子供はかまってくれない

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映画「ハプニング」:見せ物小屋の看板に騙されたがっている私

2008年08月14日 00時08分00秒 | 映画(新作レヴュー)
デビュー作の「シックス・センス」以来,前作の「レディ・イン・ザ・ウォーター」を除くM・ナイト・シャマラン作品は,全て劇場で観てきた。それは,デビュー作で話題となったどんでん返しの快感を再び味わえるのではないか,という期待からというよりは,何やら胡散臭いこと,怪しげなものが観られるのではないか,という私のように下世話な観客の好奇心を掻き立てる匂いが,彼の作品の至る所から立ち上っているからに他ならない。

しかし,残念ながらその匂いが,実体を伴っていて,実際にその中身を味わえるような作品として供されたことは,第1作を除けば一度もなかった。
「アンブレイカブル」で見切りをつけるのが,常識派と呼ばれる人達の普通の判断だろう。今の(そして多分これからも)私には,お中身がスカスカだと分かっている映画に,好きこのんで投資をするほど,お金も時間も潤沢にあるわけではないからだ。

にもかかわらず,新作が来たと聞くと,私はいつの間にか見せ物小屋のいかがわしい看板の前に立っている。そして,今度こそはという期待を僅かながらも抱きつつ,木戸銭を払って暗闇の中へと入っていってしまうのだ。しかし結局,やっぱりな,という溜息をつきながら,明るい陽の下へと出てくることにもなってしまうのだ。何度も味わった苦い思いとともに。

そんな経験は,基本的には,この新作でも繰り返されることとなった。ある意味,予想通りのことではあったが。
しかし,予告編やTVスポットで何度も流された,街頭で突然大勢の人々が立ち止まり,建築現場の上層階から次々に人が落ちてくるショットは,これまでの作品以上に,見せ物小屋的興味を激しく刺激する不気味な映像であったことも事実だ。
「シックス・センス」でもシャマランとコンビを組んだ撮影監督タク・フジモトのフレーム・ワークは,そんな,何かがありそうだ,とてつもない,見逃せないことが起こりそうだ,という雰囲気を巧みにブラッシュアップすることに貢献している。

更に,主人公たちが最後に辿り着く家に人形と暮らす老女(ベティ・バックリー)のキャラクターは,これまで米国の片田舎を舞台に無数に作られてきたホラー映画の集大成とも言える恐ろしさを表出して,見事だ。

そして何よりも,強引に環境破壊と結びつけられながら,その脈絡の無さ故に物語の根幹を為すには到らない原因によって引き起こされる,大量死のあっけなさこそが,シャマランの厭世的な世界観をはっきりと形にしてみせたような感触が,本作にはある。
確かに深みも企みも「何もない」作品なのだが,そもそも今の世の中における「生」にどれだけの意味があるのか,という問いかけこそがシャマランの真の意図だとすれば,本作品は彼がこれまで積み上げてきた作品群の,一つの集大成と言えるものという見方も出来る。見せ物小屋が抱える空虚は,案外深いのかもしれない。そうではない可能性の方が高いと,私も本心では思ってはいるのだが。


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