子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」:38歳の古代君,地球のために頑張った…けれども

2011年01月09日 18時33分33秒 | 映画(新作レヴュー)
原作となったアニメが初めて放送された1974年,当時中学生だった私は,ささきいさおさんが歌った主題歌こそ耳にしていたが,番組そのものは観たことがなかった。翌年,放送終了後も高まる人気に押されて1年という短いインターバルで再放送されたことから,話題に追い付くためにとフォローしたのだったが,結局最終回まで興味が持続せずに途中で挫折してしまったことを覚えている。
それがアニメーションと言うにはあまりに荒い動画のせいだったのか,特攻精神のSFアニメへのアダプトに違和感を感じたからなのか,「スタートレック」のような異文化遭遇エピソードの欠如に物足りなさを覚えたからなのか,今となっては確たる理由は定かではないのだが,映画版も含めた世間の熱狂振りに遙かな距離を感じていたことだけは確かだ。

それから30有余年。CGを駆使した本格的なSFXを武器に実写化に乗り出すと聞き,更に黒木メイサの制服姿を思い浮かべた時には,グローバリズム旋風吹き荒れる新世紀に相応しい,リアルな「ヤマト」が生まれる可能性を感じて,多少なりともワクワクしてしまったと告白しなければならない。恥ずかしながら。
しかしその可能性は,映画が始まって間もなく,キャラクターの設定と物語の方向性が定まった段階で,儚くも萎んでしまった。

特撮場面だけを取り上げれば,CGだけに頼らず,随所でミニチュア・モデルも援用した画面作りから,スペース・オペラにおける日本独自の表現を獲得したいという思いは,ある程度伝わってきた。ヤマトの外観は勿論のこと,デスラー戦艦の書き込みや,ヤマト内部の美術,戦闘機内部から一気に空中戦へと移動するカメラの動きなど,細やかな工夫がリアリティを超える質感を生み出していたことは,きちんと記録しておきたい。

だが,ヤマトが立ち向かう肝心の敵が,実は地球を助けようと信号と情報を送ってきたイスカンダルに存在している「善悪」の裏側だという,妙に概念的な設定が,意図とは逆に交戦場面の緊迫感を削ぐ方向に作用してしまっているのはアクション映画として致命的だった。敵の正体が概念であるが故に,アニメ版で悪役としての存在感を放っていたデスラー総督が登場しないことも,ヤマトは本当に戦わなければならなかったのだろうかという漠たる疑問が膨らむ事態を助長している。
ニューバージョンの「スタートレック」をコピー&縮小ペイストしたようなイスカンダルへの降下場面も,かなり恥ずかしかったし。

だが,そういった後半部に判明する物語の骨格の弱さには目を瞑ったとしても,木村拓哉が演じた(木村の演技自体は悪いものではない)古代君に設定された「ナイーブさ」という瑕瑾だけは,SFXでは覆い隠すことが出来なかったようだ。
彼自身が既にして歴戦の勇士であり,古代と共に戦うのであれば命は惜しくない,と言い切る戦士を多数登場させておきながら,「司令官と言えども,目的を達成するために(兄の)命を犠牲にしてはならなかったはず」という青年の生硬な正当論を,38歳の最早ヴェテランと呼んでもおかしくない俳優に語らせるという神経は理解できない。
前述した「スタートレック」が,絶妙なキャスティングと語り口という二つの要素が,若者の成長というありふれた物語を盛り上げるために完璧なコラボレーションを展開した結果,感動的なまでに強固なアクションとして成り立っていたのとは対照的だ。

スティーブン・タイラーの凡庸な主題歌を聴きながら思い出していたのは,SF映画の品格のスタンダードを一気に下げることに貢献した「アルマゲドン」に出ていた松田聖子の姿だった。結局米国進出という夢は叶えられなかったけれども,コメディ・キャラでしぶとく生き延びる彼女の姿こそ,地球に必要なものなのかもしれないと考えながら。
★★
(★★★★★が最高)


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