子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「僕のエリ 200歳の少女」:脆く儚い感情の揺れを掬い取った奇跡のようなフィルム

2010年10月27日 23時28分50秒 | 映画(新作レヴュー)
スクリーンのサイズを巧く使った引きのロング・ショットが作品のベースを作り,ワンショットの中でフォーカスを変えることによって,動かない被写体に静かな動きを与える。カメラの生理を知り尽くしたようなトーマス・アルフレッドソンの演出によって,それまでぼんやりと捉えられていたエリ(リーナ・レアンデション)の顔が初めて観客の前に映し出されるという,一見何の変哲もないひとつのショットが,とてつもないスペクタクルとなっている。
小津安二郎がスウェーデンに生まれて,サイレント時代の犯罪映画のタッチでヴァンパイアの悲哀を撮ったらこうなった,という喩えは乱暴に過ぎるとしても,あらゆる映画的記憶を総動員して語る言葉を探したくなるような傑作だ。

まるで大きな声を出したら二人の間に架かった橋が崩れ落ちてしまうかのように,少年(カーレ・ヘーデブラント)とエリは窓ガラスを通して微かな囁き声を交わし合う。ルービックキューブ,ジャングルジム,モールス信号,凍った川の上を滑るスケート,そしてナイフ。全ての小道具は,二人の世界を構成するために欠くことの出来ない要素として,ずしりとした手応えを感じさせながらそこに存在している。カメラはそういったもの達の放つ輝きを,冷徹なアングルで切り取り,シンメトリックな画面に提示する。

「ロッタちゃん」や「ピッピ」の国から来た吸血鬼映画ということで,特に根拠もなくもっとほんわかした青春ドラマを想像していたのだったが,全編に,直に触れたならば即皮膚が切れてしまうようなヒリヒリとした感触が漂っている。
特に動きの少ないショットが連続する中で突然現れる,建物の壁面をエリが垂直に素速く昇っていくシーンや,同じくエリがフレーム外からいきなり獲物に飛びかかるショットが持つ思いがけないスピード感は,凄まじいばかりだ。だが凄惨なシークエンスが多い割りには,ラストの殺戮シーンを筆頭に,見せるべきものと想像させるべきものとの仕分けの基準を厳然と示し,描写そのものはPG-12レヴェルでまとめた良識のおかげで,この素晴らしい「思春期ムービー」を中学生も観られることは,実に喜ばしい。

アンディ・ウォーホールが「監修」という立場で関わった「処女の生血」で,処女の血でなければ身体が受け付けないヴァンパイアが,「私は処女よ」と嘘をついた女の生き血を吸って,後で吐いてしまうという笑えるシーンがあったが,エリが少年の好意を受けてお菓子を食べ,店の裏手で戻してしまうシーンに宿っている切なさには,かの国の傑作「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」で語られるライカ犬の運命に通じるものを感じた。
結局凄惨な最後を迎える「父親役」の老人が,エリに対して涙なくしては見られないほどの忠誠振りを見せるのだが,ラストシーンでは幸福そうな少年の数十年後の姿が,老人に重なって胸を衝かれる。
★★★★★
(★★★★★が最高)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。