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映画「沈まぬ太陽」:一見スケールの大きな大河ドラマだったのだが…

映画の公開初日の舞台挨拶で,主演の渡辺謙が泣いていた。それも感極まって言葉が詰まる,というレヴェルではなく,しゃくり上げるような文字通りの「号泣」だった。正直,驚いた。ハリウッドの大作で経験を積み,ワールドワイドな活躍を見せる旬の俳優がここまで入れ込むに至ったのは,撮影が過酷だったからだろう,という予測を超える「何か」が作品に込められているのではないか,と思わせるに充分のパブリシティではあった。
しかし私は残念ながらこの「沈まぬ太陽」に,俳優渡辺謙の「演じ切った」という満足感を越える「何か」を感じ取ることは出来なかった。そこにあったのは,TVサイズ(と言っても最近は馬鹿に出来ない大きさの液晶画面も普及しているようなのだが…)の絵解き以上の何物でもなかった。

確かに不屈の魂を持つ男の30年間を,10分間のインターミッションを挟む3時間22分という長尺に詰め込んで,最後まで飽きさせずに見せた制作陣の努力は,幾つかのシークエンスにおいて映画的な成果を挙げている。御巣鷹山の墜落現場の生々しさ,ケニアの大自然,石坂浩二の登場によって動き出す企業再生の一連の描写などは,映画ならではのダイナミズムを持ち得ていると言えるだろう。渡辺謙の渾身の演技に巻き込まれた共演者の熱もまた,膨大な場面の其処此処から,微かではあるが伝わってくる。

しかしそうした散発的な熱気も,紋切り型で立体感のない登場人物の造形や,深みや発展性を感じさせないやり取り,更には何度も登場する,見るに堪えない安手のCGによる飛行機の離陸ショットに代表される,画面に対するおざなりな姿勢などによって,儚くも雲散霧消してしまう。

主人公を裏切る元組合の副委員長行天の演技によって報知映画賞を獲得した三浦友和の役作りなどは,物語が平板な勧善懲悪ものになってしまった原因の最たるものだろう。
会社が取り続ける営利主義の先陣を切りながらも,主人公に対する嫉妬と後悔の念との葛藤があったことを仄めかすだけで,主人公の人生を重層的に彩ることが可能な役だったにも拘わらず,そういった「ニュアンス」を切り捨てたことによって,平面的な単なる「悪役」に堕してしまっている。

同様の残念な割り切りは,経営側の代表として登場してくる八馬取締役(西村雅彦)の単純極まりない造形や,行天の愛人として物語の鍵を握る三井(松雪泰子)の中途半端なポジションにも現れている。
更に再建役の会長(石坂浩二)を最後まで支える,と約束した総理大臣(加藤剛)が結果的に日和ってしまう描写や,墜落事故の犠牲者の遺族と会社との補償交渉,そして再建の象徴となる現場の改善に関するシークエンス等に見られる「軽さ」は,主人公の人生を凝縮した膨大な物語に対するチャレンジ精神とは明らかに相容れないものだった。
渡辺謙のあの涙は,一体何に由来するものだったのか,疑問は解けぬままに,エンドクレジットに被さる福原美穂の歌が,昼食時を遙かに過ぎた空腹に静かに滲みていったのだった。
★★
(★★★★★が最高)
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