ち替え,「ユダ」と罵られる時期を演じたケイト・ブランシェットの迫力が際立っている。この人は役に入り込むと,本当に姿形まで変わってくるようだ。
ヒース・レジャーが撮影終了後に急逝したという事実を知ってから観るものにとっては,破滅の縁から蘇ってきたディランの生命力と実際の悲劇の対比が鮮明過ぎて,切ない。
帰り道に寄った輸入盤店では,夥しい数のアーティストがカバーしているサントラを2枚組にも拘わらず2,200円で売っていた。一瞬食指が動いたが,最後に出てくるリチャード・ギアのプロットでかかったディラン本人が歌う「Simple Twist Of Fate」をiPodで聴き返しながら思ったのは,劇中で披露されたカバーによるナンバーが何一つ耳に残っていない,ということだった。サントラが売れないのは仕方ない。思想も音楽も生き方もトレースできない人間,ボブ・ディランを描いた映画なのだから。
後半ではサム・ペキンパーの傑作「ビリー・ザ・キッド21歳の生涯」へのオマージュも滲ませるトッド・ヘインズの目論見は,ディランが作ってきた歌曲同様,ヒットチャートとは違う地平で成功を収めたと言える。
ペキンパー版「ビリー・ザ・キッド~」との繋がりは,「ビリー~」で主役のビリー・ザ・キッドに扮し,当時のレコードの売り上げだけに着目すれば,ディランを凌いでいたかもしれないクリス・クリストファーソンが,本作でナレーターを務めているというだけに留まらない。
そのペキンパー版でボブ・ディランが演じたのは,ビリー役でも,ましてやパット・ギャレット役(ペキンパー版ではジェームズ・コバーン,本作ではブルース・グリーンウッドが二役で演じる)でもなく,ビリーに憧れ西部の最期を見取る若者という傍役だったのだが,ディランがあれから35年間にわたってショービジネスの本流からは距離を置き,独自のスタンスを貫いて時代を見つめ続けてきた,という事実を踏まえて見直してみると,当時は首を傾げざるを得なかった映画出演が,ディランを描くに際して,象徴的なイベントとなって浮上してきたことは想像に難くない。
脚本の構成力が作品のかなりの部分を占めるチャレンジだったが,上述した「ユダ」事件やオートバイ事故,イーディ・セジウィックとの恋など,実際に起きた出来事とフィクションの混在具合は絶妙だ。劇中で呟かれる「重要なのは伝承していくことだ」という台詞を地で行くような力作を連発している近年の音楽活動の成果を,「裏切り者」と罵声を浴びせた当時の若者達は,どう聴いているのか知りたくなる。
6人の中ではギターをエレクトリックに持ち替え,「ユダ」と罵られる時期を演じたケイト・ブランシェットの迫力が際立っている。この人は役に入り込むと,本当に姿形まで変わってくるようだ。
ヒース・レジャーが撮影終了後に急逝したという事実を知ってから観るものにとっては,破滅の縁から蘇ってきたディランの生命力と実際の悲劇の対比が鮮明過ぎて,切ない。
帰り道に寄った輸入盤店では,夥しい数のアーティストがカバーしているサントラを2枚組にも拘わらず2,200円で売っていた。一瞬食指が動いたが,最後に出てくるリチャード・ギアのプロットでかかったディラン本人が歌う「Simple Twist Of Fate」をiPodで聴き返しながら思ったのは,劇中で披露されたカバーによるナンバーが何一つ耳に残っていない,ということだった。サントラが売れないのは仕方ない。思想も音楽も生き方もトレースできない人間,ボブ・ディランを描いた映画なのだから。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« Steve Winwood... | 日本代表対コ... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |
![]() |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |