子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ダウト」:舞台の映画化に欠かせないもの

2009年03月23日 23時05分26秒 | 映画(新作レヴュー)
ノーマン・ジュイソンの「月の輝く夜に」の脚本でオスカーを受けたことがある演出・脚本家のジョン・パトリック・シャンリィが,自身のヒット舞台作を映画化した話題作。
評判通り,芸達者4人の演技合戦は,(物語のエピソードとして出てくる)加熱した電球が何度も切れてしまうほどに熱く激しい。しかしメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの真っ向勝負という,例えて言えば「ステーキの前菜がすき焼き」みたいな取り合わせが,胸焼けせずにすんなりと胃に収まった陰には,舞台とは異なる表現形式への移植に際して集結した,稀代の職人たちが手掛けた,地味だが最上の仕事があった。

白熱の演技に加えて,台詞が映画以上に重みを持つ「演劇もの」が苦手な私が,構えることなく作品に入り込めた第一の鍵は,いつも通りの渋い色遣いとシャープなピントによって,作品のルックを「サスペンス」風味で統一した撮影監督のロジャー・ディーキンスの起用だ。この人が作る近年の画面の佇まいと質感には,かつて名手と称えられたゴードン・ウィリスさえをも凌ぐような,充実を感じる。極端に言えば,物語や役者や演出がどんなに陳腐であろうとも,この人が操る光と陰に彩られた画面であれば,とにかく最後まで見届けたいと観客に思わせる映画になる,という感じだ。

またスコセッシやクローネンバーグ,ピーター・ジャクソン等とのセッションで知られる音楽のハワード・ショアも,控えめなポジションでこの会話劇を盛り上げているが,舞台劇の翻案においてどうしても重くなりがちな会話を,短めのカット割りによって軽量化することに成功した,編集のディラン・ティチェナーの貢献度は計り知れない。
勿論,原作・脚色・演出と,八面六臂の活躍を見せたシャンリィも,過度に台詞に寄り掛かることなく,先に記した映画的な総合力で勝負しようとした賭けをものにしたように見える。特に,閉鎖的な空間を改革しようとする司祭と保守的な校長の闘いを象徴するかのように,何度も出てくる「窓」の扱いは巧みで,室内劇でありながら,常に観客に窓外=1964年という激動の米国社会を意識させる演出によって,敢えて映画化を試みた狙いが,浮き彫りになっている。

主演級の二人の演技には,どちらも充分な貫禄と計算と技術が見て取れるが,全体的にストリープの役柄の解釈がやや硬直しているような印象を受ける。その分,真のクライマックスと言える,ストリープと黒人少年の母親の対決において,母親役に魂を込めたヴィオラ・デイヴィスの暗くヒートアップした愛情表現が際立っている。

様々な技術と情熱が詰め込まれた105分だが,真相が明かされない結末は,観るものの鼻先に指を突きつけるような激しさはない代わりに,静かで深い余韻を残す。エイミー・アダムスの無謬(むびゅう)を装った表情こそが,その余韻を長く永く引き延ばしている。
★★★★


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。